Casilda of Toledo – Japanese

the miracle of the Roses

Cuando Casilda desplegó el manto, cayeronmuchas rosas.


(カシルダがマントを広げると、そこから沢山の薔薇の花が落ちた)

スペイン中央部に位置する「トレド」はユダヤ教、イスラム教、キリスト教が交差する

都市だった。画家エル・グレコが愛した土地としても有名である。6世紀に西ゴートの首都となり、8世紀から11世紀、フェルナンド一世の時代、トレドはイスラム勢力の支配下にあった。モーロ人の王、アルマムーンのカシルダは礼儀正しく心優しく、父親が捕虜として捕まえたキリスト教徒に食料を運んでいた。カシルダはアラビア語で「歌う」という意味ですが、彼女は捕虜達へ悪い茎から綺麗な白い薔薇を咲かせるように優しくし、信仰の種を伸ばしていた。それを良く思っていなかった家来はカシルダを処刑しようと王に知らせた。

王は娘を愛していたが、そのような事があっては処刑するしか他なかった。家来と王がカシルダのマントの中を追求すると、神の計らいかカシルダが隠し持っていた食料が白い薔薇へと変わった。彼女はお咎め無しとなった。

 自己犠牲であるサクリファイスと息詰まった状況に一石を投じる機械仕掛けの神、デウス・エクス・マキナ。【deus ex machina】カシルダの終盤はデウスエクスマキナである。自分が優位になるための自己犠牲というものは、チェスの世界でも存在しているが、アリストテレスは機械仕掛けの神を否定している。私は無機質に思えるチェスの世界という論理の世界でも、奇跡が起きることが面白いと思っている。守りばかりでは一向に進まず、必ず駒というものは取られる。駒の価値は常に変動し、駒は攻めたり、お互いを監視したり、息詰まる。その中で駒が取られる度に、ただの失策かサクリファイスか分析が入る。常に不確定要素にかけ続け、結果からサクリファイスは確立する。

キリスト教の自己犠牲とは策のようで、見えない神に表す「偶然」である。それは愛を含むものなのか。神が何を望みかは聖書を深く読むしかない。そして何よりもイエスは譬え話が多いだけあって、イエスの話は日常に置き換えて私達は考えなければならない。当時のトレドと社会は変わっても普遍的に変わらない問題に直面したときに、イエスの言葉が日常に生きなければならない。問題、人間の「不幸」とは常に普遍である。

キリスト教の愛、カシルダの優しさは宗教的とも評価されるが、人間が本来持つ善でもある。勿論、その善を見せない人間もいた。彼女は捕虜を牢屋から出すことが出来ない。結果は伴わないが、食料は運ぶ。飢えを放置しない、その優しさというものは、捕虜という「不幸」に力を与えるものなのか。それだけではカシルダは反逆者として処刑される運命だった。しかし、日常を生きている中で奇跡が起きないことも知っている。

それでも、善意、神の愛に目を覚ましていたいと思うのは、奇跡という脱却は確かに常日頃にあるものだからだと思う。

常に目に見えているものだけ、手にしているものがすべてでないということを。

この記事は旧ブログの記事を書き直しました。

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