アンデルセン「影」


「いいですか、私はそこにいたんです。見るべきものはすべて見てきたんです」
アンデルセン「影」

はじめに

「あなたはいずれ死ぬことになっているのです」影が語るときに、もっと先のことだと学者は聞き流していたのだろう。それが近い日だと知らずに。――  

学者が訪れた暑い国では、マホガニー色のように日焼けする。マホガニー色とは中々想像がつかない色なのかもしれない。これは深みがある美しい赤い色で、家具の塗料等に使われる。   学者は「真・善・美」を研究するために執筆をしていた。日中の暑さに耐えられない学者と「影」は日が沈むと身体を伸ばして安らいだ。学者は夜になると、向かいのバルコニーで美しい音楽と花を育てている女性に一目惚れをした。それで、自分の影が丁度よくその女性のバルコニーに伸びているので、冗談交じりにこの「影」が彼女の部屋に入って、様子をさぐってくるように命令した。「君だってそれぐらい役に立たなくっちゃ」というと学者は、影に向かってお辞儀をし、その影が女性の部屋に入るように動かした。すると、本当に影が消えてしまった。   影が居なくなった学者は焦ったが、それでも本の執筆をしていた。寒い国でもそのような話があったと、この世界では影がいなくなることがぜ「前例」としてあるようだ。(ペーター・シュレミールの不思議な物語:シャミッソー)ある日、誰かがドアを叩いてきた。すると、綺麗な身なりをした男が立っていた。「どなたですか」と尋ねるもそのはず。学者にとって全く見覚えがなかった。その男は言った。

「私は貴方の影だった男です。過去は貴方の影だったのです」

Ⅰ人格とペルソナ

アンデルセンが生きていた頃は、まだユングやフロイト心理学が生まれる前である。人格(Persönlichkeit:独)ペルソナ(persona:羅)はほぼ同じ意味で使われるが、正常な人格が人間的、「一」であるのに対して、ペルソナとは神と結びつく使い方と分けることがある。ラテン語の「ペルソナ」はもともと、顔を意味するギリシャ語であるが、俳優が舞台でつける仮面を意味していた。それから、仮面ではなく、「役柄」を演じる人物を指すようにもなった。それから、キリスト教の三位一体も父と子と聖霊とペルソナを持ち、純粋に行き来をして「一」となるということはイメージがつきやすい。ユングにとって「影」とは、プラトンがイデアを外に向けたのに対し、アリストテレス的でもある。形相の中に真実があるとし観察し続けたのは、患者と向き合ったことに繋がる。無意識とは、一言でいえば自分が達成できなかったものをさし、作品として、この学者に見えない影を持たせることも可能だったはずでもある。

それでも、この影は無意識下のものではなく、具現化した存在であることにも注目しなければならない。学者は「善・美・真」の研究に酔っていた。この影とは無意識というより、私はアンデルセンがオペラ歌手を目指していた若い頃の経験に焦点をあてる。彼は声変わりさえなければ、舞台の上に立っていたかった。役者と「人格」というものは妙な関係である。役というものは自己が持つ別の側面なのだろうか。ペルソナとは正常な状態であるのなら「一」で統一しようと戻るものだが、「役」は違う。自分の身体を使って全く別人を生み出すのである。舞台の上では別の名前として存在するが、そこで全く自分と切り離せるわけではない。「学者」の役をするとしても、その役者の人格と切り離せないものと共に「役」として人格を形成する。この話では、必ずどちらかが主体と影にならなければならなかった。人間の精神を「思考するもの」として「拡がるもの」として、「影」は色んな多義性を持っていたが、まるで役者が本来の姿に戻れず、役であった「影」が幸福を手に入れてしまったようにも見えた。

