贖罪と贖い

「自分に要求されているものは分かっていた。それは単なる手紙ではなく、新しい原稿、贖罪の原稿であり、書き始める準備はできていた」

贖罪:イアン・マキューアン

※この記事には自殺に関することが記載されています。

マラルメは精神とは旋律のようなもので、組み直すことが難しいと言った。それを私は何度も「組み直すことができる」と、真逆に読み間違えることが多かった。その原因は分からない。映画の「脳内ニューヨーク」では、一度舞台脚本で大きな賞を受賞した男が、次回作で自分の人生を注ぎ込もうと、もう一つのニューヨークを作ろうとした。一つの悲劇が訪れたら彼は脚本に加えようとするものだから、十七年以上劇場は公開されず、世界が膨れ上がってくる。その中で神父役が「真実は10分の一も見えず、人生の選択には100万本の細い糸が連なっている。破滅へと続く選択をしても、その結果が現れるのは20年後、もはや発端は分からない」と言う。作家は自分自身に責任が来るものだが、自分の殻に閉じこもっては作品を出せないという矛盾を抱えている。自分の役を演じた役者が飛び降り自殺をしたこと、死んでいく娘への謝罪、彼は娘から許されなかった。娘は父親を許さないと言った後に息絶えた。もしも数分生きていたら、答えは変わったのだろうか? 彼は、おそらく彼女から許されるような虚構世界を書こうとした。そんな彼にとって舞台は尽きることのない贖罪だったようだ。贖いとは神の業、償いとは人間の業、償いは欠損や損失を補おうとすること、贖いとは自分の罪と向き合うことと言うが、作家が罪と向き合うとき、贖いという殻に閉じこもることがある。そして「贖罪とは」と考えながら、そして問いながら欠損部分を話の中で生かそうと試みる。作家が「贖罪」を表すということは、課題のように思える。イアン・マキューアンの「贖罪」は、それを顕著に表していた。主人公のブライオニーは幼いころに許されない嘘をついてしまった。少女は既に分別がつく年齢といえばそれまでだが、まだ幼かった。ブライオニーの嘘によって、姉と恋人が引き裂かれ、彼は無実の罪で刑務所に入る。やがて戦争がはじまり、二人は再会できないまま死んでしまう。ブライオニーは看護師として働きながら、片手間で執筆をし始めて贖罪を書き始める。なぜ、「贖い」ではなくて「贖罪」だったのか、彼女の小説では姉と恋人が再会するよう書いたからである。しかし、何故、名作でありながら観客や読者が釈然としないという意見が出てくるのか、これが贖罪をする際に根幹となる「贖い」は晴れることが無いということを作家が残してしまうからである。

私も2016年の出版を最後に書けない日が続いた。生きた心地がしない療養生活は長く、気が付けば2022年で過ぎ去った時間を恐ろしく感じた。その間に私は脳内ニューヨークであったことは否めない。マラルメの詩を何度も読み間違えては、季節が廻った。2019年に一度出版した「類稀なる誠実な病」は元々長編だったのものを、体調悪化に伴って短編として序章で切り取ったものだった。後に続きを出して伏線回収というときに更に執筆が困難になった。考案は2012年頃からあり、聖職者、神聖な存在の自殺というものは平家物語、もしくはもっと遡って古事記にみられる。日本人しか書けない題材として選んだが、題材として誤解を招いたとしても、回収力が必要だということが分かっていた。しかし、当時の私には力はなく、少しの批判で折れてしまう。頭が回らない、脳に霧があるような日が続いた。治るのにどの程度時間がかかるのかわからなかった上に、結局のところ完成した原稿を見ることはなかった。それから避けるように、他の執筆の仕事をしながら療養生活に入る。「姉が自殺しました。神父、あなたのせいです」とあったが、公開されなかった続きではそれは神父が見た幻覚だった。その姉に該当する芹実は実際は生きていて回心していたのである。そして作家としてキリスト教伝道にも成功していて、少しずつ信頼を集めていた。やがて読者の一人が洗礼式でこの作家の話をした。それを聞いた神父が、その女性を疎んでいたので、秘密を暴露されたと思って自殺した。しかし、実際に彼女の書いてあった小説には、その神父の優しさや良い話しか記載がなく、主題は全く違うもので彼女の回心を込めたものだった。

