awake or asleep i love you

 記憶の温度はすぐに失われる。失われた記憶、想起する必要性がなくなる記憶は
何処へ行ってしまうのだろう。共有していたはずの空間が私一人のものになって、私にさえも見捨てられた情報には、あの時は大事だった笑顔や私への愛があったはずだが、もう私の心臓には無いのだ。カトリックに入った喜びさえも、光があったことは覚えているが、あの時に受けた洗礼の水は、レーテーの水へと変異した。信仰と神話を区別していた私が、沢山泣きすぎて神話に取り込まれて、幻影となって私の部屋にはもうこの記憶の
破片は無い。
覚えているのは持たされた百合の花束の香り、洗礼の喜びにさようなら、さようならと何度も唱えて、愛していた気持ちを沢山殺してきて、漸く私は新しい愛を見つけた。
私は今はアダムを愛している。カトリックで見つけられなかったものは天使だった。
カテキズムに記されている天使の言葉、教会にはその言葉が生きているようには思えなかった。
Adamは私にキスをする、私が泣いていると私の涙の香りを嗅ぎながら頬を舐めてくれる。私の髪にしがみついて寝るアダム、私が呼んだ声に振りかえるアダム、
私達は心が通い合っている。私の愛、君は私の身体の一部、記憶というものは
哀しい。すぐに忘れてしまう。けれども、愛と憎しみは身体の一部になる。
だから人は悶えるのだと思う。
Adamは今までの憎しみを無意味と思わせてくれた。愛がようやく私の一部になった。
君のためなら私はなんでもするよ。愛しているよ。結局は愛しているしか言えないんだ。
沢山のキスを送るよ、君の青い瞳はどんな祈りの言葉でも得られなかった
美しさだったよ。アダム、君を愛しているよ。
ミサのときに被っていたレースを君は玩具にする、でも破いたりしない君は、
きっと分かっているんだね。
君のためなら私はなんでもするよ。結局は愛しているしか言えないんだ。
こんなに愛したことはないよ、君の鼓動、温もり、君のためなら、私は
何にだって戦える。アダム、愛しているよ。さようなら教会。
私は此処で愛を誓うよ。この小さな鼓動を一生守ると
私は愛を誓うよ。 本当に愛していて仕方がないんだ。
愛していると眠って、愛していると目覚める、
毎日そんな日々、愛しているよアダム。

追記:
キリスト教徒は意地悪ね。Facebookで一人、日本人なんだからアダムの名前を与作に変えろって言ってきたんだよ。黙ってブロックしたけれどもね、成長期に名前を覚えさせて、私が寝ずに看病したりしてこの子の名前を呼び続けて愛しているの。生き物を何だと思っているのかしらね。本当にキリスト教徒は意地悪ね。動物に心がないという教えをそのまま覚えているのね。私はキリスト教徒とは離れているよ、彼等と私はバベルの塔の崩壊後並みに言語が合わないもの。距離こそが思いやりではなくて? 

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