L’amant

je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
L’histoire de ma vie n’existe pas. Ça n’existe pas. IL n’y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
L’amantMarguerite Duras)
(①と②はページでいったら順番は逆)
ILについて、フォントの関係でIlになってしまうのでLも大文字にしました。



   je suis:私は~です、sa、所有されているもの、人が女性名詞の場合にsaを使います。この場合は主人公の少女のことで、このsa 2人が逢瀬を重ねていたことを表しているので、この一文だけでも色気があります。15歳のときにメコン河の上で出会った金持ちの中国人青年との性愛。そのイマージュは河を横断していく間持続する。長男しか愛さない母親、身体が弱い次男、意地悪な兄、家庭に圧迫を感じる中で、自分の持ち物に対しての拘りと、一回り年上の彼が彼女にとって居場所となっていく。
 香り立つように現れた二人はすぐに触れ合う。永遠を考えた男と、小説家としての未来を見ていた少女、男は掟を破ってでも彼女と居たいとは一度は言ったが、彼女には若さと未来があるが故に答えをNOと言った。

 度々、登場するイマージュという言葉、著者は少女時代の視線や記憶をすべてイマージュ(image)と表しました。フランス語ではイマージュとは「再現」という意味もあります。それは生き写しでもあり、忠実な似姿ということにもなります。これは少女にとって経験というイマージュと、著者にとっての再現のイマージュが展開されています。「彼」と言ったら必ず人を差したりしますが、例えば②のようにフランス語は il(彼)というものが、属性にもなるときがあり ます。「彼」と「それ」という意味が私から見ると、話の内容に沿って効果的に利用されているように見えました。「彼」と敬愛を込めて呼んでいるのは老いた著者であり、客観的に「それ」という出来事を見つめているのは少女の頃の著者かもしれません。誰もがこの二人の情事に注目し、彼との想い出を標本のようにしたかったと思うのかもしれませんが、私にとって、IL(彼)は物語にとって中心では無いと宣言しているかのようでした。―――この話の二人は本当に愛し合っていたかどうか、少女は本当に愛していたのかというところに焦点がよく当てられますが、私はこのように恋愛には行き場の無い感情というものはあると思います。行き場の無い想い、想いとは必ずしも常に何かを望み、何処かへ進みたいと具体性を持っているわけではありません。

このように、祝福も受けず、理解や共感もされず、核を失ったような想いがあったとしても、肌が触れ合って、見つめ合えば、心は交わっていきます。
このような交わりの意味を感じ取れる人は、メコン河の抽象的な描写を感じ取れるでしょう。人間の感傷深さとは関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていきます。ただそれだけで、胸が痛くなることでしょう。その快楽を知り、そしてその内面の破壊を知る。愛の希求を知るつもりが、自分達はまるでメコン河に漂よう藻屑のように思えるのですから。覚えていることは、二人の関係は、メコン河の描写で事足りるかのように全てを呑み込む―――。
 著者であるマグリット・デュラス自身の自伝的小説と言われているこの作品は、1971年に出版さ れ、1984年にゴングール賞を受賞しました。1914年生まれの著者が十代の頃の、それこそ作中の表現であったimage:イマージュというのを出版したのは50代ということになります。小説家としての神の啓示もこの思い出のようです。小説では「練習しても弾けなかった曲、ピアノを断念するきっかけとなった曲」、映画ではショパンのワルツ第10番、ロ短調Op69-2が使われていました。

 彼との触れ合い、小説家への想い、母親や家族に対しての想い、彼の結婚、二度と会えないと漸く気付いたこと、物悲しいようで、老いた口調が安定を与える。

 執筆するときにどのような気持ちだったのか想像出来ませんが、映画では船の手摺りに足をかけていた。もう一度過去に振り返るとき、その水は記憶の水であり、イマージュの水面である。水底に潜らずに、渡し船に乗って運ばれるように、在った出来事だけを記していく。愛が分かっていなかった時、愛していなかったと言えなくなった時を正確に。
読者にはその愛の盲点を示すかのように、

そのイマージュ、その不安定なイマージュ、

少女は彼の愛を頼りに 足をかける。

(画像及び、動画はブルーレイ販売元のユニバーサルに権利があります)

