The Third Night-Possession

「お祝い事は、苦しみの裏で時間を止めたように行われる」

所有

主に愛というもので、愛は恋愛にとどまらないことを知っていくことが人間としての、「営み」のような気がしている。特に「所有」というものは、興味深い。まずベルクソン哲学の「所有」が思い浮かぶが、彼は、reprendre possession de soi、つまり「自己の所有を取り戻す」と言っている。ここでの所有は、物を支配することではなく、世間・言語・外的時間に奪われていた自分を、もう一度、自分の内側の流れへ戻すことになっている。普通の所有は、対象を外に置き、「これは私のものだ」とする。ベルクソン的な所有とは、自分が自分の外へ流されてしまっている状態から、もう一度、自分の生きている時間を内側から生き直すことになる。

スタンダール的な所有は、またこれとは違い、「相手」や「対象」に向かうことであり、愛する人、憧れの対象、自分の欲望や夢が「結晶」となる。これが世間一般的な所有なのかもしれない。

 祖父の「聖書」に関しては、興味深いことに両方の作用を持っていた。あくまでも私の視点の話だが、祖父はキリスト教徒ではなかったので、生前に聖書を愛読している様子も見せなかった。祈っている様子を見せることもなく、理系でありながら、文学が好きだった。

祖父が聖書に関することについて、片鱗を落としたのは一回だけだった。

その日は、花祭りの日だった。私は幼稚園の行事で、ブッダの誕生日を祝った。小さな釈迦像に甘茶をかけたことを「とにかく綺麗で楽しかった」と、私は、帰ってから、その話を祖父にした。祖父は時々、グリム童話のような語り口を持っていた。単純に「それは良かったな」とかそういうことは言わず、「お前は、御伽話に水をかけてきたのか?それとも、本当にあった話だと思って水をかけてきたのか?」と尋ねた。

私は、「御伽話」と咄嗟に答えてしまった。祖父は、「お前は御伽話に水をかけてきたのか?」と言ってきたので、私は少しムキになって「シンデレラや、人魚姫と同じ。居ないとわかっているけど、本は中のお姫様が可哀想だから捨てたくないのと一緒。眠るときに、想像しないと眠れないの。だから、水をかける時は本当にそうだと思ってやった」と答えた。続けて祖父は、「それは筋がいい」と褒めた。そして、西洋の旧約聖書のモーセは、生まれた後に争いの中、川に流された子供だった。『救いの存在』という存在が現れる時というのは、最も人間が貧しい時だという話をし始めた。

彼が籠に入れられて流されるのは、ヘブライ人の男児が殺されるという暴力の時代に生まれたからで、モーセの物語は「赤ん坊が守られた話」であると同時に、最初から「争い」「迫害」「民族の苦しみ」の中にある話だった。

ブッダの生い立ちは、人間の苦しみ、老い、病、死、執着、争いを見ていく存在になる。

「お前は、いつも、なんでお祝いごとは、そういった苦しみの裏で、時間を止めたように行われると思うか?大人になったら、考えてみたらいい。他の宗教者はみんな俺をがっかりさせるばかりだった。 お前はきっと俺を、がっかりさせない才能がある」と話は終わった。

翌日に「聖書は読んだ方がいいの?」と尋ねたら、

「好きにしたらいい」と言われただけだった。

読め、とも、読むなとも言わない。

「何してもいいが、詩人になれ」と言った。

特に、聖書に関しても、詩に関しても何も手引きを教えてはもらわなかった。あとは、祖父には貧しい時に、英訳の聖書を神父か牧師に貰って、それで語学は勉強したが、「俺は無神論者だ」と聞いたことがあった。

私は、祖父は神がいないものとして暮らしていると思っていた。祖父が生前、机の上に置いていたのは、投資の本や、もっと実利的な本ばかりだった。聖書の話はそれ以降はしたことがなく、その話すら、私が大人になってくると、記憶違いのようにも思っていた。

私は日本から離れて、帰国後は、自分の生活で精一杯で、家族のことを顧みずに、婚姻のために2014年にカトリックに入信した。相手の男とは、本の中で聖書が一番好きだというところが意気投合し、イエスに対する価値観も、お互いで愛の結晶かのように「所有」していると思っていた。その上、洗礼を受けた方がいいというのを言ったのは男の方だった。特に聖書に関連する文学を、その人と共有した。私は、それで教会を探して、すぐに受け入れてくれる話に飛びついた。けれども男が、急に「カトリックに入ることはできない」という事情によって婚約を解消し、私は一人で、聖母マリア飛昇天祭の洗礼式で、望んでもいなかった共同体と対面し挨拶をした。まるで、心に愛があるような装いで、空席を隠すように喜びという演技をした。勿論、本当に嬉しかった面もあった。けれども、この洗礼式の挨拶のお辞儀を思い出すたびに、私は涙で全てが溶けて消えてしまいそうだった。

