
ハーマン・メルヴィル(白鯨)
“Call me Ishmael”
イシュマエルという名前はキリスト教圏はあまり見かけない。寧ろ忌み嫌われている名前
という扱いのようである。旧約聖書の登場人物の名前ですが、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」で主人公らしき語り手が、
“Call me Ishmael”「私の名前をイシュマエルとしよう」と語るところから始まる。
ノーベル文学賞受賞者や海外の文豪にとって、この白鯨は非常に重要なようで、この難解な小説のアナリーゼに挑む人が多い。文学者でなくても、スターバックスの由来も一部、この白鯨の登場人物の名前を採用している。(副長のスターバック一等)
旧約聖書では、アブラハム(アブラム)の妻が75歳と高齢の事から、子宝に恵まれないだろうと奴隷の若い女性ハガルを夫と引き合わせ、子どもを孕ませた。
サラはハガルが邪魔になり、厳しく当たるので逃げだした。しかし、荒れ野の泉のほとりで主の御使いと出会い、主人のところに戻るように言い渡される。その時にお腹の子の名前をイシュマエルと名づけろと、兄弟の敵となると言い渡される。(創世記:16章)
月のものがとうに無くなった高齢のサラが身籠った。(創世記18章)サラが身籠った子は出産を無事に終え、イサクと名づけられた(創世記21章)。イシュマエルが自分の子のイサクをからかったとして、サラは再度ハガルとイシュマエルを追い出そうとした。それはアブラハムに伝わり、主の御使いがサラの言う通りしろと命じた。アブラハムはハガルに革の水袋を渡し、ハガルとイシュマエルは荒れ野(砂漠)を彷徨うことになった。水が切れたときに、イシュマエルは死を前にして泣き叫び、主の御使いにより救済される。
不義の子として、そして兄弟の敵として、良い印象の無い名前として長い歴史の中、
イスラム教圏を除いて主にキリスト教圏で広まっていった。
白鯨では、旧約と同じように主人公イシュマエル(厳密に言えば本当にその名かは分からない)は奇跡的な生還を果たすところから、彼が受けた神の試練と加護は聖書の意味を知る人間にとっては想像出来ない光に包まれている。
船員達が悪魔と称した白鯨(Moby-Dick)は、ずっと偏在しながらも姿を現さなかった白鯨が日本の沖で見つかる。そこで恐ろしい死闘が行われた。エイハブ船長を始め、乗組員は全員白鯨に引きずり込まれてしまう。そのあとに後書きとして、一人称から三人称視点へと変化しながら、イシュマエルは奇跡的に生還したと伝えられる。鯨、魚の話といえ古代において一つの性しかもたない単性動物だと考えられていた。アリストテレスでさえそうだった。古代バビロニアの伝説によれば知恵の神オアンネスは天地創造後の大地年目に魚の姿で陸地に現れ、人間に知識を授けたとされている。インド神のヴィシュヌは一匹の魚に化身し、今日の人類始祖を洪水から救い出したとされている。シリアの女神の祭祀には魚の聖餐が存在した。この風習は救済は魚が復活の象徴を見る考え方に由来している。
旧約聖書で有名なのは「ヨナ書」では預言者ヨナは神に反抗的だった。神が敵を愛するように言うからだ。
ヨナ書では預言者を犯行者とし、異教徒の水夫は謙虚な存在として登場している。ヨナは嫌いなニネベに行くことを拒み異教徒たちの船に逃げ込んだ。嵐が酷かったのでその原因を探ると、ヨナが原因だと水夫達は思った。ヨナは自己犠牲を装って自分を海に投げ込めばいいと言った。ニベネにそれほど行きたくなかったからである。そこで、水夫たちは神に謝罪しながらも、ヨナを海に投げ込んだ。そこには神が容易した墓場として大きな魚が待っていた。魚に飲み込まれたヨナは墓場ではなく、その中で生きた。ヨナが神に謝罪をすると神は魚から彼を吐き出させた。ヨナは神の命令通りにニネベに渡り、40日後にニネベが滅びると言った。ヨナが何故ニネベ行きを拒んだのか、それは
神が敵であるニネベを愛するからだった。神は尋ねた。「お前は怒るが、それは正しいことか」(ヨナ書4:4)
神は「とうごまの木」を伸ばしてヨナに木陰を作って癒した。ヨナは一時期はそれに満足したが、神が何を思ったのか、次は木に虫を這いあがらせて枯らしてしまった。ヨナはまたそれに怒るようになった。そこで神は言ったのである。「お前は自分で育てたり労苦することもなかったその木でさえ枯れたら惜しんでいる。それならどうして私が、この大いなるニネベを惜しまないだろうか」(ヨナ書4:4)
主は人を海の魚のようにする(ハバクク1:14)とハバククという預言者も神に不満を嘆いているが、聖書世界では魚を神と繋がり深く、魚の腹は深淵とし、生と死の狭間である。魚を表すIchthysの文字の配列は、
Jesus(Iesous)Christos Theou Hyios Soter の頭文字を繋げると Ichthysとなる。「イエス・キリスト、神の子、救済者」と象徴はより一層意味を強めた。
作家、ハーマンメルヴィルは裕福な家に生まれたが、11歳から家族が転落し父親が亡くなってしまう。彼は貧しいが故に捕鯨船の仕事につく。それが白鯨のモデルとなっている。
不義の子を名前にしたと言う事で清教徒的世論に弾圧されて当時は評価されなかった作品は、やがて評価をされる。
白鯨の話自体はシンプルですが、鯨の生体に入ったりストーリーの構成が一筋縄ではいかない。これは鯨に出会える回数は数回でありその退屈さも表してている。
白鯨に話を戻すが、
While you take in hand to school others, and to teach them by what name a whale-fish is to be called in our tongue leaving out, through ignorance, the letter H, which almost alone maketh the signification of the word, you deliver that which is not true.”
