「たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘に通じていようとも、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも愛がなければ無に等しい」(コリント人への手紙13章2節)
この話にはこの聖書の引用がよく似合うと思った。
「明日夜が明けたら、お父さん、すぐに墓参りにいきます」と冒頭に放たれた言葉からは、「人は死んだら何が残るの?」と聞かれ「その人がやったことだよ」と答えたキェシロフスキのデカローグを思い出させる。エル・スールの主人公、アリアドナの存在は死んだ父親の残した娘であり、父親への想いを語る独白は、アリアドネの糸を手繰り寄せるかのようだ。アリアドナとアリアドネという音は偶然にも近しい。迷宮から出るための道しるべとなったアリアドネが渡した糸。聞けば、迷宮とは道が重なることがなく、振り子状に回転するというではないか。
自殺をした父親は魔術的な振り子を愛用していた。それで、まず生まれてくる主人公が男の子か女の子か当てたことがある。振り子は何のために揺れているのか、未来を知るためなのか、奥深く埋められているものを見つけるためなのか、アリアドナは父親の死後、残された振り子を揺らす。振り子は父親の「やってきた」事なのだ。そこには本当にあった事実と、そう想いたいと無自覚に振り子を揺らしてしまう不安定さがある。一人の人生こそ、知ろうと思えば迷宮である。
父親の真相についてわかるのは彼女にとっても一部であり、その頼りない独白がより謎が多かった父親像、父親が本当に愛した女性、それらが影を濃くさせていく。「死」と「墓」から始まる原作は映画とは違った時間軸を持っている。映画は父親の死の予感から始まり、過去の回想によって父親の生きている姿が生き生きとしているのに対して、原作はどんなに思い返しても、父が墓にいるところから始まり、死が常に生き続けている。
そんな中で主人公アリアドナは思い返すことによって父親の魂を救出していると私は思う。母でさえも父の墓を見捨てた。誰もが父親の墓を見捨てた。そんな中で父親が生きた証となるのは、この娘の愛ではないのではないのだろうか。
物語全体が恋しがっているような、EL SUR(南へ)、そこにはスペインの分離独立時代の背景がある。
映画では旅立つ直前で終わり、原作では主人公は南に行くことが出来る。
南についても謎が残った本作は、きっと最後はプロローグになっている「私たちは影でないものなど愛せるのだろうか?」に繋がる。
*(映画では、主人公の名前はエストレリャ)
*同じ、映画のビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」は南の話である。
原作者の名前はアデライダ・ガルシア・モラレス
*画像の権利はdvd販売元の紀伊国屋書店、及びブルーレイの販売元のアイ・ヴィーシー社にあります。
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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