聖と俗の現象学

何故、それが美しいと言えるのか。
追いかけ続ける間に、
私の心は、私よりも知っている。そのために


Aを聖、Bを俗とする Chris Kyogetu

  1. 1 芸術と聖なるもの
  2. 2 芸術作品と作者の死
  3. 3 聖と俗の現象学
  4.  4 ständig vorangent(絶えず先立っていること)

1 芸術と聖なるもの

何気なくよく見ている建物を一度でも描いてみようと思ったことがあるだろうか。毎日見ているはずの建物、その建物の特徴を語ることは出来ても咄嗟に窓の数を言えるだろうか。描くということは、それを知ることから始める。

感受性というものが感性となって生きていく場所を定めることは困難である。単純なコミュニケーションの一つとして使えないのも感受性だった。20‐21世紀に生きる私達は「表現主義」や「芸術至上主義」の作品に触れ、私達は「自由」を手にしていると教わった。恰も自由と人の善意によって選ばれたように有名な作品を見ていく。

しかし、かえってこの一枚が何故生き残れているのか、高価なのか、絵画を目の前に多くの疑問が浮かんでくるようになった。何故この一枚の絵画が有名になったのか、その魔術的な生存戦略を経営学のように説明できる人は少ない。教会が絵画を要求した時代以外は、その需要がどのように生まれるのか、これもまた多くの嘘が溢れている。それらを細分化せずに漠然と私達は世界を受け入れている、それが窓の数も知らない、でもいつも建っている建物である。一つの建物には役割がある。しかしそれを外部の一人がスケッチしようとするとき、その建物の持つ外的な時間と、窓を数え始め心象を混ぜようとするのなら、それによって自己の内面世界を持つことになる。

宗教が絵画を選んでいた頃の判断基準はシンプルだった。そこに教会側の理解が及んでいなかったとしても、描く事は聖人であればよかった。それから人間の心理を描くことによってテーマは無限大となった。「共感覚」をどれほどの人間が持っているのか定かではない中で、何故彼等は選ばれるのか。一人の「夢」がどうして何億もするのか。他者から認められることによっての顕在化と、自分だけが知っている価値の顕在化、人によっては、片方を選ぶことが出来る。人によっては選ぶことが出来ない人がいる。私は選ぶことが出来なかった人だ。それは聖と俗を二分化するように、単純なことではない。

だからこそ区別できなくなったのが「神聖」である。「神聖」への一歩として感受性から感性への昇華としてまず洗礼を受けるべきこと、それが「禁止」を身体で覚えることである。バタイユの「禁止」について、多くの無宗教者が誤解をするのは、禁止への侵犯のことを「神聖」の廃止や取り除くことだと思い込み、それによって進化‐自由だと勘違いしていることである。(Erostisme coll P68,69)

バタイユやボードレールのエロティシズム、ロラン・バルトのフェテシズムとは新しい発見ではない。元々あった自然状態を彼等はタブーを侵しながら哲学とした。彼等はカトリック、キリスト教の神聖を理解し、抑圧を受けていたが、神聖を廃止しようとしなかった。それを漠然と権威によるものだとは思ってはならない。

2 芸術作品と作者の死

 球体関節人形と聖母マリア像の工程は違う。聖母マリア像は裸体を意識していることを隠すように直方体から掘るが(彫刻の範囲で骨組みと肉感は意識する)球体関節人形は材質を捏ねて裸体こそ意識する。例えばハンス・ベルメールの作品の意識された裸体は、痛々しい姿だからこそ、痛みを連想させる。露わに移される性器と裸体、切断された遺体を連想させることで一層バタイユ哲学の性と死とも結びつく。球体関節人形の対峙している存在とは何か、それは聖人である。聖ベルナデッタは不朽体として綺麗に温存されていることを思い出してほしい。彼女も遺体を超越した存在になっているが、人形にはその資格があるのだろうか。

聖ベルナデッタ
ウンディーネ 画アーサー・ラッカム

聖と俗はA∩Bの関係であって交わるとろに芸術‐人間の神聖部分がある。文学で例えるのなら、キリスト教圏内の童話「ウンディーネ」でも水の精が人間になるための必要な条件をカトリックの司祭が用意する。それでも彼女は人間の愚かさによって魂を得られず死んでしまう。この話の最も美しい事は何だったのか。司祭やキリスト教的価値観によって定義される「人間像」に近づこうとする水の精の「愛」だった。契約を破ってしまった男を殺さなければならなかったウンディーネの悲壮感がより一層愛となって現れている。ここでもバタイユ的な「禁止」と「侵犯」と言える。ハンス・ベルメールの人形は秘密の証拠を残したとされる。腹部の球体、人工的な娘、彼女は自分の生い立ちを語らない。人形とは玩具であったが、この人形は人間の精神を弄ぶ。