私は洗礼を受けた。
その一週間後、祖父は死んだ。

2025年、久しぶりに祖父の家に行くと、祖父の書斎が残っていた。祖父の生前の『完成された原稿』が机の上に置かれてあることは、親戚から説明を受けたが、ほとんど、あれから書斎は動かしていないそうだ。私が最後に見たときは、書斎の机の上には、実利的な本しか置かれていなかったはずだったが、入れ替わっていることを知った。

 まず驚いたのが、エドガー・アランポーの「アナベル・リー」の話について、

私も何度も翻訳をしていて、陶酔していた詩を、祖父も好きだったということだった。

「詩」というファイルの中で「7回目の翻訳」「8回目の翻訳」と何度もしていた。

私はエドガー・アランポーの新装版の全集を買ったが、昔の装丁のペーパーバックで中身は同じのものを祖父が持っていたことを知った。そして、古びた洋書が並ぶ中で、中央に一冊だけ日焼けをして、タイトルがわからないものがあった。私はそれを何気なく手に取ったら、「聖書」だった。手荒に使ったら、ページが崩れてしまいそうな劣化具合で、既に、一瞬でページが数ページ落下する。しかし、それが、あの微かな思い出の中で、語られた聖書だったのだ。祖父は、確かに聖書を貰っていた。本当に、あの話は本当だったのだ。記憶違いとまで思うようになっていたことが、本当だった。

表紙裏には、「三年間、この学びを謙遜の種とする」と書かれてあった。

***

いつしか愛に関して、私は「所有」したいという感覚が薄れていた。段々と、愛おしいと思うことでも、愛という言葉で物事を区切らなくもなっていた。手を差し伸べるのも、経験による反射、さほど考えもなく、結果として、受け取った時に少し温もりがあると人生が潤っていると、得したなと思い、それ以上は渇望しなくなった。ただ、洗礼の前から愛は浪漫でもあり、アガペーでもあるということは知っていた。この二極から離れられなくなり、悲しい最後になれば、アガペーで片付けることばかりだった。文学はやっぱり「愛」を書きたいと思いながら、思うようにいかなかった。愛については、受け入れられる定めと、そうでないものがあった。本当の愛はこうだと説く人は、所詮は人生観から離れているわけでもなく、信仰の一部になっているだけで、愛の真理を知り尽くしているわけではない。それなのに、キリストに通じる愛と、そうでない愛を区別しようとする。正直なことを話すと、キリストへの愛は、男女の間では浪漫でもあった。「同じものを所有している」それがとても特別のことのように思えていた。反対に、友人や、祖父、父の、本当の死を目の当たりにすると、聖書は、生きている人の夢物語でもあったのかもしれないと、死神のような存在が私を包んだ。それでもなお消えない、夢の延長かのように、自分の心象にイエスがある。それを、どのように確かなことかともいえないまま時が過ぎていた。

福永武彦は、「所有」について、情熱には何かを獲得しようとする働きがあり、愛もまた「所有への願望」として現れる、と見ていた。名声欲や金銭欲が地位や財産を所有しようとするように、愛の場合には、ある特定の対象を全的に所有したいという欲望が生まれる。しかし、地位や財産と違って、愛の対象は「人間」なので、所有は決して完全には成立しない。相手の身体を抱くことはできても、相手の魂や意識の全体を所有することはできない。そこに、愛の陶酔と不可能性がある。

彼は、肉体の所有と魂の所有をかなりはっきり分けていた。肉体を所有しても、それは一時的な満足にすぎず、欲望はすぐに先へ行く。相手の魂まで所有したいと思うと、今度は相手の人格を自分に従属させようとする危険が出てくる。けれど、それは愛の完成ではなく、むしろ相手を奴隷状態に置くようなものになる。だから、愛における「所有」は、欲望としては避けがたく生まれるけれど、完全に達成しようとすると、愛そのものを損なう、という緊張があるのだ。やがて、福永の問いとして、魂を所有しようとする過程で、少しずつ相手の意識を自分の方へ向け、相手が自分以外のことを考えられなくなるまで欲望を押し進めると、それは相手の魂を掴んだことになるのかと、残した。

