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Satoshi Kon
There are no people who watch you more than God.

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しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。マタイによる福音書18章6節~7節
罪は愛によって「赦される」ことがあるが、悪は増産し続けている。一つの悪意が消えても、新しい悪意が生まれる。それが人間であり、否定する人間は虚言壁に相当する。
善良な心は教育や環境を要するが、悪意は自然と生まれる。私は性善説否定派ではあるが、国家論を考えるときにはこれが根幹であるし、イエスも悪を躓きの石として、それは人間の力では取り除くことが出来ないとしている。性善説は存在しない、私はこれに間違いはないと思っている。
罪を償うことはあっても、悪が消えゆくことは無い。それでも悪とは一体何なのか、その概念は現代でも議論し続けている。旧約聖書の見解では、人は善と悪とどちらにもなりうるので、選択を迫られる。神はその選択に介入しないが、人間が気づけるように夢のお告げや、使徒や預言者を送り込んでいる。アダムとイブを原罪としたのは、新約聖書以降、キリスト教の歴史である。何故、悪人を野放しにするのかという問いは長年、「弁神論」によって神は善となるように繰り返され、心理学では弁神論では補いきれなかった人間の悪、闇を学問的に治療しようとした。結果、治療をする際に神と切り離すことに成功したのはG・フロイトなのかもしれない。ユングは各々の宗教や口承伝承のイメージで育った人間と治療を切り離さなかった。フロイトの「無意識」にユングは「集合的無意識」と掘り下げた。フロイトはこの研究を否定はしなかったが危険視した。両者とも未だに現在でも結論は出てはいない。
悪は増幅し続けるが、時流によって厳罰化されるものがある。その一つが「演劇」である。
聖アウグスティヌスは演劇をプラトン論に準えてキリストの教えから遠ざけ、痛みを紛らわすための「悪」とした。現代では規制は緩くなったが、映倫や年齢制限、虚構世界のイリュージョンに未だに異議の声は止まらない。「自称善人」は犯罪と快楽に対して、影響する事に畏れ、平和的な作品以外は脅威を抱くからだ。
それでさえも空気のような慣れを感じていた最中に、映画「ジョーカー」(2019)のジョーカーは立ち現れたと私には思えた。一度見たときは、脚本としては、実在したシリアルキラーのヘンリー・リー・ルーカスやエドモンド・ケンパーの模倣としか思っていなかったが、シェークスピアがハムレットやマクベス王を作り上げるように、最近は虚構世界の「悪人」がこれほど確立された存在はいなかった。
「純粋悪」として最高かどうか、判断しにくいところがあるが、彼の最大の魅力は模倣犯を沢山作り上げたところである。「大きな石臼を首にかけられて海に沈められる」とイエスが最も厳しく罪と定義したものは大衆を導く罪だった。ジョーカーは、元々はアーサー・フレックスという母親と二人暮らしの平凡な男だった。この男には夢があった。コメディアンになるという夢だった。貧しいうえに一発逆転型の夢を抱くものに人々も世間も厳しい。
彼は出世を妄想しつつも、現実では大道芸人の仕事をしていた。不良少年の憂さ晴らしに暴力を振るわれ、上司からも「ぞんざい」に扱われる。非力な男を更に貶めていたのは、笑ってしまう病気だった。この治療のために治療費が欠かせない。恐らく、この病気はPTSDの一種なので、薬物療法が明確ではないと考えらえる。精神薬というものは、治療法が明確でないものほど、大量に要する。医者の当てずっぽう、出来損ないのカウンセリング、当てはまらない薬のために、貧しい賃金から更に薬代に流れる。常に彼は世間の善意の裏に存在する悪意に手をかけられている状態だった。彼が悪意にどんなに押しつぶされそうになっても、生きていられたのは、母親の「どんな時でも笑顔で」という言葉であった。彼は母親を愛していた。
彼は同僚から護身用の拳銃を無理やり渡されてしまうが、ピエロ姿で小児病棟での最中に拳銃を落としてしまう。拳銃を渡した同僚も嘘をついたので解雇を与儀なくされたアーサーは、更に天命か不運か、彼はこんな状況下で余力もないのに、男性に絡まれて困っている女性を「どんな時でも笑顔で」という症状が発症し、女性は逃げることが出来て、男性3人に暴行される。カミュの異邦人の主人公のように、アーサーは引き金を引いたのである。
ここは1981年のゴッサムシティ、治安が悪い最中で銃殺事件なんて珍しくなかったはずだ。しかし、殺されたのが証券会社のエリートだったために、貧困層がピエロの殺人鬼に称賛し始める。アーサーはコメディアンとしての舞台の成功も、片思いの女性との思い出も彼の妄想だった。愛した母親が自分の「どんな時でも笑顔で」という病気を利用していたという事、母親が貴方の笑顔が人を幸せにするという一種の「信仰」が崩された。
誰が彼を貶めたのか、傷付けたのか追いきれないほどになった。彼はシリアルキラーの儀式とも言われる、生んだ存在、母親を殺害する事に成功する。これは殺人鬼にとって通過儀礼のようなものである。