抽象作品とは視覚情報だけでは判断出来ないことが多く、マレーヴィチのように画家の論文を要する。それでも常に求められるのは読者や観客への感受性の働きである。作者がどんな生い立ちであっても、彼等は記号化した存在となって現れる。それこそロラン・バルトの「作者の死」と言える。作品と作者は別の「物」であって作品は作者の顕在化ではない。但し、勘のいい(共感覚)鑑賞者が作者の断片を見出すことがある。長い月日を経て記号の効果がいつ出るのかは分からないが、記号化が担う役割は戦争や、人種弾圧、観念や文章の世界では、忘れがちな「痛み」が形となって現れることである。

アウシュビッツ収容に残された十字架の爪痕がその一つだが、同じ痛みを体験することは不可能だ。ではアウシュビッツのような場所さえあれば、「惨劇」を伝えることについて事足りてしまうのかといえば違う。戦争の記録は戦争に、災害の時は災害の過去を持ち出す。しかし人形は戦争にも、現代の別の惨劇にも当てはまるようになる。芸術作品は色んな立場に当てはまる準備をしている。

外的存在としての価値とは、スケッチでいえば窓の数を数えるようなものである。数を知らなくても日常に困ることは無い。しかし数え始めたところに人間性が表れる。

「例えば貴方が教師で、生徒達に建物を描かせたらそれぞれ違うのは想像できる」

その純粋な作業と、不正や不道徳な心と同じことなのか。残念ながら人間の機能としては同列である。優劣をつけるとしたら時代による道徳倫理に左右される。その証拠に現代になってゴーギャンの絵がポルノ扱いになったことは記憶に新しい。

3 聖と俗の現象学

聖と俗に関して掘り下げるためにエポケー(現象学用語:判断停止)しなければならないのは「幸福」である。現代において幸福とは、咄嗟に他者に伝える幸福、自身の存在価値としての幸福と分かれている。常に幸福を求めて生き、幸福を侵害されたくないと思う。宗教の話を気嫌う場合は、自身の幸福の価値観が揺らぐからだ。だから、自身の幸福という衝動を停止させなければならない。事象は幸福のみで動いていない。その現実をまず見開かなければならない。漠然と芸術作品は自分を幸せにしてくれる、と思い込んでいないか。それがそもそもの間違えである。自身の幸福感が聖への認識を邪魔する。それは宗教者にも言えることであって、真の幸福という意識が阻害し、言葉だけが独り歩きをし不正に及ぶことがある

現象学が「事象」に拘るのは信仰を批判するためではない。哲学と幸福を結び付けている人にとって宗教は邪魔な存在にもなっているが、それこそエポケーしなければならない。それは現存在すら理解していないに等しい。「宗教がなくても哲学で幸せになれた」と、幸福の価値観によって世界の何処に落とされたのかを思考停止しているからである。現代は詩人ボードレールが位置付けたように神と世俗は二元論ではなく、人間から見て垂直に同等の位置にある。私は聖と俗の関係を二元論ではなく、A∩Bのように集合論として捉えている。世界の事象として聖は「接続attachment」しているのではなく「含んでいるinclude」のである。

オーブリー・ビアズリー画「サロメ」オスカー・ワイルド

 オスカーワイルドのサロメの例を最後にする。処刑された洗礼者ヨハネはA-Bに位置していた。オスカーワイルドは聖書の脚色でありながらよく理解していた。彼がカトリックに改宗しようと試みなかったのなら、この「禁止」へと目に向けられなかっただろう。オスカーワイルドの「サロメ」は単なる耽美ではない。もしも彼が無秩序に想像力のみを豊にするのであれば、ヨカナーンは処刑されず、サロメも殺されない結末も考えられた。そうしなければならなかった、彼は自由と掟(Interdit)を熟知していた。その証拠にオスカーワイルドは晩年にカトリックに改宗をしている。イエス・キリストは自分の足で人々の元へ渡り歩いたが、洗礼者ヨハネ(ヨカナーン)はヘロデ王の不貞を頑なに許さなかった。サロメの元となった聖書ではヨハネはどのように位置づけられているのか、ヨハネは光を証するために現れた(ヨハネによる福音書1章)、そしてイエスこそが神の子だと言うためである。洗礼者ヨハネは、宗教指導者に対しても忠告するほどの正義の存在だった。(マタイによる福音書3:7~12)