The secret garden

「天の国とはからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」マタイの福音書13章31-32節



   主人公、メアリーレノックスは孤独な少女だった。父親は仕事人間、母親は子ども嫌いでパーティに明け暮れる毎日。召使いはメアリーの言いなりで、彼女は我儘に育った。
彼女の両親や召使いたちはコレラにより死んでしまった。(映画では地震)それによってメアリーは遠い親戚にあたる、イギリスの屋敷に住むことになる。主人はあまり帰らないと聞かされ、メアリーはここでもあまり相手にされない。
けれども違ったのは、年が近く優しいメイドのマーサーやマーサーの弟のディコンと仲良くなれたこと、そして最もメアリーの話し相手になったのは「コマドリ」だった。コマドリとの対話によって、メアリーは次第に年相応の笑顔を取り戻していく。
そんなコマドリに導かれて偶然にもメアリーは
主人が閉じてしまった花園の鍵を見つける。

この鍵こそ、ここの主人が妻との思い出の庭を土に埋め、封印した鍵だった。
ディコンとメアリーは、秘密の巣作りと称して荒れた花園を復活させようとする。そして、この屋敷の主人の息子であり、病弱で車椅子が無いと生活が出来ないコリンも仲間に加わる。主人は失った妻を思い出させるコリンを可愛がったことがない。
そんな、からし種のような弱き、小さな存在達が、荒れた庭に花々を咲かせ、コリンは歩けるようになった。長らく我が子に心を開けなかった父親は、この庭で歩けるようになった息子を受け入れる。

大切なものを失い、自分の一部を無くし、
笑顔を忘れていた三人が庭で復活を遂げる。
聖書でも人々は天国というものをもっと立派で壮大なものだと思っていたが、
イエスは「からし種」のような小さなもので大きく育つと言った。

私は メアリー・レノックス達が行ったことは、
天の国の「生長」ではないだろうかと感動した。
そしてやはり、天の国では子供が一番偉いのだろう。
(マタイによる福音書18章1~5節) 

*******
子どもの頃は、クラスメイトの誰もがこの話を平凡だと思った。「小公子」で有名となったバーネットだが、たかだか庭いじりをして奇跡が起きたというのは、当時も流行らなく、エンターテイメントにあふれた日本では平凡な作品だった。そう感じたのは私もその一人だ。けれども何処か惹かれるものがあり、時々思い出しては読み返してみるものになった。その影響で古い鍵が売ってるのであれば買ってしまう。鍵がすきな女性がいるのなら、何らかしらその女性は児童文学の影響が強いだろう。この話については、聖書を意識したのかは分からないが、土いじりに意味があるように思えるし、子どもながらに、真似をしてみたくなった。きっとそこに、自分でも計り知れない神の御言葉が育っていたからかもしれない。気付かない間に触っていて、物語からイエスを見つけた。

物語は、神について沢山の例え話を生みだす力がある。だから私は物語が好きですね。
*マタイの福音書13章の前半部分は前回の私の作品でも軸です。「からし種」のたとえは、引用箇所の次の部分ですね。

*映像はイメージで、1993年度に公開された「秘密の花園」1993年、アニエスカ・ ホランド監督で「秘密の花園」を映画化された。制作総指揮はフランシス・フォード・ コッポラ。メアリー役はケイト・メイバリー。
この感想は主に原作から。The Secret Garden is a children’s novel by Frances Hodgson Burnett first published as a book in 1911. from wikipadia 

*画像の著作権はワーナーホームビデオに帰属します。

2018/02/17

It was love at first sight. At last sight. At ever and ever sight.


一目見 たときから愛していた、最後に見たときも、そしていつ見るときも、永遠に

ナボコフ「ロリータ」
香水のような描写。


恋の絶頂を表現した香水、香りで恋をどう表現したのだろうと作家として気になり、イブサンローランのモン・パリを試してみた。甘くて シャネルと違って女性を美しくするというより、空間を演出する、ムードを演出する香りだった。夜につけるのがお勧めかもしれない。イブサンローランのスモーキングジャケットがイメージのボトル。

香水は頂き物

朗報②

日本看護協会出版会の「教養と看護」という特設サイトにて「魂の世話」というテーマで連載をしています瀧本 往人様よりIcon o graphの評価を頂きました。瀧本様は哲学の講師ですので、こちらは哲学的な評価です。お忙しい中、ありがとうございました。とても感動する書評でした。

