The Childhood of a Leader ②


 「何が少年を独裁者として変貌させたのか」


というのがこの映画のキャッチコピーでしたが、この答えを探しに行った人は残念ですが、結論として答えは無いのです。サルトル流で言えば、「虚無」ということになります。

「何が少年を独裁者として変貌させたのか」とは、意識に目を向けさせていますが、
サルトルは意識というより、「存在」に目を向けた哲学者です。
サルトルで有名なのが、「即自」と「対自」です。これは元々はヘーゲル哲学のものでした。
即自とは、意識の自体的な在り方であり、対自とは、即時的な意識が対象化されたものであります。このキャッチコピーはヘーゲルの対自を意識しながら、少年という即自を探させるように見えます。


しかし、実際はこの映画はサルトル哲学の配下です。サルトルの即自と対自は「存在」に目を向けています。サルトルの場合は、即自とは物のような在り方であり、対自とは、自己否定をし自己を改革することであり、人間のことを指します。
少し深く掘り下げるとすれば、即自というのは、客観的な意味や価値の付加によってしか存在が浮かび上がってこない存在、対自というのは、価値の付与が根本的に無関係な在り方をさします。
ここで、私達現代人は心理学を多少なりとも知っていますので、疑問に思うわけです。即自も人間じゃないか、客観的な意味や価値の付加で人間は浮かび上がってくるし、対自についても、価値の付与なんて根本的な無意味なわけがない、人間は評価されたり、過去の分析をして人格を見られるじゃないかとか、色々あると思いますが、「独裁者」「死刑囚」の場合はそうとは言い切れないのです。いくら、過去にトラウマがあって誕生したとしても、その過去に同情することが出来ない。存在として悪しき者として括弧に入れられます。独裁者には特に「対自」というものが合っています。
それこそカミュの「異邦人」の死刑囚ムルソーのように。
問題に対して予め、用意された原因があるわけでもないというのが「虚無」です。
もしかしたら、サルトル以外で考えればこの少年の因果関係は見つかるのかもしれない。
けれども、ここはサルトル世界なのです。サルトルは感情について心理学に頼ろうとは
しなかった。
あるのは、独裁者になるまでの「現象」。

*****

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黎明(2016/05/09)


イエスはトマスに言われた。「あなたの指をわたしの手に当てて、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」 (ヨハネの福音書 20:27-29)

 私がキリスト教を意識したタイミングを話すと長くなるのですが、恐らく今までで大きな意識なら四回ありました。細かいことをいれると七回ぐらいなのかな? 意識しては忘れての繰り返しでした。今回は二回目の十代の頃の話です。 昔は絵を描いていて、デッサンとかは訓練みたいなものなのですが、自由創作となるとテーマを自分で考えたりします。まだ十代と言っても高校生になる頃になると大人と同じ賞に応募したりしました。

そして頭打ちしたのはテーマと描写力がついていけないということでした。想像力が自分の力量に合わせるしかなくなるのでイメージに妥協が生まれます。それなのに、人間の脳というのはおかしなもので、その妥協が妥協に感じなくなっていきます。絵 に関しては完成と感じたことが無かったのではないのでしょうか。賞を取れたら嬉しいのですけど、思い入れがある作品が無くて毎回戻ってきたものは捨てていました。そういうものがあると、そういう自分に愛着を持ってしまって成長出来ない気がしていました。

よく他の人に「何を考えて描いてるの?」と言われていたのですが、 実際には今と比べるとこの頃は確かなことなんて考えていませんでした。誰かに説明出来ないことや自分でも分からないものを抱いていたもので、対話相手がキャンバスです。「言葉にならないことを書く」ということ、それを才能と捉えるか未熟と捉えるのか、私は後者でした。
そんな私が何か勉強がてらに模写をしようと選んだのが古典作品達で、デッサンの練習のために選びました。画材は木炭と鉛筆で、カラーではなくてモノクロでやりました。モノクロにすると色で目移りしていた情報や錯覚が整理されるので私は好んで練習していました。模写をした中で印象に残ったのはカラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」です。よく知らないまま形だけを捉えて描いていたのですが、描いてて楽しかったのはトマス のこの疑っている目でした。