ワイルドがそれを理解した理由は知らないが、サロメの愛に答えなかったのは聖書としても正解だったのである。イエスは正義から愛へと動ける。三位一体がそれぞれのペルソナを持ち、聖霊が行き来するというのもこの世界の事象に聖が関わってくることを説明するのに理に叶っている。

芸術作品の作り主は「死」を迎えるが、この死を単なる死だと捉えると勘違いをする。この「死」はイエス的だということを見落としてはならない。洗礼者ヨハネは生き返らず、ラザロは蘇生だった。イエスの復活は輪廻転生のように別の生が与えられたわけでもない。墓の傍で泣いていたマリアですら復活後の姿が分からなかった謎が残っている。ベルメールや他の作家もそのまま蘇生しているわけではない。私達が記録や作品から分析した作り主を想定しているに過ぎない。

作者の変容を、美術館の中だけ(本のみ)の観察となるのは凡庸である。現象学的還元にするのであれば、その変容を日常的にしようと試みることである。現象学は日常の哲学である。

 4 ständig vorangent(絶えず先立っていること)

イエス・キリストは、ヘブライ文字に対応する数を合計すると、(イエス888+キリスト1480=2368)これら三つを並べると3:5:8と黄金比であるが、ハンス・ベルメールの人形は聖ベルナデッタではないが、モデルになった女性にユダヤ人ということを隠しながら生きた女性がいた。黄金比は、認識する前に既に組み込まれて存在している。人にしてもらいたいことを自分が行うというのは近代聖書解釈の中で黄金比とされる。(マタイ:7,ルカ:6)人にしたことは自分にも返ってくる等ビジネス書にもなっているほど、この考えはキリスト教という名でなく私達は手にとっている。幸福のためだけに事象は動いていない、それは紛れもない事実だが、何故、貴方はその「作品」に惹かれたのか、黄金比を知らずとしても目に行くことがある。聖人の奇跡、ベルナデットの存在に人は祈るが、痛みを表したこの人形には祈らない。誰が彼女を模したのか、それは作家の愛である。愛がある故に世に怒りがあった。そして魂の解放を表した。何か意味があるもの、それを表す決まりはない。そこに自由創作の意義がある。

もしも人生において栄光を認められることよりも、何故「存在」しているのか、存在に目を向けだしたら聖と俗との交わりを経験することになる。イエス・キリストは民の元へと赴き痛みや病を見つけた。この時代にとっては、これらは見放されていたものである。この行為と哲学の反省や純粋観察の違いはあるのだろうか。

貧しい存在を意識したイエスが居たように。俗とは誰かの権威が世の中に広まるまでに、一つの生が刹那に終わることだ。遺体が転がることが珍しくなかった戦時中に、愛する女性の人形を作った作家がいた。戦争の終わりを待つこと、これは俗の時間である。時の流れは戦争の傷を残さず都市を作る。痛みが無いように隠してしまう現実、その隠れたものに眼差しを向けることは聖なる時間といえる。

タイトルにもなった「聖と俗」の元になったM・エリアーデは聖なる時間とは幾度となく繰り返すことが可能であるとしている。宗教的な人間が体感する時間の二種類と、現象学の時間軸は酷似している。クロノス(外的時間)かカイロス(内的時間)か。内面の時間は独自の時間軸を持つ。聖と宗教(主に秘跡)が密接になってくると「信仰」を要するのでまた別の話になってくる。意識が信仰という扉の前に立つ。今回、その手前まで来られたのなら本望である。信じることと、信仰とは別の話であり、私はこれより先は語らない。

信じることと、感受性は密接に関わりあっている。それが魂とでも言うかのように、多幸感と悲劇を持ち合わせている。造り主となって「顕在化」させたいと思うこと、これは単なる脳の性能なのか、神の賜物なのか、ここから哲学では不可分の信仰になるが、これまで隠しておいた「幸福」について新しい「眼」が与えられることを祈る。

このページは飛翔点についての第三弾です。サロメ、ウンディーネは出版作「Iconograph」でも扱った。

鳥は日常から摘み取って巣をつくる。それはただのパーツなのか、もしくは神の御言葉なのか(マタイ13章)

この作品でも出てきた鳥の巣の現象学の続きです。「生かされていることや生きていること、信じていること、私達それぞれ違うこと、それらが一致を夢見て、離れてはお互いに締め付けながら、茨のように締め付けあいながら巣を作る」Iconograph引用

シモーヌ・ヴェイユの哲学講義の鳥の巣について「機能と本能とあいだの一連の中間的な事実」

文学と私刑 飛翔点(2)

マタイによる福音書13章

Next Work Ⅰ (English)

Nagi Tukika

The doctor said to me, “Gradually it will become possible to see. The light moved without being able to decide where to stay, and tried to create space, but the shapes were dreaming too much in my heart, and I was afraid of waking up. Outside is a nightmare, or is it possible to wake up?