—Hackluyt
Melville, Herman. Moby Dick (AmazonClassics Edition) . Amazon Classics. Kindle 版.
「あなたが他人を教育するために手に取り、鯨( Whale-fish )がどのような名前で呼ばれるかを教えようとしている間、私たちは、無知が故に、重要なHの文字を省いて、あなたは真実でないものを伝えるのです」と冒頭にHの文字の重要性を伝えている。これはこれからの生死を賭けた、というより神に運命を預ける際の地図になるのか、暗号になるのかこの時点では分からない。様々な人種が一人の船長の復讐劇と運命を共にする。鯨、大きな海の怪物となるものは、創世記の1章21節にあるように神が創ったものである。出発はもしかしたら生誕祭のような日照条件下、全てが聖書世界の秩序のように象徴を散りばめた小説ではあるが、あとは自ら挑んだが荒波に飲まれていく労働者の日常である。そこには読者を退屈させるような毎日が何章にも渡って綴られるが、本人たちは常にその日生き残ることだけに力を使い果たしている。エピローグでは、旧約のヨブの
“And I only am escaped alone to tell thee.” —Job
Melville, Herman. Moby Dick (AmazonClassics Edition) . Amazon Classics. Kindle 版.
そして私だけがあなたに伝えるために一人で逃げている、を引用している。これはどんなシーンだったのか、
ヨブ記の1章にでヨブの召使が、領地を急に襲われてヨブに伝えるために逃げてきたと話している。この引用で全て
メルヴィルー主人公イシュマエルの心境が詰まっているのではないのだろうか。大海で死闘を繰り返そうとも、残るものは大地で争ったのと変わらない。神が与えたもの、創ったものは悪魔のように自分を襲う。それが日々の労苦である。これ以上の美化をしようとするのは、Hの文字の暗号解析を楽しむ学者や呑気な読者である。生物学上で幾ら説明しようが、結局は説明しつくせない。
How vain and foolish, then, thought I, for timid untravelled man to try to comprehend aright this wondrous whale, by merely poring over his dead attenuated skeleton, stretched in this peaceful wood.
Melville, Herman. Moby Dick (AmazonClassics Edition) .Chapter103
臆病な人間が、この平和な森の中にある死んだ鯨の骨格を観察することで、この奇妙な鯨を正しく理解しようとするのは、なんと無駄で愚かなことだろうと私は思った
私の解釈は「H」の頭文字の意味はここに尽きると思っている。私達は船員たちの労苦等全く理解しようとしない。
当たり前だが、文章では「痛い」と書いていても経験していない限り痛みは伝わらないのである。私達が捕鯨船に乗るような労働環境から離れれば離れるほど、その痛みは御伽噺になる。しかし小説はノンフィクションではないので、痛みを絶対に伝える必要性はない。メルヴィルの体験が、物語となってしまった今現在、
似ているような状況が訪れれば、また誰か学者やインフルエンサーが分かったように「白鯨から学べ」と言い出す。
その愚鈍で滑稽さと無縁で泳いでいるのはやはり大きな白鯨ではないか。知る由もない運命、神の創世記から人間と同じように存在しているが、言葉で知識を紡いでいる水面下で鯨は運命を時々担っていた。鯨は天災とはまた違う。
人間が挑んで襲い掛かる。私達もまた天災とは別に加害者として、復讐心というような感情的なもので、そのような存在に挑んでしまっているのだ。
その象徴であるだろうと、私は思う。
確かに運命の荒波から奇跡的に生還すると、つい神の恩寵だと掌返すように喜ぶことがあるが、その感情では「白鯨」は分からない。掴めないのだから、それが重要な事なのだ。恵み、生還、それは確かに喜ぶことは大切だが、嵐を忘れてはならない事もある。