Cahier(2023年11月27日)

A ceux qui voudraient faire grief à Simone Weil, sur- tout présentée par un prêtre, de ses erreurs, de ses exagé- rations, volontiers je répondrais : « Que lui lance la pre- mière pierre celui qui n’a jamais péché contre la lumière, qui en a suivi toutes les exigences, qui a été jusqu’au bout fidèle! » Le mot immortel du grand converti d’Hip- pone remonte à mes lèvres : « Que ceux-là s’emportent contre vous, qui ignorent le prix de la vérité…

>>> 特に一司祭が紹介する「シモーヌ・ヴェイユ」について、その誤りや誇張を不満とする人々に対しては、私は進んでこう答えたい。「光に反して罪を犯したことはなく、光のすべての要求に従い、最後まで忠実であった人は、彼女に最初の石を投げるが良い」(ヨハネ福音書3:20、8:7)・・・・・・ヒッポの偉大な改宗者(アウグスティヌスのこと)の不滅の言葉が私の唇にのぼる。「真理の価値を知らない人々はあなた方に怒るがよい・・・・・・」

La joie d’avoir trouvé, ou plutôt d’avoir reçu la vérité, doit-elle nous rendre insensibles à la sagesse douloureuse et incomplète  de ceux qui cherchent en gémissant et qui tâtonnent dans leur ascension? Fr. J.-M. PERRIN, Dominicain.

うめきつつ求め、上昇のために手さぐりする悩める不完全な知恵に対して、私達は自分が真理を持っているという喜び、あるいはむしろ自分が真理を受けいれたという喜びによって無感覚であるべきだろうか? ――シモーヌ・ヴェイユ著・神を待ち望む・ペラン神父の序文――

日本語訳に収録されているぺラン神父序文は、フランス語版は初版しかないようで、古本で購入しましたが収録されておらず、

キンドルで出るたびに買ったり、何度か買おうとトライしてますが日本には送れませんとかで手に入らなかったのが漸く届きました。la sagesse (知恵)douloureuse(痛み) et incomplète(そして不完全)と、不完全と知恵に「痛み」が挟まっている。これが知りたかった。

C’est pourquoi j’ai intitulé ce livre Attente de Dieu, j’ai essayé par ce titre de traduire le « en upomèné », en patience de l’Evangile, un des mots que Simone savou- rait le plus, peut-être parce qu’elle y retrouvait une cer- taine saveur stoïcienne, mais plus certainement parce que c’était sa manière de se donner à Dieu, de s’en remet- tre à lui de tout rester en attente et en disponibilité totales.

私がこの本を「神を待ち望む」と題したのはそのためであって、シモーヌが最も気に入っていた言葉のひとつである福音の「忍耐のうちに」« en upomèné »(ルカによる福音書8:15、21:19)という言葉を翻訳しようとしたものである。 おそらく彼女は、ある種のストア学派的な香りを、この言葉に感じていたのだろうが、より確実なのは、それが神に身を委ね、完全な期待と可能性の中にとどまるという彼女の方法だったからである。

日本語版に収録されている何故、ぺラン神父が「神を待ち望む」としたのか、ヴェイユの好きな福音書から選んだという箇所も見れた。

悩める不完全な知恵

「誰が主の思いを知り、主に助言するというのか」しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。1コリントの信徒への手紙 2:16 (共同訳:以下同じ)

使徒パウロがコリントの信徒たちに対して述べた言葉。この文脈では、パウロは知恵や知識について語っていて、人間の知識や理解力には限界があること「不完全な知恵」について指摘している。他にも

1. イザヤ書55:8-9「『わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なる』と主の仰せ『天が知よりも高いのに わたしの道はあなた型の道より高く』

2. ローマ書11:33-34「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかに辿り難いことか。誰が主の思いを知っていたであろうか。誰が主の助言者となっただろうか。誰がまず主に与えて その報いを受けるであろうか」

というように聖書には似たような話が繰り返されている。イエスの到来以降、その繰り返しが少し変わるのは、「誰が主の思いを知り、主に助言するというのか」という問いに対して、パウロは「しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています」と答えるところにある。これは、パウロ自身やキリストの信徒たちは、神の恵みによってキリストを受け入れ、キリストの教えに応じることができると言っていることを意味する。したがって、パウロは知識や知恵が限定的であることを認識しながらも、キリストに信頼を置き、キリストの教えに従うことの重要性を強調している。

シモーヌ・ヴェイユの「神を待ち望む」(Attenet de Dieu)について、死後に集められた原稿を編集したものだが、私はこのペラン神父の序文があってこそ成り立っていると思っている。ペラン神父のように、貧しい人への活動を怠らなかった聖職者がつくことによって、「キリストの思いを抱いていること」を肯定される。