 The emotional conflict inside of the shadows and the light seemed to overwhelm me.

Outline

I am left with the memory that I was blind. When I say, ” touching the world,” it’ s not a metaphor. It is a recurring memory of the day I was blind and could see for the first time. And yet, the emotion of “that day” when I could see has faded, and this memory is like a stranger.

I wonder if I’ve come back to life or am I a stranger.

On a summer’s day the painter contemplated death, and on a winter’s day the writer found the body of a musician. Fleeing footprints were burst shot by the photographer.

By the way, where you were “that day”?

From the Author.

As for my own experience, there was a six-year period when I couldn’t write since my last publication (2016). Then I structured the novel in seven chapters based on the seven days of Creation in Genesis.

Publication schedule: Winter 2022 – Spring 2023

Language: Japanese and English

English version may be requested from a translator.

I adapted this photograph to show the protagonist, who experienced a past of blindness, repeating his/her memories. “The emotional conflict inside of the shadows and the light seemed to overwhelm me“

Photo by

Die Liebende‐Rainer Maria Rilke(English)

The image of a man, a thought that I, the other, cannot imagine from its trivial aspect,I think of words that I record time and thought. If I could understand every casual look, the light that comes through the window, the changing emotions, I would feel happy. So I realize what I think is beautiful and what it means to be born. I love everything I love. I hate it, but I love it.

Chris Kyogetu

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Rilke’s “My darling”, Das ist mein Fenster, “This is my window”, starts with the inevitable awakening of her inner self and a look at the unconscious exterior. This is Eben bin ich so sanft erwacht… “I just woke up”, a gentle, relaxing moment, like a sprinkling of white powder.

“In the day-to-day life of a person like the window, “Bis wohin reicht mein Leben” (Where will my life reach?), and the eternity of the night and the universe, and the dream.

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum; (I feel that everything around me is still me), and thus loses the frontier between the interior and the exterior. Is both a bond and an obstacle to the outer world in this poem? She’s falling for him. and across the side world whereas his feelings and awareness of him as “objectivity from outside the window” But this is her reflection. Her existence is “inside” the window. Whether expectant or anxious, the waking ‘now’ is simply her being inside the open window.

I don’t know the details of the “I” relationship with that other person, but the fact that the other person is in my heart means that my beloved is not a quiet presence standing in the depths of my consciousness. My analysis of the poem is that it is a window on the outside world, without any intervention or controller (e.g. God) between ‘me’ and the ‘loved one’.

The original reality is the margin in which the poem ends. The world of empty margins, where nothing is written, exists for the poet independent of his own spirit, and when the poet enters into the spirit of a person, It ​means it changes the reader’s vison. If the window becomes special as of this day, it is a success.

It is beautiful to see the interior growth and the interior finesse.

I believe that a beautiful poem is beautiful, even in its borders. 

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The Lover

That is my window. A moment ago

I woke up so softly.

I thought I would float.

To where does my life extend,

and where does the night begin?

I could think that everything

were still me all around;

translucent as a crystal’s

depths, darkened, dumb.

I could also contain the stars

inside me still; so large

does my heart appear to me; so gladly

it released him away again

whom I began perhaps to love,

perhaps began to hold.

Strange, as something never-described

my fate looks at me.

For what am I laid under this

unendingness,

fragrant as a meadow,

moved here and there,

calling out at the same time and afraid

that someone will hear the call,

and determined to find my downfall

in another.

R. M. Rilke

Die Liebende ( Rainer Maria Rilke ) 訳・Chris

Das ist mein Fenster. Ebenbin ich so sanft erwacht.

Ich dachte, ich würde schweben.

Bis wohin reicht mein Leben,und wo beginnt die Nacht?

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;

durchsichtig wie eines Kristalles Tiefe, verdunkelt, stumm.

Ich könnte auch noch die Sterne fassen in mir, so groß

scheint mir mein Herz; so gerne ließ es ihn wieder los

den ich vielleicht zu lieben,vielleicht zu halten begann.

Fremd, wie niebeschrieben sieht mich mein Schicksal an.