「誠実な病」というタイトルに終盤まで行けば近づいていた。ただ、現代の小説家が誰かの宗教観に働きかけること、所謂伝道というものがあるのかということが懐疑的であり、一度も実現したことがなかったので、想像が過ぎるような気がして出せなかった。この数年間で二つ奇跡がおきました。一つは春の雪です。未公開部分ではありますが三島由紀夫から取りました。けれども執筆当時は桜の花が満開の時に雪が降るというのは見ることが出来ませんでした。元から時々あったようですが、大きく春の雪が存在すると取り上げられたのが2020年でした。実際に、私が見ることが実際に出来たのは2022年でした。だからこの作品は大幅に変更があったとしても、次回作として出すことにしています。

あともう一つは、ロザリオが一足先に教会に戻れるように、それが新しい受洗志願者の手にわたるのなら良いと思いました。キリスト教徒にとって受難は必ず訪れます。例えば私のように、信徒同士、もしくは聖職者によって苦しむこともあるでしょう。私自身の自戒を込めて、私も含めて人間同士の摩擦で落ちた先に、一人の青年と出会った。私たちは同じ弱者だった。青年は私に言った。「クリスさんが連れていってくれるなら、いつでも教会に行ってもいいと思った。洗脳じゃなくて教会のことはクリスさんは一言も褒めなかったし、連れていく話が一切はなかった。それでも僕は、クリスさんの哲学に限らず聖書の話が好きだし、洗礼を受けたいと思うようになった」このように私の元で新しい受洗希望者が現れることは、私だけでなく当時、該当した罪深い聖職者も救われるはずだ。やはり愛(アガペー)は循環するということ、コリント人への手紙の一、十三章にしがみ付いた甲斐がありました。彼らが私を突き落とさなければ私と青年との出会いはありませんでした。あの時の絶望がなければ私は弱っている人への存在に気づけなかったでしょう。人間の神髄は暗闇の中でも見えるものは何か、それが問われていることだと思います。私に謝罪がなくても構いませんが、いつか、当時、罪深かった人たちが、このような新しい新風や循環に感謝できるように、私は祈るばかりです。少なくとも教会が楽しいと言っている彼には感謝すべきでしょう。それは嘗て学びたいと純粋だった私の姿でした。このような若い人を潰すようなことがあってはならない。

だから私はここに書き記すことにします。己の存在は、このように隠されていても誰かの記憶の中で、記録の中で続いていることを忘れないように。ベルクソン哲学から借りるとすれば、過去は感情で動くものだとのことです。私には確かに、キリスト教への批判や受洗志願者の邪魔することも出来ました。私はそれはしませんでした。それは組織ではなく、足の不自由な男に立てると言ったイエスを理解しようとしていたからです。特別な力を使わず、イエスは足の不自由な男に「立てる」と言った。私の贖罪とは、相手への仕返しは悪評で人の足を止めるのではなく、物語を通しての伝道だと思いました。私から育った聖書の言葉、愛で循環された存在、罪深い聖職者はどこかで歓待しなければならない。過去に誰かを自殺に追い込んだのなら、次は誰かを歓待することです。聖職者にはそれ以外の「贖罪」はありません。たとえ告解しても、貴方の贖いは永遠に闇です。もう時間は戻ってきません。償いは、だれかの希望になることです。今度は保身ではなく、血反吐をはいてでも人を救うことです。

 最後に私の罪とは、例えば病院に運ばれたときに、迎えにきてくれた人が、死神は人に憑依するとその人は言い出した。何も知らなかった私は、「死神なんて存在していない」と笑ったが、そう思わせたのは私だった。私にとって、既に神父はどうでも良い存在になっている。けれども、私のせいで傷を負った人に贖罪は続いている。但し、一般人よりも聖職者は一生を左右してしまう定めを持っていることに私も哀れにも思っている。私にはその定めはありません。それらを考慮して解放される日を祈っています。

このロザリオは、十年以上自分と共に歩んできました。その間に友人の死もあり、様々な別れもありました。一度、カトリック関連の処分を試みましたが、ロザリオは残しました。あの時の捨てられない、理屈では捨てられなかった、というものが此処に生きたことを。どんな時でも、祈りを忘れないようにと譲りました。最近、少し走れるようになりました。声が出せない時期から、声も綺麗に戻ってきました。だから祈りの言葉も綺麗になりました。

