
Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge by Rainer Maria Rilke
原文 マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記(ライナー・マリア・リルケ著)
①Und ich war es in der Tat. Ich war beschäftigt, ihn mir vorzustellen, ich unternahm die Arbeit, ihn einzubilden, und der Schweiß trat mir aus vor Anstrengung. Denn ich mußte ihn machen, wie man einen Toten macht, für den keine Beweise mehr da sind, keine Bestandteile; der ganz und gar innen zu leisten ist. Ich weiß jetzt, daß es mir ein wenig half, an die vielen abgenommenen Christusse aus steifigem Elfenbein zu denken, die bei allen Althändlern herumliegen. Der Gedanke an irgendeine Pietà trat vor und ab –: dies alles wahrscheinlich nur, um eine gewisse Neigung hervorzurufen, in der sein langes Gesicht sich hielt, und den trostlosen Bartnachwuchs im Wangenschatten und die endgültig schmerzvolle Blindheit seines verschlossenen Ausdrucks, der schräg aufwärts gehalten war.
②Ich wußte sofort, daß meine Vorstellung wertlos war. Die durch keine Vorsicht oder Verstellung eingeschränkte Hingegebenheit seines Elends übertraf meine Mittel.
(Zeitungsverkäufer)
③Ich will nur sagen, daß sie an ihm waren wie das Weicheste auf eines Vogels Unterseite. Er selbst hatte keine Lust daran, und wer von allen (ich sah mich um) durfte meinen, dieser Staat wäre um seinetwillen?
④Mein Gott, fiel es mir mit Ungestüm ein, so bist du also. Es gibt Beweise für deine Existenz. Ich habe sie alle vergessen und habe keinen je verlangt, denn welche ungeheuere Verpflichtung läge in deiner Gewißheit. Und doch, nun wird mir’s gezeigt. Dieses ist dein Geschmack, hier hast du Wohlgefallen. Daß wir doch lernten, vor allem aushalten und nicht urteilen. Welche sind die schweren Dinge? Welche die gnädigen? Du allein weißt es. Wenn es wieder Winter wird und ich muß einen neuen Mantel haben, – gib mir, daß ich ihn so trage, solang er neu ist.
⑤Es ist nicht, daß ich mich von ihnen unterscheiden will, wenn ich in besseren, von Anfang an meinigen Kleidern herumgehe und darauf halte, irgendwo zu wohnen. Ich bin nicht soweit.
日本語訳
①事実、すぐに僕のアイデアに価値がないことはすぐにわかってしまった。それはまさに僕のことだったのだ。僕は彼(新聞売り)を想像し、彼を想像する作業に忙殺され、その努力に汗をかいてしまった。もはや証明することができない。完全に構成することができない、内面だけで演じていく死人を創りだすように、私は彼を創りださなければなかったからだ。十字架から剥離したキリスト像が、老舗の古美術商に沢山転がっているのを思い出すと、少しは救われたような気がした。ピエタのようなものが浮かんでは消えるのだ。このようなことが起こったのは、おそらく、キリストの長い顔、頬の影に生えた無精髭、斜め上を向いて打ち解けられない表情に宿る痛々しい盲目を呼び冷ますものだったのだろう。
(この文は、著者が自分自身の創造力について話しています。彼は、努力を重ねて死者のような存在を創造しようとしており、そのために多くの労力を費やしています。彼は、自分の創造物が完全に内面化されるよう努めており、それには多くの苦労が伴います。その過程で、老舗の古美術商でよく見かける硬質象牙製のキリスト像を思い浮かべることが自分の創造力を少しでも助けると気付いたようです。彼はピエタ(母マリアがイエスの遺体を抱きかかえる絵画や彫刻のこと)という概念も思い浮かべていますが、それは彼の創造物への傾斜を引き起こすための手段の一つであり、キリスト像の特徴を具体化させるための材料であるようです)
②すぐに気づいたことだけれども、僕の表象にはなんの意味もなかった。警戒心や見せかけにとらわれない彼(新聞売り)の不幸に身を任せている様は、私がどんな(想像)を使っても理解できなかった。
③僕が言いたいのは、その彼は鳥の腹部(下半身)にある最も柔らかいもののようだということだ。彼自身はそれを望んでいなかったし、(私は周囲を見回したが)この状態が彼のためだと考えられる人がいるだろうか?
