Why would the victims lie?

「愛の性質を分析するということは、今日、愛が全般的に欠けていることを発見し、
愛の不在の原因となっている社会的な諸条件を批判することである。例外的・個人的な現象としてだけでなく、社会的な現象としても、愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察に基づいた、理にかなった信念である」

エーリッヒ・フロム「愛するということ」

 愛というものは、確かな存在でもあり、死角でもあり、幻想でもある。けれども宗教上、特にキリスト教徒にとって「愛」は実存に近いものであり、理想がある。本当の愛、偽りの愛の区別に拘るのもこの宗教が中心である。愛の不在(absence)という言葉は、愛が存在はしていたという状態で使われる。不在と言う言葉には流動性があり、存在の温もりが残っているのか、跡形もなく消えてしまったのか、それによって意味も変わっていく。

愛の存在を否定する言葉は「皆無」(None)である。偽りの愛というのは皆無という意味ではない。愛は愛なのだ。理想であったか、そうでなかったか、それだけの事であるが、

大半の人が意味を混乱して使っている。

 前回も正義と愛は相反することがあると言ったが、私は正義と愛のどちらを取るかといえば、愛を取るのかもしれない。それは全部を許すことではなく無言を貫くこともある。正義で取り返せるものが昨今は感じない。正義は愛の皆無によって淘汰される。例えば、自分が死に直面するような被害者になった時に、社会から理解を得られなかった場合だ。自分を貶めた人間が一人いたとする。キリスト教徒はそういう人間にも愛を与えるというのが究極だが、民衆を導く悪にはイエスは極刑を仄めかしている。(ルカによる福音書17章:2節)その点からキリスト教が何でも許すことを善とはしていないと解釈される。

 Netflixの「13の理由」というドラマで、虐めによる自殺した少女の遺族が第2シーズンで学校を相手に裁判を起こしたが、家庭の問題も追及され、虐めというものが如何に実体が存在しないか、自殺した側、その他の人間の嘘や利己心に翻弄されて、最終的に学校側の責任とならずに裁判に負けた話があった。自殺の因果関係は本当に虐めだったのかという真の追及は難しい。何故なら心は定立と反定立を同時に進行しているからだ。娘が計画的に自殺しようとしていることを気づけなかったことは母親としての過失であるだろう。厳しい意見だが、このドラマは自殺した少女に片思いをしていた少年が、彼女の亡霊に自殺したことを怒鳴って叱るシーンがある。これは企画として勇気が必要だったとは思う。このドラマは「被害者の嘘」というものにも焦点を当てている。

 昨今、日本でも多いのは被害者ビジネスである。被害者ということを盾に、マイノリティを装ってマスメディアになっている。マルクス・ガブリエルもSNSの依存性とそれに翻弄されて自殺することを否定していたが、日本人はあの簡単な記事ですら読み捉えていない。問題の本質を理解出来ないからだろう。自分達が利用規約に同意し、利用規約違反を取り締まらない企業体質に疑問を抱けない。その世界に依存し続ける意味も分からないまま、

生存だけを考えている。このユーザー達が守ろうとしている世界は検索一つで存在していない世界だ。

利用規約に同意したのなら、誹謗中傷者や虐めの過失は10:0にならない。それがインターネットの世界だ。それを裁判によって如何に潤滑に7:3にするのかが、法改正として重要である。あたかも自分が0で相手が10である幻想がそもそも「存在しない」のである。

「二度と同じ被害者を生み出さない」という目的という被害者ほど、攻撃範囲が広がっている。何故なら、その「同じ被害者」を無自覚に攻撃していくことに繋がるのである。まだ存在していない加害者を想定し、通俗心理学等で誹謗中傷する人間とはこんな人間だと、分析に勤しんで、存在していない加害者を攻撃し続ける。

具体例は出さないが、これが誰か思い当たる人物は浮かぶだろう。

該当者は一人ではない。

しかし、何故エーリッヒ・フロムの引用を用意したのか、愛の不在、被害者にとっても家族や尊厳を失ったことに始まる。その根幹を社会の諸条件の批判だけに充てたものは、愛のないものしか返ってこない。正義が何なのか、言葉の暴力を知らない者は、言葉の暴力を否定しながらも、自分達も他者にやり始める。自分が選び取った「仲間」だけ歓待し、自分が理解出来なかったものを全部敵とする。それでは、本末転倒ではないか。マルクス・ガブリエルのいうように、議論に適さない場所で、長く時間がかかる問題を一方的に被害者を盾にして、新しい被害者を生み出している。

彼女達の被害者ビジネスは、同じ被害者まで傷つけていることに気にしない。だから、私と同意見の被害者の批判が集まっていることを彼女達は知らない。私は掲示板や、不正を野放しにするSNSに契約してまで、書き込みはしない。結局それは、問題の根幹にあったマスメディアに依存することだからだ。

そして、この13の理由を見た人間で正義感だけしか湧かなかった人は、被害者遺族に書き込みに行く。愛を選んだ人は自分の人生の指針だけに止めて、そんな残酷なことはしない。

参考:「13の理由」Netflix

 

 被害者の暴君というものを何度も見た。そして嘘つきも沢山いた。心が傷ついた人は何をやっても良いのか、

その問題は常につき纏う。私が言えることは同じ被害者だからといって「仲間」ではないということだ。

もしかしたら、自分の急所を刺してくるのかもしれない。10:0を掲げている人間には留意すべきだ。

但し、取り立てて本人に言いにいくこともない。この問題は長く時間を要する。私も嘗ては被害者であった。

しかし、この憎悪の先に未来が無いので捨てた。私は悪質な人間から何も侵害されていない、そう思うしかなかった。

余談になるが、例えば我が子が殺されたらどうするのかという問いがある。

自殺でなく、殺された場合だ。

私に理性が残っているのなら、愛の不在を考えるだろう。愛した子の喪失を考えるのなら、

暴力的にはならないのかもしれない。しかし、その自信はない。

私は恐らく犯人を殺すだろう。残念なことに。

しかし、神が直前で止めるとすれば、どうなのか分からない。

そのような想像は残酷で、訪れない運命であってほしい。

Markus Gabriel

https://president.jp/articles/-/45596?page=1

https://www.3sat.de/gesellschaft/sternstunde-philosophie/markus-gabriel–fuer-einen-neuen-existenzialismus-100.html

最後に、私が被害者であったときに支えになってくれた多くの人達に感謝を述べたい。

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