それと同時に人格が「個人」の所有だけでなく、「集団」に従属としていることが含められている。

影は、学者よりも遥かに集団に属していたからだ。

Ⅱプラトンと「影」

学者にとって「影」とは何だったのだろうか。影が自立して出ていくことは、プラトンの 洞窟(Allegory of the cav)を思い出させた。プラトンの洞窟は、洞窟の中で囚人が暮らしているが、縛られているので背後に火が照らされていることも知らない。洞窟で囚人たちは火に照らされた人形の影を見て生きているが、一人だけ洞窟から出ることが出来た。その囚人はあの洞窟は「影」だったと知り、太陽が照らす外の世界を知った。けれどもそのことを残っている囚人に伝えると、彼等は信じなかった。   学者から離れた影は、もはや学者の分身的存在かどうか定かではなかった。アンデルセンは寧ろ、二人の共通項を伏せてしまっている。それだけでなく学者は故郷の寒い国に帰るまでに新しい影が伸びていた。以前の影は、主体である存在から解放されて、この影は外の真理を旅したのである。そしてその影は立派な姿になって、寒い国へと学者の元へ訪れたのである。学者は気前良く、別人格となった影を受け容れた。読者の先入観として、二重人格のような何か学者の繋がりを考えてしまうが、そうではない。これは全くの別人になってしまったと思ってよいのかもしれない。   暑い国で、学者が一目ぼれをした女性について影は「世界一美しいのは詩です」と答えた。 その女性と関わることで、影は自我が目覚めてしまった。靴や服が欲しくなり、人々に同情され身なりを整えた。そう楽しく会話すると、影はまた旅に出ていってしまった。

善のイデアを神の概念と同 一視することにおいて、プラトンの「ピレボス」では明確に記されている。

「他のあらゆる知識を持っていたとしても,最も 善きものについての知識が欠けていたのでは,むしろ害するほうが多いだろう」と、プラトンは「善」と「一」を同一視していた。学者はそのような存在だった。けれども、「影」は学者にとって違う存在になっていった。

Ⅲ 「唯一性」とモナド

 影はまた学者のところに戻ってきた。学者は「真・善・美」についての話を書き続けていたが、上手くいっていなかった。影は、まだこの時は友好的で「一緒に旅をしませんか」と提案するほどだった。しかし条件があった。「あなたは私の影になるのです」学者はたとえ旅費を出してもらえるとしても拒んだ。学者が語っていた真善美はたいていの人にとって、 牛に薔薇の花をやるようなものだった。だからこそ、学者は重病になってしまった。もう一度、影に旅をすることと「あなたが私の影になること」を提案すると、学者は条件をのんでしまった。

二人は仲良くしていたが、二人の呼び名に関して影が意見を唱えてから、二人の関係が変わっていく。影は、学者に「君」と言いたいと言い出した。それに対して、学者は、 「ばかげた話だ。あいつに『君』って言われるのに、こっちは『あなた』って言わなくちゃいけないなんて」と苛立ちがおさえられなかった。   日本語だけだと、これだと分からない。デンマーク語では、”Det er dog vel galt,” tænkte han, ”at jeg må sige De og han sige du,” men nu måtte han holde ud.となっている。

De(敬称)

Du (親称)

Duは動作をしていること、すなわち影が動き回っていって主人公が乗っ取られている状態を言語でも表している。Deは古い丁寧語 だが、だから主人公は影に古い言葉で呼ばれることに怒る。何故なら、古いということだから。この辺りになると、ルイス・キャロルの言語ゲームのようだ。動き回っている「アイツ」に、Duと呼ばれる屈辱、一応まだ自分のことを「主人」扱いで敬称だけど許せない。何故なら自分が影になってきているからである。   プラトン学派とも言える「真・善・美」を研究する学者にとって、形相(エイドス)が自分から離れて自分よりも優位に立とうとすることは受け入れがたいことだろう。何故なら、洞窟の外に出て知覚を得るのは「己」だからである。哲学が唯心ではなく唯物的なところは、必ず「己」が手に入れるところにある。それなのに、全く分離した状態で影は成功者となり、自分は本の執筆すらままならない。影は主人公の何を奪ったのか、それとも主人公は影にうっかり譲ってしまったのか、アンデルセンはそれを最期まで隠している。二人が訪れた保養地で、綺麗な王女様と出会う。その王女様は「物が良く見えすぎる」という病にかかっていた。王女様は、他の誰でも持っていない魅力を持っている影に興味を持って、二人で踊ったときには恋に落ちた。影は、学者のことを「なんでも知っている影」だと王女に紹介をした。「此奴に物を尋ねるときは人間のように扱ってやってください」と聞かされた王女は、それを承諾し、学者に色々と尋ねた。王女は、こんな素晴らしい「影」(学者)を持っている男と結婚すると決めた。