確かに、誰か一人のせいの不幸ではありませんでした。けれども……とりあえず今日も祈ることです。

東京は桜満開後に積雪
1969年以来51年ぶり

https://weathernews.jp/s/topics/202003/290165/?fbclid=IwAR0dGpQxcm0K5UIEYk5Av-nZTS-028EGsv5m6sBwo4YTMjvf2OdqjyeMcKE

文学と私刑 飛翔点(2)

罪からくる報酬は死です ローマ人への手紙6:23



はじめに

 聖書を文学の一つだと答える人もいるが、「聖書は文学ではない。聖書は聖書だ」と言い放った無名の言葉が一番的確だと思っている。作家を目指した若い頃の私は、まず自分の存在は「名も無き虫」と受け入れることから始めた。確かに私は存在している、けれども他人からは知らない虫だった。小説とは自分の伝えたいことを残せるものでもあるが、それをそのまま書いても残らない。そのために推敲で切り捨てる冷静な目が必要だった。大切な人の死を書いても容赦なく「面白くなかった」と批判が来る。それを受け入れること、聖書を頂点として私の自我はへりくだる。何故なら全部、聖書を頂点として過去の遺産に書かれてある。想像の処女性は無い、それが私の執筆生活の幕開けだった。それでも私には長年くすぶってしまった課題が残っていた。「残酷な話を書く」こと、特に「私刑」についてだった。ローマ人への手紙の「罪からくる報酬は死です」という引用は何度も原稿の中で移動し続けた。或る時は序章、或る時は世に出ることがなかった登場人物達がこの引用を語った。実際にこの聖書の言葉はこの続きがある。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのち」と、罪の流れを断ち切ることが出来ない人間にイエスが赦しを与え、死人は罪を犯せないと説明を受ける。

「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学

 私は2018年以降の療養中にアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」も好んだ。この話には探偵は登場しない。三人称視点だが、各々の死体が語りだすような感覚に陥り、真実は黙絶法によって手紙に集約される。ここに集められたのは法で裁かれない罪を犯した10人だった。殺された被害者の一人のエミリー・ブレントは狂信者だったが、妊娠した使用人を自殺に追いやった過去があった。彼女は自分が次は殺されると思ったのか、「夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない」と神の救いを約束する詩編91篇で心の安定を図ったが、祈りも虚しく蜂に刺されて死ぬことになる。この孤島の惨劇は、裁判官のウォーグレイヴの殺害計画によって企てられていた。容赦なく過ぎ去る時間の中で、意識の時間と世界の時間は必ずしも一致しないとはベルクソン的なものだが、エミリーも信仰という内面世界での判断が外界へ歪を生んでいた。犯人も同じである。公刑で裁かれなかった罪、という内包された罪に犯人は目をつけた。純粋に内的な意識が向けられること、純粋持続とはキリスト教的な愛、光や善とは限らない。哲学的な純粋とは、普遍性をさし、倫理に囚われない。制裁による殺意とは、哲学と神学が倫理によって囚われて隠れてしまうものが不文律として浮かび上がる。

 人間の罪とは宗教上は戒められ神から赦しを得られる。しかし、私達が生まれてから目にする社会とはそうとは限らない。罪人というものを戒めることをしないこともある。裁判官はそれに目を向け、この計画を思いついた。この話の醍醐味である見立て殺人の人形はマザーグースの詩に準えていた。インディアン人形、もしくは兵隊人形と翻訳される。この詩も古いもので元は黒人を象徴していたが、次にインディアンと変えられた。占領と迫害を象徴した人形で見立て殺人が行われる。物質は記憶、精神と物質の二元論がこの中にはあった。孤島での時間は誰も所有出来ず、主人公そのものが存在していない。10人を招待したオーエン夫妻(UnKowen)という架空の存在に操られることになる。この島の運命を司るのは姿無き存在だった。物質と空間、そして記憶、これらの関係性は大抵の人が哲学として意識しないでやり過ごす。それでも人形のように、物質が暗示的になり、自分の身が危ういとなるとすぐに認識する。彼等はマザーグースの詩や人形に意味を見出して、真犯人の計画の中で生きることになった。一人一人の過ちを暴露する謎の声を流す蓄音機、つかみどころのない音は聴覚として流体的に生きる。気が付いたら、退屈で眠くなる哲学、物質と精神の交わりに怯えるようにさえなる。

