黎明(2016/05/09)


イエスはトマスに言われた。「あなたの指をわたしの手に当てて、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」 (ヨハネの福音書 20:27-29)

 私がキリスト教を意識したタイミングを話すと長くなるのですが、恐らく今までで大きな意識なら四回ありました。細かいことをいれると七回ぐらいなのかな? 意識しては忘れての繰り返しでした。今回は二回目の十代の頃の話です。 昔は絵を描いていて、デッサンとかは訓練みたいなものなのですが、自由創作となるとテーマを自分で考えたりします。まだ十代と言っても高校生になる頃になると大人と同じ賞に応募したりしました。

そして頭打ちしたのはテーマと描写力がついていけないということでした。想像力が自分の力量に合わせるしかなくなるのでイメージに妥協が生まれます。それなのに、人間の脳というのはおかしなもので、その妥協が妥協に感じなくなっていきます。絵 に関しては完成と感じたことが無かったのではないのでしょうか。賞を取れたら嬉しいのですけど、思い入れがある作品が無くて毎回戻ってきたものは捨てていました。そういうものがあると、そういう自分に愛着を持ってしまって成長出来ない気がしていました。

よく他の人に「何を考えて描いてるの?」と言われていたのですが、 実際には今と比べるとこの頃は確かなことなんて考えていませんでした。誰かに説明出来ないことや自分でも分からないものを抱いていたもので、対話相手がキャンバスです。「言葉にならないことを書く」ということ、それを才能と捉えるか未熟と捉えるのか、私は後者でした。
そんな私が何か勉強がてらに模写をしようと選んだのが古典作品達で、デッサンの練習のために選びました。画材は木炭と鉛筆で、カラーではなくてモノクロでやりました。モノクロにすると色で目移りしていた情報や錯覚が整理されるので私は好んで練習していました。模写をした中で印象に残ったのはカラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」です。よく知らないまま形だけを捉えて描いていたのですが、描いてて楽しかったのはトマス のこの疑っている目でした。

目を見開いて出来た額の皴、描写をすればするほど、私レベルの画力でも彼の目や手に魂が宿っていくことを実感しました。その絵を見ていた人が「贋作師にでもなったら?」と言われるほどでした。それでも全く描けなかったのがイエスです。イエスの俯きの表情がなんとも言えず、上手くいかなかったのを覚えています。この人は痛がってるのか、何を考えてるのか、見た目の表情だけでは何故か捉えられませんでした。それにトマスの腕を握っている手は誰の手なのか分からなかったので、これがどういうシーンなのか少しだけ聖書を読みました。処刑されて復活したイエスに対して、トマスが疑って処刑したときに出来た釘跡、若しくは脇腹(聖痕 に指を入れないと信じないと言うところですが、結局のところ、トマスの手 を握ってる手については謎のままです。 文脈からその手がイエスのなら指を入れてみなさいと力を入れているのだろうし、脚色で弟子の手なら「それぐらいにしておけよ」という感じで手を押さえているようにも見えます。聖書を読まなかったときはトマスが無理矢理入れてるところをイエスが止めてるように見えていました。カラヴァッジョはもしかしたら敢えて分からないようにしたのかもしれません。
絵画を過ぎ去っていく時間と共に見てるだけなら理解したつもりの表情でも、描いてみるとイエスが何を思ったのか分析が必要になってきますし、トマスと弟子達は前屈みになっているので重心の かけかたが分かるのですが、イエスに関してはどんな気分で立ってるのか想像出来ませんでした。トマスと二人の弟子達が小さな洞窟を作るかのような構図、それはとても人間臭いというか分かりやすい感情で描きやすかったですが、イエスに関しては、顔が他の三人の影となってしまって影の中で濃淡が曖昧で難しく、右肩にラフな光の靄を描いたまま描くことが出来ませんでした。イエスの表情が隠れているというより、三人の影によって知る由もないということでしょう。
一体この画家は何を見て描いてきたんだろうなと、カラバッジョは短剣を持ち歩いて気に食わない人がいたら刺していたとか書いてありました。そういった彼の気性の激しさと「信仰」にそのときに少しだけ注目しました。彼等に照らす衣服は私にとってはただの光で、色を似せることしか頭にありませんでした。けれども、本当は違うのです。この光はもしかしたら彼の他の絵にもあ るようにエピファニーなのかもしれません。彼はエピファニー(Epiphany・キリスト顕現、事柄・人物の本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写するこ と)、二つの意味を上手く利用していたと思います。  

