重力と恩寵(2)

夢から抜け出すためには、不可能に触れることが必要である。夢の中には、不可能ではない。ただ無能力があるだけである。
どうして私達は触れられない「われらの父、天の父」に拘るのか。私達は地面を離れることも出来ない有様なのに。受肉ほどに理解しにくいものは思いつかない。
ただ分かることは、私達が自分では結ぶことが出来ぬ絆こそ、超越的なものを証拠だてている。
(シモーヌ・ヴェイユ 重力と恩寵 注:超訳)
(感想)
 
 存在と非存在の位置づけ、人は天を見ながら、天の神を見ながら深遠へと感情が流れていく。意識は常に飛翔を夢見ながら沈んでいる。
決して人間の力では上を見ることは出来ないのではないかと私は思う。真の空(そら)とは、人の心の奥底なのではないのかと思うのである。神の沈黙は深部の根である。
そこは私達が年を取るような時が存在しておらず、時空は常に私達の生を超えて存在している。深奥に存在する世界において、思想ばかりが大きくなっては貧しい人は救えないが、貧しい人は見極められるようになると思う。金銭だけでなく、心も含めて。それには深奥の世界を意識することが重要であり、やはり飛翔を夢見なければ深奥は開かない。
カトリック除籍直後に思う私の「神」。感じるのは「自由」これが神が与えたものだと
信じるしかない。さようなら、暖かい円卓。美味しいお菓子達。信徒の笑い声。 
*****
話変わりますが、これを書いたのはエリート企業の人達ばかりが集まるカフェだった。
よくスタイルの良い綺麗なキャリアウーマンなお姉さん達が通っていくので見惚れてしまった。いや、女だけじゃなくて男も美意識が高めだった。やっぱりジムとか行ったり隙のない美を追求しているのかな? 生きてて疲れないのかな? なんてダメニートみたいな事を思ってしまった。まぁそんなオーラの中で原稿を書いていた。良い力を貰った気がする。

なぜ世界は存在しないのか(4-1)

「あなたが望むことを、私も望む。できるかどうか考えず、好きかどうか考えず、求めているかどうか考えず」 マドレーヌ・デルブレル(フランスの社会活動家)
この引用はマルクス氏の本にはありません。
それではいよいよ「世界は何故存在しないのか」の本番に入りたいと思います。その前に
彼の著作に、ハイデガーの名前だけが出てきましたが、これは「世界内存在」と考えて良いでしょう。世界内存在とは、彼が作った新しい造語。それは何よりもまず人間存在の具体的形態をつらぬく根本構造として提示され,とくに従来の主観概念の変革を意味する。人間はいかなる反省にも先立って現に存在し,しかもその多義的な現存を各自的に引きうけることによっていつも本質的に,なんらかの世界の内に,この世界を了解しつつ存在せざるをえない。これが,人間が実存するということの意味である(コトバンクより)
マルクス氏はこの人間が実在するという意味について、こう掘り下げています。
「世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいに意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もっと全てを包括する領域である、と。意味の場については前の投稿を見てください。(意味とは対象が現象する仕方のことである)
すると存在する一切のものは、世界の中に存在していることになります。世界こそ、いっさいの物事が起こる領域にほかならないからです。世界の外には何も存在しません。世界のそとにあると考えられるものも、そうかんがえられるものとして世界の中に存在しています。

存在するとは、何かが存在しているとすれば、その世界はどのような意味の場に現象するだろうか、と。世界は意味の場S!に現象すると家庭してみましょう。ここではS!は、さまざまな意味の場の一つです。つまりS1と並んでS2とS3と複数の意味の場が存在しています。他の意味の場とンランで存在しているS1に現象しているとすれば、世界は存在している。このような事は可能でしょうか? 
答えは否です。たとえば目の前に広がる視野を寸分違わず絵に描く才能が自分にあるとしましょう。このとき、私自身の視野を描いた絵を、じっくり見ることが出来るでしょう。けれどもこの絵は、もちろん私の視野そのものではなく、私の視野のなかにあるのに過ぎない。これと同じことが世界に当てはまります。私達が世界を捉えたと思ったとしても、そのときわたしたちが眼の前に観ているのは世界のコピーないしイメージに過ぎない。世界それ自体を捉えることが出来ません(111
ここで私の書いた「なぜ世界は存在しないのいか」に戻ってみましょう。
そもそも世界とは
「世界と一言で言っても多義的な意味がある。宇宙のようにだだっ広い感覚で構築されたものや、心ある生き物達が制約制限を受ける枠のことを言うこともある。哲学に至っては、社会的精神的事象も含める。それらが存在してないということはどういう意味なのか」
と書いてあったが、マルクス氏の世界とは二番目の心ある生き物たちが制約制限を受けている枠の「世界」を主に差しているように思える。厳しいことを言えば、哲学的な社会的精神的現象までたどり着いたのはハイデガーの領域とすべての領域の領域としての世界は無限に存在する。つまり特権的な「世界」は存在しないということには達してないとは思う。が、しかし21世紀らしい、先進国らしさは現れている。
彼の第一の結論はこうです。
「世界は存在しません。もし世界が存在するとするならば、その世界は何らかの意味の場に現象しなければなりませんが、そんなことは不可能だからです。もちろん、この洞察はたんに破壊的なだけではありません。この洞察によって明らかになるのは、期待と違って世界は存在しないのだということではありません。むしろ存在するのかを理解しようとするのであれば、この洞察は生産的なものにもなりうるのです」
第一の引用のマドレーヌ・デルブレルの「あなたが望むことを、私も望む。できるかどうか考えず、好きかどうか考えず、求めているかどうか考えず」という引用も、存在していない世界への祈りを感じています。しかもこれは哲学的な社会的精神的事象も含め、心ある生き物たちが制約制限を受ける枠のような世界、存在の定かではないもの(世界)と存在者(心)との間の関係性が現れている。しかし、心の意思は強く感じるのは何故なのだろうか。
続きは第二弾です。

