L’intuition De L’instant.






私の想像力は上書きされては捨て去って行く。それを忘却と人は言うのかもしれないが、私は瞬間と呼ぶ。残された過去情景はまるで永遠を夢見ているようだ。撮影は10年前、私が現象学を選ぶ写真となった。レンズとフィルム設定だけで偶然撮れたこの写真は、こうなると予見をせずに、香りが奮い立つように、花々が私の目の前に現れた。私が接近しないと、世界というものは私の意識内に形成されることがないのに、出来上がりは私の意識を超越していた。
まるでカメラが感覚質を持ったように、心を持ったようになったのだ。
此処には私自身の記録が無い。私がどんな格好をしていたのか、何を考えていたのか、どんな表情をしていたのか。覚えているのは杖をついていたことだけだ。杖が煩わしく、視線が今よりも低い。私が居ないことによって、私らしさとなった。人は瞬間に嘘をつくから、無理して笑うから、本当に記録を残したかったら、自身を消してしまうべきだ。
虚飾の無い純粋さが其処に生まれる。
L’intuition De L’instant.
I didn’t edit the photo these.




黎明(2016/05/09)


イエスはトマスに言われた。「あなたの指をわたしの手に当てて、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」 (ヨハネの福音書 20:27-29)

 私がキリスト教を意識したタイミングを話すと長くなるのですが、恐らく今までで大きな意識なら四回ありました。細かいことをいれると七回ぐらいなのかな? 意識しては忘れての繰り返しでした。今回は二回目の十代の頃の話です。 昔は絵を描いていて、デッサンとかは訓練みたいなものなのですが、自由創作となるとテーマを自分で考えたりします。まだ十代と言っても高校生になる頃になると大人と同じ賞に応募したりしました。

そして頭打ちしたのはテーマと描写力がついていけないということでした。想像力が自分の力量に合わせるしかなくなるのでイメージに妥協が生まれます。それなのに、人間の脳というのはおかしなもので、その妥協が妥協に感じなくなっていきます。絵 に関しては完成と感じたことが無かったのではないのでしょうか。賞を取れたら嬉しいのですけど、思い入れがある作品が無くて毎回戻ってきたものは捨てていました。そういうものがあると、そういう自分に愛着を持ってしまって成長出来ない気がしていました。

よく他の人に「何を考えて描いてるの?」と言われていたのですが、 実際には今と比べるとこの頃は確かなことなんて考えていませんでした。誰かに説明出来ないことや自分でも分からないものを抱いていたもので、対話相手がキャンバスです。「言葉にならないことを書く」ということ、それを才能と捉えるか未熟と捉えるのか、私は後者でした。
そんな私が何か勉強がてらに模写をしようと選んだのが古典作品達で、デッサンの練習のために選びました。画材は木炭と鉛筆で、カラーではなくてモノクロでやりました。モノクロにすると色で目移りしていた情報や錯覚が整理されるので私は好んで練習していました。模写をした中で印象に残ったのはカラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」です。よく知らないまま形だけを捉えて描いていたのですが、描いてて楽しかったのはトマス のこの疑っている目でした。

目を見開いて出来た額の皴、描写をすればするほど、私レベルの画力でも彼の目や手に魂が宿っていくことを実感しました。その絵を見ていた人が「贋作師にでもなったら?」と言われるほどでした。それでも全く描けなかったのがイエスです。イエスの俯きの表情がなんとも言えず、上手くいかなかったのを覚えています。この人は痛がってるのか、何を考えてるのか、見た目の表情だけでは何故か捉えられませんでした。それにトマスの腕を握っている手は誰の手なのか分からなかったので、これがどういうシーンなのか少しだけ聖書を読みました。処刑されて復活したイエスに対して、トマスが疑って処刑したときに出来た釘跡、若しくは脇腹(聖痕 に指を入れないと信じないと言うところですが、結局のところ、トマスの手 を握ってる手については謎のままです。 文脈からその手がイエスのなら指を入れてみなさいと力を入れているのだろうし、脚色で弟子の手なら「それぐらいにしておけよ」という感じで手を押さえているようにも見えます。聖書を読まなかったときはトマスが無理矢理入れてるところをイエスが止めてるように見えていました。カラヴァッジョはもしかしたら敢えて分からないようにしたのかもしれません。
絵画を過ぎ去っていく時間と共に見てるだけなら理解したつもりの表情でも、描いてみるとイエスが何を思ったのか分析が必要になってきますし、トマスと弟子達は前屈みになっているので重心の かけかたが分かるのですが、イエスに関してはどんな気分で立ってるのか想像出来ませんでした。トマスと二人の弟子達が小さな洞窟を作るかのような構図、それはとても人間臭いというか分かりやすい感情で描きやすかったですが、イエスに関しては、顔が他の三人の影となってしまって影の中で濃淡が曖昧で難しく、右肩にラフな光の靄を描いたまま描くことが出来ませんでした。イエスの表情が隠れているというより、三人の影によって知る由もないということでしょう。
一体この画家は何を見て描いてきたんだろうなと、カラバッジョは短剣を持ち歩いて気に食わない人がいたら刺していたとか書いてありました。そういった彼の気性の激しさと「信仰」にそのときに少しだけ注目しました。彼等に照らす衣服は私にとってはただの光で、色を似せることしか頭にありませんでした。けれども、本当は違うのです。この光はもしかしたら彼の他の絵にもあ るようにエピファニーなのかもしれません。彼はエピファニー(Epiphany・キリスト顕現、事柄・人物の本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写するこ と)、二つの意味を上手く利用していたと思います。  