目を見開いて出来た額の皴、描写をすればするほど、私レベルの画力でも彼の目や手に魂が宿っていくことを実感しました。その絵を見ていた人が「贋作師にでもなったら?」と言われるほどでした。それでも全く描けなかったのがイエスです。イエスの俯きの表情がなんとも言えず、上手くいかなかったのを覚えています。この人は痛がってるのか、何を考えてるのか、見た目の表情だけでは何故か捉えられませんでした。それにトマスの腕を握っている手は誰の手なのか分からなかったので、これがどういうシーンなのか少しだけ聖書を読みました。処刑されて復活したイエスに対して、トマスが疑って処刑したときに出来た釘跡、若しくは脇腹(聖痕 に指を入れないと信じないと言うところですが、結局のところ、トマスの手 を握ってる手については謎のままです。 文脈からその手がイエスのなら指を入れてみなさいと力を入れているのだろうし、脚色で弟子の手なら「それぐらいにしておけよ」という感じで手を押さえているようにも見えます。聖書を読まなかったときはトマスが無理矢理入れてるところをイエスが止めてるように見えていました。カラヴァッジョはもしかしたら敢えて分からないようにしたのかもしれません。
絵画を過ぎ去っていく時間と共に見てるだけなら理解したつもりの表情でも、描いてみるとイエスが何を思ったのか分析が必要になってきますし、トマスと弟子達は前屈みになっているので重心の かけかたが分かるのですが、イエスに関してはどんな気分で立ってるのか想像出来ませんでした。トマスと二人の弟子達が小さな洞窟を作るかのような構図、それはとても人間臭いというか分かりやすい感情で描きやすかったですが、イエスに関しては、顔が他の三人の影となってしまって影の中で濃淡が曖昧で難しく、右肩にラフな光の靄を描いたまま描くことが出来ませんでした。イエスの表情が隠れているというより、三人の影によって知る由もないということでしょう。
一体この画家は何を見て描いてきたんだろうなと、カラバッジョは短剣を持ち歩いて気に食わない人がいたら刺していたとか書いてありました。そういった彼の気性の激しさと「信仰」にそのときに少しだけ注目しました。彼等に照らす衣服は私にとってはただの光で、色を似せることしか頭にありませんでした。けれども、本当は違うのです。この光はもしかしたら彼の他の絵にもあ るようにエピファニーなのかもしれません。彼はエピファニー(Epiphany・キリスト顕現、事柄・人物の本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写するこ と)、二つの意味を上手く利用していたと思います。  

他に調べてみると風景画を描いている日本画家も出家した人とかも多いわけで、出家したのに遊郭通いの人もいましたが一応はそういう心を知った上で描くことに関心を覚えていく わけです。『伊藤若冲』は出家はしていませんが、若冲の号は居士号で、僧侶と同じ扱いを受けています。 (居士とは出家はしないけれども家庭の中で仏教の修行をすることです)

仏教の学校(高校)に通っていたので当時知っていたことは、キリスト教の場合は私達の世界は神の被造物という結論があるのに対して、仏教の場合は 本質は「空」で本当のところは分からないということ。 キリスト教をモチーフにした絵画は必ず「神は存在する」ということが含まれていました。それが自分に とってはどんな感覚なのか分からなかったし、とにかく閃きやアイディアを欲していた自分にとっては持っていなかったものでしたので憧れを持ちました。
多様な解釈が許された現代の中でも揺るがないものが「在る」ということ、それに惹かれるわけです。
それでも、アイディアに腕がついていかなかったように、予感に思索というものがまだこの頃はついていけず、トマスが未完のイエスの腹部に指を入れて、小さな闇を見つめたままで終わりました。
  今なら分かることは、恐らくこれはイエスの手だということです。より鮮明な画像を見てみると分かったのはトマスの手に対してこの手は綺麗です。 カラヴァッジョは聖人を人間臭く描くことを選んだ人で、聖人を労働者のように描きました。当時の教会からは聖人は綺麗な服を着せるべきだと批判も受けていま した。けれどもカラヴァッジョの場合、聖人は人間臭く描いたとしてもイエスや天使に関しては感情の掴みどころが難しい表情を描いたと思います。(聖マタイと天使)若しくは、イエスや天使の感情を勝手に考えられないという私自身が想像を拒否をしているのか分かりませんが、写実的だからこそ精密度が必要になり、余計に彼の解釈やイメージが謎 になりました。イエスのことを考えてるのか、カラヴァッジョのことを考えてるのかよく分からなくもなってきました。これはあくまでも模写をした感想ですし、もっと画力が上がれば掴めるものだったのかどうなのか分かりませんでしたが、私はこのとききっとこの 先も分からないだろうと思いました。
カラヴァッジョは非常に良い一瞬を自身のイメージと共に切り取り取ったと思います。トマスが指を入れて見つめてる先をイエスの表情や照らす光ではなく、この穴の中をトマスの指の隙間から私達は見ることが出来ません。ですので、 「私を見たから信じたのか、見ないのに信じるものは幸せである」 というイエスの言葉が深くなるのではないのでしょうか。トマスのこの疑いの目は美しいとは言えないこと、肉を開くその指をその緩めなかったことは、この言葉のためにあるように思えます。 


それはイエスが描けなかった私にも言えることだったのではないのでしょうか。
*「聖トマスの懐疑」はカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡生活をする前の絵画です。逃亡生活中、死ぬ直前で描いた作品が今、(2016年)日本に来ているそうです。http://caravaggio.jp/
*カラヴァッジョって、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョで名前はミケランジェロなんですね。ピエタのミケランジェロと区別するためにカラヴァッジョってなったのかな? それともやっぱり罪人だから天使の名前では呼ばれなかったのかなミケランジェロの名前の由来はミカエルのことですので。
これは2016年の記事です。

Incomplete wisdom

「不完全な知恵へ」
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うめきつつ求め、上昇のために手さぐりする悩める不完全な知恵に対して、私達は自分が真理を持っているという喜び、あるいはむしろ自分が真理を受けいれたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?