影は、学者に「今度からお前が俺の影となって生きろ」と言うが学者は拒んだ。ついに二人の結婚式の時には学者は殺されていた。    

何故、自分というものは一人しかいないのかというのは理由律(Principle of sufficient reaso)が生きようとする、理由律とは(ratio:羅)にもみられるように根拠という意味もある。ライプニッツが「唯一性」についてモナドでこう答えている。「自己意識、自覚的表象の有無である」。自分の「唯一性」はまず、自己意識を持つことである。何故、ライプニッツが「唯一性」にこだわったのかは分からないが、 ライプニッツが科学者だったからこそなのかもしれない。観察者1人、対象物が一つであることが確実でなければならない。検証と立証する人が、一人ではなく、二人かもしれない、そんな存在の観測は信用が出来ない。唯一の存在、唯一の対象物であるということによって、「前提」に立てるのである。

学者と影、どうして二人、別々に生きられなかったのか。影というものは、抑圧された自己であったりすることは、もっと後の心理学の話である。現に、前述通りに学者と影の共通項をアンデルセンは伏せてしまっている。しかし、「影」の存在はエイドスを超え、周囲の認知と魂と、ペルソナを備えて「一」になる時が必要となった。それが王女との婚姻が時機だったということが興味深い。キリスト教の婚姻は必ず一夫一婦制だからである。  

アンデルセンの話に似たような話がある。「幸福の長靴」という話だ。ここでも寒い国と暑い国とあるが、この話では土地名が明かされている。寒い国とは「スイス」で、暑い国とは「イタリア」である。「幸福」という若い召使と、「心配」と年老いた妖精がいた、幸福は女神に使える召使で、幸福を持ち歩いていました。「心配」は一人で仕事をする妖精でした。 幸福は、誕生日の祝いに一足の長靴を貰った。その長靴を履いた者は誰でもどんな願いも叶って幸せになれるというものでした。それを知った「心配」はその長靴を履いた人間は不幸となると、反対をした。

「幸福」の妖精は幸福の長靴を誰かが拾ってくれるように置いた。その長靴を、法律顧問菅、夜警、書記、と拾われていくが、願いが叶うにも悲劇にしかならなかった。やがて「神学生」の手元に届いた。神学生はまず寒い国から暑い国に行きたいとお願いした。すると彼はスイスにイタリアへと飛ぶことが出来た。やがて、神学生は旅に疲れてしまい、肉体があるせいだと思った。「この身体さえ無くなればいいのに」と願ってしまった。   神学生の魂は自由となり、死んでしまった。二つの人影が部屋を動き回り、「心配」の妖精は、「幸福」の召使に言った。「一体、彼にどんな幸せを与えたというの?」と。幸福は「こうやって、眠れていることに永遠の幸福を与えたのでしょう」と言った。すると「心配」は「とんでもない。彼は自分で死んだので召されたのではないのよ」と言い返した。

そして「心配」はこう続けた。「この人は自分の運命に運命づけられた賜物を見つけられるほど賢くなかった。でも私が彼に恵を与えてあげましょう」   「心配」は神学生から長靴を脱がせた。神学生は生き返り、起き上がった。それと同時に 「心配」の妖精は長靴と一緒に消えた。最後に、恐らく「幸福の長靴」の持ちぬしは「心配」のものになった。   「心配」の妖精が死んだ神学生に言った「自分の賜物を見つけられるほど賢くなかった」と、 別作品の「影」での学者の死の理由律は繋がっていると考えている。これは、アンデルセンの持つ「ペルソナ」であり、違うペルソナの物語なのである。著作「影」では、「心配」や「幸福」というような人の経験を探ろうとする言葉が無い。   「影」の教訓とは何か、これが難解とすることは影の多義性が定まっていないところである。著者の別の内面を書いた告白とも言えるし、もしくは単なる「物語」なのかもしれない。ライプニッツは可能なものすべてが現実化するのではないと考えた。現実化しなくても、可能なものは可能として存在する。現実とは生まれざる無数の可能から生まれる。 続いてライプニッツ哲学の理由律と無差別を借りれば「学者」の死は、こうともとれる。  