 その光景は仕掛けた判事にとっても芳しいものだったのだろう。食事のテーブルマナーのように、彼は美しく順序よく殺人を行った。銃声の音と共に、犯人であるウォーグレイヴは死んだフリをした。それから起き上がって、更に彼の亡霊劇は加速する。ウォーグレイヴが自己陶酔に陥っていたのは、自分を聖書のカインとアベルのカインに見立てたところに現れている。カインは聖書の始めの殺人を犯し、嘘もついたが神はカインに復讐をさせないようにした。よって、判事は正義という審美眼を錯覚したことになる。何故なら、神の望みというものに私刑は望まれない。ただし、私刑と審美眼は表裏一体である。例えば、それは別々に描かれてある「ソーマロープ」のように。鳥かごと鳥が別々に描かれたソーマロープは、回せば鳥かごの中にいる鳥に見えてくる。ソーマロープを回せば共存してお互い関わっているかのように鳥かごの中に鳥がいる。それに目をつけたのは文学だろう。絵画や音楽等、その他の芸術は「私刑」を扱わない。絵画は裁きに関しては宗教画、もしくは「公刑」に止まっている。

言葉は神の言から、詩、箴言、虚構、ジャーナリズムと様々な役割を持つ。絵画や音楽は皆が本気で取り組むことは無いが、言葉は皆が習得し、時には愛を語り、時には嘘を語るように、誰しもが本気になる。しかし、言葉は単純に時間と共に生成消滅をしていく。「愛している」と言う言葉も色褪せていくのは、言葉は知覚や記憶、体感を要するからである。愛というものは言葉のみでは生きられない。愛には付随して感情と行動が伴われる。それでも愛と言う言葉は、しばし多くの人間が連想されやすい。理解しがたい愛の前でも、方向性は認識できる。愛は行動をし、行動によって愛だと知る。対して殺人や私刑というものは因果関係の感情を容易に理解出来ない。マザーグースのインディアンの詩は残酷な詩であり、最後の一人のインディアンは首を吊って死んでしまう。この10人はこの詩の意味を充分に理解する。命が脅かされることによって意識や時間の純粋持続が机上の空論でなくなった。そのうえ彼等は贖罪をすることもなく過去≒記憶によって終わるのである。

ソーマロープ
絵画:スチェパン・ラージンの死刑 Sergey Kirillovセルゲイ・キリロフ

私刑による魂・善悪に囚われない意識

 10人の招待客のように強制的に強いられなければ、記憶、時間、空間を切り離しては対象として見ることはない。プラトンの三つのイデアによれば、⑴は真、⑵は美、⑶は善に向かう興味であるという。スターンバーグはこの美の審美的興味とした。聖書にはそのような構図が旧約聖書のハガルの話で見られる。アブラハムの妻サラには子供が出来なかったので奴隷のハガルに産ませた。その子供の名前は「イシュマエル」とした。殺されたエミリー・ブレントと境遇は似ているが、ハガルの最後は神から救われる。

聖書世界の「人を殺してはならない」(出エジプト20・13)とうものは神という絶対者の元で、信仰に基づいている。人間は神との約束を破ってしまうので常に債務を負っているということだが、文学は悪戯に約束を破り続けながら「悪」を書いているのだろうか、数多く存在する作家の目的を絞ることは出来ないが、ジョルジュ・バタイユは「文学と悪」によって、文学の最高は世の水脈から悪を探り当てることだと思わせた。想像だけで書くのか、体験があって書くのか、作家は哲学的に整理することもある。そして想像だけでは事足りなくなり、ドラマティックな発言よりも日常化を求めるようになる。だからこの話は静かだ。この「そして誰もいなくなった」の登場人物達は犯人を除いて表面上の出来事しか知ることが出来ない。探偵が存在しないこの作品は悪が善を紐解く鍵にならない。神の存在が確認出来るとすれば、判事が瓶に入れて拾われるはずのない告白文を「漁船」が偶然に拾ったことだ。キリスト教と漁師の関わりは深い。ペトロは漁師であり、イエスに「人間を獲る漁師となる」と言われた。しかし、ミステリー小説という大枠の中でこの観点は砂金のようなものだろう。しかし、現実世界とはそのように「観点」と「意識」が無ければ無味乾燥なものではないのだろうか。カレル・ファブリティウスの絵画が爆発事故での生き残りであると、絵画は燃えてしまえば意味がない。文章はどのように人に影響を与えるのか。文学は言葉や概念が表すものや、人の感情が仏教的に固定的実体を持たない性質を持つ。だからこそ「誰もいなくなった」というのは、文章世界の残酷な一面を表している。

