労働者の美と詩(2)シモーヌ・ヴェイユ

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Ⅵ.「労働者と詩」イエス・キリスト編

私は、このヴェイユのパンというのをカトリックの聖体拝領、エウカリスティアのホスチアも指していると思っている。これは単なる直観に過ぎないが、ヴェイユは工場勤務によって、単調で過酷な仕事に対して、批判的な意見を持っていた。そしてそれは、ホスチアが、単なる「習慣」であり、

物質的になっていく世俗化された教会の問題も彼女は知っていただろう。それは彼女が労働者になった経験で、過酷な労働で、ただ飲み食いするだけのことをより物質的だと実感したことに繋がっている。

私が数多い哲学者や神学者を差し置いて、ヴェイユを選ぶ理由は彼女が「労働者」について着目しているからだった。そして、彼女が難解ともされる「転回」を繰り返す背景には、イエス・キリストという軸があることである。労働による貧困は現代にも通じ、そして普遍的な課題である。

イエス・キリストもヨセフが大工だったので、労働者ということが、より一層深く思えた。

***

・Travail manuel. Pourquoi n’y a-t-il jamais eu un mystique ouvrier ou paysan qui ait écrit sur l’usage du dégoût du travail ? La pesanteur et la grâce

・(肉体労働。なぜ、これまで労働の嫌悪をどう活かしていくかについて書いた神秘家が、労働者の中からも、農民の中からも一人もいなかったのか)

Travail manuel. Le temps qui entre dans le corps. Par le travail l’homme se fait matière comme le Christ par l’Eucharistie. Le travail est comme une mort.

(肉体労働。肉体の中へと入ってくる時間。労働を通じて、人間は物質となる。キリストが聖体の秘蹟を通じて、そうなるように。労働は、死のようなものである)

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これは、「重力と恩寵」の労働の神秘に同じく収録されている断章だが、「キリストが生体の秘蹟を通じてそうなるように」とは、キリストが処刑前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編第22章を叫んだことに通じている。彼は人として苦しんだ。これらは信仰の理由を伝える際に、なぜそれらを説明できるのか、直観的、内的であるが故に、人に伝えようとすると、途方もなく疲れてくる。カトリック信者である私からみても、何故、彼女がカトリックを選んだのかという点は、この団体そのものが持つ「矛盾」への探究心がそうさせたのだと捉えている。

キリスト教の初期は、イエスの教えは口伝や直接の体験を通じて伝えられ、非常に霊的で個人的な信仰の形を持っていた。やがて教会がローマ帝国の中で影響力を持ち始めると、信仰は組織化され、教義や儀式が形式化されて、この過程で、教会は信仰を制度や権威に基づくものとして確立し、時には政治的な力とも結びついていった。カトリック内では神秘や直観も重視される一方、利権や制度化された側面も存在していた。彼女がカトリックを選んだ心理はわからないが、私はそこにある矛盾に惹かれたのだと思う。堕落した物質主義的な聖職者も多い中、人道主義のペラン神父と交流を持つようになる。ぺラン神父に、教会の「破門」について異論を述べ、ぺラン神父は、それについて破門によって教会が泣いている、と書き記したが、その手紙はヴェイユには届かなかった。(1942年)

彼女は工場勤務の後に、3回ほどカトリシズムに触れたと記録している。一回目はポルトガルの小さな村で、漁師の妻たちが悲痛な聖歌を歌う姿に触れた彼女は、キリスト教が「奴隷の宗教」であり、苦しむ者たちが信仰を必要とすることを直観する。彼女自身もまた、そのような「奴隷の一人」であることを理解した。二回目は1937年にアッシジでは、聖フランチェスコにゆかりのある小聖堂で初めて膝をつき、神への畏敬を感じた。さらに、ソレームでは典礼に没頭し、激しい頭痛に苦しみながらも聖歌と言葉の美しさに慰めを得る。この経験を通して、彼女は不幸を超えて神の愛を理解する可能性を見出し、キリストの受難が深く心に刻まれることになる。三回目、ヴェイユは毎朝、完全な集中をもって「主の祈り」(パーテル)をギリシア語で唱えることを自身の務めとした。祈りの中で深い静寂を体験し、時には思考が身体から離れ、キリストの愛に満ちた現存を感じることになる。この祈りの実践は、彼女にとって神との直接的な接触を可能にする重要な行為となった。彼女が「カトリシズム」に接触した経験は、彼女の思想や信仰に重要な影響を与えたものでした。彼女が接触した「カトリシズム」は、組織的な教会の教義や制度としての宗教的側面と、個人の内面的な霊性体験や神秘主義とは異なるニュアンスを持つべきものとして理解する。