Was bin ich unter diese Unendlichkeit gelegt,

duftend wie eine Wiese, hin und her bewegt,

rufend zugleich und bange, daß einer den Ruf vernimmt,

und zum Untergange in einem Andern bestimmt.

full version (Japanese)

Die Liebende‐Rainer Maria Rilke

凡庸で一見、外観から想像できない思惑を、時間と思考を刻むように言葉で浮かべながら、何気ない眼差しが、窓を差し込む光が、移ろう感動が、全て意味を持つことが出来るのなら、私は幸せだと思う。そうやって、私は美しいと思うものも、そして生まれてきた意味も実感していた。私は全てを愛している。憎みながらも、愛している。

ChrisKyogetu「意識について」

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リルケの「愛する人」、Das ist mein Fenster「これは私の窓」という始まりは、自分の内部の目覚めと共に、意識出来ない外部への視線が必然となる。それはEben bin ich so sanft erwacht.「たった今、目覚めたばかり」と、白粉が舞うような、甘くてゆったりとした時間を感じさせます。「窓」のような人間の生活に関わっている日常を通して「Bis wohin reicht mein Leben」私の人生は何処へと届くのかと、到達しえない眼路の限界と、その限界を補うための夢想、「und wo beginnt die Nacht?」そして夜は何処から始まるのだろうと、更に夜と宇宙の無限、そして夢と誘います。

「私」はIch könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;(私の周りぐるりと全てが未だ私のような気がする) と、それによって内と外との境界線を失います。

私の窓、「 eben、たった今」この窓とは、この詩の中では外の世界と繋げる存在でもあり、隔たりにもなっている。恋する彼女は外の世界を通して彼への想いや気づきを「窓の外という客観性」として具象化します。けれどもこれは彼女の内省だった。

 彼女の存在は窓の「内」にあります。期待を抱こうが、不安を抱こうが目覚めた「今」とは、ただ自分が開かれた窓の内側にいることです。

―Eindruck―

「私」と、こ の相手との関係の詳細は分かりませんが、想う相手が心の中に居るということは、愛する人とは、自分の意識の下で自分の認識している範囲の記憶を形成するが、

佇立している静かな存在では無い。この詩は 「私」と、「想い人」二人の間に何らか しらの干渉者、管理者(例えば神)を置かずに、外の世界を窓だけで表現しているというのが私の分析です。

本来の現実とはこの詩が終わった余白へと向かうことでしょう。何も書かれていない余白世界、それは詩にとっては自分の心とは関係無く存在していて、詩人が人の心の中に入るということは、読者の視界に変化を与えるということです。その日から窓が特別な存在になれば、成功なのです。内面が育つ、内面が繊細になった視界は美しい。

 美しい詩とは余白まで美しいものだと私は思います。 

2015年の推敲版

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リルケ:「愛する人」Die Liebende ( Rainer Maria Rilke )

これは私の窓、たった今、おもむろに目覚めたばかり。

私は宙に浮いているようだが、私の人生は何処へ向かい、

夜は何処から始まるのだろうか。

私を取り囲む全てが私のままだと思えた。

それは結晶のように深く、透明で、暗くて、無言で、

私はまだ私の中の星をつかめそうだった。私の心は広くなり、

私の心は、彼を再び手放せそうだった。

私が愛し始めたかもしれない、抱きしめたいと思ったかもしれない人だから。

私の運命は、説明のつかない、謎めいた眼差しで私を見ている。

この途切れなく続く私とは何なのだろう。

草原のように香り高く、行き交いながらゆらめいている。呼び声を聞くと恐れてしまうことは、誰かにとっては、別の場所で別れを意味することだから。

(朗読しやすいように翻訳しました)

(原文)

Die Liebende ( Rainer Maria Rilke ) 訳・Chris

Das ist mein Fenster. Ebenbin ich so sanft erwacht.

Ich dachte, ich würde schweben.

Bis wohin reicht mein Leben,und wo beginnt die Nacht?

Ich könnte meinen, alleswäre noch Ich ringsum;

durchsichtig wie eines Kristalles Tiefe, verdunkelt, stumm.

Ich könnte auch noch die Sterne fassen in mir, so groß

scheint mir mein Herz; so gerne ließ es ihn wieder los

den ich vielleicht zu lieben,vielleicht zu halten begann.

Fremd, wie niebeschrieben sieht mich mein Schicksal an.

Was bin ich unter diese Unendlichkeit gelegt,

duftend wie eine Wiese, hin und her bewegt,

rufend zugleich und bange, daß einer den Ruf vernimmt,

und zum Untergange in einem Andern bestimmt.

