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*原作と映画の感想*
次回作に向けて話をしていく前に、たまには自分とは違うジャンルの話でもしようかなと。
ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の「砂時計」というこの映画はブルーノ・シュルツ原作「砂時計サナトリウム」の映像化で、小説同様一回見たぐらいじゃ何が起きているのかすら掴みにくいのですが、シュルツ作品の中では比較的筋が見えやすい話ではないかとは思う。この監督は父親がユダヤ人、母親はカトリック信者ですが、本人は不可知論者のようで、
こういう作品を語るとき必ず外せないのが「幻想」という言葉です。幻想とは現実にないことを思い描くことであるが、日本語の幻想とは元々はhallucination(幻覚・妄想)の訳語だったらしく病んでいる意味あいが強かったようです。
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幻想物語とは心地が良い夢物語や英雄に仕立てることもあるけれども、敢えて現実と共通している無秩序でもありカオスにも目をつけ、現実の例え話のように仕立てる幻想もあります。彼は意図的かどうかは知りませんが後者のほうでしょう。
時々芸術家は自身の心象や夢想を自分の心と和解せずに抱き続けては増幅させ、自分の世界の中で再構築しますし、
自分の心で見ているものをあらゆる表現によって外に曝け出すということもします。
自分の心で見ているものをあらゆる表現によって外に曝け出すということもします。
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この主人公のヨゼフという男は二つの時間へとそれぞれ分裂したように歩き出します。それが分身か、本体かという区別はなかなかつかなくなりますが、この映画の映像美に惹かれて何となく最後まで見れてしまう。この世界は体調が悪いときに見る夢のようです。私の感想としてこの作品(小説)から感じ取ることは、彼の世界にはマニアックでありながらも「愛着」がないように思えます。彼の幻想世界は嗜好性の集まりのようで、実際にはそういう偏愛を感じない。凝った描写に隠れている真実は、このタイトルの「砂時計」のように一瞬一瞬通り過ぎていくだけの事象です。
シュルツの人生はゲットーに収容されながらも一時期は画家として雇われますが、射殺されます。彼の人生は小説世界よりも
残酷な最後でしたが、作品は彼という本体や時代考察という運命共同体的なものから離れて、純粋に残っています。
残酷な最後でしたが、作品は彼という本体や時代考察という運命共同体的なものから離れて、純粋に残っています。
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色々彼の時代背景等、外堀を話していきましたが、
物語は事実と関係無く純粋にその世界の時間を持っています。けれども質が高い作品であればあるほど、
著者の隠れた心が見えてきます。偏愛のように見えるこの世界の裏には著者の戦争中の苦悩が詰まっていて、現実に愛着を持てなかったことが正直に表れていると思います。
著者の隠れた心が見えてきます。偏愛のように見えるこの世界の裏には著者の戦争中の苦悩が詰まっていて、現実に愛着を持てなかったことが正直に表れていると思います。
文章世界というのは、書いてあることよりも書かれていないことが浮かび上がってくるものです。ですので嘘がつけないのが作家の心です。人によって読者は小説だけではなく著者の心を愛することがあります。
この監督はこのシュルツ作品の愛読者なんだそうで、短編であるはずのこの作品を二時間ものへと脚色し、療養所の暗さは深遠を匂わせています。この監督はこの作品に愛着を持っています。
世界に愛着を感じさせない原作と、その世界に愛着を持った者から見た感性、私はそれらの交差する視線を楽しめました。