 絵画は言葉で解説をしても、絵画として残っていることを条件とする。文学は聖書と並べられるが、目で見える空間と形には辿り着かない。嘗て絵を描いていた頃にデッサン力や色彩感覚を褒められた。常に思索や概念を抱いては、描くことで自分を探していた。哲学的考察がより一層衝動的になったのはこの時期だろう。若いが故に言葉になれないものは型を求めず、そして何かに頼ろうとして絵を描こうとする。若い間に現れるのは情熱ではあったが、私は円熟したものが欲しかった。意識と自分の技術から跳ね返る自己像に耐えられなかった。抽象絵画のように形からの脱却をしながらも色を用いる限り空間と比率が生まれる。あくる日に私は描きたい空間がなにもないことに気づいた。ゴッホが向日葵を描いたように、そして色を拘ったように出来なかった。私は愛や存在に関する思惑ばかり目に行った。21世紀になった今は哲学も心理学も、宗教は勿論、心や魂から離れながら進んでいる。それらを言い表すのなら宗教的観点が必要となってくるからだ。しかし、文学はまだ魂を書き表せる。ニーチェは復讐感情をルサンチマンとした。道徳的により、弱者が強者を悪とする。この価値の転倒は、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」では弱くなっている。

犯人は、代理復讐を装い、快楽に走った。そのような復讐心や道徳的奴隷で殺したのではない。全て10人のインディアンの詩と人形に集約され、人が殺されて消えていく。作中に芸術家は承認欲求が大きくなるとあるが、それはこの犯人のことだろう。隠された欲求と快楽の実現は孤島で行われた。彼が社会的な名誉を欲したのなら、このような事件は起こさなかった。自分の告白文を拾われるかどうか分からないのに瓶に入れて投げ捨てた、魂の確かめ方はこのような事もある。それが「私刑」の末路である。

花を描くことを選ばなかった私の探求は鳥の巣のように集められ、形成を試みていた。それは現象学として、そして詩情として、美しい心情があった。鳥の習性と偶然性で集められた草木は神の御言葉でもあり、棘があるものもある。それは根腐れ、弱い草、枯れた草、

次回作はそのような「悪」を書きたい。

概要

私刑と文学

酷な話を書くということはジャーナリズムのように、自分と他者を切り離せない。小説とは時には自分の悪意も生かしては吐露する必要がある。

アガサクリスティ「そして誰もいなくなった」とベルクソン哲学を扱った。馴染みのない、物質と精神は、哲学として読むと抽象的だと批判されるが、殺人ゲームの前では皆、その意味を理解した。インディアン人形が自分達の命を表し、意味不明なマザーグースの詩の通りに死んでいく。

哲学上の意識とは道徳や倫理に囚われる必要性がない。宗教的な善の必然性がないということ、それらの考えを今回は序章としてまとめた。

「私刑」それは虐げられた、消される魂の承認欲求である。

解説

関連過去ブログ

この記事は飛翔点(Ⅰ)に続きます。

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幸福の王子 オスカーワイルド

「もっとも美しい魂を持ってきなさい」

オスカーワイルド「幸福の王子」

火を人類に分け与えたプロメテウスはゼウスから罰を受けた。彼もイエスも人間を愛していた。ギリシャ神話もイエスも、人間に愛を与えた神聖な存在は罰を受けた。「幸福の王子」はカトリックへの改宗を希望としたワイルドの最もキリスト教的な作品と言われる。エジプトへと行き遅れたツバメは、王子の像の足元で休もうとしました。すると、像である王子が泣いていました――。