――シモーヌ・ヴェイユ著・神を待ち望む・ペラン神父の序文――



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「神を待ち望む」とは彼女が信頼していたペラン神父がつけたタイトルであり、ヴェイユが一番好きだった言葉”en upomèné”(耐え忍んで)」(ルカの福音書8:15~)から導かれたものである。ヴェイユの死後、ペラン神父がこの本を出版することになるが、この「真理を受け入れたという喜びによって無感覚であるべきだろうか?」とは、はこの出版に異議を唱える人々(自分達は真理を持っていると思っている信者)への彼の「レトリック」である。
この本は彼が言うように、疑いようもない霊的文学としての美を備え、確かにキリスト教としては議論の余地があるものである。彼はそんな中でもヴェイユを天才的な聖者と称え、この「魂の意識」を皆によく知らせたいとした。ペラン神父は先見性を持っていて、これからのキリスト教外の価値観とどう向き合うかにも視野に入れていた。その上でヴェイユ独自の宗教観への指摘もあるからこそ、この本は出版出来たのかもしれない。この二人の対話は
まさしく、神を待ち望む姿そのものだった。
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私は数年前にこの本の二人の姿勢の美しさに魅入られ、「悩める不完全な知恵」というものを「上昇のため」と認めてくれた顔も知らないペラン神父に憧れを抱いている。 このように顔も知らない者、文章だけで愛せるという力があるということは作家にとっては必要なものだと思っているので恥ずかしいとは思わない。何故なら作家自身が文章だけで虚構世界を表現し、愛されなければならないからである。
心理学上、一番人間が感情を表現しやすいものは「顔」であり、次は「声」だと言われている。「顔」や「声」にも頼ることが出来ない文章世界は、一般的には表現しにくく、受け取り側も困難なツールとされている。過去に私は、文章世界を見てほしいと思っている者がテキスト世界の聖書を読まないということや、否定するということは矛盾に値するのではないのか?ということに気づいた。
それから聖書世界は私の中で「在るもの」となった。信じる信じない以前に、打ち消すことが出来ないものとなった。私は恐らく、作品の中で聖書の引用を消すことはしないだろう。
その熱は動力とも壁ともなるものでもある。
そんな私にとって「不完全な知恵」という言い表し方は涙を誘うものがある。それはこの決意が本当は辛いからなのか、感動しているのか、感情の理由は分からない。彼の言葉に掴まれることによって私の魂が「上昇」を夢見ているということに気づかされたのか、私も肯定されたいという欲求が故なのか、彼の言葉が神の優しさのように思える。
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前置きが長くなりましたが、この写真はチェスプレイヤーのボビー・フィッシャーがカストロ議長と話している写真である。(カストロ議長はトーナメント前にフィッシャーに横槍を入れている)ボビー・フィッシャーもまた天才であり、チェスの神聖さに魅入られ数奇な運命を辿っている。今年もハッキリと分からなかった一つが、ボビー・フィッシャーの定跡は「何故美しいのか」ということだった。
色んな人の定跡の動画を見ていて「これは綺麗な進み方だなぁ」と思ってると、大体がフィッシャーだったりする。出回っているのが綺麗な定跡のみなのかもしれないけれども、中々このようなものは出会えない。彼は今でもチェスプレイヤーにとって憧れの存在(天才)である。
何が完全なるチェスなのかは分からないけれども、美しいというのは理屈よりも先に訴えてくるものがある。惹かれているのは単なる写真の構図なのか、チェスを政治的利用にされることに対して抗議するフィッシャーの「情熱」なのか、この二人の対峙のように見えるこの一枚は、まるで映画のワンシーンのように熱を帯びている。但し、熱があるのはフィッシャーだけで、カストロの手の脱力感を見れば分かるように、彼らはあまりフィッシャーを相手にしていない。その中でも刺すようなフィッシャーの視線が気に入ってしまい、私は時々この写真を見るようになった。
楽譜理論も哲学(知を愛する)にも惹かれたりするのだが、ペラン神父やヴェイユ、チェスなどに「何でこんなに好きなんだろう」と振り返ることがある。
分かるのは惹かれるものとは、「無感覚ではいられないもの」だということだ。
無感覚でいられないものは、愛せずにはいられない。
維持や忘却も含めて愛は静止することを知らず、愛するということは情熱が必ず付き纏う。
情熱を持つということは、フラットな地面を只管走ることだけなのだろうか? 私にとって情熱とは魂が上昇を欲しているような気がしてならない。気がつけば身体を忘れて熱だけになりそうになる。けれどもその熱は生きている間は発散されず「耐え忍んでいる」のかもしれない。 
(2016・12・29メモ)

Joyeux Noël et Bonne Année !

HAIL MARY

Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee.
Blessed art thou among women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now, and at the hour of our death. Amen.