フルバージョンはこちら

To the poorest talent (English)

My dear, I implore you, will not die. Blind affection, as it calls itself,If you die, your Vacancy will be at my side forever.
Osamu Dazai, The Defeat of Thought

 

 Butterflies passing through the sea lie on the surface of the sea. And the wings, weighed by the water, fly away. Even if the little existence by the side of death disappeared, the ocean would only stir. The scent of the waves swallows you up, and Garcia Marquez compares the sea of dead bodies with the scent of roses. The smell of the tide is mixed with the smell of the rose and the perfume of the dream rose becomes thicker with the dark at sunset.

It falls asleep, the sun’s reverie.

Only the sound of the wave remains, and reverberation attempts. Nobody goes looking for the body of the butterfly.

Just the right amount of desperation, Debussy’s music called La Mer.

2018 was the centenary of Debussy’s death,

In the end, consciousness didn’t move a finger.

Psychology is the study of life and death, and the mechanism of mind has been proven and tested many times. Even what is natural to the mind is still at the research stage.

The research is released and then buried, In our epoch, Christianity was strong in its total affirmation of life. Doctrines existed as doctrines, the assumption that God’s love existed unchecked, and yet my heart was dry.

As for love, as far as human love is concerned, it is deduced in psychology through scores and circumstances. However, he may still be interested in me, he may still look at me sexually, but an inner love is unimpeded as faith. It was more certain that this supreme thing was God’s love than man’s ever-changing love.

Believe or not believe, the condition exists as a good response apart from consciousness.

Should I ask for the love of God to heal me, or the love of a man to heal me?

I couldn’t believe it either.

First of all, I couldn’t form words with my consciousness any more, if not in fragments.

Keeping it hidden, I kept quiet about how I couldn’t write my work anymore. In the middle of all this, I lied, thinking of my dried-up love.

I took a pill mid-way through the meeting,Another day I had to take a pill before I got to the hotel.

I paid extra for the water,The shell of the drug resembled this butterfly which was never searched. All secrets lie in my belly, devouring me alone.

There was an earthquake of magnitude 6 in June 2018. The earth quaked and I had no idea what had happened. I thought I could die, but I didn’t call the guy I was dating back then.

Because it would hurt me if he walked out on me,I avoided it because I was scared of the result. I should have said goodbye before.

Ugliness and malice exist in human love but love also includes believing. Love between human beings falls and becomes sinful, but the love of God goes beyond human understanding.

Human beings believe in protection,Human beings choose their own selves rather than the love of others, but God does not.

Psychology, philosophy, this unholy notion that without this ugliness, there would be no vitality in life. We are raised by fate, so we mix them together and, blushing through our enthusiasm, we are still precious today.

Each time I repeat a bit of despair, a smile fills my face and Little by little, we become increasingly convinced of our limitations.

――The angels come and mock us because we are not so happy in heaven.

Only today, 3 years later, did I read part of the suicide note. I was writing as if I didn’t hate anyone, when I really did. And the writing was terrible.

I can understand that my language was broken and that I could not write any more. It seems like I’ve been in a desperate situation, but I couldn’t write, not just today, I couldn’t write long ago.

It was in October, always warm and damp, the day of the International Mass. I was afraid of something, afraid of something, and hate spread from one form to another.

My friend cleaned the bloodstain and Adam the cat came. So I thought he was an angel. I remembered Lucifer that day, but he was missing. Adam had many blessings. Adam, why I need him forever brings me back to that day.

We often see people who have been victimized by others reveal their worst days when they succeed. People say” ” I took revenge on those who discriminated against me, I overcame the fact that I was oppressed” Well, people usually connect to their worst days and So we stay away from the best.

Quiet tames the bad days, but the best days are crushed by the bad days,Tranquility tames the worst days, but the best days are crushed by the worst days.

On this day in 2021, I did not dare choose any part of the Bible. I chose those words by Osamu Dazai, who says that if you die, I will miss the empty space. I was under the impression that his love for me was a divine word. Perhaps this is what I wanted to hear,But I couldn’t hear that.

I’ve been helped by so many people that I don’t know who thanks everyday.

I don’t know where I’m going since the most unwise day.

And that voice reading gave a beautiful voice to my long-lost world. It has been a long and thoughtful journey. I want to rest beside this beautiful voice now, so that the worst days are far away. I want to write something that will use that beautiful voice. The butterfly has awoken from sleep. I promised you a trip, and I’ll go someplace with you.

Readers and writers

To the poorest talent

Japanese

Adam

2016 I called an ambulance for chest pains.

2017 I was constantly on stabilizers, anti-vertigo, and various medications.

2018 Words became choppy in my consciousness.

2021 Recovering on heart and liver medication.(Stop taking psychotropic medication and change to heart medication such as Vasolan )

It was Dazai Osamu who wrote this suicide note: “I can no longer write”

I had no awareness of the words, but I knew them.