他に調べてみると風景画を描いている日本画家も出家した人とかも多いわけで、出家したのに遊郭通いの人もいましたが一応はそういう心を知った上で描くことに関心を覚えていく わけです。『伊藤若冲』は出家はしていませんが、若冲の号は居士号で、僧侶と同じ扱いを受けています。 (居士とは出家はしないけれども家庭の中で仏教の修行をすることです)

仏教の学校(高校)に通っていたので当時知っていたことは、キリスト教の場合は私達の世界は神の被造物という結論があるのに対して、仏教の場合は 本質は「空」で本当のところは分からないということ。 キリスト教をモチーフにした絵画は必ず「神は存在する」ということが含まれていました。それが自分に とってはどんな感覚なのか分からなかったし、とにかく閃きやアイディアを欲していた自分にとっては持っていなかったものでしたので憧れを持ちました。
多様な解釈が許された現代の中でも揺るがないものが「在る」ということ、それに惹かれるわけです。
それでも、アイディアに腕がついていかなかったように、予感に思索というものがまだこの頃はついていけず、トマスが未完のイエスの腹部に指を入れて、小さな闇を見つめたままで終わりました。
  今なら分かることは、恐らくこれはイエスの手だということです。より鮮明な画像を見てみると分かったのはトマスの手に対してこの手は綺麗です。 カラヴァッジョは聖人を人間臭く描くことを選んだ人で、聖人を労働者のように描きました。当時の教会からは聖人は綺麗な服を着せるべきだと批判も受けていま した。けれどもカラヴァッジョの場合、聖人は人間臭く描いたとしてもイエスや天使に関しては感情の掴みどころが難しい表情を描いたと思います。(聖マタイと天使)若しくは、イエスや天使の感情を勝手に考えられないという私自身が想像を拒否をしているのか分かりませんが、写実的だからこそ精密度が必要になり、余計に彼の解釈やイメージが謎 になりました。イエスのことを考えてるのか、カラヴァッジョのことを考えてるのかよく分からなくもなってきました。これはあくまでも模写をした感想ですし、もっと画力が上がれば掴めるものだったのかどうなのか分かりませんでしたが、私はこのとききっとこの 先も分からないだろうと思いました。
カラヴァッジョは非常に良い一瞬を自身のイメージと共に切り取り取ったと思います。トマスが指を入れて見つめてる先をイエスの表情や照らす光ではなく、この穴の中をトマスの指の隙間から私達は見ることが出来ません。ですので、 「私を見たから信じたのか、見ないのに信じるものは幸せである」 というイエスの言葉が深くなるのではないのでしょうか。トマスのこの疑いの目は美しいとは言えないこと、肉を開くその指をその緩めなかったことは、この言葉のためにあるように思えます。 


それはイエスが描けなかった私にも言えることだったのではないのでしょうか。
*「聖トマスの懐疑」はカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡生活をする前の絵画です。逃亡生活中、死ぬ直前で描いた作品が今、(2016年)日本に来ているそうです。http://caravaggio.jp/
*カラヴァッジョって、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョで名前はミケランジェロなんですね。ピエタのミケランジェロと区別するためにカラヴァッジョってなったのかな? それともやっぱり罪人だから天使の名前では呼ばれなかったのかなミケランジェロの名前の由来はミカエルのことですので。
これは2016年の記事です。