Hope

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“Because you do not understand Japanese,
regrettably I cannot show you,
but my novels have a reputation that my writing style is beautiful”
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英訳本出すためにクラウドファンディングをする予定で準備中。
成功する可能性は低いのはわかっていて、パフォーマンスの一つとしてやろうと思っています。(youtubeでも100回投稿して、100人ユーザーがつくかつかないかとか、100人超えたら1000人まで早いとか色々聞きますが)
勿論、自分達に関係の無い英訳化にお金を出してくれる人なんていないので、日本のサイトじゃなくて海外のサイトに登録するつもりで、紹介は英語になります。
日本語の分からない海外の友人に時々、冗談で上記のような事を言うことがありました。すると、「いつも綺麗な話をしてくれるよ」と返してくれました。そういうことを言われる度に期待することは、もしかしたら工夫次第で通じるかもしれないということ。 
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Angel

350:Angels are spiritual creatures who glorify God without ceasing and who serve his saving plans for other creatures: “The angels work together for the benefit of us all”

訳:350:天使とは、たえず神の栄光をたたえ、他の被造物に対する救いの計画に奉仕する霊的被造物です。「天使は、わたしたちが有益になるすべてのことに協力します」
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カテキズムの好きなところは「天使」についての記載があることでもありました。天使について考えるということ、若い頃なら「痛いメルヘン」扱いで周囲から疎まれそうなところを、哲学として、学問として扱えるようになることは本当は子どもの頃からの夢だったのかもしれない。 
いつから形而上学に興味を持ったのか、哲学が好きだったのか、現象学が好きなのか、聖書が好きなのか、人には言わなかったし、自分でも無自覚なものがあったり、例え言っても、頭が足りないと思われるような話し方しか出来なかった。
 
文章世界で成長するということは、未分化で未発達、そのような若い頃の歯がゆさや欠点を長所に変えていく毎日だったのかもしれない。
それでも、たとえ丁寧に天使を書いたとしても、言説化されたものは色んな色眼鏡で見られてしまうかもしれません。願わくば、天使の彫刻を彫る人のように、天使の彫刻を何の疑いもなく美しいと言われるように、自然に扱われたい。
天使の像を見つめることは、私の希望の「具象化」なのです。
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*英訳しか持ってないので翻訳は私ですので、多少表現の違いがあるかもしれません。
     

DIE GROSSE STILLE(Into great silence)

カトリック教会の中でも特に戒律が厳しいカルトジオ会に属するフランスの男子修道院、グランド・シャルトルーズの内部を、初めて詳細にとらえたドキュメンタリー。ドイツ人監督フィリップ・グレーニングが1984年に撮影を申請、それから16年の歳月を経て許可がおり、音楽・ナレーション・照明なしという条件のもと、監督ひとりだけが中に入ることを許された。監督はカメラを手に6カ月間を修道院で過ごし、俗世間から隔絶された孤独な世界で決められた生活を送りつづける修道士たちの姿を、四季の移ろいとともに映しだしていく。(大いなる沈黙へ・解説引用) 

音がないからこそ、聴こえてくるものがある言葉がないからこそ、見えてくるものがある(解説書より)

  • 感想

何故、「それ」を美しいと思うのか。美しいとされるものの一つに「黄金比」がある。黄金比が隠されているものは、計算を知らなくとも、人は知らず知らずのうちに惹かれることがある。 黄金比は何処に潜んでいるのか、貝や美術品、建築物等は分かりやすい例だろう。イエス・キリストもヘブライ文字に対応する数を合計すると、(イエス888+キリスト1480=2368)これら三つを並べると3:5:8と黄金比に相当する(近似値)。こういった数字のことを神聖数と言うらしい。聖書でこういった神聖数を研究している人達もいる。他にも物語を書く者であるのなら、聖書にある物語論の構図は、話の基礎が詰まっている。この中には物語り上の黄金比というものがあり、軽視は出来ないということに気づくだろう。

ただ、そうは言っても何故、「惹かれるのか」「美しいと思うのか」ということを黄金比の例を出したからといって万人に通用する説明とはならない。黄金比に限らず、何故美しいと思うのかということに関して説明することは難儀なこともある。

度々、この映画で出てくるエレミア20章の引用(エレミアの告白)
「主よ、あなたは私を誘惑し、私は身を委ねました」のこの誘惑という翻訳に戸惑う人が多いのかもしれない。そうなると現代の誘惑と意味が違うのだろうと処理をする、もしくはもっと詳しく分析をする人が出てくるとは思うが、私の意見としてはこの監督の心の内だと思う。

この映画はほとんど監督の主観的な要素は少なく、この修道院生活をそのまま観客に見せていることになるが、それでも作品と言うのなら何らかしら必ず本人の意思が無ければならない。この修道院は同じように沈黙を守るシトー修道院やトラピスト修道院と違って、個人の自由は保障されているらしい。この監督も撮影のために修道士達と共にしていたのだから、内的なものは自由に捉えていたのだろう。

Ich bin der Ich bin”ドイツ語だけで考えると、「私は在りて在る者」、であるが、出エジプト記では神がモーセに言った「わたしはある。わたしはあるという者だ」という有名な箇所になる。これも監督の心の内から選び取った一節だと思う。

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  • 「誘惑」について。

小説にも言えることだが、映画なら尚更、こういった作品を作ることは中々許可が下りないものだ。この撮影は映画祭、コンペティション部門以外で出品と修道院から出された条件があった。

