①je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
②L’histoire de ma vie n’existe pas. Ça n’existe pas. IL n’y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
(L’amant:Marguerite Duras)
(①と②はページでいったら順番は逆)
*ILについて、フォントの関係でIlになってしまうのでLも大文字にしました。
je suis:私は~です、sa、所有されているもの、人が女性名詞の場合にsaを使います。この場合は主人公の少女のことで、このsa に2人が逢瀬を重ねていたことを表しているので、この一文だけでも色気があります。15歳のときにメコン河の上で出会った金持ちの中国人青年との性愛。そのイマージュは河を横断していく間持続する。長男しか愛さない母親、身体が弱い次男、意地悪な兄、家庭に圧迫を感じる中で、自分の持ち物に対しての拘りと、一回り年上の彼が彼女にとって居場所となっていく。
香り立つように現れた二人はすぐに触れ合う。永遠を考えた男と、小説家としての未来を見ていた少女、男は掟を破ってでも彼女と居たいとは一度は言ったが、彼女には若さと未来があるが故に答えを
NOと言った。
度々、登場するイマージュという言葉、著者は少女時代の視線や記憶をすべてイマージュ(image)と表しました。フランス語ではイマージュとは「再現」という意味もあります。それは生き写しでもあり、忠実な似姿ということにもなります。これは少女にとって経験というイマージュと、著者にとっての再現のイマージュが展開されています。「彼」と言ったら必ず人を差したりしますが、例えば②のようにフランス語は il(彼)というものが、属性にもなるときがあり ます。「彼」と「それ」という意味が私から見ると、話の内容に沿って効果的に利用されているように見えました。「彼」と敬愛を込めて呼んでいるのは老いた著者であり、客観的に「それ」という出来事を見つめているのは少女の頃の著者かもしれません。誰もがこの二人の情事に注目し、彼との想い出を標本のようにしたかったと思うのかもしれませんが、私にとって、IL(彼)は物語にとって中心では無いと宣言しているかのようでした。―――この話の二人は本当に愛し合っていたかどうか、少女は本当に愛していたのかというところに焦点がよく当てられますが、私はこのように恋愛には行き場の無い感情というものはあると思います。行き場の無い想い、想いとは必ずしも常に何かを望み、何処かへ進みたいと具体性を持っているわけではありません。
このように、祝福も受けず、理解や共感もされず、核を失ったような想いがあったとしても、肌が触れ合って、見つめ合えば、心は交わっていきます。
このような交わりの意味を感じ取れる人は、メコン河の抽象的な描写を感じ取れるでしょう。人間の感傷深さとは関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていきます。ただそれだけで、胸が痛くなることでしょう。その快楽を知り、そしてその内面の破壊を知る。愛の希求を知るつもりが、自分達はまるでメコン河に漂よう藻屑のように思えるのですから。覚えていることは、二人の関係は、メコン河の描写で事足りるかのように全てを呑み込む―――。
著者であるマグリット・デュラス自身の自伝的小説と言われているこの作品は、
1971年に出版さ れ、
1984年にゴングール賞を受賞しました。
1914年生まれの著者が十代の頃の、それこそ作中の表現であった
image:イマージュというのを出版したのは
50代ということになります。小説家としての神の啓示もこの思い出のようです。小説では「練習しても弾けなかった曲、ピアノを断念するきっかけとなった曲」、映画ではショパンのワルツ第10番、ロ短調
Op69-2が使われていました。
彼との触れ合い、小説家への想い、母親や家族に対しての想い、彼の結婚、二度と会えないと漸く気付いたこと、物悲しいようで、老いた口調が安定を与える。
執筆するときにどのような気持ちだったのか想像出来ませんが、映画では船の手摺りに足をかけていた。もう一度過去に振り返るとき、その水は記憶の水であり、イマージュの水面である。水底に潜らずに、渡し船に乗って運ばれるように、在った出来事だけを記していく。愛が分かっていなかった時、愛していなかったと言えなくなった時を正確に。
読者にはその愛の盲点を示すかのように、
そのイマージュ、その不安定なイマージュ、
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