
悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダ。私は説いてきた。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在だと。生まれては、存在し、形成され、壊れていくもの、それを「ああ、壊れるなかれ」ということがどうして得られようか。そのようなことはあり得ないのだ。(略)アーナンダよ、汝は善い行いをした。精進することに専修せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。
本日8月17日は或る友人の命日になる。時々思うのが、友の魂はこの世を恋しくなるものなのだろうか、共に退屈だと語り合ったこの世を恋しくなるのだろうか、そう思う。
彼も含めて私は仏教徒と話すことがある。「悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダ。共に説いてきたではないか」その時に、この仏滅の言葉が好きだと話す。アーナンダは愛別離苦に苦しみ、ブッダは悟っていた。この対比(コントラスト)は仏教らしさだろう。
いつもの行きつけのカフェでmacbookを広げて一人で座っていた彼、
身体が弱いということを一切、私には言わなかった。
彼は一切、身の上での辛いことを話さなかった。
彼の作った曲は、死後はパスワードで入れないそうだ。
Mixcloudは彼の曲のために入ったが、彼の曲は消えていた。
退会していないMixcloudの通知は今でも続いている。
Facebookの誕生日通知が来ていて、彼の
年齢だけが増えていた。
私は誕生日の度にタイムラインに毎年書き込みだけしていた。
私自身も旧アカウントと作り直すことになってしまって、彼が見つからない。
亡くなったと聞かされたときに、慌てるように彼の痕跡を探ろうとしたときに、生きている間にしてやれなかった事に焦りを覚えた。今年はそれほど報告出来るような事がなかった。
彼が亡くなってから何年経っても報告することが無かった。
そして今も彼に伝えたいことがないのである。
何故なら彼が望んでいた未来じゃなかったからだ。
共に語り合った世界、日本の未来展望図は、私は悲観的で、彼には希望があった。
彼が言っていたような世の中にはならなかった。
それでも、彼の魂はこの世を愛してくれるのだろうか、
そう思った。
信仰の上で、語り合った神や仏の事実を知っているのは死者である。
彼への手紙で私はこう書いた。「あなたは答えのところに行ってしまった」
私達の祈りの言葉よりも心も手も届かない場所、死者は必ず生きている人の
想像を超えてくる。
彼が笑って話したことを思い出す。
「お願い、チャンスが欲しいよ」
聞き流したこの言葉が、このように深く心に残るとは思わなかった。
常に平凡な日常は、一生の傷や格言に成り得る。
若い彼を蝕んだ癌は、あっという間に彼を連れ去っていった。
「私達にチャンスは残っている」
*ご遺族のプライバシー等も考慮して詳細は伏せました。