コンペティション、それは競争という意味がある。芸術家は感性を持ち、個性的であり、新しいことを創りながらも、人に受け容れられる「商品」としても意識しなければならない。芸術家は個性を必要とされながらも、他人に受け容れられなければならないというジレンマもある。他人に受け入れなければ消えていくだけという現実もあり、受け容れられれば「祝福」という見方もある。

それには競争も避けられない。それでもこの修道院から出された条件で撮りたいと思うことは、世間(コンペティション)が正解だとするのなら、これは一種の「誘惑」に相当したのではないのではないだろうか。

私はその「誘惑」が少しは分かるのでそう捉えたのかもしれない。それは周囲の声を他所に確かなる「黄金比」に惹かれることに近い。盲目の修道士は世間を憐れむように語るが、私達は修道院の外で生きなければならない。そのために、自分の世界を表現するものは、正しいと思った道でも多くの共感を得なければ「象牙の塔の中にいる」と皮肉を言われることもある。象牙の塔(tour d’ivoire)とは美しい言葉で、本来なら悪い意味ではないが、大体が皮肉の意味で使われる。

このフィルムの中は、すぐに分かるようなドラマがあるわけでもない。誰かが事件を起こし、それを追うとか、ある人の感情が多く語られることもない。観客を置いていくような企画は現代からすれば本来ならタブーなのだ。

それでも、どのショットでも、美しいものがあった。 私はそれらが何故美しいと思うのかは説明はしない。自分が価値観からこの映像を説明することは、無意味に相当するからだ。理解するなら、この映像を見るしかない。恐らく、それで美しいと思うだろう。そして、この監督は「象牙の塔」を撮影してきたのに過ぎないのだろうか? 修道院の中は確かに隔絶されているが、カメラを持ち出し、彼が映したものは内なるものだけだったのだろうか? 例えば、修道院には自然光が差込み、四季折々の風情は閉鎖されているだけではないという証拠ではないのだろうか。そして、この人達は神父達と違って祈り専用の方々なのだそうだ。世界で平安な場所や時が少しでもあるとすれば、この人達の祈りとは関係ないという証拠も取れない。

・There certainly must be some who pray constantly for those who never pray at all.
(決して祈らない人々のためにも、祈る人々がいる)
Victor, Marie Hugo—–Les Misérables

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このように本来なら企画の段階で懸念されてしまう静寂を成功させた人がいる。 
この作品は数多くの賞を受賞し、創作者として、この作品は希望を与えている。

◎本気の解説はDVDの特典であるのでそちらへ。
◎DVDで鑑賞。2016年11月25日到着・28日視聴。

1984年、撮影許可を求めるが「まだ早い」と断られる。16年後「準備が整った」と突然連絡が来る。

これより誠実に独居房の生活をおくり、その他の修道会の戒律に従いなさい。絶え間ない祈りと改悛の喜びに満ち、孤独と静寂の中で神のみのご意思に従うのです。

画像元:(c)a philip Groning FilmPoroduction. 

The Childhood of a Leader①

映画に行った感想/ネタバレ含む)

「シークレットオブモンスター」
The Childhood of a Leader.2016年11月25日公開

「私」が認識している「私」と、他人から見られる「私」、主にこの「虚構世界」は他人の眼差しから構成された「私・少年」だった。大人達はよくこの少年を「お嬢さん」と間違える。

サルトルの基本を少しでも読めばこの構成にはすぐに気づくはずだ。でもこの気づきはきっと入門に過ぎない。

観客にとって少年の主観に関する情報は「ママがいなかった」という夢、時々現れる歪んで焦点の合っていない景色、女性家庭教師のドレスから透ける胸、と少ない情報である。元々、現代知識として分かっていたことは、独裁者(指導者)のような人間が形成される因果関係は完全にはまだ分からないということだ。

現代人はそんなことは既に分かっている。

それを虚構でもいいので突き止めたいという人にはこの映画は向かないのかもしれない。この話は何か特別な非情さや残酷さもなく、情念も愛欲の熱もない。時々、母親が母性を見せ、少年が笑顔を見せるがすぐにすれ違いが生まれ、噛み合わず、人の肌の温もりが長く続かない。

それは体温が無い映像ということのだろう。

少なくともこの映画は、体温が無いということに関しては成功しているのかもしれない。

****

 外では戦争があるというのに、この家庭は古典絵画世界のような安定や均衡が保たれ、貧しさもなく、高価な家具や調度品に囲まれている。確かにあるのはこの美しい静物達である。

①その中で少年の味方だったお手伝いさんを母親が勝手にクビにした。

②少年は自分の部屋に閉じこもり、勉強する。

③少年は自分を叱った女性家庭教師をクビにした。

④少年は部屋の中で内面世界を維持しようとするが、
それでさえも、「叱るため」に父親はこじあけようとする。

それから、少年が大勢の食事の席で椅子の上(座)に立ち、

「もう祈りなんて信じない」と何度も叫んだシーンは
少年の居場所は他人達の視線、時代の思潮によって椅子のように狭くなっていたことを表しているようだった。

私はそこで「可哀想」だと思った。けれども私のこの「可哀想」という眼差しはその少年を説明するものでは無い。

私は視線ではその少年を追えるけれども、その少年を語れない。

「私」がこんな少年を見たのなら、それも正解だと言える。

恐らくこれも正解ではあるけれども「感想」というものが、いつまでも本質に近づかず、その本質を掴もうとすると、曖昧というのは拭い去れない。 

「あそこのシーンで泣いたね」「少年はかわいそうだったね」なんて単純に語り合えない。

分かち合う、語り合うとそれだけで理解による熱が生まれる。そうすると、一瞬でこの話の冷たさという本質が変わってしまい、この話から離れていってしまうような気がしてならない。