   「カトリシズム」とは、カトリック教会の正式な教え、儀式、制度、そして社会的・文化的影響を広く意味し、ここでは、教皇を最高権威とし、伝統に基づく教育や社会的活動といった制度的・公的性格が強調される。「カトリシズム」とは、ローマ・カトリック教会の公認された教義や制度を中核に、信仰の実践と社会的役割を含む「外向き」の宗教的現象ともいえる。カトリックでも、当然ながらこの個人の内面的な「直観」はとても重要なことであるが、

しかし、彼女がカトリックで洗礼を受けなかった、もしくは受ける前に亡くなってしまったことも配慮すると、思想家として、宗教にとらわれない内的な神秘も持ち合わせていたと捉えている。工場での経験により、自分を含む多くの人々の不幸を身をもって感じ、自らを「奴隷」として認識するようになった。この体験は、彼女の精神に深い烙印を刻み、以降、自分を社会の中で名もなき存在と見なすようになっていった。これはキリストが人としても苦しみを背負ったことに通じている。

本来なら、神と詩を結びつけたとするのが旧約の「詩篇」が代表的で、これは多様な感情や状況において、神への賛美、祈り、嘆きなどを表現している。他にも雅歌、ヨブ記、箴言、哀歌、預言の箇所で詩的な表現や格言を含むエレミヤ書、イザヤ書とあるが、新約聖書では詩でイエス・キリストを表してはいない。

何故、イエス・キリストへの賛美は詩ではなかったのか。これは考察に過ぎないが、初代キリスト教が、現実世界での布教活動や共同体形成を目的としたため、教えを具体的かつ、実用的に伝わるようにし、詩的表現よりも説明や教義の明確な伝達が優先された。よって、イエスへの詩情というものは、読者の想像力に委ねられている。イエスを伝道する際、重要なのは物語形式や教訓的な逸話であり、異文化、異言語の人々が理解しやすい形式である必要性があった、と考えられる。

 ヴェイユの「労働者」を象徴として、イエスと繋げるとこのようになる。「労働者に必要なのは、パン(物質的なもの)ではなく、詩(直観)が必要」と私は思ったのである。

現代に置き換えて考えたとしても、貧困や労働者の問題は、社会の問題か、自己責任か、境界線を引こうと思って簡単に引けるものではなく、四方八方に問題や課題があり、出口がない。詩というものを創作活動のみで考えることも、彼女のプラトンの国家論の解釈を借りれば「好きか嫌いか」という各々の捉え方だと思うが、私は、ヴェイユが洗礼を受けなかったとしてもカトリックと交流していたことに焦点を当てた。

人は「労働者を物質的な存在ではなく、人の苦しみを受けたイエスと同等に見れるのか」

イエスの肉と表されているホスチアも、儀式の中に存在こそするが、団体の堕落によって、単なる「パン」になっている現実も否めない。労働者に与えるものはそのようなものでなく、

それらに感化され、深かまるほどの「詩情」が必要だということだと私は思う。かつては詩は神への忠誠と賛美であり、道徳も倫理も誓えるほどのものだった。人間は何処までそれを受け入れることができるのか。

彼女は空腹だからこそ、パンを食べることを否定していない。だからこそ、そのパンとは違うのだと私は思っていた。もっと精神的に、そして霊的に、不幸に光を当てるものをと考えると、背景にイエスを考えざるを得ないほど、彼女はイエス・キリストについて書き残している。

そこに彼女の宗教的な直観を感じてやまない。彼女の深化した「転回」と「矛盾」の視点を支えているとすら思うのである。

Ⅶ.考察 

例えば「光と影」について詩情を浮かべるとする。屋外の壁に映る木々の影と光の揺らめきについて、貴方は何を想うのだろうか。壁に映る光と影は、様々なものを連想させる。影は瞬間的なものであり、光に依存して生じている。その一方で常に変化していく。この「瞬間」でしかないものを、プラトンの「洞窟の比喩」に結びつけるとするのなら、現実に見えるものは本質の影であり、私たちは、壁に映る影を現実と思い込んでいるだけなのかもしれない。この美しい光景は、私たちが認識できる一部分に過ぎない真理の断片とも言えるだろう。