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カイエについて(1)

シモーヌ・ヴェイユ カイエⅡ
「キリストに対して忠実であるのは困難なことであった。それは真空状態に対して忠実であることだった。ナポレオンに対してなら、死に至るまで忠実であることも、ずっと容易なのだ。まだ、のちの殉教者たちにとっても、忠実であることは容易であった。なぜなら、すでに教会という一つの力、地上での成就の約束をともなう一つの力が存在していたからである。人は強いもののためになら死ねるが、弱いもののためには死なない。今は一時期的に弱くても、力の後光をいただいているもののために死ぬにすぎない。
「まことにあなたは隠られておられる神である」そして同時に、「かれらは、神を明らかに示している世界によって、神を知ることが出来た。」世界は神を明らかに示し、また神を隠す。
 第二作のイコノグラフは教会の良いところ、キリスト教の良いところを手探りで探って書き上げたが、第三作目によってカトリックから距離を置いている。イエスはイデアのようにアイディアの宝庫であるが、キリスト教という組織自体は、どうも哲学や文学にとっては同じ軌道を回っている存在だが、相性が悪いようだ。ヴェイユも同じ気持ちだっただろうなと少し思う。
真空とは空気もなにもない状態のこと、彼女は造語かのようにこの真空についてよく語っている。彼女の言っている真空とは何か、それは彼女の語りに耳を澄ますしか方法がない。
今回の場合、何もない空間に忠実であるべきだったと記されている。見返りも求めず、愛も求めず、何もない場所への忠実=キリストに対しての忠実としている。
それが人は出来ない。少なくともナポレオンのように多少の即物的な対価を
下さる現時点で生きている人を選ぶのが世の常である。
*****
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なぜ世界は存在しないのか(2)

メラニー・ロラン(イメージ画像)

「なぜ世界は存在しないのか2」マルクス・ガブリエル著

「なぜ世界は存在しないのか1」→http://chriskyogetu.blogspot.com/2019/01/blog-post_12.html

「今日は哲学を新たに考える」と、1章の「これはそもそも何なのか、この世界とは」の
忘備録です。


「今日は哲学を新たに考える」

まず著者は、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「およそ語りうることは、明晰に語ることが出来る」という理念を共有しています。これにより、触れない未知の宇宙のようなものまで考えを広げることになります。そして哲学の基本中の基本の「問いをやめないこと」を強く勧めています。

◎「これはそもそも何なのか、この世界とは」

我々は乾杯して、グラスをあおった。

「じゃぁ 地球はどこにある?」
「宇宙にです」
「宇宙はどこだ?」
僕は一瞬考えこんだ。

「宇宙は宇宙にあるんですよ」
「その宇宙がある宇宙は何処にある?」
「僕の意識にです」
「どういうことだ、ピョートル。それじゃお前の意識は、お前の意識にあるってことになるぞ」
「まぁ そうなりますね」
「なるほど」
チャパーエフは口ひげをしごいた。
「じゃぁ、大事なことを訊くぞ。つまり、それはいったいどこにある?」
「ご質問がよくわかりません、ワシーリィ・イワーノヴィチ。場所の概念は意識のカテゴリーの一つなわけですから」

「どこなんだ、それは。その場所の概念はいったいどこにある?」
「じゃぁ、こう言いましょう。それは場所だとかそういうものじゃないんです。
言うなればそれは、現……」

僕は口籠った。そうだ、これこそ彼が言わせようとしている言葉にちがいない。もし僕が「現実」という言葉を使ったら、彼はまたすべてを概念に帰するつもりなのだ。そしてそれはどこにあるかと訊く。すると僕は頭の中にあると答える……。ひっかけだ。

このような対話を通じて、ピョートルは、世界など存在しないという目眩のするとうな考えを理解するように至ります。

この小説のタイトルは「チャパーエフと空虚」です。本著の34ページに記されています。
デカルト的で下手をするとニヒリズムに陥ります。「僕」というのはしっかりと意見を持っているが(コギトエルゴスム)、問いかける人間が概念に引きずり込もうとしている、という構造ですね。