現象学と巣

去年に出版したイコノグラフは私の想像と経験の結晶ですが、蓄積となった書籍はこんな感じ。現象学は、主にフッサール。ハイデガーは遅れてのスタートだった。日本語だと難解な言葉が多いことから、ドイツ語版、英訳版のみで連想を重視した。日本語版ではあまり持っていないものが多く、作品に登場したウンディーネとサロメもそうだったりする。フランス語版、日本語版と両方手に入れたのはシモーヌヴェイユぐらいかもしれない。
ベルクソンは日本語ですね。他の書籍は
Kindleに入っているので紹介は全ては
難しい。
一体、何の書籍を紹介すれば自分の作品がより分かるのだろうと、探していたら
今年の8月に、丁度良い本が出ていたので
購入した。
今作は、キリスト教要素を散りばめながら、私の思考の糧となったのは「現象学」だった。
あまり言い過ぎると、読者を混乱させるかもしれないのであまり言えないところだけど、
この一冊は今作の哲学要素を深く知りたい方にはおススメかもしれない。
「現代現象学」
経験から始める哲学入門
富山 豊・ 森 功次 著。
新曜社
ただ、わたくし
やはり小説家なので、詩情を優先に、
「鳥の巣」に魅入ったということしか
言えないものですね。
現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)https://www.amazon.co.jp/…/4788515326/ref=cm_sw_r_cp_api_SV…

カイエ

シモーヌ・ヴェイユの「カイエ」は二巻と四巻を持っている。中古のみの販売で、一巻と三巻は数万円まで高値がついてしまって買えない。安くても一万円は超えている。
フランス語か英語で探しても、新品でも一冊五千円はいくので、送料も考えるとなかなか手を出せないが、近いうちにフランス語は買おうかと思う。
 カイエとは、フランス語でノートという意味で、特別な意味は無い。ヴェイユが書籍になる予定なんて無い状態で書いたノートで、有名な「重力と恩寵」は、ギュスターヴ・ディポンの手によってカイエから纏められてある。
とりあえず欲しかったのはキリスト教考察で、丁度それが二巻と四巻だった。労働が一巻で、哲学と神秘神話が三巻のようで、
日本という国に感謝なのか、 キリスト教の濃い部分が安く買えたし、古いけど新品同様に読み込まれたような跡が無くて綺麗だった。
(元々一冊、六千円の本を三千円)
カイエにはカイエの良さがあって、重力と恩寵も纏められているから良い部分もあるかな。ノーカット版の映画と、編集後の映画を
見るような感じ。

Nativity of Jesus

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者達が東の方からエルサレムに来て言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」
マタイの福音書 2章1節〜2節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者達はその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を送り物として捧げた。
マタイの福音書 2章9節〜11節
みなさま 素敵なクリスマスを。

Étant disciples de Jésus, les vrais chrétiens comprennent la nécessité d’être humbles.





「鳥は 道具を持たない 労働者である」
By. Jules Michelet (ジュール・ミシュレ)
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漸く、鳥の仮剥製を手に入れた。遠いフランスからやってきたクロサバキヒタキ(Oenanthe leucura) ツグミの一種で生息地は主にアフリカとスペイン。1930~40年製。
仮剥製は観賞用とは違って、学術用や研究用に作られた剥製なので、目などには生気を装うような細工はなく、死を残し、死を纏っている。
生きている姿を知っていると、それは悲しいことですが、仮剥製から出会うということは、死から始まっているので期待でしかない。 特に大事な人の死を数人経験し、愛犬が死んだ後は、この寂しくない死に惹かれずにはいられなかった。だからいつかは手に入れたいと思っていたので、漸く念願が叶う。

担当の書評にもあったように、悲劇の側にイエスがいるだけで読みやすくなるということが私の作品を通して分かったとあった。その事を思い出し、何気にロザリオやメダイを置いてみると、確かに安らぎを感じました。
次の作品は、詳細はまだ出せませんが鳥の仮剥製が出てきます。だからどうしても一羽欲しかったのです。 今度は殺人などの様々な罪に象徴詩学を重ねて、福音書に入りたいと思う。イコノグラフの軸でもあったマタイの福音書13章の種まきについて、(酒井神父様の書評)
マタイの福音書を読んだ人が、鳥の巣の話もマタイだったんだと、繋がりを感じてくれたりするので、私の仕事はそういうところなんだとは思う。