日本の感覚では、これは「無常」であり、光と影の出会いと別れ、日本文学ではこの何気ない瞬間を愛でることが文学的な行為となる。ガストン・バシュラールは、この光景に名前をつけず「瞬間」を感じることに意味を見出した。

こういった視点を持つことが、労働者に必要だという解釈も一部ではあるが、私はキリスト教伝道の視点で見るようになった。光と影、そのような伝統的な詩の象徴となるものは、何処までも心次第で美しくなれる。けれども、彼女が「労働者」と関連づけたことについて、全てを呑み込むとするのなら、労働者が光と影を見を向けるのではなく、自分自身が「労働者」という象徴を見つめなければならない。経済学における「労働」ではなく、それは象徴としての「貧しさ」である。象徴というものは、現実と連想を兼ねて私たちに抽象的理解を要してくるが、現実的である必要がある。

謂わば、自由な詩情を保証されながらも、イエスが示す貧しさを通らなければならない。

マタイによる福音書 25:40で、イエスが王に値することについての譬え話だが、彼はこう言った。「これらの最も小さい者のひとりに対してしたのは、わたしに対してしたことなのです。」「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」この言葉は、特に弱者や困っている人々への奉仕が、イエスへの奉仕と同等であることを示している。しかし、そこには出口の見えない課題や、問題が集まっている。それは詩からも感動からも遠ざかっていくものでもある。確かにイエス・キリストに信仰を持ったものは、直観による感動を色々と知っているだろう。それを、伝え、共有することが困難なのは、イエスが立った貧しさの上にある。そこには人間的なものが神秘から離れようとしながら、近づこうともする。無常が根底にある私自身に、憐れみ、そして地を指して、課題を与える。それが私のイエス像なのである。それは私の贖罪も含んでいる。それは造形的な美ではないが、形を持とうとする美である。

私は教義や様々な神秘へのアプローチの中で、必ずこの「労働者」と言うものを軸にするようになった。イエスの育ての父がヨセフという労働者であったことから、その先駆者的な存在のシモーヌ・ヴェイユに敬意を払っている。イエスは彼女の心を歩き、ヴェイユの言葉によって詩情として現れている。新約聖書では詩となったイエスは存在していなかったが、それは人が見つけ出すことだと、もっとも伝えたのは彼女だったように思える。最後に、「労働」をなるべく英訳では「Labor」とする際の意味について述べたい。英語では「Labor」には陣痛の痛み、苦しみという意味もあるが、フランス語では別々の単語になっている。彼女にとって共通しているのは、語源となったラテン語だったのかもしれない。彼女は『カイエ』にこのような言葉も残している。「執筆とは出産である。もう限界だと思える努力もせずにはいられない」これは執筆をしていたら、誰もがラテン語の知識がなくとも体験することだが、彼女のことだから神秘を発見した気持ちで気づいていたのだろう。

やはり彼女は「先生」だったのかもしれない。

注釈:

*これは文献を参照しつつも評論です。カント思想について触れてはいませんが、カント哲学を

反映することもできます。

*Les travailleurs ont besoin de poésie plus que de pain.は重力と恩寵の「労働者と神秘」の章であり、Seule la religion peut être la source de cette poésie.この詩の源になれるのは宗教だけだ、と続きがあります。

*I hope you will accept this critique, even though it refers to literature. While it does not mention Kantian thought, it can also reflect.

**Les travailleurs ont besoin de poésie plus que de pain. is the ‘Workers and Mysteries’ chapter of Gravity and Grace, and Seule la religion peut être la source de cette poésie. only religion can be the source of this poem. It continues with.

参照文献

Simone Weil 『La pesanteur et la grâce』『La Condition ouvrière』『Attente de Dieu』『La pesanteur et la grâce』

Tome VI, volume 2, Cahiers 2 (septembre 1941- février 1942), Paris, Gallimard, 1997.

George G. Humphreys『Taylorism in France, 1904-1920: The Impact of Scientific Management on Factory Relations and Society

Plato/ Allen, R. (TRN)『The Republic』

暗い時代の三人の女性 晃洋書房

シモーヌヴェイユ アンソロジー 河出出版

本稿では、カトリックの秘蹟に関する文献については、現在のところお示しできませんが、その詳細については、後日提出します。

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