聖と俗の現象学

何故、それが美しいと言えるのか。
追いかけ続ける間に、
私の心は、私よりも知っている。そのために


Aを聖、Bを俗とする Chris Kyogetu

  1. 1 芸術と聖なるもの
  2. 2 芸術作品と作者の死
  3. 3 聖と俗の現象学
  4.  4 ständig vorangent(絶えず先立っていること)

1 芸術と聖なるもの

何気なくよく見ている建物を一度でも描いてみようと思ったことがあるだろうか。毎日見ているはずの建物、その建物の特徴を語ることは出来ても咄嗟に窓の数を言えるだろうか。描くということは、それを知ることから始める。

感受性というものが感性となって生きていく場所を定めることは困難である。単純なコミュニケーションの一つとして使えないのも感受性だった。20‐21世紀に生きる私達は「表現主義」や「芸術至上主義」の作品に触れ、私達は「自由」を手にしていると教わった。恰も自由と人の善意によって選ばれたように有名な作品を見ていく。

しかし、かえってこの一枚が何故生き残れているのか、高価なのか、絵画を目の前に多くの疑問が浮かんでくるようになった。何故この一枚の絵画が有名になったのか、その魔術的な生存戦略を経営学のように説明できる人は少ない。教会が絵画を要求した時代以外は、その需要がどのように生まれるのか、これもまた多くの嘘が溢れている。それらを細分化せずに漠然と私達は世界を受け入れている、それが窓の数も知らない、でもいつも建っている建物である。一つの建物には役割がある。しかしそれを外部の一人がスケッチしようとするとき、その建物の持つ外的な時間と、窓を数え始め心象を混ぜようとするのなら、それによって自己の内面世界を持つことになる。

宗教が絵画を選んでいた頃の判断基準はシンプルだった。そこに教会側の理解が及んでいなかったとしても、描く事は聖人であればよかった。それから人間の心理を描くことによってテーマは無限大となった。「共感覚」をどれほどの人間が持っているのか定かではない中で、何故彼等は選ばれるのか。一人の「夢」がどうして何億もするのか。他者から認められることによっての顕在化と、自分だけが知っている価値の顕在化、人によっては、片方を選ぶことが出来る。人によっては選ぶことが出来ない人がいる。私は選ぶことが出来なかった人だ。それは聖と俗を二分化するように、単純なことではない。

だからこそ区別できなくなったのが「神聖」である。「神聖」への一歩として感受性から感性への昇華としてまず洗礼を受けるべきこと、それが「禁止」を身体で覚えることである。バタイユの「禁止」について、多くの無宗教者が誤解をするのは、禁止への侵犯のことを「神聖」の廃止や取り除くことだと思い込み、それによって進化‐自由だと勘違いしていることである。(Erostisme coll P68,69)

バタイユやボードレールのエロティシズム、ロラン・バルトのフェテシズムとは新しい発見ではない。元々あった自然状態を彼等はタブーを侵しながら哲学とした。彼等はカトリック、キリスト教の神聖を理解し、抑圧を受けていたが、神聖を廃止しようとしなかった。それを漠然と権威によるものだとは思ってはならない。

2 芸術作品と作者の死

 球体関節人形と聖母マリア像の工程は違う。聖母マリア像は裸体を意識していることを隠すように直方体から掘るが(彫刻の範囲で骨組みと肉感は意識する)球体関節人形は材質を捏ねて裸体こそ意識する。例えばハンス・ベルメールの作品の意識された裸体は、痛々しい姿だからこそ、痛みを連想させる。露わに移される性器と裸体、切断された遺体を連想させることで一層バタイユ哲学の性と死とも結びつく。球体関節人形の対峙している存在とは何か、それは聖人である。聖ベルナデッタは不朽体として綺麗に温存されていることを思い出してほしい。彼女も遺体を超越した存在になっているが、人形にはその資格があるのだろうか。

聖ベルナデッタ
ウンディーネ 画アーサー・ラッカム

聖と俗はA∩Bの関係であって交わるとろに芸術‐人間の神聖部分がある。文学で例えるのなら、キリスト教圏内の童話「ウンディーネ」でも水の精が人間になるための必要な条件をカトリックの司祭が用意する。それでも彼女は人間の愚かさによって魂を得られず死んでしまう。この話の最も美しい事は何だったのか。司祭やキリスト教的価値観によって定義される「人間像」に近づこうとする水の精の「愛」だった。契約を破ってしまった男を殺さなければならなかったウンディーネの悲壮感がより一層愛となって現れている。ここでもバタイユ的な「禁止」と「侵犯」と言える。ハンス・ベルメールの人形は秘密の証拠を残したとされる。腹部の球体、人工的な娘、彼女は自分の生い立ちを語らない。人形とは玩具であったが、この人形は人間の精神を弄ぶ。