可哀想だと思った少年は、結末として指導者になった。その可哀想という感情はすぐに虚構世界の終わりと共に消えなければならない。

追記

公開から時間が経ったので、
新しい感想を書きました。

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/02/blog-post_5.html

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感情を持つことによって、話の本質から離れてしまいそうな気になる。私のこの感情は話を読み解くための味方なのか、邪魔なものなのか、この「問い」。この感覚が駆け巡ることが非情に面白いと思った。

映画館で見てよかったなと思う。

◎サルトル著、指導者の幼年時代は読了済み。

◎映画館で一度見た感想なので、原作と比較して本当は色々気づいたことがあったけれども確かかどうか分からないのでこの程度で。

◎この映画は原作から着想を得たということなので、原作を匂わせる箇所は
ありつつも、違う話。(まず主人公の名前が違う)

◎不満を言うと、映画館の椅子が痛かった。

◎スコットウォーカー(Scott Walker)の音楽が良かった。

独裁者になる条件とか因果関係というのは私は答えは出ないと思っている。ジョハリの窓でいえば「未知の窓」(他人にも自分にも知られていないこと)がどのように表現されているかだと思う。登場人物、観客も含めて具体化出来ない闇の映像表現がよく出てて凄かった。

◎サルトルは父親が早く死に、抑圧が無かったために天使のような子だったという。
恐らく、原作共に自伝的な話なんだろう。

画像:https://www.google.co.jp/search?q=The+Childhood+of+a+Leader&espv=2&biw=1920&bih=1012&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjHoPDtmdzQAhXLGpQKHSlIAB8Q_AUIBygC

info

①”What is extracted from inside of us in front of mystery?
 Is it a pure heart? Or is it a reflection of ugliness of ourselves?
 I really fear the latter mystery.
(omit)
 I want to be happy and satisfy my mind.”
***
②“Your answer has always some deep meaning. 
When I am with you, I understand everything. 
I feel as if I am freed.”
by Chris Kyogetu
***
今、書いている脚本(舞台用)の一部を少し英訳。
ある原作を元に制作しているのですが、少し紹介。
①完全オリジナル台詞 ②元々ある台詞を一部変更
どの作品なのか、
また纏まったらホームページに載せます。
では皆様、良い週末を(まだ木曜日ですが)

Agape

    
  Icon o graphについて。

キリスト教映画プロデューサーからお褒めの言葉を頂いたところです。「構造上、アガペーを持ち込むには難しいところを大したものですね」と言われました。
そうなのです。アガペーから離れていくような難しい構造を作りながら私は物語中盤にマタイの福音書の13章を選びました。(各自調べてください)
マタイの13章、神の御言葉(蒔かれた種)が育つための条件とは……小説の中の少年はこの章の朗読の説明(説教)の途中で教会を出てしまいますが、その時の司祭は少年の存在に気づいています。
                   *
時々、日本人はこんな事を言います。「日本ではキリスト教は育ちにくい」と。確かにそうかもしれません。今となっては「現代では失われている」と世界中で言われているかもしれません。それは組織としての大成が難しいというのはありますが、やはり司祭の何気ない視線のように、愛は注がれていると私は思うのです。
現実世界では神への夢想や、イエスが通り道だということを知らなくても、イエスを知る者も各々の「自覚」いうものは「真実」とは別にその人の体系の中に形成されています。現実世界で言葉や誰かの権威で神を消すことも出来ませんし、また同様に神を皆に理解されることは不可能でしょう。
小説の中というものは作家の意思(意志)次第で神を消すことも虚無も生み出すことも出来ます。現代の小説は読者の自由が約束されながらも、神の有無は著者が決められることです。それなのにどんなに決めていながらも、読者は著者の決定には従えないものです。(時々、キリスト教を批判している作家の作品でさえも研究者は本当は聖書からヒントを得たんじゃないかと、関係無さそうな文章を分析したりするのですから)
結論として、小説家は言語だけでは神の有無の「存在」を操れないと知るでしょう。
                   *
 言語とは気分と感情によって読まれるものです。気分と感情が無ければ読むことが出来ません。けれども、それらによって話の重要度が人によって変わってしまいます。それに更に感じる勘であったり、推測であったり心理を読もうとすれば言葉以上に事実に近づくこともあれば、離れることもあります。 そこが面白いところでもあり、中身が理解されないところなのです。
小説は心で読むとも言われたり、特に感情に加わり、その人の想像によって読まれることが多く、読者はその独自の想像力によって文章を読み進んでいきます。それを知りながらも私は、一見アガペーを持ち込むことが難しい話を書きました。 その設定としてフィクションでは凡庸になってしまっているテーマを集めました。恋の設定も死の設定もその一部でしょう。更に、ギリシャ神話、大覚醒時代の文学、問題作品扱いとなった文学、天文時計と外界(人の歴史として)に在るものを用意しました。
 それから現実の「私」について。私は確かにイエスを信じていますし、アガペーも自覚があり、それなりの神秘体験があります。イエスを通して、私の感性は成長し、哲学の歯車は動いているでしょう。それはあくまでも私の内部世界であり、それを取り巻く思索や思考なのです。 これが正しいと人に押し付けたら社会性を疑われるでしょう。このように仮にも「私は知っている」という事実があったとしても、世界にとっては一個人の内部なのです。
(私は洗礼を受けてから二年程度しか経っていませんが)信者同士だからと言っても感情の共有の絶対性は約束されていません。教会に行けば良い出会いもあれば残念な出会いもあります。そして信仰とは弱い人が助けを求めるために入ると思われがちですが、実際に弱かったらやっていけないということです。助けもあれば自立も必要とされます。盲目の模様、嘘つきの模様、そして美しい模様、教会には様々な模様を描いている岩のようにあるのです。私は、そこで静観することを覚えました。そしてそれでも「在る」と感じるものを瞬きと共に知ることが出来ました。(岩とは私の詩情です)
 私が避けたかったのは、物語の中で登場人物の一人だけが信仰を持ち、その人の内部を見つめる傍観者を作ることです。それとイエスを知らない者が悪人になったり、非情になったりするというのも避けましたし、登場人物達を神学や哲学の傀儡にしないように気をつけました。今後の作品ではどうなるか分かりませんが、今回はそうするべきだと思いました。
それにキリスト教徒ならこれは強く持たなければなりません。知らないところでも、神の愛は育っているということです。自分の「覚知」以上の世界を自覚することです。ですので私は敢えて宗教色を強くしようともしませんでした。
私の内部世界がどう思索や思考、そして想像力への動力となり、外に触れることが出来るのか、毎回私は試されます。私の作品は常にそうだと思います。 

