紹介
私は(筆者)「先生」をあまり美徳に捉えないようにしていて、多少、彼の生き方は太宰治のようなものを感じている。むしろ「先生」のことを見つけた「私」(登場人物)に見込みがあるという印象を受けた。先生に対する記憶の拾い方、集め方、書生である彼がおそらく人格者なんだろう。もちろん、これは「お話」なのだが、実際の人生はそうはいかない。もしも本当なら、書生の記憶の集め方が優秀なのだ。しかし、最近は一皮剥けたところがあって、客観視ができるようにはなっていて、以前ほどの没入感もなく自然に書いた気がする。内容は、夏目漱石の「こゝろ」を通して、無常の美学と、そして無常に抗う美学について触れ、Kが仏教徒だったので仏教と、そしてキリスト教として、「ファリサイ派と徴税人」を選んだ。最後は明治時代から価値観が変わっていくことに翻弄され、困惑していった背景である本作に被せるように、現代では第三者を一人称のように捉えることが、正しいと限らなくなったという、
倫理観が変わっていたことを最後に、(mob justice)カトリックの不正問題に問いを投げた。Mobの力は暴力的なところがあるが、悪とも言い切れないのもあり、公刑でどうにもならなかった人にとっては、そこで救済を得たものもがいるのも事実としてある。だからこそ、キリスト者は、そういう判断をする前に自制をしてほしいと願っている。ジャンケレヴィッチの「死」の第三者の死、を私に現代解釈として少々は足したとも思う。
ハムレット、(信仰と対立する自殺)ペレアスとメリザンド(他者からは判別つかないが本人が力尽きてしまう死)は、サロメ(登場人物が死に顔を見たくて頭部を抱えるように両手で少し持ち上げたので)自死に関しての表現を弱めるために効果として並べた。とても曖昧にしか言えないのが残念だが、メタファーは、やはり殺されたのだろうか。