相手の意識を占領しても、それで魂を本当に所有したことにはならない、意識を奪うことと、魂を所有することは違う。愛の所有には、ほとんど到達不能なものがある。

私の話は、所謂男女の愛とは違う話だが、エドガー・アランポーの「アナベル・リー」は男女の愛の話だった。あの詩のモデルとなった話は、船乗りと、高貴な女の子は恋人同士だったが、周囲から反対され、墓場で密かに会っていた。女の子はやがて亡くなり、船乗りはそれでも墓場に訪れている。「海辺の墓のアナベル・リー」と、男女の愛は、意図していることも、そしてそうでないことも、選んだ全てが、スタンダール的な結晶となっている。そしてその姿を想像するのなら、さらにその愛は、二人の恋愛の関係性のみのものを超えた、神聖なものになりうる。愛だけではなく、まるで全ての原罪や、慈しみを背負ったような魂を感じさせる。

 アナベル・リーの詩に陶酔し、何度も翻訳した祖父は、このような詩を残せる人生と、残せない人生では大きな差がある。祖父はそれには「情念」が必要だと、自分には足りていないことを日記に書いていた。死後、聖書と共に、それを見つけることになった。

祖父にとって、「詩人になれ」というのは、これらを含んでいたのかもしれないと、漸く気づいたのである。そこには求めるものは、マジックリアリズムとしては「呪い」、そして完璧な愛の形態でもなく、何かになれと言う言葉の中に、「自由」があった。

祖父の聖書には、あるところに下線部が引かれてあった。

“Ask ye of Jehovah rain in the time of the latter rain,

even of Jehovah that maketh lightnings;

and he will give them showers of rain,

to every one grass in the field.”

(Zechariah 10:1)

古い英語訳なので、神名が Jehovah として現れている。神の名がこのように記されていることで、それは名もなき神ではなく、名を呼べる神への呼びかけになる。

「求めよ、願え、雨を」と、種は自力で生えることができない。「Ask ye of Jehovah(主に求めよ)」雨は、選ばれた人だけじゃないところにも降る。to every one grass in the field.

聖書は下線を引くだけで、それは財産になるのかもしれないと言うこと、そして私は、

洗礼を受けた後から、ずっと自分が種を蒔いている側だと思っていた。この聖書を手にしたときに、無常とは程遠く、死神が私の心から一旦は離れる。そこに光が差し込んだかのように、『私は』神にとっての所有であることをまた信じたくなる。祖父のために筆を取ったのは、祖父が余命を告げられてから、病院から逃げた話を聞いたからだった。生きていた痕跡を、あの人が恐怖に感じたものを、無常ではないということを、どのように残そうか?

どちらが実話で、どちらがお伽話なのか、それはまだ決着が付いてはいないが、

私も撒かれた種だったと知ったのである。

あとがき

この連作は、福永武彦『愛の試み』へのオマージュとして始まったものである。けれども、生きたオマージュは、単なる模倣にとどまらない。それは応答になる。福永の全二十三話という構成を踏まえながら、私はそれぞれの篇を「夜」として語り直していく。そこでは、愛、記憶、信仰、死、所有という問いが、自分自身の生の風景へと移されていくことを願っている。第三夜にあたる本篇「所有」は、そのひとつの変奏である。愛における「所有」という問いは、祖父の聖書、洗礼、死者への記憶を通って、やがて神にとっての「所有」と、自分もまた撒かれた種であったという発見へと移されていく。

****

Agir librement, c’est reprendre possession de soi, c’est se replacer dans la pure durée.

「自由に行為するとは、自己の所有を取り戻すことであり、純粋持続のうちに身を置き直すことである」ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』の一節。

・「片鱗」は、英語で普通に言うなら a glimpse。しかし詩的に a fragmentary signa trace にした。

・マジックリアリズムとして「呪い」:唐突に見えるが、次回作がマジックリアリズムと詩がテーマなのでそれに合わせた。

・私自身が2016年の出版作で、マタイ13章をモチーフにした種蒔きについての小説を出版しているが、祖父はそのことを知らない。

(ゼカリヤ10章1節):春の雨の季節には、主に雨を求めよ。
主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ
すべての人に野の草を与えられる

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