抽象作品とは視覚情報だけでは判断出来ないことが多く、マレーヴィチのように画家の論文を要する。それでも常に求められるのは読者や観客への感受性の働きである。作者がどんな生い立ちであっても、彼等は記号化した存在となって現れる。それこそロラン・バルトの「作者の死」と言える。作品と作者は別の「物」であって作品は作者の顕在化ではない。但し、勘のいい(共感覚)鑑賞者が作者の断片を見出すことがある。長い月日を経て記号の効果がいつ出るのかは分からないが、記号化が担う役割は戦争や、人種弾圧、観念や文章の世界では、忘れがちな「痛み」が形となって現れることである。

アウシュビッツ収容に残された十字架の爪痕がその一つだが、同じ痛みを体験することは不可能だ。ではアウシュビッツのような場所さえあれば、「惨劇」を伝えることについて事足りてしまうのかといえば違う。戦争の記録は戦争に、災害の時は災害の過去を持ち出す。しかし人形は戦争にも、現代の別の惨劇にも当てはまるようになる。芸術作品は色んな立場に当てはまる準備をしている。

外的存在としての価値とは、スケッチでいえば窓の数を数えるようなものである。数を知らなくても日常に困ることは無い。しかし数え始めたところに人間性が表れる。

「例えば貴方が教師で、生徒達に建物を描かせたらそれぞれ違うのは想像できる」

その純粋な作業と、不正や不道徳な心と同じことなのか。残念ながら人間の機能としては同列である。優劣をつけるとしたら時代による道徳倫理に左右される。その証拠に現代になってゴーギャンの絵がポルノ扱いになったことは記憶に新しい。

3 聖と俗の現象学

聖と俗に関して掘り下げるためにエポケー(現象学用語:判断停止)しなければならないのは「幸福」である。現代において幸福とは、咄嗟に他者に伝える幸福、自身の存在価値としての幸福と分かれている。常に幸福を求めて生き、幸福を侵害されたくないと思う。宗教の話を気嫌う場合は、自身の幸福の価値観が揺らぐからだ。だから、自身の幸福という衝動を停止させなければならない。事象は幸福のみで動いていない。その現実をまず見開かなければならない。漠然と芸術作品は自分を幸せにしてくれる、と思い込んでいないか。それがそもそもの間違えである。自身の幸福感が聖への認識を邪魔する。それは宗教者にも言えることであって、真の幸福という意識が阻害し、言葉だけが独り歩きをし不正に及ぶことがある

現象学が「事象」に拘るのは信仰を批判するためではない。哲学と幸福を結び付けている人にとって宗教は邪魔な存在にもなっているが、それこそエポケーしなければならない。それは現存在すら理解していないに等しい。「宗教がなくても哲学で幸せになれた」と、幸福の価値観によって世界の何処に落とされたのかを思考停止しているからである。現代は詩人ボードレールが位置付けたように神と世俗は二元論ではなく、人間から見て垂直に同等の位置にある。私は聖と俗の関係を二元論ではなく、A∩Bのように集合論として捉えている。世界の事象として聖は「接続attachment」しているのではなく「含んでいるinclude」のである。

オーブリー・ビアズリー画「サロメ」オスカー・ワイルド

 オスカーワイルドのサロメの例を最後にする。処刑された洗礼者ヨハネはA-Bに位置していた。オスカーワイルドは聖書の脚色でありながらよく理解していた。彼がカトリックに改宗しようと試みなかったのなら、この「禁止」へと目に向けられなかっただろう。オスカーワイルドの「サロメ」は単なる耽美ではない。もしも彼が無秩序に想像力のみを豊にするのであれば、ヨカナーンは処刑されず、サロメも殺されない結末も考えられた。そうしなければならなかった、彼は自由と掟(Interdit)を熟知していた。その証拠にオスカーワイルドは晩年にカトリックに改宗をしている。イエス・キリストは自分の足で人々の元へ渡り歩いたが、洗礼者ヨハネ(ヨカナーン)はヘロデ王の不貞を頑なに許さなかった。サロメの元となった聖書ではヨハネはどのように位置づけられているのか、ヨハネは光を証するために現れた(ヨハネによる福音書1章)、そしてイエスこそが神の子だと言うためである。洗礼者ヨハネは、宗教指導者に対しても忠告するほどの正義の存在だった。(マタイによる福音書3:7~12)