次回作は話は全く違えども、象徴には繋がりがあり、前作では肯定していたものを正反対の使い方をしてクロスさせる。担当からは、私のこと好きな人はそれを待っていると言われる。
この子の名前は フランスから来たので
ミシュレの言葉の「鳥は労働者」とあるように、哲学者、シモーヌ・ヴェイユの名をつけようかな。
それとも、映画「禁じられた遊び」のミシェルっていう名前にするか悩み中。

ちょうど良いボロボロな感じで、本当に愛おしい。

ロザリオも偶然にもスペイン製の1930年もの。
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→生きているクロサバキヒタキの画像

→酒井神父様書評

→担当書評


心の中を流れる河

「しかし兄さんはそうはお考えにならない。それは兄さんが気が弱くて、臆病だからです。自分が臆病だから、ペテロまでも臆病者にしてしまうのです。(略)
兄さんのお説教を聴いて魂をゆすぶられたなら、わたしは悦んで洗礼を受けましょう。信じられたら、こんな『為合せ』(しあわせ)なことはないと、もちろんわたしだって考えています」
福永武彦 「心の中を流れる河」

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  これは小品なので簡単に紹介するほうが良いと思う。
 門間良作は牧師であり、ペテロと自分を重ね、共感を寄せては、自分はペテロ以下だとペテロに拘る牧師だった。その理由は、戦時中に憲兵から教会を閉鎖しろと言われ、彼は教会を閉鎖することを選んだことにある。それでも信者達が閉鎖された教会に集まってきてしまったのだ。その度に憲兵に連れていかれるのは牧師である門間良作だった。
やがて、彼は牧師としては戻ることが出来ず終戦まで工場で働かされることとなる。そのときの弱さや、信者を残してしまったこと、その後悔を礼拝の場でペテロの話を準えながら語る。このシーンだけでも文学として読む価値がある。

 ペテロとは、主の教えに熱心に従い、イエスに「あなたは、メシアです」と初めに言った使徒だった。イエスは弟子達に自分の死が近いことと、彼らが主を見捨てると予告した。その中でもペテロは絶対に貴方を知らないとは決して申しませんと言ったが、最高法院でイエスが裁判を受けている間に三度イエスのことを知らないと言ってしまう。彼は、最愛のイエスを裏切ったことが悲しくて、激しく泣いた。その後、イエスの復活後にペテロはイエスに罪を赦された者として生きる決意をし、初代教会における有力な指導者となる。
  今回の引用は門間良作の妹、梢(こずえ)の終盤の台詞である。もしもこの作品を読むことがあるのなら、ここにも注目してほしい。省いてしまったのだが、「キリスト教の信仰は、本当はもっと強いものなのでしょう」と、洗礼を受けていない梢の強さと、キリスト教徒としての弱さを知らない言葉が色んな読者の胸を突き刺してくる。梢は洗礼を受けていない立場でありながらも、「ペテロが赦しを受けた者として導いたのだから、兄さんもそうしてよ、貴方の今のままの態度だったら、ペテロは弱いままよ」というメタファーを混ぜてくる。それは梢の意識とは関係無く、聖書世界の物語による秩序である。彼女は信仰を「幸せ」ではなく「為合せ」と使った。けれども、これが音として入るとするのなら、門間牧師の耳には「幸せ」と聞こえてしまったのかもしれない。何故、彼女は兄の説教を聞き、魂が揺さぶられるとするのなら「幸せ」ではなく、「為合せ」と使ったのか、為合せとは、自分がすることと、他人がすることが合わさることである。彼女にとってのこれは洗礼を受けていないながらも、確信している信仰なのだろう。

