贖罪と贖い

「自分に要求されているものは分かっていた。それは単なる手紙ではなく、新しい原稿、贖罪の原稿であり、書き始める準備はできていた」

贖罪:イアン・マキューアン

※この記事には自殺に関することが記載されています。

マラルメは精神とは旋律のようなもので、組み直すことが難しいと言った。それを私は何度も「組み直すことができる」と、真逆に読み間違えることが多かった。その原因は分からない。映画の「脳内ニューヨーク」では、一度舞台脚本で大きな賞を受賞した男が、次回作で自分の人生を注ぎ込もうと、もう一つのニューヨークを作ろうとした。一つの悲劇が訪れたら彼は脚本に加えようとするものだから、十七年以上劇場は公開されず、世界が膨れ上がってくる。その中で神父役が「真実は10分の一も見えず、人生の選択には100万本の細い糸が連なっている。破滅へと続く選択をしても、その結果が現れるのは20年後、もはや発端は分からない」と言う。作家は自分自身に責任が来るものだが、自分の殻に閉じこもっては作品を出せないという矛盾を抱えている。自分の役を演じた役者が飛び降り自殺をしたこと、死んでいく娘への謝罪、彼は娘から許されなかった。娘は父親を許さないと言った後に息絶えた。もしも数分生きていたら、答えは変わったのだろうか? 彼は、おそらく彼女から許されるような虚構世界を書こうとした。そんな彼にとって舞台は尽きることのない贖罪だったようだ。贖いとは神の業、償いとは人間の業、償いは欠損や損失を補おうとすること、贖いとは自分の罪と向き合うことと言うが、作家が罪と向き合うとき、贖いという殻に閉じこもることがある。そして「贖罪とは」と考えながら、そして問いながら欠損部分を話の中で生かそうと試みる。作家が「贖罪」を表すということは、課題のように思える。イアン・マキューアンの「贖罪」は、それを顕著に表していた。主人公のブライオニーは幼いころに許されない嘘をついてしまった。少女は既に分別がつく年齢といえばそれまでだが、まだ幼かった。ブライオニーの嘘によって、姉と恋人が引き裂かれ、彼は無実の罪で刑務所に入る。やがて戦争がはじまり、二人は再会できないまま死んでしまう。ブライオニーは看護師として働きながら、片手間で執筆をし始めて贖罪を書き始める。なぜ、「贖い」ではなくて「贖罪」だったのか、彼女の小説では姉と恋人が再会するよう書いたからである。しかし、何故、名作でありながら観客や読者が釈然としないという意見が出てくるのか、これが贖罪をする際に根幹となる「贖い」は晴れることが無いということを作家が残してしまうからである。

私も2016年の出版を最後に書けない日が続いた。生きた心地がしない療養生活は長く、気が付けば2022年で過ぎ去った時間を恐ろしく感じた。その間に私は脳内ニューヨークであったことは否めない。マラルメの詩を何度も読み間違えては、季節が廻った。2019年に一度出版した「類稀なる誠実な病」は元々長編だったのものを、体調悪化に伴って短編として序章で切り取ったものだった。後に続きを出して伏線回収というときに更に執筆が困難になった。考案は2012年頃からあり、聖職者、神聖な存在の自殺というものは平家物語、もしくはもっと遡って古事記にみられる。日本人しか書けない題材として選んだが、題材として誤解を招いたとしても、回収力が必要だということが分かっていた。しかし、当時の私には力はなく、少しの批判で折れてしまう。頭が回らない、脳に霧があるような日が続いた。治るのにどの程度時間がかかるのかわからなかった上に、結局のところ完成した原稿を見ることはなかった。それから避けるように、他の執筆の仕事をしながら療養生活に入る。「姉が自殺しました。神父、あなたのせいです」とあったが、公開されなかった続きではそれは神父が見た幻覚だった。その姉に該当する芹実は実際は生きていて回心していたのである。そして作家としてキリスト教伝道にも成功していて、少しずつ信頼を集めていた。やがて読者の一人が洗礼式でこの作家の話をした。それを聞いた神父が、その女性を疎んでいたので、秘密を暴露されたと思って自殺した。しかし、実際に彼女の書いてあった小説には、その神父の優しさや良い話しか記載がなく、主題は全く違うもので彼女の回心を込めたものだった。