評価はこちら→

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing

Icon o graph 案内はこちら→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

Offret-Sacrificatio

「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」
 タルコフスキー・「サクリファイス」
*******
 物語の始まりは、アレクサンデルが細い木を植えるところから始まる。このときの彼の幼い息子への語りはこうだ。「正教会の修道院の僧が枯れかかった木を山裾に植えた。ちょうどこんな木だ。そして同じ修道院の若いヨアンに、この木が生き返るまで水を与えなさいと言った。ヨアンは毎日、山を登り水をやった。そして三年後に見事にこの木に花を咲かせた。一つの目的を持った行為はいつかは効果を生む。儀式のように順序よくやれば、
いつかは世界は変わる」と。
アレクサンデルの息子は口が利けない。
 アレクサンデルは死についてもこう語った。「死なんて存在しない。あるのは死に対しての恐怖だけだ」その後に友人で医師であるヴィクトルの家を訪ねる。そこで色々と語っている間に核戦争の非常事態の知らせがくる。死を自覚したヴィクトル家はパニックに陥る。まるでアレクサンデルが独白した通りのことが次々と起こってくる。その後に一番パニックになった夫人が落ち着いた後に言った「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」が今の私には胸に響いた。こんな死の淵に立たされても生きている限り、人間は常に為すべきことを意識しなければならない。
この台詞が生きてくるまでの映像表現が素晴らしかった。

物語の進行と共に、口を利けない息子が突然いなくなり、呼んでも返事が出来ないという恐怖の複線が秀逸。タルコフスキーの作品を見るときは見失わないために、名前と人格をよく覚えておくことだ。そして、この世界は夢現の境目がないように時制もあってないようなものである。前半の出来事が複線を引いてくることがあるので意識しておくと、見やすいだろう。
 昔のブルーレイ化されてくる中で、名作と呼ばれたハリウッド映画のセット感が目立つようになった。そんな中でタルコフスキーは最新の技術を使ってリマスターしても常に鮮やかに美しい。それは彼が根気強く自然の力を利用したところにもあるだろう。DVDも買ったのに、ブルーレイでも買いなおしたいという監督は少ない。

******

「お知らせ」

カミュの「異邦人」についてなのですが、9割は出来ましたけど出来かかったところで、サルトルも入れたほうがいいと言われ、また時間がかかることになりました。

ウェブのアクセス数が多い順、5番目ぐらいまでが書籍化されますので、気に入った作品があったら見ておいてくださいね。今のところダントツで、太宰治と三島由起夫となります。三島に関しては書籍用に掘り下げますが。







酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

アマゾン→https://www.amazon.co.jp/Icon-graph-Chris-Kyogetu/dp/153493037X/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1512118298&sr=1-2

紀伊国屋→https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781976279713

お勧めの本

お勧めの本
①「フランス・オペラの美学」
オペラは昔は低俗なものだった。リュリとキノーが自分達の音楽劇を「悲劇」と呼んだところから、劇詩と比較され、貧弱さが指摘される。オペラの眠たくなるようなところも改善しそうな一冊。とても面白いので是非。
②「イマージュの肉」
見えるものと見えないもの、中心的主題である「肉」の概念を再考し、世界の現実を知覚と想像の両面で捉える(帯より)存在哲学の基礎にかえりながら、光への愛について、宗教的価値観、各々の精神世界にも問いかけてくる名著。
③「新約聖書」ギデオン協会版。
これはホテル等で無料で置かれていて、自由に持って帰ってもよい。自殺防止用とも言われるこの聖書は、確かに短く区切られていて、傷心のときにホテルの部屋で一人で読んでいると、すんなりと頭に入ってきたので凄いと思った。それで、この一冊はお勧めしたい。非常に読みやすい。
④「シャネルNo5の謎」
以前も紹介した本。(facebookのみ)私は最近、調香師に凝っていて特集を見つければ必ず読むようにしている。存在していない香りを作り出し、トップノート、ミドルノート、ラストノートとストーリーを作るかのように、移り変わる香りを生み出す彼等は天才であり、小説に映画にと駄作が増えるのに対して、香水の新作作品は、俗の世界のようで孤高の美の創作を見せつける。香りにまつわるキリスト教や、文学まで触れ、香水は贅沢品だとは言い切れないと思わせる一冊。
***ただ本を並べるのも芸がないので、イメージに合うのを載せてみました。オペラのところは、ヴェルディの「リゴレット」(原作:ビクトル・ユゴー)の道化の帽子をイメージしました。可愛いでしょう? 

パーフェクト・レボリューション(9月29日公開)

(はじめに)

 この映画のスポンサーでもあり、映像プロデューサーでもあるAさんの紹介からマスコミ試写会(9/6)に招待してもらいました。この映画の監督でもある松本准平さんとも友達になれまして、とても充実した時間が過ごせました。

(不完全な純粋)