門間牧師は、その言葉をどう受け止めたのかは明確なことは分からないが、二人の帰り路は門間牧師の祈りへとなった。
*****
好 きな作家は?影響を受けた作家はと聞かれると、日本人の作家なら「福永武彦」だと答える。福永武彦と言われても分からない人が多いので、池澤夏樹の父親ですと付け加える。大体7割の人は池澤夏樹は知っている。そしてこれも付け加える。「私はでも、池澤夏樹は全くタイプが違うのです」と。
ただ影響を受けたといっても違うのは何度も読み込んだというわけではないことだ。彼の作品との出会いは予備校の模試の「現代文」の問題だった。そのときに出題されたのは数ページの「忘却の河」、私は初めて文学というものに心を打たれた。問題は回収されるタイプの模試試験で、私に残されたのは解答のみで、ずっと記憶の中で彼の文章が薄れながらも反芻していた。
彼の小説を買おうと思ったが、廃盤になっていて当時は買えなかった上に、ずっと長らく受験生だったので小説は後回しにしていた。(大学受験→司法試験の準備)彼の本を初めて買ったのは、一作品目を出版した後だった。
たった数ページしか見ていないだけではなく、彼の文章を覚えていたわけでは無かった。残っているのは印象のみで、それからインスピレーションを受けて私は私として成長させた。
後で、照らし合わせてみると彼との共通項は不思議と多かったことに気付く。神話、哲学、心理学、そしてキリスト教。 違うのは彼が福音派で、私はカトリックを選んだということだ。
だからこそ、読むときは集中して読むが、1年以上は間隔をあけて読まないようにする。変にコピーロボット状態になってしまうと困るからだ。けれども、彼と私は似ているところがあるのか、原稿をチェックする人は近しいということに気付いてくれる。
決定的に違うのは、私が現代人ということ、彼が「死」を語る作家なのなら、私は「生」の作家だということらしい。それでも、まだ私の姿は色んな人によって色々な印象を与えるようだ。心理テストでよくある自分と他人が認識する自己像の10項目は一致することが多いのだが、それ以降は色々。福永に似てないと言われればそれまでだし、似ていなくても別に構わない。
*
 武彦が意図して書いたのかは分からないが、この小品には文学者として
語れる範囲と、牧師や神父しか力を持たないものと分かれている。文章の表現の豊富さは文学者のほうがあるのは当然だが、「赦し」に関しては牧師や神父でないと力が無い。私もこの壁にはよくぶち当たる。この話は牧師は自信を失い、信者でない者が理想(あるべき姿)を語る。その意味に読む側としては気付いてほしいところだ。

酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
イコノグラフはこちらで買えます。

I hope you don’t mind

『“I hope you don’t mind”ということ』

日本では馴染みのある
エルトンジョンの you’re song の
I hope you don’t mind. をどう訳するのか、
単純なようで色々と訳し方があります。理由は語感が日本語となるとインパクトが弱くなってしまうことにあります。意味を近づけるというより、英語のこの語感に近づけたいという願望がそうさせている気がします。

どんな歌詞かと簡単に言ってしまうと、
『僕が君のために作った歌だけど、
気にしないでね。(I hope you don’t mind)
とか、重く捉えないでね、(I hope you don’t mind)』

とかそういう意味があります。

最近になって聞いてみると、こういうのは物書き(作家、作詞作曲)の愛し方かなと思います。作品を作るときは愛する人をモデルにしたとしても、作品が愛されなければなりません。愛されるのが前提なのか、結果として愛されるのかは、卵が先か鶏が先かというような話なのですけど、愛する人に何か書くときは、伝えたい、伝わること、愛されること、作品として望まれる全てを忘れたいのですよね。それが物書きにとって愛する人だけに送る特別性なんじゃないかな。

変な話なんですけどね。

だから、歌詞の冒頭部分から

『It’s a little bit funny this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide.

少し可笑しな話だけど、僕は自分の気持ちを簡単に隠せないんだ。
I don’t have much money but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

そんなにお金はないけど、お金があったら家を買うよ・・・
If I was a sculptor, but then again, no
Or a man who makes potions in a travelling show

僕が彫刻家だったら、いや違うな。僕が
さすらいの薬売りだったら・・・・・・』

と、纏まりの無い話になっていきます。
でもこれは、「お喋りしたい」という、ただそれだけの願望なんですよね。それでさえも、なんだか貴重な気がして言いたくなる、それが恋とか愛を表しています。
『I know it’s not much but it’s the best I can do My gift is my song and this one’s for you
「それで歌を送ることが僕は出来るよ」』

とあるけど本当はそれが伝えたいことじゃない。これすらもまだ自己紹介のような状態です。そしてメインのメロディ、

『And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple but now that it’s done