「誠実な病」というタイトルに終盤まで行けば近づいていた。ただ、現代の小説家が誰かの宗教観に働きかけること、所謂伝道というものがあるのかということが懐疑的であり、一度も実現したことがなかったので、想像が過ぎるような気がして出せなかった。この数年間で二つ奇跡がおきました。一つは春の雪です。未公開部分ではありますが三島由紀夫から取りました。けれども執筆当時は桜の花が満開の時に雪が降るというのは見ることが出来ませんでした。元から時々あったようですが、大きく春の雪が存在すると取り上げられたのが2020年でした。実際に、私が見ることが実際に出来たのは2022年でした。だからこの作品は大幅に変更があったとしても、次回作として出すことにしています。

あともう一つは、ロザリオが一足先に教会に戻れるように、それが新しい受洗志願者の手にわたるのなら良いと思いました。キリスト教徒にとって受難は必ず訪れます。例えば私のように、信徒同士、もしくは聖職者によって苦しむこともあるでしょう。私自身の自戒を込めて、私も含めて人間同士の摩擦で落ちた先に、一人の青年と出会った。私たちは同じ弱者だった。青年は私に言った。「クリスさんが連れていってくれるなら、いつでも教会に行ってもいいと思った。洗脳じゃなくて教会のことはクリスさんは一言も褒めなかったし、連れていく話が一切はなかった。それでも僕は、クリスさんの哲学に限らず聖書の話が好きだし、洗礼を受けたいと思うようになった」このように私の元で新しい受洗希望者が現れることは、私だけでなく当時、該当した罪深い聖職者も救われるはずだ。やはり愛(アガペー)は循環するということ、コリント人への手紙の一、十三章にしがみ付いた甲斐がありました。彼らが私を突き落とさなければ私と青年との出会いはありませんでした。あの時の絶望がなければ私は弱っている人への存在に気づけなかったでしょう。人間の神髄は暗闇の中でも見えるものは何か、それが問われていることだと思います。私に謝罪がなくても構いませんが、いつか、当時、罪深かった人たちが、このような新しい新風や循環に感謝できるように、私は祈るばかりです。少なくとも教会が楽しいと言っている彼には感謝すべきでしょう。それは嘗て学びたいと純粋だった私の姿でした。このような若い人を潰すようなことがあってはならない。

だから私はここに書き記すことにします。己の存在は、このように隠されていても誰かの記憶の中で、記録の中で続いていることを忘れないように。ベルクソン哲学から借りるとすれば、過去は感情で動くものだとのことです。私には確かに、キリスト教への批判や受洗志願者の邪魔することも出来ました。私はそれはしませんでした。それは組織ではなく、足の不自由な男に立てると言ったイエスを理解しようとしていたからです。特別な力を使わず、イエスは足の不自由な男に「立てる」と言った。私の贖罪とは、相手への仕返しは悪評で人の足を止めるのではなく、物語を通しての伝道だと思いました。私から育った聖書の言葉、愛で循環された存在、罪深い聖職者はどこかで歓待しなければならない。過去に誰かを自殺に追い込んだのなら、次は誰かを歓待することです。聖職者にはそれ以外の「贖罪」はありません。たとえ告解しても、貴方の贖いは永遠に闇です。もう時間は戻ってきません。償いは、だれかの希望になることです。今度は保身ではなく、血反吐をはいてでも人を救うことです。

 最後に私の罪とは、例えば病院に運ばれたときに、迎えにきてくれた人が、死神は人に憑依するとその人は言い出した。何も知らなかった私は、「死神なんて存在していない」と笑ったが、そう思わせたのは私だった。私にとって、既に神父はどうでも良い存在になっている。けれども、私のせいで傷を負った人に贖罪は続いている。但し、一般人よりも聖職者は一生を左右してしまう定めを持っていることに私も哀れにも思っている。私にはその定めはありません。それらを考慮して解放される日を祈っています。

このロザリオは、十年以上自分と共に歩んできました。その間に友人の死もあり、様々な別れもありました。一度、カトリック関連の処分を試みましたが、ロザリオは残しました。あの時の捨てられない、理屈では捨てられなかった、というものが此処に生きたことを。どんな時でも、祈りを忘れないようにと譲りました。最近、少し走れるようになりました。声が出せない時期から、声も綺麗に戻ってきました。だから祈りの言葉も綺麗になりました。

確かに、誰か一人のせいの不幸ではありませんでした。けれども……とりあえず今日も祈ることです。

東京は桜満開後に積雪
1969年以来51年ぶり

https://weathernews.jp/s/topics/202003/290165/?fbclid=IwAR0dGpQxcm0K5UIEYk5Av-nZTS-028EGsv5m6sBwo4YTMjvf2OdqjyeMcKE

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