It’s not that I couldn’t think about a story, it’s just that there was a time when my words went missing. I don’t mean whether it was a psychological problem or a side effect of the medicine,It took me a while to settle everything without it getting too heavy.

Even after my Catholic conversion, in some of the best days of my life but I got flash backs from that day.

For instance, when people succeed, they expose the worst days of their lives.

I declare that I am overcome.

In my best days, I can’t stop thinking back to my worst days. For me, in the past three years, there has not been one day that I have been able to really rejoice, except for Adam.

I want to reorganize my articles and, in a number of ways, reconstruct them.

Starting with him doing the readings.

I would like to thank everyone for their help. Thank you very much.

The poorest talent, from the gospel. ” Blessed are the poor in spirit”.

最も貧しい才能へ

君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。
――太宰治「思案の敗北」

 海を渡る蝶は海面で休むが、水の重さで羽が重くなったら飛びはじめる。死と隣り合わせの小さき存在は消えてしまっても大海が蠢くだけだった。生きていた痕跡を知らせない死、波の香りに呑まれる、ガルシアマルケスが水死体の浮かぶ海を薔薇の香りに見立てた。潮の香りと薔薇の香りが融合する。夢の薔薇の香りは太陽が沈むと同時に闇と共に濃くなっていく、それが眠り、太陽の夢、

波の音だけを残して、残響が誘惑する。蝶の肢体を探しにいく人は誰もいない。

程よい、絶望にドビュッシーの海、

2018年はドビュッシーの没後100周年だったが、

結局、意識が指を動かすことがなかった。

過去に学んだ心理学上は生も死も研究対象で、心のしくみについての立証、検証、の繰り返しだった。心の正常が何かさえ研究段階、発表しては埋もれていく。生きることを肯定しているのが強いのはキリスト教だった。教理は教理として存在していて、神の愛は検証無く存在するという前提条件、それでも私の心は乾いていた。

愛に関して、人間の愛に関しては、心理の中では点数や状況で推測される。興味があるか、性的に見ているか、しかし、内包された愛とは信仰と同じように囚われない。この最高のものが神の愛ということは、移ろう人間の愛よりも定かだった。信じるも信じないも、その条件は意識の外に正解として存在する。神の愛に治療を頼むのか、人間の愛に治療を頼むのか、

私はどちらも信じることが出来なかった。

まず言葉が途切れ途切れにしか意識で構成できなくなった。それを隠しながら、書けなくなった事を黙っていた。その中で枯れきった愛を思い浮かべながら、嘘をつく。会議の途中で薬を飲み、ホテルに行くのも薬を飲んでから行っていた。割高の水の料金を払って、薬の抜け殻は探されない蝶のようだった。全ては腹の中、秘密は自分だけ蝕んでいく。2018年6月に震度6の地震があった。地鳴りがして、何が起きたのか分からなかった。死ぬのかもしれないと思ったが、当時付き合っていた人には電話しなかった。彼が冷めていたことを知っていて、冷たくされた場合、傷つくからだ。別れ話は早く済ませるべきだった。

人間の愛には醜悪も悪意も存在するが、愛は信じることも含まれていた。人間同士の愛は墜落し罪悪になるが、神の愛は人智を超えてくる。人間同士は我が身を守ることを考える。他者への愛より自分を選ぶ、それが人間だが、神はそうではない。自己犠牲は神に近く、理想はそれを目指すが桃源郷。人間同士の愛は、罪悪がある。心理学、哲学、神に囚われない考えは、この醜さもなければ、生きる活力にならないとする。私達は運命に育てられているのだから、それらを混合し、熱意のせいでのぼせながら、今日も人は尊い存在。

小さな絶望を繰り返すたびに、笑みが溢れて、限界に確信が近づく。死に向かうよりも蘇生法は苦しく、取り残された毎日は、波にかき消される日と待ち望む。

「天使達は天国でそれほど幸せでなかったと笑いに来る」

遺書の一部を読んだのも3年後の今日のことだった。本当は恨んでいるのに、恨んでないように書いて、文章が酷かった。言語が途切れ途切れで、もう書けない状態だったと理解出来る。切羽詰まっているだけのように思えるが、この日に限らず、長らく自分の意思すら伝えられないまま、書けなかったのだ。10月、まだ蒸し暑い、国際ミサの日だった。