I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world

これは君の歌だよ、それをみんなに伝えていいよ。シンプルなメロディだけど
やっと出来たんだ。

気楽に聞いてよ(I hope you don’t mind)
軽い気持ちで聞いてよ(I hope you don’t mind)

こんな言葉で書いたけど、(愛を伝える歌)
君がこの世界にいてくれれば、世界は美しいんだ。』

と、二回繰り返すI hope you don’t mind は私は気楽に聞いてよ、軽い気持ちで聞いてよ、と言いかたを変えて訳しました。

『Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen

僕が本当に伝えたいことは、君の瞳が美しいということさ。
I hope you don’t mind
I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world

気楽に聞いてよ
軽い気持ちで聞いてよ、

こんな気持ちで書いたけど、
君がこの世界にいてくれれば
僕は嬉しいんだ。

そして本当に美しいのは
君の瞳なんだ、僕の歌は それを表したいだけなんだ。』

と、私は解釈しています。
人の評価を待つ物書きの仕事をしていると、作品を渡しているのに、I hope you don’t mindなんて言って渡しません。そんなのは仕事になりませんからね。
そういう身でありながら、I hope you don’t mindと言って渡すことは、愛する人への特別なことなんですね。私もそうかもしれません。

I hope you don’t mind , I love you.
そういう感覚なのかなと。歌詞だけではなく、エルトンジョンの甘い声がそう思わせるのかな。ポップスはシンプルな言葉だけど、歌手の声の表現によって深みが出たり言葉の意味が左右されるところがありますね。

画像元URL http://38.media.tumblr.com/tumblr_lhg9rjQdnC1qctf1xo1_500.gif

歌詞:

It’s a little bit funny, this feeling inside
I’m not one of those who can easily hide

I don’t have much money, but boy if I did
I’d buy a big house where we both could live

If I was a sculptor, but then again, no
or a man
who makes potions in a traveling show

I know it’s not much, but it’s the best I can do
My gift is my song, and this one’s for you

And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done

I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I sat on the roof and kicked off the moss
Well, a few of the verses, well, they’ve got me quite cross
But the sun’s been quite kind while I wrote this song
It’s for people like you that keep it turned on

So excuse me forgetting, but these things I do
You see I’ve forgotten if they’re green or they’re blue
Anyway the thing is what I really mean
Yours are the sweetest eyes I’ve ever seen

And you can tell everybody this is your song
It may be quite simple, but now that it’s done

I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words
How wonderful life is while you’re in the world
I hope you don’t mind, I hope you don’t mind that I put down in words

How wonderful life is while you’re in the world

酒井俊弘司教様

去年、出版しました書籍の書評が届きました。今回の紹介はカトリックのオプス・デイ属人区司祭、酒井俊弘様です。酒井様は、俳句で新聞にも載られたことがある方です。私の作品は今回は「世界は鳥の巣」という詩学を選びましたので、鳥が身近なもので巣を作るためのパーツを集めるかのように、詩情、哲学、宗教と集まっていきます。
 
酒井様は、仲の良いYシスターの紹介で知り合いましたが、偶然にも以前、ご一緒した映画監督の松本准平さん(まだ、人間。最後の命。パーフェクトレボリューション)
とも知り合いだそうで驚いています。
 
他の方の書評は既にホームページにも出していますが、また改めて後日紹介したいと思います。
 
今後ともよろしくお願いします。
掲載は全て酒井神父様より許可を頂いております。
 
ChrisKyogetu 
 
 
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ICON O GRAPH〔イコノグラフ〕ChrisKyogetu
 様式や内容によって分類されたものをジャンルという。世の中のすべてのものは、ジャンルによって区分され得るわけだが、ジャンルが先にあるのではなく、個々の方が先に存在する。それゆえ、個々のバラエティーがジャンルにぴったりとマッチするわけではない。例えば、私はカトリックの神父だが、プロフィールを記入する際にはいつも職業欄で悩んでしまう。「カトリック司祭」はもちろん「聖職者」というジャンルが設定されていることはまずないので、「自営業」か「その他」をチェックすることになる。
 
