Amour et Justice.

画像:映画「サン・オブ・ゴッド」より
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(ポール・リクール「愛と正義」若い哲学者や神学部に勧めたい本)

 愛があるが故に正義が成り立つとしたら、正義を貫くことによって人が処罰されることを愛と呼べるのか、例えば「死刑」のように。このように愛と正義は常に二項対立する。ポールリクールはこの二項対立の隔たりを埋めようと弁証法で思索するように本著を纏めている。

ここで押さえておくべき点は「愛」とはイエスキリストのことで、「正義」とはモーセのことである。

正義とは、社会的実践に関わり、愛とはせいぜい動機に止まる。それに反して正義は狭い範囲に効果を発揮しやすく、広くは適応されにくい。モーセの歴史を振り返っても、死者の数を考えれば理解出来るだろう。イエスの愛は遅い歩度でありながらも多くの人に広がっていく。その動きを神の恩寵とも呼ぶ。正義とは矛であり、愛とは盾である。キリスト教以外人々が誤解するのは、神の愛と正義の区別がついていないことである。(それを悪としている意味ではない)

特に「神は愛」というのをカトリックは重要視しているので、様々な誤解が生まれている。

そしてその誤解は、誤解に止まらず愛の歪曲な解釈により社会的実践において欠点ともなっている。例えば、聖職者による犯罪が隠蔽される点において、そこで聖職者同士で犯罪についての神の許しを語るとなると、「彼等は愛が歪曲されている」と社会的実践としては批難の対象である。しかし、私はジャーナリスト経験を通じて、被害者詐欺というのも目の当たりにしている。この経験から「愛」の歪曲だけでは通じないという事を痛感したのである。被害者という嘘と病の狭間の証言は、人々の良心、正義を利用してくる。それによって正義の方向性を見失ってしまう。

 愛と正義の二項対立を考察することは労力を使う上に報われない。モーセの時代に革命を起こせなければ、大勢のヘブライ人は救われることはなかった。この時代の適切な愛と正義だった。イエスの生誕の時には、モーセのような革命家を期待されたがイエスは大きな革命は起こさなかった。最初は人々は失望したが、イエスは自分の足で貧しい人々の元へと渡り歩いて愛によって救った。愛はこのように進行が遅く、理解が届かない人から攻撃を受け、迫害をされる。イエスが「愛」だったという神髄はイエスの正義は裁判から逃れることではなく、死刑を受け入れるところにある。

それが「自己犠牲(サクリファイス)」であり愛であり、人々の罪を全て庇ったという正義である。イエスに倣う者にとっての この最高の正義の実践は自死と何ら変わりなく、イエス自体が人々にこれを望んでいるのかどうかは、まだ考古学上では証明されていない。殉教そのものがまだイエスが望んでいたかどうか明確ではないことと同じである。しかし、現代では殉教は条件を達成していれば、称賛に値され人々の美徳とされている。(雅歌:愛は死と同じぐらい強い)

 聖書を読むときは自己という鏡を見つめることと同じと、本来ならこの著書にはあった章が日本語版では哲学として不完全だったために外されている。しかし、この不完全に次世代である私達は挑まなければならない。聖書は何のために存在しているのか、その存在の問いに戻るべきだろう。聖職者の答えを聞く前に素直に読んでみるべきだろう。若い人には特にそれを促している。聖書の中で湧いた疑問は「自己」そのものなのである。物語に答えを求めるのは間違えで、物語によっての疑問は現実への旅の案内である。ポールリクールは愛について、浅くも深くも語られるものだと言っている。物語も同様である。浅くも深くも作られる。聖書は深いとされる書物だが、現代人にとっての必要性は薄れている。それは、世の堕落でもあるが、世俗が重力に従って落ちていくことは周知のことだった。人々の関心が及ばないのはクリスチャンや聖職者が尊敬されない何かがあるせいだろう。

 聖書も長い歴史の中で様々な人物の自己像と解釈によって息づいている。そこに今でも学んでみたいと思わせる偉人達がいることが重要だった。しかし、現代人にはそれらが居ない。存在しているのかもしれないが容易に見当たらないのだ。このように全ての方向性を見失った時に、聖書から見える自己像という基本に立ち返るべきなのである。それこそ、聖書が存在する前から存在していたデルポイのアポロン神殿に刻まれている「汝自身を知れ」である。

カトリックの聖職者に質問をするといっても、十人十色の答えが返ってくる。教皇の見解も神学者の見解も変化が続いている。ただし、この事に気づいていくだろう。イエスの愛に触れた人間は自発的に良い行いをしている。イエスだけが偉いのではない、人々が自発的に良心に目覚めているのである。その煌めきを情報過多になった現代で知ってもらいたいのである。

ポール・リクールの哲学は、それ以前の現象学の応用ではあるが「物語神学」、イエスという存在を考える原点を記している。今後、信じがたい不条理や不遇に遭遇した時に、多くの信徒や神学部の生徒に彼の著書を勧める。ポールリクールは問題回帰の哲学である。

備考:

「神を理解しようとする思考は必ず物語に連れ戻される。神の思考は、そこにおいて概念が注意深く点検される話の物語られたものとしてしか考えられない。もし思考が神を考えようとするなら、それは話が物語られるのを聞かなければならない」

そしてまた、「神は物語られることを求める」と。

ポール・リクール(愛と正義・原注より)

 (ポール・リクールはプロテスタントの哲学者ですが、カトリックの教皇庁聖書委員会は

教会における聖書の解釈についてリクール解釈学の効用を

説いています・1994)

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