* *但し、前半部分からアガペーはあります。小説として明確であるか無いかの違いです。

nest

―――鳥の巣の営みを人間の例え話(詩情や比喩に)使おうとすることは早計である。鳥の営みと人間の生活とはまるで違うからだ。よく巣を観察すること……
そして、断言出来ることは
現象学者は必ず鳥の巣に
惹かれるだろう。―――
*****
これはあるフランスの哲学者の話(仏語版・訳は掻い摘んでいます)です。
最初にこれを読んだときは入院中のときで、心には来なかった。それなのに数年後、書きかけの自分の小説と繋がることになる。気がつけば、彼の予言通りに私は鳥の巣に惹かれることになった。

自分の信仰とは別に、色んな人の話を聞いて回った。聞いただけではなく、「経験」という小世界を形成してきた。そんな自分が目指すのは、「原稿」であり、小さな生命を育てている。まるで自分は鳥の巣を作る鳥のようだと気づいたのだ。そしてこの小世界は鳥の巣と同じように永遠では無かった。
営みと言ってもすれ違ってしまったこと、
愛であると疑いたくなかった繋がり、
そういったものもあった。
人間の営みは
鳥の営みに例えることは確かに早計なのだ。

鳥の巣の成り立ちは神学と哲学、世界の内面を繋ぐとき、人間の感情や言葉では足りないものを上手く纏めてくれていると私は胸を時めかせた。

「鳥の巣」これこそ人々が重ならないものを固めた「詩情」なのだと私は疑わなかった。
鳥の巣はあまりにも精巧に作られていて人間が似たような草木を集めただけでは作ることは恐らく出来ないでしょう。いつも図鑑や非売品のショーケースから見つめるだけだったけれども、漸く本物の鳥の巣を手に入れることが出来ました。(イギリスから来たそうです)
*****
今回の小説は「営み」や「愛」を結論とすることは容易ではない
テーマを選びました。だからこそ、この鳥の巣の営みと人間の例え話を並べることが出来ないということに結びついたわけです。
心臓部分となるものは冒頭にあるとおり「愛の裏」であり
造語までした「栄巣」ということです。
*****
*羽はカラスの羽です。(ワタリガラスではありませんが)完成してから数日後、木の葉が揺れる音と共に空から降ってきたのを取ったものです。とても嬉しくて、必ず取らなければならないような気がして、私はヒールで走って手を伸ばしました。
*暫くは少しだけ動物の匂いがしましたが、今はもうしません。
壊れやすそうなので気をつけて撮影しました。どんな風に撮影するのか実はまだ良いアイディアが無くて、とりあえずこんな風に。
あんまり出したりすると壊れそうなので、もっとアイディアが纏まったときに新しく撮影するかもしれない。(巣:セキレイ)
◎鳥の巣を買った店→http://www.piika39.com/