ワイルドがそれを理解した理由は知らないが、サロメの愛に答えなかったのは聖書としても正解だったのである。イエスは正義から愛へと動ける。三位一体がそれぞれのペルソナを持ち、聖霊が行き来するというのもこの世界の事象に聖が関わってくることを説明するのに理に叶っている。

芸術作品の作り主は「死」を迎えるが、この死を単なる死だと捉えると勘違いをする。この「死」はイエス的だということを見落としてはならない。洗礼者ヨハネは生き返らず、ラザロは蘇生だった。イエスの復活は輪廻転生のように別の生が与えられたわけでもない。墓の傍で泣いていたマリアですら復活後の姿が分からなかった謎が残っている。ベルメールや他の作家もそのまま蘇生しているわけではない。私達が記録や作品から分析した作り主を想定しているに過ぎない。

作者の変容を、美術館の中だけ(本のみ)の観察となるのは凡庸である。現象学的還元にするのであれば、その変容を日常的にしようと試みることである。現象学は日常の哲学である。

 4 ständig vorangent(絶えず先立っていること)

イエス・キリストは、ヘブライ文字に対応する数を合計すると、(イエス888+キリスト1480=2368)これら三つを並べると3:5:8と黄金比であるが、ハンス・ベルメールの人形は聖ベルナデッタではないが、モデルになった女性にユダヤ人ということを隠しながら生きた女性がいた。黄金比は、認識する前に既に組み込まれて存在している。人にしてもらいたいことを自分が行うというのは近代聖書解釈の中で黄金比とされる。(マタイ:7,ルカ:6)人にしたことは自分にも返ってくる等ビジネス書にもなっているほど、この考えはキリスト教という名でなく私達は手にとっている。幸福のためだけに事象は動いていない、それは紛れもない事実だが、何故、貴方はその「作品」に惹かれたのか、黄金比を知らずとしても目に行くことがある。聖人の奇跡、ベルナデットの存在に人は祈るが、痛みを表したこの人形には祈らない。誰が彼女を模したのか、それは作家の愛である。愛がある故に世に怒りがあった。そして魂の解放を表した。何か意味があるもの、それを表す決まりはない。そこに自由創作の意義がある。

もしも人生において栄光を認められることよりも、何故「存在」しているのか、存在に目を向けだしたら聖と俗との交わりを経験することになる。イエス・キリストは民の元へと赴き痛みや病を見つけた。この時代にとっては、これらは見放されていたものである。この行為と哲学の反省や純粋観察の違いはあるのだろうか。

貧しい存在を意識したイエスが居たように。俗とは誰かの権威が世の中に広まるまでに、一つの生が刹那に終わることだ。遺体が転がることが珍しくなかった戦時中に、愛する女性の人形を作った作家がいた。戦争の終わりを待つこと、これは俗の時間である。時の流れは戦争の傷を残さず都市を作る。痛みが無いように隠してしまう現実、その隠れたものに眼差しを向けることは聖なる時間といえる。

タイトルにもなった「聖と俗」の元になったM・エリアーデは聖なる時間とは幾度となく繰り返すことが可能であるとしている。宗教的な人間が体感する時間の二種類と、現象学の時間軸は酷似している。クロノス(外的時間)かカイロス(内的時間)か。内面の時間は独自の時間軸を持つ。聖と宗教(主に秘跡)が密接になってくると「信仰」を要するのでまた別の話になってくる。意識が信仰という扉の前に立つ。今回、その手前まで来られたのなら本望である。信じることと、信仰とは別の話であり、私はこれより先は語らない。

信じることと、感受性は密接に関わりあっている。それが魂とでも言うかのように、多幸感と悲劇を持ち合わせている。造り主となって「顕在化」させたいと思うこと、これは単なる脳の性能なのか、神の賜物なのか、ここから哲学では不可分の信仰になるが、これまで隠しておいた「幸福」について新しい「眼」が与えられることを祈る。

このページは飛翔点についての第三弾です。サロメ、ウンディーネは出版作「Iconograph」でも扱った。

鳥は日常から摘み取って巣をつくる。それはただのパーツなのか、もしくは神の御言葉なのか(マタイ13章)

この作品でも出てきた鳥の巣の現象学の続きです。「生かされていることや生きていること、信じていること、私達それぞれ違うこと、それらが一致を夢見て、離れてはお互いに締め付けながら、茨のように締め付けあいながら巣を作る」Iconograph引用

シモーヌ・ヴェイユの哲学講義の鳥の巣について「機能と本能とあいだの一連の中間的な事実」

文学と私刑 飛翔点(2)

マタイによる福音書13章

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