L’ Amant-Japanese

je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
L'histoire de ma vie n'existe pas. Ça n'existe pas. IL n'y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
(L’amant:Marguerite Duras)

Saは所有形容詞 

ゾートロープ

 嵐が過ぎ去ると争ったことですら美しくなる。愛に関する事は記憶の純化によって煩わしかったことを消してしまう。残酷な部分も、辛かったことも蒸発してしまう。恐らく、忘却の河のほとりに「形」が転がっていることを探しに行くことが出来るとすれば、均一に整えられた多くの石の中の一つとなっているのだろう。当時は、特別に尖っては宝石のように思っていても、磨かれることもなく転がっていったものだ。拾いに行くことも億劫なほどにそれは終わったことを表している。

 数年前に付き合っていた人に、初恋を尋ねられたが、私は靄がかかりながらも半疑問形の語り口調が英語に混ざりながら話してしまった。それはまるで自分の経験じゃないかのように、「Maybe」を連呼する。この使い方は本来、英語圏では不思議な感覚だろう。自分の記憶なのにMaybe、それは変な話なのかもしれない。それでも私の記憶に関しては「Maybe」なのである。

デュラスのこの「愛人/ラマン」は初恋なのだろう。主人公は長らく作中では愛に気づいていない。私の経験上、男性はよく初恋の話を覚えていると思う。

彼は初めての恋人を鮮明に覚えていた。彼の話を聞くだけでその女性が表れて立ってくるようだった。二人が異国の管理が行き届いていない映画館で隠れてキスをしたのまで見えてくる。彼の語る言葉はゾートロープの単純な絵のような、分かりやすい情景だったが彼の思い出は汚れを知らないように一定に動いている。

「良い思い出ですね」と返すと、「クリスの思い出も良い思い出だった?」という彼の言葉に、

昔のことを何度も聞かれることに対して「Is it such a big deal?(それはそんなに重要なこと?)」と言ったときに、フォークの落下音が皿に響いた。

帰りの地下鉄列車の中で彼の綺麗に残っている残像映像を思い返していた。彼の語る「彼女」は彼をずっと愛しているようだった。彼等が愛し合った日付、それは二度と戻ってこないが、その語り口が愛だった。それは自分の胸を焦がしていく。相手の女性へではなく彼の記憶の仕方に嫉妬したのかもしれない。彼の「その優しさに」。私はそのように記憶が出来なかったからだ。この時に、マルグリット・デュラスの「愛人‐ラマン」を思い返した。彼女が華僑の人との初恋を覚えていた事を、それは作家としての才能なのだろうと敗北感があった。初めての相手なんてものは、私もよく覚えていない。相手よりも未分化だった思春期の思惟が根深くなっただけだった。きっとそれが辛い思い出で、自分を惨めにしたのだろう。惨めな自分が理性を保てる方法は、哲学を含めた観想しかない。彼からのサプライズがなくなれば、頼ることは自分の閃きのみになる。*純粋自我なんてものは難しいことだった。関係の仕方、機能の仕方を失い、「愛してはいけない人」と位置づけが決まってしまったら、愛していたということも自分の中で許さなくなってくる。いつも過去が私の選択を引っ張った。だから、新しい男のために忘れ続ける。安定剤に酒を混ぜて飲めば、ドラマのように昨日の記憶が飛ぶことを十代で覚えた。返事がこなくても、孤独な夜が訪れようとも、書き残したことも、相手に送ることなく下書きへと回して、薬とアルコールがあれば明日には忘れてしまう。機種変更でもすれば、その記録は跡形もなく消えてしまう。何台もあの頃は携帯電話を破棄に出せた。手書きでは残るので当時は残さなかった。それでも、自分と連れ添って一緒に成長してくれるのは、「自我」のみ。だから私はその時の内面世界は覚えているが、相手への感情は思い出せない。自己形成だけは私から離れることはなかった。孤独でありながらも愛をどのように語るかも私の成長に罹っていた。愛の言葉は残るが、その時の感情は私から消えている。もう過去の日付けのように喜ぶことも、愛することもない。私は他人の小説を読むように、その拙い言葉を修正し、「時」を愛しているように書き起こす。それが冷静だと評価される私の文体となった。

映画「愛人(ラマン)」より

 「ラマン」の話に戻ると作品の登場人物は名前が無い。名前を歴史に残せない人間の刹那を描いているようだった。騙されて貧困層になった少女の家族は仏領土のインドシナに住んでいた。そこで出会った年上の華僑の男性と少女は情事を過ごす。男は他の女と契約結婚が決まっていたが、男は少女に愛していると言う。しかし、少女は「お金のためだった」と彼に言う。挙式後、彼がまた来てくれると少女は「いつもの場所」で待つが彼は来なかった。彼の「支援金」のお陰で故郷に帰れる少女は、彼の車が停まっていることに気づく。出会った時と同じように彼女は手摺りに肱をつく。