 
ChrisKyogetuの小説ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕を既存のジャンルに当てはめるとすれば、西暦2020年前後を舞台にしているという点から「近未来SFファンタジー」となるのだろうか。今年のノーベル文学賞受賞カズオ・イシグロを想起させるような、次から次へと場面が入れ替わっていく中に人々の心情が展開されていくスタイルからは「印象派近代文学」とも呼べるだろうし、作品全体に散りばめられているキリスト教的要素からは「キリスト教新文学」と呼べるかもしれない。言い換えれば、既存のジャンルには収まり切らないユニークな文学作品だということである。
 倉島真希の死から始まり、同級生の主人公、川村光音(コウネ)を中心に、羽根洸希(コウキ)、教師の筒井舞衣を軸に、天文時計をシンボルに持つ学校を舞台に物語は進んでいく。登場人物たちの心のひだを繊細な文章で綴りながら、単なる時計ではない天文時計や、フギン(思考)とムニン(記憶)と名付けられた二羽の機械仕掛けのワタリガラスなど、不思議な品々が物語の色彩を深めていく。
全体を貫くテーマは、男女の愛だとも言えるし、一人ひとりの救いだとも言えるだろうが、文学的な評価はその道の専門家に委ねるとして、神父という立場から評するとすれば、著者があらすじで引用する聖書の一節がキーになる。

 「マタイの福音書13章、神の御言葉である種が育つための土地の条件の問いかけ、植物の『生長』への詩情、その生長を摘み取り、物語世界は鳥のように巣を作っていく。」(巻末の「あらすじ」より)
マタイの13章1節から始まる「種まきのたとえ」では、道端や石地や茨の中に落ちた種が実らなかったのに対して、良い土地に落ちた種は成長し、30倍、60倍、100倍となる。イエス・キリスト自身が、その種とは「御国の言葉」であると説明している。
 

 ICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕における「種」は何なのだろうか。死んでいった真希の残したものか、川村光音と羽根洸希と筒井舞衣との間を通い合う心なのか、あるいは天文時計やワタリガラスが暗示するものなのか。それを見つけて、自分の心の中で実るまで育てていくことこそが、読者に求められているのかもしれない。
 
 
キリスト教文学と呼ばれるジャンルの著者たち、たとえば三浦綾子や曽野綾子、遠藤周作や加賀乙彦といった作家が描く作品の中のキリストは、彼らが捉えるそれぞれのキリストの顔が見え隠れする。ChrisKyogetuの描くキリスト像、あるいはキリスト教の姿はどんなものであろうかと言うと、このICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕では、まだまだそれは明晰でない。言わば、いまだ顔のないキリストである。まとまった作品としての処女作であるICONO O GRAPH〔イコノグラフ〕には、著者が表現したい多くのものがあふれているが、それゆえに、言わば万華鏡のような作品となった感は否めない。けれどもそれこそが、これから著者が紡いでいく作品において、その奥深く豊かな内面世界がさらに研ぎ澄まされて読者の前に展開されることを期待させてくれる所以である。
 
 
2017年11月26日
 酒井俊弘
●あと、何か印象に残った箇所はありますかという問いについての
 酒井神父様からの返信の一部です。
 
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作品の中で一番心に残った箇所…難しい質問です(笑)。書評にも書きました通り、万華鏡のような作品ですから、そのかけらを一つというのは、難しいです。あえて一か所なら、84ページの最後の3行、ことに最後の一文です。
『そうなるとこの部屋は帰る必要がない抜け殻のようになった。』
私は少し俳句をたしなみますので、簡潔平明な言葉遣いを通してどれだけ詩情が伝えられるか、に興味があります。羽根の作った靴だけをもって飛び出した舞衣の覚悟と真実さ、たくさんのものが残された部屋の空虚感が、この短い表現で表されていると感じました。また、聖書の中のエリコの盲人の振舞い、「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た(マルコ10,50)」という場面も思い出したこともあります。
 
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 酒井俊弘 オプス・デイ属人区司祭
(書籍案内)内容はどちらとも変わりません。
窗体顶端
 

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