何かを恐れて、何かに怯えて、憎悪が形相を超えては溢れかえっていた。

 血痕を掃除してもらい、猫のアダムが来た。だからあの子は天使だと思った。あの日の思浮かべた天使はもう居ない。この子は祝福に溢れていた。何故これだけアダムを愛しているのか、何故これだけ必要なのか、それを語ろうとすると、常にこの日に繋がっていく。人に虐げられた人間が成功すると、最低な日を暴露する光景はよく見かける。あの時、差別した人間を見返す、あの時、虐げられたことを乗り越えた、人は必ず最低の日と繋げるものなのだ。最高の日は最低の日と繋がる。だから最高を避けるようになる。

平穏は、最低の日を飼い慣らせるが、最高の日は最低の日によって押しつぶされる。

 今年のこの日は敢えて聖書の引用を選ばなかった。空席ができたら寂しいと言わんばかりの太宰治のこの言葉を選んだ。人の恋慕が神に近い言葉だと思った。恐らく、あの日はこれを聞きたかったのだろう。でもあの日は聞けなかった。

 最も愚かだった日から、私は何所へ向かっているのか分からない。誰に毎日感謝を言えばいいのか分からないほど、色んな人に助けられた。そしてこの朗読の声は、数年の私の失った世界に綺麗な声をくれた。辿ってみると、長い思案の旅だった。

最低の日が遠のくように、今はこの綺麗な声の傍で休息したい。この綺麗な声が生きる文章を書きたい。蝶は眠りから覚めた。また旅路の約束をして、何処かへ行こう。

私達、最も貧しい才能へ。

アダム

2016年 胸が痛いと救急車を呼んだ

2017年 常に安定剤と眩暈止め、色々な薬が手放せなくなった。

2018年 意識の中で言葉が途切れ途切れになっていった。

2021年 心臓と肝機能の薬で回復傾向(向精神薬の服用停止、ワソラン錠等の心臓の薬に変更)

「書けなくなった」そう遺書を残したのは太宰治だった。その言葉を意識したことはなかったけれども、知ってはいた。私は無意識の中でその言葉があったのだと思う。話が思いつかなかったわけではない、自分の言葉が消えてしまった時期があった。

あの日はそうなった。誰のせいでもなく、全てが書けなくなったからだった。

それは心の問題か、薬の副反応だったのか野暮な事は言わない。

重くならないように整理することに時間を要した。

回心をしてからも、人生の最高の日には、

あの日が戻ってくる。3年、長いようで早く済んだのかもしれない。

記事の整理も色々と、立て直したいと思っています。

朗読してくれる彼を始め、

皆さまの協力があったからです。ありがとうございました。

実は2018年のこと、もう乗り越えてます。

Vision

The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 

When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision,

 otherwise, it will only represent a butterfly unable to fly. Belief and philosophy are for me like wing veins. Creation is for me all about soaring.

Soaring is freedom predetermined by wing veins. There cannot be any other freedom.

蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 

Vision2 




vision

Die Adern der Flügel zieren den Schmetterling, 
seine Organe, Nerven und sogar Knochen.

Einen Schmetterling zeichnend, bedarf es besonderer Sorgfallt bei seinen Adern. 
Sonst zeigt das Bild nur einen armen Schmetterling unfähig zu fliegen. 

Glauben und Philosophie sind für mich der Flügel Adern. Schöpfung zeigt sich im Aufsteigen in die Lüfte – Fliegen.

Fliegen ist Freiheit bestimmt durch der Flügel Adern.

Andere Freiheit gibt es nicht.

MY Vision Germany ver. 


vision

(vision)
The wing veins are for the butterfly, its organ, nerves and also its bones. 
When drawing a butterfly, its wing veins must be drawn with precision, otherwise,
 it will only represent a butterfly unable to fly. 
Belief and philosophy are for me like wing veins. 
Creation is for me all about soaring.


Soaring is freedom predetermined by wing veins. 
There cannot be any other freedom.
*******  
蝶にとって翅脈とは器官や神経であり、骨である。蝶を描くとしたら翅脈は、正確に描かなければ飛べない蝶になってしまう。私にとって、信仰や哲学というものは翅脈である。私にとっての創作とは、飛翔によって成り立っている。
飛翔とは翅脈有き自由であって、それ以外の自由は在り得ない。 
——–
 飛翔と翅脈の組み合わせによって生まれるものと矛盾、この命題は蝶のように飛ぶ場所は決められないということ。私達、文学者はそうなのではないか。 

*7年前から決まっていたvisionを手直ししました。



オオルリアゲハの標本。角度によって青からグリーンにかわります。

         

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