
今回は動画を作った経緯を書きました。
太宰治の人間失格の、第一の手記の始まり「恥が多い生涯を送ってきました」という以外は、過去の私には平凡すぎて分からなかった。まず私は東北の田舎を知らないので、とっかかりがなく、むしろ九州の田舎に住んでいた私にとっては、余計に重なるところもあるせいもあって田舎の描写が退屈で仕方なかった。私にとっては出ていきたい田舎だったので、この情景に関心を寄せられなかった。
今になって分かることは、「人間失格」は別記事でも書いたように、何度も若い頃から構想された話だった。この田舎の風景は太宰の若い頃から何度も反芻した田舎なのかもしれない。もしくは老いた自分への想像だったのかもしれない。それは、心の中で晴れて一度も鮮やかになることはない、それは本人が変わることが来ることも望まなかったが、どうしても残るのは若さが故の、情熱があると田舎は新緑のように輝いてしまう。枯れ木ですら、春に芽吹く力が残ってしまう。死を表すとしたら、蝉や生き物の死でないと表現できない。それでも、まだ残るのが「光」だ。若い間というのは絶望や拒絶、虚無も若さがあると、扉を自分で閉めているだけという力が隠せない。熟成していくとは何なのか、何を経験すればそれが出来るようになるのか、それは明確には分からない。きっと太宰の若き日の「老いた自分のような予想図」は本当に予想通りになったか、もしくはそういう人生を選んでしまったのだろう。「いまは、自分には幸福も不幸もありません」という言葉こそ、この田舎の描写そのものだったと、大人になって気づいた。この田舎は、輝いてもいないが暗闇でもない。ゴッホが夜のほうが 色が鮮やかだと言ったことや、キリストの磔刑に使われたとされる糸杉の木に思いを寄せるのとは違う。
それは一人称による右回りの時の流れにとどまらず、「幸福も不幸もありません」という未来予想図やアイディンティティである故郷を含めている。中年はまだ若いとも言えるが、着々と死へと向かっている年齢でもある。大抵のことは下流の石のように削れて忘れていくのも分かっていく。辛いことだけ濃く、幸せなことは探せない石になった人もいるだろう。もしくは、言葉や概念で考えなくなった人もいるだろう。若い情熱は無理して演じても戻ってこない。いつか、牧歌的な満開の桜が咲くような田舎を書くことは容易ではなくなっていくことに気付くだろう。だから、太宰の心中相手の山崎富栄の若さが、原稿の校正として必要だったのだと私は分析する。山崎富栄は「二十八」歳だった。それは「偶然」かもしれないが――。それで、若い頃から層のように積み重ねた心象の実現に、若い太宰が見ようとした老いた自分が完成するのだ。
今回の朗読は短編構成のために、第一の手記と第三の手記の最後を重ねた。朗読した人は作中の主人公「葉蔵」の二十七歳と歳が近く、映像を考えた私は執筆した太宰の歳ではないが、着々と寄っている。ゴッホは三十七歳で死んだが、まだこの頃は色彩が思い出せる。確かに、私もそうだった。でもそれを過ぎると世界が変わって見える。葉が落ちた枝が春に芽吹くことにすら感動を忘れたように、若さを忘れる。ようやく欲しかった成熟さを手に入れるが、自分には情熱を失ってしまう。それが私にも訪れた現実だった。だから、若い人に教え、若い人を見るようになる。ただ絶望を書きたいわけでも無い。執筆を志したのだから希望があったことを残すためだろう。冷めきった心象にも春が来るように、最後が海辺の光であることを望むようにと、それが必要になる。
映像は私の拙さがあるが、構成は今だからこそ思いついた。完成度は、映像としてはレベルが低いものだが、この思い出は誰にも作れない。このように私の年齢と、彼の年齢の組み合わせは二度と来ない。彼の声の「二十七」というのが演じているのではなく、そこに本当の若さが残る。それに「若さ」と単純にいってもそれだけで選べるのではない。太宰が「死ぬ気で恋愛してみないか?」と言って山崎富栄を選んだのと同じように、私にとって彼はそうだった。それ言葉に以上は言葉にしない。
この朗読は太宰の命日に出した。最近の私は「自死」についてみることは疲れてしまうので見なくなった。けれども、この日に出すことに意味があった。私は、ゴッホのような色鮮やかなものをもう一度、期待したが、彼の誠実さでより一層、キリスト教徒として生きていくことに傾いた。それは教えられた通りに守るというのと違う。神の言葉の前に、まずは相手の幸福を願うことだ。それが全てを通じる入り口であると信じたい。
多くの恋人たちにも、水中に溺れ、何度も息を止めるようなことが訪れることだと思う。三位一体と、恋をして愛した人がかけ離れるような悲しいことがおきないように。教えがあるからといって相手を否定することは間違えである。聞き入れない人がいてもイエスが居た「場所」は意味がある。イエスは人の姿で現れた。その地に温もりを。冷たい水の底ではなく、温もりを。二人が居た痕跡や何か意味があることを残すことも、お互いの知恵がいる。愛に任せるだけだと、愛に溺れて消えてしまう。だから知恵は必要である。それは信仰にも言えることであるが、この話は別でしようと思う。愛には必ず出会いがあるということ、それを忘れないように生きられることを。どんな最後があっても、それでも多くの恋人たちがお互い出会えたことに感謝できるように。
死よりも前に、愛していると言えるように。
https://vt.tiktok.com/ZSLM5TrPn/
コメントを残す