ミツは大好きなクマに「あなたと私みたいな不完全なもの同士が幸せになれたら」と、自分達を不完全なものとするわけですが、本来ならどんな者でも不完全者であり試練がある。但し、彼等の試練を引き受けようとする人は少ない。
この映画の主人公、クマ(リリー・フランキー)は幼少期に重度の脳性麻痺を患い、車椅子生活を送りながら障がい者への誤解を解くための活動をしている。その活動とは他の障がい者とは少し変わったもので、「障がい者は聖人ではない」と性的な内容のユーモアを交えて講演をする。それは障がい者の代表でもあり、アイディンティティの主張でもあった。そんな彼を見たピンクヘアーのミツ(清野菜名)は彼のことを好きになり、積極的にアピールするようになるが、そんなミツも実は心に障がいある女性だった。

***

 恋は盲目とはよく言いますが、一人の他者に対して最も純粋な目を持つことがあります。その対象こそ愛する人です。恋は相手に与えるという純粋なものも、嫉妬や祝福を受けないような不純なものも抱えることになります。それでも純粋なものを優先にしていくと次第に人は「愛」に居心地の良さを覚え、不純なものに気づくと愛の重さを知り、愛が遠のくこともあるでしょう。「好き」とか「結婚して」と浮かれているような二人の言葉の裏には不安があることが分かっているのです。ミツは二人が一緒になることを困難と認識していたからこそ、一緒になることを「革命」と言ったのでしょう。
クマは過去に受けた手術が原因で、障がい者の子どもが出来る確率が高くなってしまいましたが、ミツはそれでも生みたい、クマとの子どもが欲しいと何度も言います。

この発言は本来なら歓迎されるべきことです。けれども現実は受け入れようとはしません。結婚や出産は当人同士で決めることですが、完全なる二人の世界というのは存在しないからです。二人が生きていくには周囲の理解が必要となります。それが達成出来ないことが二人の障害になるという事は珍しいことではありません。

講演会に出かけながらも身体の自由が利かないクマと、自由に動き回れるけれども心のブレーキが利かない病を持っているミツ、不安定な二人は周囲に反対されたり、支えられたりしながら愛を成長させようとします。

そんな二人を見て勇気づけられるという人は少なくないでしょう。
他者から勇気づけられるというのは、新しい特別なことを知ることじゃなくて、自分でも出来ることをやらなかったことに気づかされる時なのかもしれない。

(最後に)

 話の本筋から外れそうなのでここで書かせてもらいますが、食事会のときに松本監督とAさんに何度もヘルパー役だった小池栄子の演技がすばらしいと連発してしまって、今思い出すと笑ってしまいます。清野さん演じるミツも映像で見るとかなり愛くるしいです。あと、私はリリー・フランキーの見方が変わりました。身体が自由に動かない身でありながら、ハイテクな車椅子で動き回ってはユーモアを言う姿に味を感じました。一人一人の生き様がぶつかりあっているところが生々しいところも、松本監督の魅力でもあります。
彼の映画を見ると、役者のイメージが変わることがあって面白いです。映像も他の邦画には見られない深みと透明感があって、これからの作品も楽しみな監督です。試写会、食事会と共に楽しい時間を過ごせました。松本監督、Aさん、カフェと映画まで一緒に過ごした字幕翻訳者の小川正弘さんに出会えたことに感謝します! ありがとうございました!
(公式ページ)
http://perfect-revolution.jp/sp/

*****
*クマは熊篠 慶彦さんという人がモデルとなっています。熊篠さんは、この映画の企画・原案も担当していて、障がい者のセクシュアリティに関する支援、啓発、情報発信等をしています。

*facebookにも同じ記事をあげています。松本監督からもコメントを頂きました。
ありがとうございます。

「少年は残酷な弓を射る」



We Need to Talk About Kevin(2011)
「愛情」というものは他者を喜ばせたいと思うことでもある。子どもにとっては、その対象は初めは親だとよく言われる。愛情とは親から与えられるものだけではなく、子も親に対して芽生えてくるものなのかもしれない。親子にとって愛情の印は、お互いの期待でもある。
母親が喜ぶと嬉しい、母親が悲しむと悲しい。
子どもは自然にそれが身について当然のようなことのように思えるが、この少年は母親のことを”mammy”と呼ぶことを拒んだ。