ツバメが他のツバメよりも6週間も遅れたのは、ツバメは恋をしていたからだ。相手はReed(葦)でした。Shall I love you(君のことを好きになってもいいかい?)と始まった恋、彼女はうんと頷きました。一緒に遠くへ行かないか、というと彼女は首を横に振りました。風と浮気性の彼女、ツバメは彼女に別れを告げて旅立ちました。金の銅像の王子は生まれ変わる前は天使のような存在でした。塀の外を知らない王子は、幸福のまま死にました。彼は「幸福の王子」と呼ばれ、銅像になった。塀の外を知った王子は世の貧しさと卑しさに絶望していました。王子は貧しい人達に自分を飾り立てている宝石や金をツバメに運んでもらいました。

王子はやがて与えられるものが無くなりました。ツバメも疲れきっていました。ツバメは王子に最期のキスをして、二人は死にました。王子は溶かされて新しい銅像となりますが、心臓だけは溶けなかったのでツバメの亡骸と一緒に捨てられました。それを、天使が拾って天の国へと連れていきました。

 私の幼少期に出回っていたものは、前半のツバメの恋と終盤のキリスト教色が省略されていた。それでも献身的な王子とツバメの姿は日本人にも人気がある童話である。何処となく、冬の日の貧しい人達、という光景がアンデルセンの「マッチ売りの少女」を思い出させるが、幸福の王子にはマッチ売りの少女が存在する。ツバメが最後に金箔を与える相手が、

マッチ売りの少女だった。ツバメは一夫一婦制で、子育てを交互に行う。ツバメは餌を100回以上も運ぶので、この話は生態系としても成り立っている。

塀の外を知らなかった王子は、王子という称号のままなので、大人になれずに亡くなったと考えられる。オスカーワイルドは、他の作品、「わがままな巨人」でも子どもの神聖さに触れている。巨人は塀の中に立派な庭を持っていた。巨人が留守の間に子供たちが遊びに来ました。巨人はそれを見つけると子供たちを追い出しました。すると春が庭に来なくなったのです。巨人は子供たちを受け入れました。それは、マタイによる福音書 18:3-5にあるように、天の国に行けるのは子どものような存在ということを深く信じていたと考察される。

 ツバメが貧しい人達へ飛びまわる姿を想像すれば、そのイマージュは街並みを、そして空間を思わせる。ベルクソンでいう、時間という空間の例えになりそうだった。時間は線上でもなく、刹那的なものでもない。ツバメは反復し、直線、平面を描く。飾りを失った王子を処分する大人たちの「外側」とは違った内面時間をツバメと王子は生きていた。

彼等の心優しい行いは、規則的な時間とは違う。純粋持続(durée pure)とでもいうのか、

転変と保存という両義的な中で彼等は生きていた。人間を愛するということが如何に難しくて、代償を必要とするのか。それは貧しい街と人々の描写で表れている。見下ろせるほど高い場所に存在する王子様の愛は、隙間を入れる小さなツバメを必要とした。王子様は富の象徴だったので、分け与える必要があった。裕福な者が天の国に行くことは針の穴を通るよりも難しい(マタイの福音書19章24)とあるように、彼等は狭き門(ルカによる福音書13章23と24節)への準備と始める。けれども王子は、悲惨 miseryは神秘mysteryではないとツバメに言った。彼等は天使によって運ばれる。

最も美しい魂として。

純然なる魂の存在というものが文章世界に現れるとき、光が視界に入り込む。

それは心の中でのことで夜明けの連想と共に、美しい朝日が神の存在を現すかのようだった。貧しい街並みの身勝手な台詞が遠のいていくことは、

私達のイマージュは天の国へと上昇する。

 私は子どもの頃は止まるツバメになりたくなかった。王子の話を無視して暖かい国へと飛んでいくツバメになりたかった。けれども、神聖な愛以外に飛んでいく場所なんてないのかもしれない、その意味に気づいた。日本語の祈りの言葉である「あなたを置いて誰の所に行きましょう」のように。

参考資料

『Brief Lives: Oscar Wilde』by Richard Canning Hesperus Press Ltd.

Essai sur les données immédiates de la conscience Henri-Louis Bergson

備考

「あなたをおいて誰のところに行きましょう」は英訳版の祈りの言葉では、

But only say the word and my soul shall be healed.「ただその言葉を言うだけで、

私の魂は癒される」となっている。多国籍ミサのときに同時に聞くと深くなる。

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