マタイによる福音書13章

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい。
マタイによる福音書13章1~9節

イコノグラフに使った聖書の引用の一つ。

西洋哲学、ギリシャ神話では海とは「母なる海」とするが、反対に溺死するもの、「実りのない」不毛としていた。海で陸の種が育つことがないが、イエスが種の話を舟の上でしたことに私は意味を持っているとした。種とは人のイエスへの信仰の可能性を表しているが、種は落ちる場所、良い土地、悪い土地を選べない。鳥が来て食べ、土が深くないところで芽を出したが枯れてしまったり、いばらの道に落ちればふさいでしまう。

種が育つ土地とは何処かは分からない。途中で枯れることもあると知っておかなければならない。この箇所が私のキリスト教の伝え方の一番の核にしていたのは、私が初めて教会のミサに参加したときに、この朗読だったからだ。

旧約聖書を辿れば夢の啓示を受けるのはヨセフ、夢解きのダニエルがいるけれども、夢は旧約聖書では神の啓示でもあった。私はダニエル書の夢解き人ダニエルが一番好きなまま、教会へ足を初めて運んだ。そしてこの新約聖書の13章に触れた。イエス生誕以降、神は人の夢に出てこなくなった。その代わり、イエスは主である父の「たとえ話」が展開される。通常は海の上で語られたのかということがミサでは解説がないもので、今回はそれに対して批判があるわけではない。海の上から語れるのは聖職者ではなく、伝道師だからだろうと思う。だから小説家として、伝道師として、この海の箇所から取り入れた。創世記で、水は神の創造の前に存在していたこともあり、ノアの方舟によって世を洪水にし、イエスがいる時も海はあった。そして黙示録の新世界を表す21章の1節では「海はなくなる」。海の無いというこの新世界は私達にとっては人智を超えている。それは幻想で私達がいつ目にするのか分からないが、今、私達が陸地と思っている、人の心は海のようなものだ。これは比喩・暗示的であるが、種が育つ条件は分からない。芽吹いたとしても、枯れてしまうのかもしれない。それは、残念ながら聖書を語る自分の心もそうである。聖職者はその可能性を語ることは出来ないし、作家だからこそ、「枯死」という現実を語ることが出来る。聖職者、例えば神父という人が下れない世俗に、伝道師は行くのだろうと思っていた。それこそ、優れた土地、人の心が何処か厳選できないように、教会の外へ行く。それは洗礼を受けなかったシモーヌ・ヴェイユが保った均衡もこのようなものだったのかもしれない。

マタイの福音書は福音記者マタイが書いたと言われる。歴史上は福音書が出来上がる過程で、ローマで、キリスト教徒になった者に迫害や弾圧があった。その中で厳選されて作られたものだが、イエスキリスト自体は存在していたのは確かであり、西暦はイエスの基準に作られている。イエスが起こした様々な奇跡が事実かどうかは、研究によって歴史学者と宗教学者によって見解が分かれる。弾圧の中でも書き残そうとしたものがどんなものか、「愛」や平等、許しがあることに福音書の醍醐味がある。

 マタイの福音書はイエスを①ダビデの血筋 ②新しいモーセ ③共にいる神(インマニエル)としている。イエスはモーセと似ている。エジプトから出てきて、ヨルダン川で洗礼を受け、荒野に40日間過ごし、律法を山で説教する。イエスはモーセ以上という記載もマタイの福音書に書かれてある。イエスが招きいれたのは、宗教に厳格な人間でも有能な人間とは限らず、貧しい人、弱者も入れられ、むしろ権威や宗教に厳格なだけだとつまずいてしまう、という教えがある。種まきとは、このように良い土地というのは私達が選べないところにある。世の賢い人に限らず、罪人や様々な人間の心に可能性を込めることは、それこそ海に陸の種を投げ込むようなことである。それぐらい不確定への挑戦でもある。

 種が育つ条件は何なのか、それは定かではない。それに関しては「愛」という限定の記載はない。キリスト教圏では大体の植物に神の象徴があるが、百合に、時計草、薔薇にオリーブに、葡萄、そして毒麦と、雑草も恐らく咲いた意味がある。種が育つ条件は夜明けの光か、引き寄せる月の引力か、土地を乾かすほど暑い日光か、植物を休ませる冬の寒さか、夜の夢か、人生という「四季」の中で人の心はどう育つのか、問いかける。

生きるとは意識がある時間に限ったことではない。夢の中で意識を失った時も、生きている限り時間を共にする。争う時、和解する時、愛する時、(コレヘトの言葉3章)と言いながらも、そしてそのような苦しみからの解放を知りながらも、また苦しみが生まれ、平穏の中でも、生きるとは「待つこと」でもある。私達は芽吹く時、枯れる時、時を待っている。待つということに関して、キリスト教文化と関係無い夏目漱石の「夢十夜」のように不確かな事象が内面世界を動かしていくこともある。 夢十夜の第一夜は幻想と夢想、思惑は秩序を求めようともしていない。夢の中の時間は「発生」も「消滅」も優位性を持たず、ヘーゲル的直観された生成とも言い切れない。その中で情景の中で女が息絶え絶えとなって、男に「もう死にますから」という。やがて女は死んでしまって男が待ち続ける。男は長らく待って「女に騙されたのではないのだろうか」と、疑い始めるが百合の花が咲いて男に接吻をする。ただの夢物語だが、息絶え絶えになった女が百合の花に変わる、その変容は夢という無作為の中でも現れた時熟である。