2016年に「不完全な知恵」に関して、チェスのボビーフィッシャーの話に準えて書いたことがあったけれども、何故私が並べたのかは記載がなかったため、その理由をいまいち思い出せない。ただ単に、書き残すことについて、美談にするか現実的に書くのか、「本意」すらもわからない状態で何かをもがいていたのかもしれない。

なぜ、チェスだったのか、それだけ触れることはできる。

チェスはフィッシャーのように対戦するものと、芸術性を表す「チェスプロブレム」というものがある。数学でも、解の一意性というものがあるけれども、チェスの対戦とチェスプロブレムの違いは、一意性であるか、ないかの違いに分かれる。普通のチェスは、例えば白にとって何手でも打つ手が存在する場合、減価事項となる。チェスの専門用語でこれをデュアルと言う。チェスプロブレムというのは、芸術に特化したもので、詰め方に一意性だけしか見当たらないものが条件だったりする。他の手が見つかると「不完全」となる。

 聖書にも一意性はあったりする。勿論、文脈や時代背景に左右されるのであくまでも「側面」的なことではあるが、ユダはやはり裏切らないと話が進まないし、洗礼者ヨハネはヘロデに警告しなければならないし、イエスは処刑されなければならない。他の選択肢があったら「聖」でなくなる。このように、動かしてはならないものがある。文学や哲学において一意性というのは存在するのか、といえばそれこそ「不完全な知恵」なのかもしれない。それには一意性を意識しているものであれば、完全に離れていくものもある。オスカーワイルドサロメは、サロメが最後に処刑されるという、洗礼者ヨハネとはどういう存在だったかという一意性に沿っている。ジェーンエアの親友の死もそうだ。神の家というものの一意性を意識している。ヴェイユはどうだったのだろうか、思想として正統派ではないものもあるが、ペラン神父が注釈や批評をつけていることによって完成した何かがあると思っている。

一意性を巡った不完全な知恵は迂回しながら、何処かへ向かおうとする。痛みを伴うのは、進もうとするからである。それこそ「神を待ち望む」ように。

他サイトリンク(カトリック・あい)私が書いたコラムです。

>>二枚目の写真について:チェスプレイヤーのボビー・フィッシャーがカストロ議長と話している写真である。(カストロ議長はトーナメント前にフィッシャーに横槍を入れている)

Cahier(2023年11月15日)

はじめに

今月から、気に入った文章の「簡単な分析だけのもの」を投稿していきたいと思います。

その際はタイトルはCahier(日付)とします。

今までの批評の更新も、今後も続けていきたいと思います。

La pesanteur et la grâce (1)

今日はシモーヌヴェイユです。

Ce n’est pas la faute qui constitue le péché mortel, mais le degré de lumière qui est dans l’âme quand la faute, quelle qu’elle soit, est accomplie. La pureté est le pouvoir de contempler la souillure.L’extrême pureté peut contempler et le pur et l’impur ; l’impureté ne peut ni l’un ni l’autre : le premier lui fait peur, le second l’absorbe. Il lui faut un mélange. −L’attention et la volonté 

重力と恩寵(La pesanteur et la grâce)でいえば「L’attention et la volonté」(注意と意志)に記載されているものです。

シモーヌ・ヴェイユは20世紀の哲学者ですので、フランス語自体は古いものではありません。シモーヌ・ヴェイユの原文(フランス語)の

特徴は、文学的な旋律があり、今回のこの引用は韻律はありませんが、一部の言葉や考えが繰り返されているのでリズム感があり、

言葉選びや、フレーズは思索的な複雑さを短い文章の中で孕んでいます。

和訳:死すべき罪を定めるのは過失ではなく、その過失がどのようなものであれ、過失が成し遂げられたときに魂の中にある光の度合いである。純粋さとは、汚れを注視する力である。極限の純潔は、純粋なものと不純なものを注視することができるが、不純なものはそのどちらもすることができない。前者(純粋)はそれを恐れさせ、後者(不純)はそれに溶け込んでいる。これには混ざり合うことが必要だ。

・「死すべき罪」もしくは「死にいたる罪」とは、直接的な言及ではないけれども、新訳聖書の1ローマ信徒への手紙6:23「罪の支払う報酬は死です、しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命なのです」等キリスト教教義にも由来しているかもしれません。

「死にいたる罪」(Le péché mortel)は「致命的な罪」と訳されます。

・「contempler(複数形:contemple)」が使用されていますが、通常は「凝視、内省する」という文脈で使用され、より思索として深くなっています。普通に「汚れを見つめる」という意味でなら「regarder la souillure」となります。

ー要約:この文章は、罪と純粋についての探求を短くまとめています。罪を犯すこと自体が致命的な罪ではなく、魂の内にある光の程度が重要であるとしています。純粋なものと、不純なものを見る力を持つのは、非常に純粋な存在であるためです。不純なものというものは、不純なものに溶け込んでしまっている。なので、混ざり合うことについて、必要なことは純粋さのみではなく、不純にも目を向けることだということになります。

試訳ですので、指摘がありましたらお願いします。

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