
ヨブ記38章41節 誰がカラスのために餌を置いてやるのか その雛が神に向かって鳴き、 食べ物を求めて迷い出るとき
聖書は旧約と新約と分かれているが、それぞれ各章によって役割が違う。
歴史書、知恵文学と預言書、黙示文学、新約は福音書、伝道書(等)と様々分かれているが、
宗教に疎い哲学者等が、知恵文学を預言と勘違いしたり、福音書を黙示録と勘違いしたりしていて、預言でない話から陰謀説を語りだすので、それは割と厄介だなと思う。
ヨブは旧約聖書の「知恵文学」であり、「神は与えることもするが奪うこともある」というのが大テーマとして展開される。これは「コレヘトの言葉」とセットで考えることが多く、ヨブ記は神から与えられる苦しみ、コレヘトは裕福が故に虚無感と死に向き合う章になっている。知恵文学とは、日常生活の平凡な苦しみから、神を畏れ敬うという高尚で神秘的な感情まで、さまざまな段階の知恵を残している。これらは人間の罪や過ちまで作られた生活の中で、人々が苦悩から逃れ、自らを高めるためにある。
神への畏怖を問答と共に知恵として身に着けようとするのがヨブ記の狙いである。
この話は比較的に日本人にも「文学的」に好まれている章である。
ヨブは義人として正しい人間だった。神も悪魔に自慢するほどヨブを『愛していた』。
悪魔は既にヨブに干渉をしていたが、ヨブは決して悪に染まらなかった。神はそれを誇りだと思っていて、悪魔にヨブに何をやったって無駄だと言った。それでも悪魔は、「まだ、皮を剥いだに過ぎず、命のために全財産を差し出したに過ぎない、もっと骨と肉に近づけば、ヨブは神を呪うだろうと」言い出した。神は、ヨブの命を奪わない条件で、再び悪魔を放した。
悪魔によって、ヨブは多くのものを沢山失うことになる。子どもや家畜、使用人、そして皮膚病までかからせた。最初に根をあげたのは妻だった。「どこまでも無垢でいるのですか、神を呪って、死ぬほうがましでしょう」と、しかしヨブはまだ真面目で「神から幸福を頂いたのだから、不幸も頂こうではないか」と悪魔の誘惑に勝った。
しかし、ヨブの友人3人(哲学者)が慰めにくるが彼等との問答でヨブが次第に神への恨みを語るようになる。友人が「きっとお前は何かしたんだ」と言うがヨブは「自分は何もしていない」と漸く弱音を吐いた。友人は「神に謝罪をして和解しろ」と言い出すが、
ヨブは頑なに謝罪をすることはないと言った。それから三人がヨブを責める問いかけが増えていくのである。最後のエリフ(哲学者)とヨブの論争の後に神がついに言葉が降りてくるのである。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神に経綸を暗くするとは」
神はヨブだけに対話をし、世界の何処までを知っているのかを問いかける。
ヨブは深淵や世の中の成り立ち、全てを知らないと、全知全能の
神の存在を再度受け入れ、議論になった3人のために祈った。
そしてヨブは神の祝福を受けて以前よりも報酬を得たのである。
ヨブ記を含めて聖書は「内的独白」が少ない。よって、登場人物の直接的な心理や事実が見えないところが多い。だからこそ長い歴史の中で様々な人が共感性や事実を探り続けられる。ヨブ記も創世記同様に、直接物語言説手法によって書かれている。主(神)の他の語り手が、ヨブや主の内面を見せる。(inside view) 散文と韻文によって書かれてあり、散文によってヨブは神への信仰に悟りを開いているが、韻文によって神への不当を訴えている。
ヨブは何故そこまで神に愛されていたのか、それは神の「内的独白」が存在していないので「義人」だったという以外の事実は分からない。更に、何故神は悪魔を放ったのかも分からない。人間は誰しもが苦悩を罰と捉えて納得してしまうことがある。ヨブを取り囲んだ友人達の問答にヨブは納得することなく、「苦悩の事実」を追及し続けている。
現実問題、神や運命と議論になるのは、所詮は人間同士のもので
「誰が本当の神の声を聞いたのか?」となる。
確かに生きている間は、現実的に人は人間同士でしか会話出来ない。太宰治の「人間失格」の、「それは世間が、ゆるさない」と友人の堀木から責められるときに
主人公が「世間というのは、君じゃないか」というのを言えずに引っ込める有名なシーンを
彷彿させる。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
この構図はヨブと友人らの対話の構図と似ている。
現実世界は真理の声を直接的に聞くことは殆ど不可能である。その中で、ヨブのみが話の中で神との対話を可能にさせた。旧約聖書の神はアダムやヨブやヨセフのように直接的に対話するか、夢のお告げがあるが、新約聖書のイエスの誕生以降は神は沈黙されている。
その追及はクリスチャンにとっては、生きている間ずっと祈りによって行われている。
各々の答えを持ったまま、最後は死ぬために。死後は生前の祈りと一致するのだろうか、
その思惟は神秘である。苦悩の追及の果ては神の愛である。それは間違えはない。
旧約聖書は神から人間に対話をする、それは下界から上空への信仰であった。
新約聖書はイエスを神が降ろされた。イエスは自分の足で人々の元へと歩いて行った。
それこそ、人智超えた存在が、下界の厚い壁を突き破って神秘が降りたのである。
聖書は何度も読めば理屈よりも先に共感や閃きがある。それは確かだった。
己の内在を超えて、世間の常識を超えて、神はそこに在られる。そこに神の愛があると、
到達できる日はいつであろう。神の愛を手にしていると無理に思うこともない。
神の愛は恩寵のみでなく、人も救うことが出来る。行き届かないものはただの「経済」「政治」である。
神の愛が伴わない経済や政治は崩壊を意味する。
神の愛を待ち望むのも良いのではないか。苦悩と共にするのは人の声だけである必要はないだろう。
ヨブのように。