 私達は通常の「クロノス」という計量可能の時間で生きている。その中でそのクロノスを突き破るような「カイロス」という計量不可能なものに意味を見出している。イエスが生まれた時、奇跡が起きた時、花が咲いた時、子供が生まれた日、美しいと思った日、それらは内面世界と外面世界を繋ぐクロノスの突破である。御言葉の種は人の目に見えないところで芽吹いて、育つ。それは、条件が優れていて、良い土地とは限らない。それに、何故、御言葉が育つことが必要なのか。それを考えたことがあるのだろうか。路上で寝泊まりをしている人達、虐待を受けている人、不慮の事故、事件に巻き込まれた人、災害、生死の選択が迫られる人、脱出できない心の「瞬間」や「永遠」の内部体験に種は撒かれ落ちる。

「夢十夜」の録音は途中で訳あって終わろうとしていた。私はマタイの13章をよく理解していて、仏教徒の彼に聖書を読んで欲しいと一度も頼んだことはない。そして彼もまた読まないと言っていた。仏教という軸がある彼にとっては、蓮の花のように、水上に咲いていることは知っていた。陸ではなく、私は彼を水上の花だと思っていた。泥中の蓮、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」私は彼の神聖をそのように思っていた。キリスト教徒ですら、疲れてしまう長いお祈り、長いお経を綺麗に唱えられる彼に、私は自分の優位性を感じたことがなかった。彼とは別の宗教でも一義性でいようと過去に語ったが、それも夢物語のように尽きようとしていた。そんな中で、彼が最後の「夢十夜」の続きを送ってきたが、私はそれでさえも聞こうとはしなかった。 

私達がいなくても名作は誰かに朗読される。もともと、海を埋め立てるような陸が定かでは無いところでやっていた。夢十夜を聞き終えて朝方を迎えていたら彼が、「マタイの福音書」を動画で見たと言ってきた。私は拒むことも出来たが、彼の内部体験の中での判断を拒むことが出来るのだろうか。

その答えは今日(こんにち)は出ない。それに、この話は彼の心に芽吹いただけの話ではなく、私もまた枯れなかったのである。それは人格を愛するだけでは限界がくる。理想通りでない人格だった場合、和解できなければ分断する。「イエス様は優しい」そう簡単に言ってしまう聖職者や信徒は大勢いる。歴史上の人物や芸能人も、知りもしない人格を愛する。それだけでは、御言葉が生きることは不完全である。人格だけを愛することには限界があることを、私達はよく知っている。だからこそ、少しの相手への失望で分断する。それなのにイエスキリストは様々な弱者や罪人を解放した。このように人格に限らず、その狭い範囲に囚われずそれは人格ではなく「愛」だとする。しかし、愛は人格を要する。この矛盾――これほど積み上げた形而上学は姿を消して「日常」の中に溶けていく。私も聖書よりも「日常」を生きる日を否定できない。だからこそ時を生き、時を待つことが重要となる。

綺麗な薔薇には、苦みのある土の匂いが欠かせない。人知れず咲くセメントガーデンや、住まいに巻き付く蔦なのか、種の成長は私には分からない。黄金比を保ちながら、植物は葉の枚数や花弁の枚数という秩序を持ちながら、同じ育ち方はしない。私の与えた引用が彼に

どのように生きるのかは定かではない。

文章を書く私にとって、黙読だけが想像世界を動かしていた。私の母は失読症だった。学校の宿題の「母親の朗読」を私は嫌がって本を母から取り上げた。嘘はそこから始まって、母は朗読が上手かったと言った。気づけば私は一人で読んでいた。カナダの留学生が私に英語を教えた。私は語感を愛しているが、日本語の音を愛したことがなかった。そんな私が彼の声で愛するようになった。だからこそ、好きな作品が音となって具現化になること、それを私は待っていた。今日は私を理解出来なくても、陸で生きる人の心は海のように深い。昔、聖職者のもとで学んだことがある。確かに彼は、特に何が専門だとか特徴は無かった。しかし私は、彼がいるのなら、「また一人になった」というような人に、こう言うのだろうと思った。きっと聖書の引用と共に「もう貴方は一人じゃないですね」というような人だった。

とてもシンプルな言葉、その小さなことに、人は待っている。

今度は沼ではなく陸地で、咲いたらいい。

「耳があるものは聞きなさい」 

最後に、彼にも神の祝福を

概要

昔、伝道師になろうと思って、ある司牧者から学んでいた。確かに特に取り柄が特徴的な人ではなかった。けれども彼なら、「また一人になった」というような人に、こんな時、こう言うのだろうと思った。「これで一人じゃないですね」

極めて単純な言葉、その些細なことを人は待っている。

マタイによる福音書13章は、自著イコノグラフで扱われた。神の御言葉である種はどのように育つのか分からない。種まきの土地は選べないという教えだが、宣教師ではない私のような人間は、舟の上で説教したことに焦点を当てる。海とは元々、ギリシャ神話としても「不毛」ともされた。そのうえで陸の話をしたことへの評論。

朗読の彼が仏教徒ですが、今月に入って聖書を読んでくれると言いました。周囲の反対が多い中、私は彼に読ませることにしました。御言葉が育つということは、どのようなことか。人の思惑が不毛な海から、実りある土地になるまで。改宗は促しませんし、内容として伝道師と宣教師の違いにも触れています。但しプライバシーがあるので仏教徒の彼と、聖職者の詳細は触れていないのもあって今回は話が混合しやすいのですが、繋がってはいるので読み解いてみてください。

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