虚構世界の舞台の成功を望んだ男は、現実で聴衆を集めることに成功した。愛や幸せを謡った舞台は聴衆に影響を及ぼして、幸福と共に現実へ降りていくが、彼の舞台はある意味、現実への実現性として皮肉にも成功してしまう。大衆の願望として、彼は「ヴィラン」となった。街中が彼の模倣犯だらけになったが、彼を愛している訳ではない。浅い認識と、大衆の自己実現欲、彼を支持しているという一体感、その幸福に大衆が酔っているだけである。
ジョーカーは複数存在しているところで終わったのが興味深かった。
(私はこのジョーカーが自分の仮装の中に埋もれるシーンが一番好きだ)
設定でもジョーカーは残酷なシリアルキラーとして設定されていたが、「バッドマン」を大衆が望んでいた時代では、ユーモアキャラクターや、バッドマンを助ける(自分が仕留めるために)こともあったりと、明確な設定がない。この2019年度版の「ジョーカー」は続編を考えるのなら更なる変容を可能性としているが、悪というものは、この具体性の無さも共存している。イエスが最も罰するのは大衆を先導するもの、としたのは「偽預言者」というものは愛が喪失するからだろう。それはモーセの偶像崇拝禁止とも一致する。(イエスが、人間の力では取り除くことが出来ないと言った「Skandalon」はスキャンダルの語源でもある。)現代の悪を明確化しているのは「独裁者」であるが、現代は実体を消したような悪の存在が最も脅威を持つ。ジョーカーの正体を知らない間は、彼の模倣犯が火をつける。それが集団による悪であり、人間としては見慣れた暴力なのである。これが既視感を覚えるのなら、私達は既に凡庸の悪を知っているのだ。模倣犯達がお面の被るのも興味深い。いつでも逃げられるかのような卑怯さがある。お面を被って、母体は何処へ行くのか分からない。この、水面下へ悪の根幹が潜っていく様子が21世紀の悪のように思えた。
道化師の悲劇といえばヴェルディの「リゴレット」を思い返す。(ヴィクトル・ユゴー原作)彼もまたジョーカーと同じく、
侯爵や貴族の笑いものとして仕事をしていたが、醜い彼が唯一愛した娘が、貴族にもてあそばれてしまったことを知って復讐するが、成功せず、娘の亡骸を抱く羽目になる。悲劇と喜劇は隣り合わせで、暗転しなければ舞台は楽しくない。しかし、道化師というものは常に闇の中で失意のどん底まで落とされる。
道化師は、この幸福になれない構造の確認出来る原典かと思う。
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プラトンの「ソクラテスの弁明」で「正しいことのために本当に戦おうとする者は、僅かな間でも命を全うしようとする場合でも、私人として働くべきで公人として働くべきでない」としたが、この原点に返るものは存在しないように思う。歴史を真面目に勉強すると、人類に絶望する事が多い。進歩を喜べるのは、景気が良いときで、景気が悪いときは構造主義に嵌っていく。ただ、人間という存在は愚かだが、偶然性と必然性を背負って、愛を生むことがある。悪意を知らなければ人間は愛を持てるのだろうか。生まれから自分に影響を与えてくれるのは良きも悪くも人間である。切っても切り離せない存在に対して、愛を失ったら「生ける屍」だろう。私にも悪意は存在する。例えばノブレス・オブリージュ、それは聖書の教えから来ているが、社会的地位がある者の責任とは「私刑」だろうか? 報われない事に関して最高の刑は「私刑」である。それとも平和的に済むのだろうか。この残酷性に世界が目覚める日がくるのかもしれない。
それでも私は悪意の中でも愛を尊重する。
愛は魂の力量だと思っているからだ。私の一番好きな聖書の引用にコリントを選んでいるのは人間の悪意は拭えないが、愛は魂の方向性を定めると信じているからだ。
私の善意や悪意は誰の影響なのか、私の潜在的なものか、操られているのか、私は私という存在を操作して、私は私を知らない。それでも、魂という概念だけは持ち続けたい。
身体は病気になって心は傷ついても、魂は傷つかない。
私はそれを信じることにしている。
この曲「happy face」Jagwer Twinとジョーカーは無関係のようだが、非常に合っていた。何度もこのバージョンを繰り返して見て気づいたことは、無理して笑うことはないということだった。私達クリスチャンは、神の愛による善意と、悪意と自分の不甲斐なさに苦しむ。
無理して笑うことなんかない、道化になることはないと私は思った。寧ろ、無理して笑ったら、負けなのだ。
ゴッサムシティとは何なのだろうか。
此処に何故人は惹かれるのだろうか?
主人公、ジョーカーもゴッサムシティも虚構世界である。
けれども私達は「現実」と言ってしまう。
余談ですが、アーサー自身には同情がありますが、犯罪者っていうのは悪で、恐らく神の裁きを受けるか、もしくは神の愛を受けるか、それは完全には分かりません。カミュの「異邦人」でもあるように、自分がヴィランを選んだ、という可能性は0ではないのですよね。神の恩寵を拒否をした、それも人間の自由選択です。それを境遇や精神病の治療として絶対に変えようとする心理学研究もありますが、私は冷ややかではあります。学生時代は、犯罪者の更生も考えてましたが、今はやはり被害者になったら相手が潰れてほしいと思います。でも、アーサーの時に救いがあったらなとは素直に思いました。大半の被害者は、そういった加害者の負の面、抑圧を背負っていますが、生きる権利を奪われた者にとっては残酷以外何者でもないでしょう。でも、良い映画だったと思います。結局のところ、目の前にいるアーサーに手を伸ばせる人間は少ない。
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ゾディアック事件に似ているのかもしれない。
有力容疑者の名前がアーサーだった。