スペインのトマティーナでトマトまみれの女性が浮かび上がる。赤という液体が大量の血と連想させる映像と共に、液体という制御不可能性や、この女性の息子は大勢の人を殺したことを序盤から匂わせている。その血の量や、現場が学校ということからコロバイン高校銃乱撃事件と重ねてしまう。
 息子によって家族を失い、社会的信用を失った母親が就職面接を受けるのと同時に、過去の映像としては、この少年の父親であり、彼女にとって夫となる人と愛し合うところまで遡る。映像は過去と現在の流れを交互に映し出し、その中には内的表現がほとんど描かれていない。あるのは、息子が赤ん坊の頃から母親だけに懐かない日々と、出産後のほうが栄養を吸い取られているような母親のやつれた顔。
父親や周囲は日常を満喫し笑っているが、息子が母親には笑わない、嫌がらせをするという日々によって、この空間に幸福や安堵があるようには思わせない。息子の本心や、計画性はまるで見えず、広い家に反して過ごす日々は常に圧迫であり、目を向けるべきはずの事実が、息子という立場と共に飽和してしまい、母親の心が休まらない日々を見せた。
ロビンフッドが好きな息子に父親が玩具の弓を与える。それが次第に玩具から本物の弓となり、高校生となった息子が残酷な事件を起こす。
 この話は映画としては凡庸なのかもしれないが、それでも魅せるのは母親役のティルダ・スウィントンの演技の上手さだろう。本当に何か精神を鬱にさせる薬でも飲んだのではないかと思わせる。母親は常にやつれていてはいたが、本来の日常としては息子に愛情を持ったり、夫と愛し合ったり、妹を出産したり、息子が一度だけ自分を庇ってくれたりと、些細な日々の幸福はあったのかもしれないが、映像の構成が絶妙で不幸としか言いようがなく重たかった。
終盤での刑務所での母親と息子のやり取り、ハグをどう感じるか、何故母親だけ殺さなかったのかが、一番意見が分かれそうだ。
****
ビョルン・アンドレセン(ベニスに死す・ヴィスコンティ)

息子役のエズラ・ミラーは、ビョルン・アンドレセンの再来かと思う人は少なくはないはずだ。

母親がやつれていく分、彼の透明感のある肌は不謹慎な美でもあり、残酷さを表していた。母親に顔を似せたのもその効果があるかもしれない。
それでも、印象に本当に残ったのは物語中盤ぐらいに出てくる、事件の被害者の一人で息子と同じ学校に通っている青年が、車椅子を押しながらもこの母親に対して許したように気遣いをしたことだった。ほんの一瞬の登場なのに、彼が一番印象的だ。
We Need to Talk About Kevinというタイトルが一応は鍵を握る。
amazonプライムで無料で視聴。

Dekalog episode8

「デカローグ」

第8話「ある過去に関する物語」
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」(訳は私)
私が、脇役のこの学生の台詞の意味が分かるのは、キリスト教徒になった後だった。

