カトリック教会は刷新できるか(書籍紹介)

「教会は常に刷新され続ける必要があるというのであれば、(略)自らの聖性をたかめるよう努力し続ける必要があります」p.31 「カトリック教会は刷新できるか」 阿部仲麻呂/高久 充/田中 昇  教友社


はじめに

例えば、皆さんがカトリック教会について良い印象を抱いていないとするのなら、それは最もな意見であって、正しいことでもあります。しかし、中には「現実的」に様々な問題と向き合おうとする聖職者や信徒がいることを、この場で言えるとするのなら叶えたいと思う。この書籍は専門用語で展開されているが、宗教的な枠にとどまるだけでなく、既にニュースになっていることや、教会から離れた人達が抱いている問題を隠さずに現職の神父達が書いています。それでもまだ気づく人が少ないのが現状です。少しでも多くの人がこの記事をきっかけに、調べることが出来ますように。哲学等で宗教を勉強している人達にも、現実的な宗教として手にとってもらいたい一冊です。

書籍紹介

本書は、まず教会の現状を見つめ、教会の実態と信仰の質を見直しながら、教皇庁国際神学委員会が強調されているとする「Sensus Fidei(信仰の感覚)」を軸とし、聖書の伝統的解釈からシノドス、シノダリティまでを時系列とし立証と検証を展開している。「信仰の感覚」とはカテキズムNo.92(英訳版)書かれているものが、身近ですぐ確認できる言葉だが、それは司教から信者までの信仰と道徳の問題において普遍的な同意を示すときに、信仰の超自然的な理解(sensus fidei)に示している。教皇フランシスコがAngelus Dominiにて、かつて出会った、ある謙虚な女性の話を引用した。「主がおゆるしにならなければ、この世界は存在し得ないのです」この言葉を聞いた教皇は「これこそが聖霊が与えてくれる知恵だ」と感嘆の声をあげた。

確かにこれは、信仰と道徳を兼ねそろえ、真の知恵を育んだ発言だった。私は特にコリントの信徒にあてた第一の手紙の12章から出てくる「異言」を思い出させた。パウロは異言に夢中になるコリントの教会の人々に対し、「愛」であることを説いたが、彼女の言葉には「愛」(アガペー/カリタス)が含まれていたということになる。(p.95のカトリックの信者は『信仰の感覚』および『愛』に由来する)   カトリック教会の現状をどうすることで「刷新」できるのか? という問いに、本書は「信仰の感覚」Sensus Fidei(カタカナ表記:センスス・フィディ)を展開していくことを試みているが、信徒が抱く漠然とした信仰心をカトリック教理と共に整理させている。

この試みは哲学者でいえばハイデガーのようだった。彼もまた長らく哲学で問われてきた「存在」についてギリシャ哲学等、語源分析から遡り、現存在分析(精神病理学の一つ)によって、存在の忘却を克服しようとした。この一冊はsensus fidei、(個人の信仰の感覚) sensus  fidelium(集団の信仰の感覚)を見直すだけでなく、他にも堅信や司教とシノドスの関係性も深まり、組織全体の病によって、忘却されることを克服しようとしている。そして何よりも、「刷新」とは何かということについて、教会を発展させることだけを考え続けている現状にも留意したい。カトリック教会は問題点を残したままの発展は在りえないということ、「刷新」とはまず、第一段階として、各々が「信仰の感覚」(センスス・フィディ)に気付くことを示している。次に、「大衆の宗教性」として、人間には自ら生ずる「宗教性」というものがある。二項対立で説明すると、センスス・フィディと大衆の宗教性というものは対立しているように見えて、密接に関わっている。センスス・フィディと世論や多数意見と区別することは間違いであり、教会における経験は、神学者の努力や大多数の司教たちの教えのみでなく、信者の心において「信仰の真実」が守られていることを心に留めなければならないのだ。識別の原理は大衆の宗教性て福音的な本能はセンスス・フィディと結びついている。大衆の宗教性と切り離さない事によって、カトリックの欠点を見つめなおさないとならない。そこには、センスス・フィディとして間違っている判断も多く存在する。(違法聖職者の問題等)

この本の内容がもっと会議等で使われ、バチカンから見たときに日本のカトリックがこのような事に興味があると判断されること、教会の若返り(Invenescit Ecclesia)と共に、   「死せる信仰」(fideis mortua)ではなく、生ける信仰であることを。そして何よりも長い文章体験をした後に残るイメージが聖家族になるように努めること、多くの信仰における羅針盤になることを期待する。  