走った靴(プラットフォームパンプス8~9cm) 
この記事は作品を読まないと分からないように書きました。




火星の砂時計

最近になって〈すやまたけし〉の「火星の砂時計」という話を知りましたけれども、これは面白いですね。紹介では学校の教科書に載っていたとあるのですけれども、私は国語の教科書は光村出版だったせいか覚えがありません。よく転校していたのですが、国語だけは自分が行った学校は全部、光村だったので覚えています。
****
火星は軍神マールスの神話に始まり、戦いや情熱の象徴でもあります。地球の外側にある惑星の中でも最も近い存在で、多くの作家を1800年以降魅了し続けている。
主人公は砂時計を見つめながら、遠くに文明を探そうとし、生きている間には見つからないだろうと思っていた。
そんな彼に「私たちは滅びたが,私たちの精神はこの赤い砂の中に生きつづけている」と火星人は情熱と信念を持ち続けることについて語る。
戦いや情熱といったものが砂時計の中に閉じ込められて、三分という時間を流れていく。
時間が過ぎ去るということは、消えていくということとは違うというのを形に見せてくれるのは砂時計です。流れた分だけ積もっているものですね。
 
この火星の砂時計は現実では存在出来ないものだけれども、レプリカでもいいので欲しいかも。
(火星の砂時計)

google+

google+にお気に入り動画・音楽を登録していくことにしました。リンクだけ貼っていくだけですのでフォローはご自由に。トークはしません。

Mystery and pure



Because of pureness, obliged to confess.

Because loving mystery, try to protect the secrets.

How shall I express things that are contained ?



Chris Kyogetu


曲は何となく選択しましたが、
モーツァルトK310・Ⅲpresto
フリードリヒ・グルダ演奏

Icon o graph

「走れる靴と、走れない靴

私たちは愛の裏で動いていた」

Icon o graph 

発売しました。

amazon.comから順次発売

 https://www.amazon.com/Icon-graph-Japanese-Chris-Kyogetu/dp/153493037X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1468688909&sr=8-1&keywords=chris+kyogetu

amazon.co.jpでも取り扱いになりました。
(旧バージョン)
https://www.amazon.co.jp/Icon-O-Graph/dp/153493037X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1468776277&sr=8-1&keywords=153493037X

(新バージョン)
https://www.amazon.co.jp/Iconograph-Chris-Kyogetu/dp/1976468949/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1512298868&sr=1-1


紀伊国屋
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-02-9781534930377

barnesandnoble

http://www.barnesandnoble.com/w/icon-o-graph-chris-kyogetu/1124114276?ean=9781534930377

あらすじ(英語版のみ 後書きつき)

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzWTRoU1RCb0JtNEE/view  (Japanese)

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzbXB6Y2hBZUF1X1U/view (English)

試し読み

https://drive.google.com/file/d/0BxNLSoqVr3MzNXB3QVRlcEQwbkk/view


(keyword) 走れる靴と走れない靴、時を知らされない部屋と、時に決められた部屋。生の飛躍、 自由な魂、ウンディーネ、青を知らない女の子、QOL、祈りのための茨の棘、自己犠牲、悪しき母たち、 赦し、生長、変容、白夜、落ちた巣、天文時計、シモーヌ・ヴェイユ、占星術師達、 魅惑に満ちた混乱、最高の現象、時が人格を持つ、神話の実現、最先端医療、 不在への期待、オーディンの渡鴉、ベツレヘムの星、修理士、選ばれた部品、ロザリオリング、 栄巣、営みへの期待、刺繍、サロメ、硝子盤、羅針盤、解放、詩情のようで現実
(順不同)

「生かされていることや生きていること、信じていること、私達それぞれ違うこと、それらが一致を夢見て、離れてはお互いに締め付けながら、茨のように締め付けあいながら巣を作る」

栄巣(p278)

栄巣とは造語です。 

(2)→http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/icon-o-gaph2.html



オプス・デイ
酒井 俊弘神父様より


https://drive.google.com/file/d/1IWf3mKShI53901pN2mijLoOATJsu77CH/view

担当より(ネタバレ注意)

https://drive.google.com/open?id=1RpeFu9kzV4oSVVIAQmRiF_FpEH00NdcD


瀧本 往人様(哲学)

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing


松本准平様(映画監督)

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_16.html


女子パウロ会

http://chriskyogetu.blogspot.com/2018/09/blog-post.html

瀬戸内寂聴様

保留+好評価


皆様の感想
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/03/blog-post_15.html



Dear

  I made a promise that I will post once I found the answer. Since he preferred my page structure and images, I wanted to finish it in a beautiful way. I was thinking to create the content in English, and to send Japanese in a letter. Because I wanted all this to be done after the publication is completed,  it took a long time for answering. This is the part of English translation. Since he was a person who understands English, 

I would like to do like this. I am so sorry to be in a way like this.  
He is my friend.

                                                                                            (Chris Kyogetu)

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次回作の発売に向けて、ホームページのデザイン変更しました。
発売したら、デザインやページが少し加わる予定です。

→ homepage

info

*お知らせ*
次回作のproofが出来ました。
まだ他にも色々準備があるので、
発表・発売予定は2016年 7月になりました。
よろしくお願いします。
詳細は後ほど
Chris Kyogetu

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