(解説と感想)
 物語の始まりは、一人の少女が大人の手に引かれて暗がりの中に連れていかれるところから始まる。キェシロフスキ関連の書籍によると、戦後のポーランドは、ユダヤ人の移民一世からは元凶であるナチスドイツよりも、ユダヤ人を見捨てた国として厳しい目で見られていた。
大学で哲学・倫理学の教鞭を執るゾフィアには、第二次大戦中ユダヤ人少女を匿うための洗礼の立会人なることを、「偽証してはならない」を理由に断ってしまった過去を持つ。
学部長のところに、自分のポーランド語の英語翻訳を担当している女性がアメリカから来ていて、
彼から、この女性がゾフィアの講義を聴衆したいと伝えられる。
彼女とは二度目の再会だった。
その女性がいる目の前で、ゾフィアは「人間は感情に捉われている限り、最も善きものを見て最も悪しきことをなす」と、スピノザの引用を語る。
一区切りがついた後、ゾフィアは生徒にテーマを出させる。
一人目に選ばれた女学生は、ある夫婦の話をした。”夫は癌で死にかけて子どもを作れない状態だったので、妻はどうしても子どもが欲しくて他の男との子どもを作った。妻は医者に何度も夫は本当に死んでしまうのかを問うが、この医者は敬虔なカトリック信者で「死の宣告」が出来ない。
妻は、夫が助かるのであれば子どもは堕ろすが、夫が駄目なのであれば産みたいと。なので、医者の死の宣告が赤ん坊の命を左右することになる”
(この話はデカローグの第二話に収録されている。)
それに対して、ゾフィアもその妻には子どもが生まれたという結末を知っていると話す。
「子どもが生きている、それが最も重要」と語ることに、エルジュビエタは強い反応を示し前に来る。
次の発言は、エルジュビエタだった。
エルジュビエタはあるユダヤ人少女の話をし始めた。
①その六歳の少女は、あるポーランド人宅の地下倉庫に匿ってもらっていたが、その家がゲシュタポに接収される。なので、大人達がその少女のための新しい隠れ家を探さなければならなかった。
②あるポーランド一家に受け入れが見つかるが、キリスト教徒になることが条件だった。そして洗礼をしたという証明も求められた。
③ 洗礼の名付け親(立会人)となる夫婦として、敬虔な信者である若い夫婦が選ばれる。そのための神父を外に待たせ、急いで事を済ませようとするが、妻は「偽証をしてはならない」という理由で断る。
その話を聞いて、一人の女学生が、
「本当にその若い夫婦が敬虔なカトリック信者なら、何故、十戒の“偽証してはならない”を重視したのかが不可解です」
と言うわけですね。
キリスト教徒じゃなかった頃は、法のようなものにも生じる矛盾だと思っていたのですが、これが結構な意味を持ちます。
**十戒とイエス**
イエスは十戒で定められていた安息日を守らなかったり、姦淫の罪を犯した女性を許したり、解放的な面がありました。
イエスといえば第一に重要なのは神への愛、第二に隣人への愛と二翼の翼となっていて、片方だけでは成り立ちません。やはり隣人への愛ありきなのです。
ですので、キリスト教徒なら恐らくこのへんを重視するはずですが、(戦時中は分からない)
この妻、ゾフィアは十戒の「偽証してはならない」を選んだ。確かにこれも重要ではあるが、断る第一の理由にしては説得力に欠けるし、違和感を覚える。この不可解なところはエルジュビエタも感じていていたのかもしれません。何故なら後に彼女はキリスト教徒となったようでしたので。(それは定かにはしていない)
やがて、真実を問うとゾフィアはあの当時、誤報に惑わされていて、その少女もゲシュタポ関連者だと知らされてあった。 洗礼に立ち会えば自分達も捕まると思ったと、漸く「偽証してはならない」は本心では無かったということが分かります。
それで結局、ゾフィアは「偽証」してしまったのです。ゾフィアは敬虔な信者だったが、「神という言葉はもう使わない」と、教会にも通わなくなり、哲学・倫理学の教授となった。心の中にいる善意を知っている一人さえいればいいと語る。 
彼女は罪を背負って今まで生きてきていた。子ども命が重要だと言うのも、この流れでエルジュビエタへの贖罪のように思える。
エルジュビエタは祈りの時間を作るほどのキリスト教徒となり、ゾフィアを許す。そしてまた自分と関わった人へ話に行く。
戦時中と戦後の善悪の基準の変化、感情に支配されてしまうと見えなくなる恐ろしさと、感情があるからこそ生まれる許しや、贖罪の念がこの55分の短いフィルムで、人間標本のように収められている。
この冷静と静寂の中に、時を超えても人々に想像される感情が詰まっている。
********
「デカローグ」とは。
映画監督の巨匠、クシシュトフ・キェシロフスキが、旧約聖書の「十戒」をモデルに戦後のポーランドを舞台にドラマ化。ただし、十戒の正解に合わせたり、問いを生み出しているわけでもない。これはポーランド人が直面した倫理や道徳、哲学的問題に取り組んでいる。(1988年)
私は 命題の作り方とかは彼から学んだのかもしれない。

画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。


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Anne with an E

「我が人生は夢の墓場」
「感動には大げさな言葉が合う」


不幸を感じないことが

幸せとは限らない。


祈りの言葉を覚える前のアンの想像癖を見てるとそう思う。

次第に彼女が持っている想像力が 本当の意味で生きていくところが良い。


赤毛のアン、アン・シャーリーは 生まれたすぐに孤児になり、小間使いとして転々とし、ずっと不運だった。自分は不運だということを感じなくなる程、彼女の心は想像の世界や、心のお喋りでいっぱいになる。そんなアンがマリラとマシュー兄弟に養ってもらうようになってから、人生を切り開いていく。



「我が人生は夢の墓場」
これは原作の赤毛のアンの

“My life is a perfect graveyard of buried hope”
That’s a sentence I read in a book once,
And I say it over comfort myself whenever 
I’m disappointed in anything.

我が人生は夢の墓場、一度だけ本で読んだことがあるの。 絶望したとき、この言葉を慰めにしているの。

と言うと、育ての親になるマリラは何でそんな言葉が慰めになるのか
分からないと答える。






マリラのお祈りをしなさいと言うことやアニメでもあったマシューの最期の、「でもわしは、1ダースの男の子よりも、アンの方がいいよ。(略)アンは自慢の娘だよ」という台詞が好きだ。マリラとマシューは結婚せず姉弟で過ごしていたので、子どもがいなかった。お手伝い役として男の子を欲しがったが、アンを引き取り、子を育てる充実感を手に入れた。最近、私は死に役ばかりだったせいか、アンが受ける恵みは 生を受ける喜びを感じるなと改めて思った。


お喋りで想像力豊かだったアンは、お祈りの時間は自分の心のお喋りをやめてするようになった。 そのお祈りする自分の部屋で、やがて出来た親友のダイアナと蝋燭の合図を窓辺で送り合う。