イエスが「神が遣わした者をあなた方が信じること、それが神の業opus Deiである」と答えたように、小さな私達にも教会を刷新できる可能性があると感覚が研ぎ澄まされますように。  

聖職者の違法行為と身分の喪失

「実際、このような犯罪の性質を考えると、その結果として科せられる刑罰とは別に、
司牧上の任務遂行に対して客観的な不適格性が生じている」
――教会法第1335条「正当な理由」を認めるための条件は消滅する

「聖職者の違法行為と身分の喪失」田中昇著

  1. 1 正義と信仰
  2. 2 聖職者の違法行為と身分の喪失
  3. 3愛と正義
  4. 4 最後に

1 正義と信仰

「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪である」有名なハンナ・アーレントは、悪とは思考停止だと指摘した。そんな彼女は正義と信仰について死の直前にラジオでこのような発言を残している。信仰について、彼女は子供時代にお世話になったラビに「信仰を失った」と話した。ハンナの両親は信仰を持たなかった。彼女はシナゴークに通い、キリスト教の日曜学校にも通った子供時代がある。彼女の宗教への関心は複雑に絡み合っている。告白を受けたラビは分別があってハンナを責めなかった。その代わり、こう尋ねた。「しかし誰があなたに信仰を要求するのだろうか」その続きの記録は残念ながら私の手元にない。

20世紀の哲学は正義と信仰の両立から遠ざかった。教皇ヨハネパウロ二世が絶賛したレヴィナスも、「信仰よりも行いが全てだ」とし、「すべての人にとっての正義」の追求よりも幸福の追求に対しての「警戒」を強めた。実際のところ哲学は「正義」の点において、抽象的概念から抜け出していないところがあるが、法哲学としてなら法の本質を考究するために必要な材料である。現代において、哲学から見ても宗教は時代遅れのお荷物になってしまったことは否めない。しかし哲学や文学を通るとするのなら、宗教は避けられない。他にも学問に世界史等の歴史がある限り、どの程度知るのか、信仰を持つのかそれらは個人に委ねられる。

更に心理学においても、「無意識」のような分析心理学を時代遅れとし、認知心理学を重点に置いている。それによって「魂」というものが等閑になっていることが課題になっている。QOLを考えることについても宗教と魂は諸外国の項目の中で考慮すべき項目にもなっているが、隔たりがあることも現状である。

何故私達が、行き場のない被害に遭ったときに「私刑」というような利己的になることしか出来ないのか。私が前回、「私刑、それは虐げられた、消される魂の承認欲求」と語ったように、そのような選択が残されているのは、過去の歴史が「幸福追求」にとどまり「最大多数の最大限の幸福」である功利主義が優位になりすぎている点を私は指摘する。功利主義の欠点を挙げていけば分かることだが「人間の直感、常識に反する答えを正しいとすることがある」というのがある。それが例えば宗教被害者の陥る不平等である。

そろそろ本題に入るが、カトリックの教会法について知っている信徒は少ない。日本では宗教に入信した場合は、その中での不満があれば棄教することが最善とされる。医療機関も宗教に詳しい心理士は少なく、心の形成においての宗教をあまり重要とされていないのが現状であって、信者にとって陥る困難は計り知れない。私達は不条理に遭遇した時の対処を知らない。それに気づくのは、守ってくれるはずの存在が機能しなかった時である。

2 聖職者の違法行為と身分の喪失

「そして聖職とは特権的立場や名誉職などではなく、あくまで人々への奉仕のためなので、聖職者としてどうしてもふさわしく生きられないのなら、その職を辞し、せめて信者として真っ当に生きるよう努めれば、それこそ教会にとっての善であり、その人個人の救いにとってもそれで十分なのです」

聖職者の違法行為と身分の消失(P104)

今回紹介する「聖職者の違法行為と身分喪失」(田中昇神父)は、人の人生を奪う一人が「司祭」であり「聖職者」という現実を、知ろうとしている人は手にとってほしい一冊である。田中昇神父様は2010年に叙階し、2011年に教皇庁立ウルバノ大学で神学学士号を取得し、東京管区教会裁判所副法務代理として現在教会法の教鞭をとっている。私がこの本を自分のページに加えようと思ったのは、この本は左程知られていないことと、教会の体質からこの本が歓迎されていないと神父様本人から聞いたことによる。

