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はじめに
今月から、気に入った文章の「簡単な分析だけのもの」を投稿していきたいと思います。
その際はタイトルはCahier(日付)とします。
今までの批評の更新も、今後も続けていきたいと思います。
La pesanteur et la grâce (1)
今日はシモーヌヴェイユです。
Ce n’est pas la faute qui constitue le péché mortel, mais le degré de lumière qui est dans l’âme quand la faute, quelle qu’elle soit, est accomplie. La pureté est le pouvoir de contempler la souillure.L’extrême pureté peut contempler et le pur et l’impur ; l’impureté ne peut ni l’un ni l’autre : le premier lui fait peur, le second l’absorbe. Il lui faut un mélange. −L’attention et la volonté
重力と恩寵(La pesanteur et la grâce)でいえば「L’attention et la volonté」(注意と意志)に記載されているものです。
シモーヌ・ヴェイユは20世紀の哲学者ですので、フランス語自体は古いものではありません。シモーヌ・ヴェイユの原文(フランス語)の
特徴は、文学的な旋律があり、今回のこの引用は韻律はありませんが、一部の言葉や考えが繰り返されているのでリズム感があり、
言葉選びや、フレーズは思索的な複雑さを短い文章の中で孕んでいます。
和訳:死すべき罪を定めるのは過失ではなく、その過失がどのようなものであれ、過失が成し遂げられたときに魂の中にある光の度合いである。純粋さとは、汚れを注視する力である。極限の純潔は、純粋なものと不純なものを注視することができるが、不純なものはそのどちらもすることができない。前者(純粋)はそれを恐れさせ、後者(不純)はそれに溶け込んでいる。これには混ざり合うことが必要だ。
・「死すべき罪」もしくは「死にいたる罪」とは、直接的な言及ではないけれども、新訳聖書の1ローマ信徒への手紙6:23「罪の支払う報酬は死です、しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命なのです」等キリスト教教義にも由来しているかもしれません。
「死にいたる罪」(Le péché mortel)は「致命的な罪」と訳されます。
・「contempler(複数形:contemple)」が使用されていますが、通常は「凝視、内省する」という文脈で使用され、より思索として深くなっています。普通に「汚れを見つめる」という意味でなら「regarder la souillure」となります。
ー要約:この文章は、罪と純粋についての探求を短くまとめています。罪を犯すこと自体が致命的な罪ではなく、魂の内にある光の程度が重要であるとしています。純粋なものと、不純なものを見る力を持つのは、非常に純粋な存在であるためです。不純なものというものは、不純なものに溶け込んでしまっている。なので、混ざり合うことについて、必要なことは純粋さのみではなく、不純にも目を向けることだということになります。
試訳ですので、指摘がありましたらお願いします。
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