ある スペインの修道士の本によると、イエスが来る前は、友情の言及というものは男性同士ならあったけれども女性同士では如何わしいものとされていたらしい。友情というのは一定の平等性が必要とされていて不可能だと思われていたからだ。そこでイエスがやってきて『あなたたちは皆わたしの友人である』と言い、新たな道を開いた」とあった。そう考えると何気無い、アンとダイアナの女同士の友情もイエスあってのこその道のりなのかもしれない。
とにかく アンは可愛らしい。あの駅で、迎えを待つ姿とか何かが始まる予感がよく書けていて、私の心は時めいた。
劇場版とNetflix版でも赤毛のアン
「アンという名の少女」
がやってて、とりあえずNetflix版を見ることにした。
何だろう、競合作品なのかしら?


シーズン1は 牧師夫婦が来なくて
保守的であまり好感が持てない
牧師しか出てこない。赤毛のアンは牧師夫人が出てくる
あたりから確か面白かった記憶がある。

シーズン2があるならシーズン2に期待。 

果たして出てくるかな?

OPは 元からファンだった
brad kunkleのデザインで
ご機嫌だったけど、

こっちは虐めとか、色々脚色入ってて
原作より胸が痛いかもしれない。
人間のコミュニティでいえば必ずある
ような出来事で真新しさは無いけど、
ドラマ版では、

マシューは銃で自殺しようとするし、
(何処かで見たことがある
圧迫感だな、今の流行りかな、
ブレイキングバッドみたい
だな)と思ったら、本当にブレイキングバッド
の脚本家だった。



*画像の著作権は映像元にあります。

The Childhood of a Leader①

映画に行った感想/ネタバレ含む)

「シークレットオブモンスター」
The Childhood of a Leader.2016年11月25日公開

「私」が認識している「私」と、他人から見られる「私」、主にこの「虚構世界」は他人の眼差しから構成された「私・少年」だった。大人達はよくこの少年を「お嬢さん」と間違える。

サルトルの基本を少しでも読めばこの構成にはすぐに気づくはずだ。でもこの気づきはきっと入門に過ぎない。

観客にとって少年の主観に関する情報は「ママがいなかった」という夢、時々現れる歪んで焦点の合っていない景色、女性家庭教師のドレスから透ける胸、と少ない情報である。元々、現代知識として分かっていたことは、独裁者(指導者)のような人間が形成される因果関係は完全にはまだ分からないということだ。

現代人はそんなことは既に分かっている。

それを虚構でもいいので突き止めたいという人にはこの映画は向かないのかもしれない。この話は何か特別な非情さや残酷さもなく、情念も愛欲の熱もない。時々、母親が母性を見せ、少年が笑顔を見せるがすぐにすれ違いが生まれ、噛み合わず、人の肌の温もりが長く続かない。

それは体温が無い映像ということのだろう。

少なくともこの映画は、体温が無いということに関しては成功しているのかもしれない。

****

 外では戦争があるというのに、この家庭は古典絵画世界のような安定や均衡が保たれ、貧しさもなく、高価な家具や調度品に囲まれている。確かにあるのはこの美しい静物達である。

①その中で少年の味方だったお手伝いさんを母親が勝手にクビにした。

②少年は自分の部屋に閉じこもり、勉強する。

③少年は自分を叱った女性家庭教師をクビにした。

④少年は部屋の中で内面世界を維持しようとするが、
それでさえも、「叱るため」に父親はこじあけようとする。

それから、少年が大勢の食事の席で椅子の上(座)に立ち、

「もう祈りなんて信じない」と何度も叫んだシーンは
少年の居場所は他人達の視線、時代の思潮によって椅子のように狭くなっていたことを表しているようだった。

私はそこで「可哀想」だと思った。けれども私のこの「可哀想」という眼差しはその少年を説明するものでは無い。

私は視線ではその少年を追えるけれども、その少年を語れない。

「私」がこんな少年を見たのなら、それも正解だと言える。

恐らくこれも正解ではあるけれども「感想」というものが、いつまでも本質に近づかず、その本質を掴もうとすると、曖昧というのは拭い去れない。 

「あそこのシーンで泣いたね」「少年はかわいそうだったね」なんて単純に語り合えない。

分かち合う、語り合うとそれだけで理解による熱が生まれる。そうすると、一瞬でこの話の冷たさという本質が変わってしまい、この話から離れていってしまうような気がしてならない。

可哀想だと思った少年は、結末として指導者になった。その可哀想という感情はすぐに虚構世界の終わりと共に消えなければならない。

追記

公開から時間が経ったので、
新しい感想を書きました。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/blog-post_5.html