教会は教会法上の刑事・民事事件を扱う。司祭を一般人とし信徒個人で警察や弁護士に相談しに行くこととは別に、教会にも教会法、教会裁判というものがある。そして大衆の「宗教なんか入るから」という認識から切って正義について考える際に、カトリックの聖職者は叙階の誓いを破ることで本来なら離職対象であるということを忘れてはならない。田中神父の本は一切、同業者である聖職者の擁護は書かれていない。

まず、私達は「愛が律法を完成する」に気を取られて削られてしまう「正義」について認知しなければならない。特にこの本を読まないと知らなかったのが、「聖職者の違法行為と身分喪失」という表題を英訳する際に、どう英訳するのか迷ったことに始まるが、今までの認識だと、もう少し柔らかい言い方がないか、聖職者の解雇に該当する単語を探していたら、p134に聖職者の身分の喪失について書かれてあった。(教会法第290条-293条)元々、旧教会法典においては「信徒の身分への還元」と称されていたが、新しい教会法典で「身分喪失」と言い換えられている。

聖なる職階とは存在論的性質に関わる秘跡的状態を明示するものである。キリストの位格において働く能力を与えられている彼等(教会法第1008条)は、洗礼や堅信と同じように魂に消し去ることが出来ないしるしを刻印するもの(教会法第1008条)、一度有効に授けられた叙階の秘跡は消滅させることも撤回することも出来ないが、聖職者の身分は喪失することがある。重大な犯罪を犯した、あるいは違法行為を行った聖職者に対して科せられる聖職者の身分からの追放は、教会法第1336条に定められている「贖罪的終身刑」になる。このように離職対象である聖職者の追放の法律は他にも存在している。

3愛と正義

  

 フランスのカトリック性被害者訴訟を映画にした「グレース・オブ・ゴッド」でも、被疑者である司祭は「寛容」「許し」を求めた。長期間に渡って集団にとって多くの「正常性バイアス」がかかり、「情治国家」(対義語:法治国家)のようだった。確かにカトリックは大きな組織であり、信徒にとって、被害者よりも司祭の人間性を知っていることが多く「あの神父は良い人だった」と被害を信じられない。今回の映画の被疑者神父のようにカリスマ性があったとならなおのことだ。世の中の溝に落ちた人だけが知っているのが声にならない声である。

田中神父様は私に新しい転機を与えてくれた。元より愛と正義は抽象概念だが性質が正反対を向いているものがある。愛は論拠を求めないが、正義は局所を裁くために論拠を求める。イエスは「愛」であるが、正義について本当に何も語らなかったのか? 再度与えられた目で聖書を読み直す必要もあるだろう。何故、「正義」は困難なのか、それは「社会的実践」だからである。一人では何もできないのが「正義」である。そのための動機は「愛」であることが、真であると思う。愛を結論としようと歪めるものは自己欺瞞である。

教会法によると、教皇の出した教令により叙階の誓いを破った司祭に処分を与えたり、最終的に聖職を剥奪することは可能である。しかし現状は、「許し」を乱用し隠蔽することが横行しているのが現実である。性犯罪のようなものは罪の赦しと、犯罪の赦免は別である。

人が「正義」と「愛」を天秤にかけたときに、全体の幸福を「善」とし正義の論拠を拒み、愛に逃げる。謝罪無き安らぎは偽りそのものである。それは日々の祈りの言葉すらも欺いていることになる。これは教会に限らず現代思想でもある。それはその人個人の責任か、社会機能の問題か、その答えがないのは社会的実践に至っていないからである。それによって結果主義となり、暴力を助長せざるをえなくなっている。愛と正義ではなく、愛(共感)と暴力の二項対立になってしまっている現代(特に安倍元首相殺害後)に、正義の社会的実践を思い直す必要がある。カトリックも私審判に逃げた綺麗事では、世界は納得しないということを忘れてはならない。

田中神父様は終盤でこのような事を語っている。

真理だけが人を自由にする(ヨハネによる福音書8:32)

私達が常に主に向かって歩んでいくことが出来るようにと主から与えられた聖霊の賜物なのです。ですから、主の声を聞かず自分の意のままに行動することで、それらの賜物を蔑ろにするようなことのないように、神の語りかけを聞くことが出来るように目を覚ましていようではありませんか――私たちも彼等(昔の偉大な使途や聖人)の回心に学ぶようにしようではありませんか

聖職者の違法行為と身分の喪失(p267)