他に調べてみると風景画を描いている日本画家も出家した人とかも多いわけで、出家したのに遊郭通いの人もいましたが一応はそういう心を知った上で描くことに関心を覚えていく わけです。『伊藤若冲』は出家はしていませんが、若冲の号は居士号で、僧侶と同じ扱いを受けています。 (居士とは出家はしないけれども家庭の中で仏教の修行をすることです)

仏教の学校(高校)に通っていたので当時知っていたことは、キリスト教の場合は私達の世界は神の被造物という結論があるのに対して、仏教の場合は 本質は「空」で本当のところは分からないということ。 キリスト教をモチーフにした絵画は必ず「神は存在する」ということが含まれていました。それが自分に とってはどんな感覚なのか分からなかったし、とにかく閃きやアイディアを欲していた自分にとっては持っていなかったものでしたので憧れを持ちました。
多様な解釈が許された現代の中でも揺るがないものが「在る」ということ、それに惹かれるわけです。
それでも、アイディアに腕がついていかなかったように、予感に思索というものがまだこの頃はついていけず、トマスが未完のイエスの腹部に指を入れて、小さな闇を見つめたままで終わりました。
  今なら分かることは、恐らくこれはイエスの手だということです。より鮮明な画像を見てみると分かったのはトマスの手に対してこの手は綺麗です。 カラヴァッジョは聖人を人間臭く描くことを選んだ人で、聖人を労働者のように描きました。当時の教会からは聖人は綺麗な服を着せるべきだと批判も受けていま した。けれどもカラヴァッジョの場合、聖人は人間臭く描いたとしてもイエスや天使に関しては感情の掴みどころが難しい表情を描いたと思います。(聖マタイと天使)若しくは、イエスや天使の感情を勝手に考えられないという私自身が想像を拒否をしているのか分かりませんが、写実的だからこそ精密度が必要になり、余計に彼の解釈やイメージが謎 になりました。イエスのことを考えてるのか、カラヴァッジョのことを考えてるのかよく分からなくもなってきました。これはあくまでも模写をした感想ですし、もっと画力が上がれば掴めるものだったのかどうなのか分かりませんでしたが、私はこのとききっとこの 先も分からないだろうと思いました。
カラヴァッジョは非常に良い一瞬を自身のイメージと共に切り取り取ったと思います。トマスが指を入れて見つめてる先をイエスの表情や照らす光ではなく、この穴の中をトマスの指の隙間から私達は見ることが出来ません。ですので、 「私を見たから信じたのか、見ないのに信じるものは幸せである」 というイエスの言葉が深くなるのではないのでしょうか。トマスのこの疑いの目は美しいとは言えないこと、肉を開くその指をその緩めなかったことは、この言葉のためにあるように思えます。 


それはイエスが描けなかった私にも言えることだったのではないのでしょうか。
*「聖トマスの懐疑」はカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡生活をする前の絵画です。逃亡生活中、死ぬ直前で描いた作品が今、(2016年)日本に来ているそうです。http://caravaggio.jp/
*カラヴァッジョって、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョで名前はミケランジェロなんですね。ピエタのミケランジェロと区別するためにカラヴァッジョってなったのかな? それともやっぱり罪人だから天使の名前では呼ばれなかったのかなミケランジェロの名前の由来はミカエルのことですので。
これは2016年の記事です。

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