ハーフェズ ペルシャの詩


この世を生きる者は
嘆く必要がないのだ。
さあ、わが衣を
一杯の酒と変えてくれ

はじめに

詩人は夢を見ているのか、それとも本質をとらえているのか。直観と本質が繋がる才能なのか?それは今日でも答えを持っていない。聖書の「詩編」は神への賛美と祈りを表している。現代において詩はロマンとして有名になった。愛する人のために書く詩、存在を表すための詩、無常の詩、詩は心の代弁だという一般的な認識がある。この記事を読む際に注意してほしいのは、私は、イスラム教の事は充分に理解していません。今回は映画を見た中の感想に終わらせる。

感想

「主の御名をみだりに唱えてはならない」と旧約聖書にはあるが、イスラム教圏には

さようならをホダー・ハーフェズ(神が守ってくれますように)と挨拶や名前の言葉の細部に神が宿っているらしい。これはイスラム教圏に鏡が輸入された際に、粉々になって届いた話を連想させる。この鏡はモスクの建築となり、詩人に直観を与えただろう。

物語序盤にも

「真実というのは、鏡というもの。それは天から大地に落下し、砕け散る。人々は欠片を拾い上げ こう思った。私たちは真実を手にした」

「鏡の中に己を見たものが、彼は迷い罪を犯したが、鏡の中に友を見たものは、愛を知った」

と出てくるが、この詩が物語を導いている。

ハーフェズとは詩人の名前だが、それを由来としたイスラム教圏での選ばれた暗唱者である。美声でクルアーンを暗唱した者という意味があるが、美声はギリシャ神話でもカリオペ―という神が抒情詩を司る反面、セイレーンという船人を惑わせるものにもなると「声」にも古代から人を導くものと、惑わせるものと揺り動かすものがある。

 ハーフェズ(暗唱者)志願の青年シャムセディンは6歳からコーラン、占星術(正当なるもの)を学び、詩の才能もあったせいか聖職者批判の詩も唱えてしまったので、師に怒られていた。しかし努力の甲斐があって晴れてハーフェズの称号を貰う。高名な宗教者の娘(麻生久美子)ナバートの家庭教師を任されるが、彼女の声に心の波を立てることを恐れるようになった。14世紀詩人のハーフェズは、ナバートという同じ女性に恋をしたと言われている。この話はこの逸話とも重ねている。娘であるナバートが詩についての問いをするので、青年は詩人サアディの名を口にし、コーラン以外のものを答えてしまう。お互い、壁一枚隔ててのやりとりだったが、目を合わせてしまう。それを監視役のメイドの告げ口によって彼はハーフェズの称号を剥奪され、鞭打ちの刑50回を受けて追い出される。

娘は他の人と結婚させられたが、魂が抜けたような病に陥ってしまった。一人の少年が(霊媒師的な存在)彼女から見えるものは「炎」と言ったので、夫は追い出された男の職場に行くことになる。その職場は「火」と関係していたからだった。男は売春婦よりも賃金が安いところでしか働けなくなっていたが、夫はその男のところに行って言葉を貰う。それによって娘が男の言葉で回復したので、父親である大師は彼を許すことにしたが条件を与えた。一枚の鏡を渡すので、7つの村の処女に拭かせろというものだった。

「鏡の誓願」これを達成できなければ死刑になるということだった。

男が愛した女性はもう既に結婚しているので、イスラム教では二人の愛が許されるはずがなかった。鏡は愛を得るためにあるものだが、この旅は愛を忘れるためにあるとされた。

これは大師の皮肉か、神任せなのか。それは、その7つの村ではその男の評判は聞かされていて、全部の処女に協力しないように呼び掛けていたからである。

それでも、一人の乙女が鏡を拭いて雨を願った。本来ならその乙女は言いつけを守らなかったことで罰を受けるはずが、雨が降ってしまったので神の力だと信じざるを得なかった。

予言者として有名になっていく一方で、夫は妻の恋敵の足取りをたどっていた。鏡の持ち主はどんな男だったのか、男は鏡を手放していた。夫は代わりに鏡を持ってシャムセディンの力を信じるように言うが、予言者を偽ったとして逮捕される。一人の看守だけはシャムセディンの予言を信じると語り掛けてきたので、夫は鏡をその男に渡した。代わりにその男が鏡を代わりに持ち歩くようになるが、偶然にもまたシャムセディンがそれを見つける。

シャムセディンが、その鏡について尋ねると、髪と引き換えに売ってくれると言われた。持っていた鏡を取り返すために、シャムセディンは髪を切った。その後、また処女探しに出かけるが処女とはいえ高齢の女性と出会った。その高齢の女性とその男は挙式をしなければならなくなったが、誓いの言葉の前にその女性は死んでしまう。

誰が最期に鏡を拭く乙女となるのか、候補者が居なくなったシャムセディンは絶望に叩き落とされる。しかし、それが嘗て愛していた女性が処女だったと浮かび上がる。夫が妻のためにそうしてあげていたようだった。それは恐らくイスラム教では言葉にはしてはならない感情、戒律に囚われない、自己判断での「慈愛」を夫は持っていた。夫は妻のために恋敵のような存在を助けようとしていたのである。夫は男を探していったが、最後は恐らく彼は死んでしまったのだろう。その真実はわからないが夫は走り出しては発狂し、処女として残された妻は最後に鏡を拭いた。

それはハーフェズが残してくれた言葉と共に。

「聖化」について、私はWikipediaにイスラム教の項目は書かなかった。当然ながら不完全な役に立たないページと警告が入ったが、仕方がないと判断した。少し翻訳した程度で載せることに抵抗があったからだ。あちらの神聖な言葉は安易に語れない。それが神聖を理解しているということかもしれない。スーフィズムの間では「神がその秘密を聖別する」(「qaddasa Llahou Sirruhu」)とされ、聖人が生きているか死んでいるか分からない言い方をする。しかし、作品でこれだけ厳格な宗教だと安易に「聖人」と語ることが出来ないのだろう。選ばれた詩人、暗唱者は「愛」を語れるが、基本はイスラム教は人間愛と神について自由に語ることは出来ない。その中で作られた映画は愛についても、そして説明も直喩出来ない。制約が厳しい中、よく制作出来たと思う。主人公の男の苦悩の旅は、報われたと言えるのだろうか。何一つ報われることがない中、人に尽くすだけの旅だった。暗喩となった「聖化」は言葉で説明してはならない領域だった。宗教者として共通していることはヨブや、仏陀のように「苦悩」こそ「聖別」として意味を持たせることである。私たちは日本人として肌で、人生は「無常」だということを知っているので、これを物語の象徴としてみたときに共感をするだろう。

 戒律を侵せない中で男女の人生を通して、それでも訴えかけてくるものがあった。物語そのものが生命を現象のように持つとしたら、「鏡の中に友を見たものは、愛を知った」と序盤の詩に回帰できたこと、男の苦悩は神の秘密として聖別されたということだろう。それは更に愛と言えない愛、それが認められたのだと人もまたその願望を秘めていた。

「聖化」について

https://en.wikipedia.org/wiki/Sanctification

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