「賜物とはマタイによる福音書25章14節から始まる「タラントン」(賜物)の例えである。

タラントンとは通貨のことで、1タラントンで一生分生活できる金額だと言われている。 これを貧しい硬貨1枚で考えると、この話を怒る日本人が多い。天の国に行ける人は能力があって稼いだ人間だけだと、福永武彦の「草の花」でも教会がお金儲けのことしか考えていないと言い出す話がある。更に、イエスは最後に増やせなかった臆病者から乱暴な言葉で奪い取る。この話は、外的な価値ではなく神が与えた自発性を要するものである。ナボコフの小説「賜物」は自分の詩の才能を賜物と信じるというように、キリスト教では「天に富みを積む」ように与えられた才能を増やせという意味である。

私もこの話を好んで使うが、長らく一つだけ分からないことがあった。何故、イエスは臆病なだけの男に「歯ぎしりするだろう」と相手の本質を突いたように言ったのか。それは、違反をしておきながら仮初の安定を得ている聖職者に言えることだろう。表向きは謙虚で内面はとても醜いことが伺える。

「誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、

持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

この役に立たない僕(しもべ)を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて

歯ぎしりするだろう」(マタイによる福音書25章:29-30)

罪を認めて自主的に退職せずに、自己欺瞞で聖職に座っている人は天の国に行けない。 私はそう確信する。

まさに愛(慈愛)は、必要があればそのつど、司牧者が刑事制度に訴えることを求めている。その際、教会共同体の中での訴えにおいて必要とされる3つの目的を考慮しなければならない。それらの目的とは、正義によって求められる原状の回復、違反者の更生、つまずきの解消です

教皇フランシスコ パシーテ・グレジェム・デイ

4 最後に

「羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい」(ペトロ5・2)

洗礼を受けた信徒には「信徒使途職」に就いているとされている。社会の中に福音を広めることが広義な意味での「召命」になっているが、現代のカトリックの場合は積極的に信徒が布教することは少ない。だからこそ言えるのは、私達にも福音を生き、魂が彼等の下だということは無い。だからこそ虐げられてはならない。

昨今のカルト(セクト)問題において、カトリックは教会法等があり位置づけとしてはカルトではないが、同じだという意見も多く存在する。それを違うと言い切れないのは、法と正義が生きていないということは否定できない。人の善意を利用し、神の愛を欺くことでしか生きられない聖職者は病魔である。司祭-信徒に何があったのか双方の話し合いが、圧倒的に司祭の権威のほうが強く、信徒の急所を突くような攻撃をする。

例えば私が、ある一人の司祭に言われたように。

「お前は人を許せない女だ」

 私達信徒は何故そのような急所を突かれるのか。この言葉は長期に渡って私の信条と自尊心を奪った。奪われた弱点が「信仰」であった。信仰が弱点となってしまう、信仰を持ったことが愚かだったと批判されるのは信者である。しかし、正論を悪意だと反論することは詭弁である。

このような被害が増えないように。現状に目を背けず正義を追求する田中神父との出会いと対話に感謝します。

——————————————————————————————–

・私は被害者団体、及び他の団体に属していません。

・今後も交流する予定はありません。

・田中昇神父様に許可を頂いてこの記事は執筆しました(私の思想は田中神父様は把握していません)

哲学や文学でも20世紀で止まっているのは、この正義による社会的実践の壁において世界の存在の在り方を並べて、共感することを繰り返すだけだからだろう。

「聖職者の違法行為と身分の喪失」田中昇神父著

お求めの際はAmazonもしくは教友社へ

田中昇神父様連載のnote 「ミサを味わう」

https://note.com/saltall1/n/nad4c4b2fb529?magazine_key=m32aa0f5cb90c

愛と正義 ポールリクール(参照)

https://www.vatican.va/content/francesco/en/apost_constitutions/documents/papa-francesco_costituzione-ap_20210523_pascite-gregem-dei.html

パシーテ・グレジェム・デイ(教皇フランシスコ)

https://www.vatican.va/content/francesco/en/apost_constitutions/documents/papa-francesco_costituzione-ap_20210523_pascite-gregem-dei.html

田中昇神父(東京教区)2023年時点

 早稲田大学 理工学部卒 

2010年に叙階。2011年に教皇庁立ウルバノ大学で神学学士号を取得。2014年 教会法修士号取得。現在、東京管区教会裁判所副法務代理として教会法の教鞭をとっている。「カトリック教会の祓魔式」南山大学・神学 第46号 2023年3月に論文掲載・エクソシストの経験を持つ。

関連記事

WordPress.com でブログを始める.

ページ先頭へ ↑