****

感情を持つことによって、話の本質から離れてしまいそうな気になる。私のこの感情は話を読み解くための味方なのか、邪魔なものなのか、この「問い」。この感覚が駆け巡ることが非情に面白いと思った。

映画館で見てよかったなと思う。

◎サルトル著、指導者の幼年時代は読了済み。

◎映画館で一度見た感想なので、原作と比較して本当は色々気づいたことがあったけれども確かかどうか分からないのでこの程度で。

◎この映画は原作から着想を得たということなので、原作を匂わせる箇所は
ありつつも、違う話。(まず主人公の名前が違う)

◎不満を言うと、映画館の椅子が痛かった。

◎スコットウォーカー(Scott Walker)の音楽が良かった。

独裁者になる条件とか因果関係というのは私は答えは出ないと思っている。ジョハリの窓でいえば「未知の窓」(他人にも自分にも知られていないこと)がどのように表現されているかだと思う。登場人物、観客も含めて具体化出来ない闇の映像表現がよく出てて凄かった。

◎サルトルは父親が早く死に、抑圧が無かったために天使のような子だったという。
恐らく、原作共に自伝的な話なんだろう。

画像:https://www.google.co.jp/search?q=The+Childhood+of+a+Leader&espv=2&biw=1920&bih=1012&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjHoPDtmdzQAhXLGpQKHSlIAB8Q_AUIBygC

Bruno Schulz, "Sanatorium pod Klepsydrą"

(c)KADR Film Studio(digitally restored)
*原作と映画の感想*
次回作に向けて話をしていく前に、たまには自分とは違うジャンルの話でもしようかなと。
ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の「砂時計」というこの映画はブルーノ・シュルツ原作「砂時計サナトリウム」の映像化で、小説同様一回見たぐらいじゃ何が起きているのかすら掴みにくいのですが、シュルツ作品の中では比較的筋が見えやすい話ではないかとは思う。この監督は父親がユダヤ人、母親はカトリック信者ですが、本人は不可知論者のようで、
こういう作品を語るとき必ず外せないのが「幻想」という言葉です。幻想とは現実にないことを思い描くことであるが、日本語の幻想とは元々はhallucination(幻覚・妄想)の訳語だったらしく病んでいる意味あいが強かったようです。
***
幻想物語とは心地が良い夢物語や英雄に仕立てることもあるけれども、敢えて現実と共通している無秩序でもありカオスにも目をつけ、現実の例え話のように仕立てる幻想もあります。彼は意図的かどうかは知りませんが後者のほうでしょう。
時々芸術家は自身の心象や夢想を自分の心と和解せずに抱き続けては増幅させ、自分の世界の中で再構築しますし、
自分の心で見ているものをあらゆる表現によって外に曝け出すということもします。
***
この主人公のヨゼフという男は二つの時間へとそれぞれ分裂したように歩き出します。それが分身か、本体かという区別はなかなかつかなくなりますが、この映画の映像美に惹かれて何となく最後まで見れてしまう。この世界は体調が悪いときに見る夢のようです。私の感想としてこの作品(小説)から感じ取ることは、彼の世界にはマニアックでありながらも「愛着」がないように思えます。彼の幻想世界は嗜好性の集まりのようで、実際にはそういう偏愛を感じない。凝った描写に隠れている真実は、このタイトルの「砂時計」のように一瞬一瞬通り過ぎていくだけの事象です。
シュルツの人生はゲットーに収容されながらも一時期は画家として雇われますが、射殺されます。彼の人生は小説世界よりも
残酷な最後でしたが、作品は彼という本体や時代考察という運命共同体的なものから離れて、純粋に残っています。
*** 
色々彼の時代背景等、外堀を話していきましたが、
物語は事実と関係無く純粋にその世界の時間を持っています。けれども質が高い作品であればあるほど、
著者の隠れた心が見えてきます。偏愛のように見えるこの世界の裏には著者の戦争中の苦悩が詰まっていて、現実に愛着を持てなかったことが正直に表れていると思います。
文章世界というのは、書いてあることよりも書かれていないことが浮かび上がってくるものです。ですので嘘がつけないのが作家の心です。人によって読者は小説だけではなく著者の心を愛することがあります。
この監督はこのシュルツ作品の愛読者なんだそうで、短編であるはずのこの作品を二時間ものへと脚色し、療養所の暗さは深遠を匂わせています。この監督はこの作品に愛着を持っています。
世界に愛着を感じさせない原作と、その世界に愛着を持った者から見た感性、私はそれらの交差する視線を楽しめました。

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