④神よ、そこにあなたの存在を証明するものがあったのですね。僕は、そんなことをすっかり忘れてしまったし、それを求めたりしたこともなかった。しかし今、それが私に示されている。これがあなたのご意志であり、あなたはこんな風に満足をし、喜んでいるところです。私たちが学ぶべきことは、何よりも、耐え忍び、裁かないこと。それが、どれほど苦痛なことなのか?どれが優美なことなのか?その慈悲深いことは、あなただけが知っている。また再び冬が来て、新しいコートが必要な時でも、新しいままでいさせてください。
⑤もともと僕のものであった、ましな良い服を着て歩き、どこかで暮らそうと考える時、私は、彼等ほどになれないのです。僕は彼らのような生活をする心の準備ができないのです。
*彼とはここに引用は載せなかったが貧しい新聞売りのことである。
*日本語版未読
考察
彼は哲学者でもなく、神学者でもなく「詩人」だ。と紹介するのなら、初めから「詩人」と言ってしまえばいいのかと言えばそうではない。これらを経由してこそ、飛び抜けた価値として「詩人」というものは存在する。ライナー・マリア・リルケとは私の中でそのような人物だと思う。
今回引用した①〜⑤から、神学的、そして哲学的に疑問は残しつつも結論までは至っていない。
これはリルケ自身の自伝的なものであるが、マルテという人物に「成りすまして」書いているように思える。しかし、それも創作の一つであり、「告白」という裏の面も持っている。彼は神というもの(イエス・キリスト)が貧しい存在にあると気づいていが、新聞売りへの想像のつかない生活に心の準備ができていないと告白しているのである。それと同時に、神への存在証明としての疑問を、抱いているが、それはカント的(Vorstellung:表象)で、外界の対象を理解するための必要不可欠な能力とし、この能力は個々の主観的な心の活動であると同時に、対象とは独立して存在するものではないという見方を持っているようだ。デカルトは神の存在証明を推論しようとしたが、カントは概念から存在は導けないものとし、「信仰」(実践的原理)を重視した。キリスト教神学では、(宗派を特に定めない)Vorstellungとは、より具体的には人が神に関する概念やイメージを持つことを指し、Form(形)とも結びつくようになる。例えばカトリックでは、神の形態または神の本質的な資質や神性を表すものとして、Formとする。次に、受肉、秘蹟と、「目に見えるもの」の裏に隠された「見えない神秘」を重視する。リルケはこの両義的な面を持ちながらも、既存の宗教への疑問としてキリスト像やピエタのマリアという表象を捉えきれないとしている。詩人としての感性として、
Mein Gott, fiel es mir mit Ungestüm ein, so bist du also. (神はそこにいる)と記した。貧しい新聞売りの、一張羅の姿から、神の存在の確信には膨大な責任が伴うと考える。それでも、リルケは神と世間が接触する感覚を味わった。
純粋に存在する神を探究し、境界(Grenze)を経験をしようとするが、それは詩人としてであり、
自分が貧しくなることへの恐れも告白している。リルケにとっての境界とはなんだったのか、
それは骨董品のキリスト像、歴史的価値のあるピエタのマリア、新品のコートを着たような気分でい続けること、貧しい人の高価な服、名も知らない鳥の生命とでもいうのか、
それこそ「詩」として含みを持たながら定めてはいないが、哲学や神学が直接的に書くことができない「魂」の上昇や下降というものを素直に描いている。
*境界(Grenze)は、カント、ヘーゲルなどの哲学者も扱っているが、ボンヘッファーも
神学的に追求している。
これは考察ノートです。明確な答えがあるものではありませんが、翻訳など指摘がありましたら、コメント欄に教示をお願いします。

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