少女が華僑の男を愛していたと気づいた船の上のシーンは多くの読者の心に入り込んだ。

「愛していなかったという確信がなくなった」という自覚と、少女が愛していた下の兄の死が覆いかぶさる。船で響いたショパンのワルツ第10番、ロ短調OP69‐2は少女がピアノを断念するきっかけになった曲だったが、漸く彼女の中で完走したのだろう。楽譜という完成された存在を目の当たりにしながら、指が追いつかないというものは演奏者としての終わりを知らせる。けれども、彼女は文章世界ではショパンの音楽を完成させた。読者に聞かせることに成功したのである。彼女は小説を使ってショパンを聞かせたのである。そのような奏者は嘗ていない。

作中に度々登場するimage(イマージュ)という言葉、デュラスは少女時代の視線や記憶をすべてimageと表した。フランス語では、イマージュとは再現、生き写しという意味もある。作品の少女は自身の似姿ということにもなる。これは少女というimageと、著者にとっての再現のimageが同時進行として話が進んでいくが、船の柵に足をかけるシーンを映画では印象的に作られる。

人間の感傷深さと愛の探り合いと関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていく。水は自我が無く、欲求もなく、生命を営みながら、死を誘う。メコン河は常に存在しているが、多くの人を運んで水流は記憶しない。「瞬間」というものは何処へ行くのか、自我を通って何処へ行くのか。沢山心を搔き乱した欲情は何処へ行くのか。触れた事や、期待は何処へ行ってしまうのか。記憶は永遠を契約してはくれるものでもなく、老いていけば忘れてしまう。想起という、その船が出発することは滅多に無い。昨日の失恋を書くことは容易い。けれどもそれは愛だったと言えるのには「時間」という材料が足りていない。愛だと信じたいだけの作品が完成する。出航の意味を知るのは本当に愛のために「作品」にしようとした時なのだ。その出航を決めるのは誰なのか、それは神がかり的だと気づく。

船はその船便があったのか記録があれば事実だったかどうか辿ることが出来るが、少女が恋をしていたかどうかを覚えてくれているものはない。イマージュの本質は足場がないが、少女が船の柵に肱をつく(映画では足をかける)。唯一、船とは実体に触れた証拠だった。デュラスが十代の頃の思い出を何故、月日を経て書いたのか。憶測や読者の好奇心は少女の髪をなびかせる風となり、無事、彼女は初恋の温存に成功したのである。長い船旅の成功のように。少女にとって神の啓示の一回目は船の上だった。彼女にとって航跡波は暗闇の中で見えるはずがない。船の下の水面の模様は想像に委ねられる。その模様を書こうということが如何に難しいのか、次の神の啓示を待つしかない。

 隠れて付き合うというような日陰の関係というものは、二人だけの断絶された世界である。友人にも紹介せず、家族にも話さないことを私も知っている。利点は醜いところは見せないところにある。華僑の人が将来は別の人と結婚する、少女には適正な育成に戻さなければならない「いつまでも続くわけではない」そういう期限つきものは醜いものを見せずに済む。都合が良いところを味わうディナーのつもりでも、人の欲というものは守っている境界線を越えたがる。不味い不慣れな酒に手を伸ばすように、人は止められない。男は、彼女と暮らそうと決意するが、少女のほうが拒んだ。少女は終わりを理解していなかったというのは、男の結婚式の後にいつもの逢瀬の場所に来てしまうところにあった。彼が来てくれると、少女は待ってしまったのだ。その、来なかった意味を理解して、愛は客観視されながら、そして作者は少女時代の自分を演じながら書いていく。

楽しかった思い出は、関係が終わると転調し憂いた語りに変調する。

「十八歳で年老いた」と言った彼女のように。しかしそれだけでは愛は書けない。残酷なことに、人同士の愛を書くときは、もう一度過去を愛さなければならない。最悪は、また過去の彼を愛さなければならない。過去の彼は誰かのものになって、自分のことを忘れていても、過去の彼をまた愛さなければならない。二度と戻らない時間を、愛することは、残酷なことでもある。これは残酷な作業のようだが、作家はこの残酷を受け入れることがあるのかもしれない。それが神の啓示だから。

さいごに

 物悲しい語りは、言葉以上に期待を背負っている。言葉という枠に囚われず、心はイマージュとなって夢を見ている。今は悲しいだけの話だが、いつか「愛」だったと語れることを、過去の思い出は夢見ている。哀しい話であっても、過去は作家の手の中で愛になる。失った愛は不安定な足場となって拾ってくれることを、孤独を一番輝かせて待っている。持ち主が拾い損ねないことを常にあちら側も待ってる。

 あのディナーで語りたくなかった事でさえも、そしてあのディナーで一緒にいた人そのものも、あちら側で待っている。例えば私の場合は主の祈りの言葉であっても、そこまでに行きつく道のりに、酔って捨てたものも蓄積されている。それを見通すのが神である。思い出というのは何度も隠れ家に戻るが、情熱から虚無を吸った寝室に差し込む光を見ることになる。一人心の中で瞬く何か、それは啓示と言えるだろう。

*純粋自我 フッサール

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