これらを総称し、著者マルクス・ガブリエルはこうまとめています。

1宇宙は物理学の対象領域である
2対象領域は数多く存在している。
3宇宙は、数多くある対象領域のひとつにすぎず、したがって存在論的な限定領域に他ならない。

4多くの対象領域は、話の領域全体でもある。さらにいくつかの対象領域は、話の領域でしかない。
5世界は、対象ないし物の総体でもなければ、事実の総体でもない。世界とはすべての領域の領域にほかならない。

次回は他の話題を挟んで第二章のまとめを忘備録がてらに書きだすことにします。
 司祭は人を愛することが難しい
イコノグラフを想って
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死者の書(折口信夫)について①

   幸せな人が
口にする言葉は
かりそめのひとふし
寡黙のひとの
感じとっているのは
こよなく美しい旋律。

エミリー・ディキンソン

こよなく美しい旋律を紡ぐというのは
狭き門のような気がしてならない。
マタイによる福音書の「狭い門からはいれ。滅びに
いたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って
行くものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出す者が少ない」
(マタイ7章13~14)

とあるように。

去年の大晦日は
ジゼルというバレエをロイヤルバレエと
ミラノ・スカラ座を立て続けに見ていた。

ジゼルとは、貴族の男は
婚約者がいながらも村娘のジゼルと恋仲になってしまうが、
結局は、婚約者である女性に手にキスをしてしまう。

意図せずとも、ジゼルを裏切るような形になって、
ジゼルは狂乱して心臓発作で死んでしまうという。

そんな話を立て続けに
2019年までのカウントダウン直前まで見ていた。
しかしジゼルは裏切った彼を許してウィリーの女王に
殺さないでくれと懇願する。

昨年に司祭に裏切られたせいか、妙に共感して涙まで出た。

許す気持ちと、彼を書きたいという気持ちは別ものだ。
それは、死者の書の郎女(いらつめ)のように憧れの気持ちでキリスト教
(仏教)に入った執心から、
現実を知り悟りを開いていくまでの道のりは、私にとっては
重要な生きた証である。そして彼女は蓮の茎で作られた
糸で曼荼羅を作って命を絞るところは、

狭き門を通りたいという、クリスチャンの性であるようだと
最近は思う。善悪の計り知れない深淵から、
美しい旋律を見つけたいのだ。

休んでるように自撮り三昧だった間、

折口信夫の死者の書と
マルクス・ガブリエルの
なぜ世界は存在しないのか、
を勉強していた。

他に勉強したのは

使徒言行録、オーソドックスとカトリック
ミサという意味、そしてトラウマに立ち向かうべく
司祭という仕事とは何なのかという本を読んだ。

司祭に裏切られて、オーバードースを起こして
自殺未遂をした10月。

私の作品に対する経験は充分だろうか、それともまだ体験が必要だろうか、
それは分からないが、今のように学問に勤しむということは、
死者の書で郎女が仏教の『称賛浄土摂仏教受教』を
一心不乱に写経した気持ちに重なる。ついでに、
私の作家の在り方も彼女に共感するものがある。

執心から悟り、その執心の中には異端と含まれるものが
あるかもしれない。けれども恐れることは私はしない。
私の心の中の天国が定かになりつつあるからだ。

私は恐らく、執心から悟りへと変化しつつあるような気がして
ならない。

憧れから入ったキリスト教、正直、嫌な事のほうが多かった。
病気だって正直言って悪化した。十字架が重くなっていく
という表現が正しいだろうか? とりあえず私は不幸を背負って
寡黙を手に入れ死の淵から心の中の天国というのを見出しつつ
ある。

洗礼を受けた直後の幸福だった記憶は薄れていく。
世界なんて存在しないという哲学は正しいと言えるだろう。
極めて20世紀以降らしい。でもだからこそ
心の中の天国は必要なのだ。それは人間に魂があり続ける限り、
必要とされる。悟りに近いものを見つけたときに
宗教は強い力を持つのかもしれない。ただ入信しただけでは
幸福にはなれない。

(ルカによる福音書17章20章)

人生は長い道のりである。それを実感するからこそ、
2018年から2019年に変わったからといって、そこまで
お祝いの気持ちにはなれなかった。

次は「死者の書」について書いてみたいと思う。

私は二作品目のイコノグラフでは女子パウロに出しても
良いぐらいの正統派の「執心」から神の巻かれた種が育つまでを
書いた。けれども次回作はカトリックを裏切るような作品に
なるかもしれない。けれども、私は書かなければならないのだ。
幻想のような亡霊の王子のために朗女が、蓮の花で曼荼羅を作ったように。
私は教会のパーティやあの賑やかな円卓に戻ることはないだろう。
それは司祭に裏切られたときから決まっている。
その代わり、寡黙を保ちつつ現実では聞こえない旋律を聴くのだ。
存在していない世界から。

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