理由のないものはないが、もしも無差別というものがあるとすれば、人間の無知が作り上げたに過ぎない。これはギリシャ人が「運」と呼んでいたことと同じである。学者の死は、無知が作り上げた運であると。   ライプニッツとプラトンは「観念」に関しては共通のものを目指していた。しかし、ライプニッツがデカルトの「観念」が主観に過ぎないというところから始まり、プラトンのイデアにも似ているものを「観念」としていたが、決定的に違うのは、ライプニッツのイデアは、 「観念の本質は表出」とした。学者は「真・善・美」を研究していた。だから、彼のイデアは彼の期待通りの「真・善・美」であるべきだった。「善」のイデアで理想の「善」があるように。ライプニッツはそうではなかった。主観では分からないイデアが存在する。しかし、学者はそこに辿り着かなった。少なくとも生きている間は、辿り着かなかった。怠ってしまった「表出」とは何だったのか。表出とは表現とも言う。彼は自分自身と「影」と双葉のような関係になっていたことに、問うことはなかった。双葉とは、枝分かれしながらも二本の植物ではない。「唯一性」である「一」の存在である。それなのに、学者は最後まで「意思」として、自分の「賜物」を見つけようとしなかった。影の存在が「善の反対」だったとも言い切れないというのが、この話の魅力でもある。それは後の心理学的な「影」、ペルソナと接点を持ち合わせてくるからである。

最後に:「ラザロの死」

「影」は、洞窟から囚人として解き放たれ、多くの真実を見た。それは、人知れず「一」となるための旅だったのだろう。他の童話作品等にもみられる「婚姻」に拘った著者のもう一つのペルソナであり、二人の男は一緒に「エイドス」として共存出来ないということだった。「影」は何が最善かを学者に伝えたが、学者は信じなかった。アンデルセンは、舞台に立ちたかったという話を書いたが、役者の視点に立つのなら、本当は「影」なんていなかったのかもしれない。二重人格としてではなく、学者が全てを演じていたと仮定する。精神の病気ではない。男は、単に世の中が知りたくて旅ばかり出かけていた。そうすれば、容易に何故、「真・善・美」の原稿が上手くいかなかったのか説明がつく。部屋には誰も住んでいなくて、原稿をおろそかにしてしまったのだ。そうだとすれば、墓の中は空っぽなのかもしれないし、王女と結婚なんて誰もしていないのかもしれない。けれども、そうではなくアンデルセンにとって「死」は空っぽであってはならなかった。「死」は必ず存在しなければならなかった。役者は必ず舞台を終わらせ、また「一」に戻らないとならない。残酷の死の後に、どんな自分の人格が緞帳でお辞儀をするのか。

 まず、  幸福の長靴の神学生にはSorgen(悲しみ)の妖精がついていた。それに対して、学者にはついていなかった。

 何故、学者には「悲しみ」の妖精が存在していなかったのだろうか。その「偶然」に焦点を当ててみる。それはどんな意味だったのか、似たような話を書いたアンデルセンのペルソナについて考える。悲しむ存在がいないことへの恐れだったのだろうか、恐らくそれだけではないのだろう。自分の死を悲しまないのは誰だったのか、それは紛れもなく「自分自身」なのかもしれない。アンデルセンは物語を通して貧しい人の「死」について考え続けていた。それだけではなく、彼自身も「死」について敏感だった。自分の人生を見つめたとき、価値のある人生だったと思える日もあれば、そうでない日もある。神学生への投影は、不安がありつつ、著者自身の希望も反映して息を吹き返したのかもしれない。学者の死は、「死」への価値観をそのまま受け入れた姿だったのかもしれない。   何故、「影」の話は哀しいのか、それはイエスがラザロの死に関して憤りを感じたことで話を纏めようと思う。アンデルセンの「影」は他の童話と比べると異彩を放っている。まるで神の祈りがなく、奇跡がない。けれども、彼の童話を読んだ人なら気づくのかもしれない。彼の隠れ持ったペルソナを。貧しい人は「死」によってしか幸福がもたらせないと言った意味を。確かに、学者は死に至る前に色んなものを怠ったのかもしれない。残酷を目の前にして、願うことはイエスが涙を流したように、人々に憤りを感じて欲しいというものがあったのかもしれない。そこで私は著者のペルソナとして「生命の尊厳」の一貫性を感じている。役を終えた著者は、そのような姿をしていたと思いたい。イエスはいつでも、「貴方の死」を悲しんでいるということを忘れないために。

自分自身の価値を見失いそうになった時、自分が死んでも何も変わらないと思った時、自分の死を悲しむほど愛している人がいるということを、思い返してほしい。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」 ヨハネによる福音書 11:4

もしも私のペルソナが「一」にならないことがあっても、

緞帳が降りれば、この心に戻ってこれるように祈る。

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Lykkens Kalosker   (幸福の長靴)

    http://wayback-01.kb.dk/wayback/20101108104438/http://www2.kb.dk/elib/lit/dan/andersen/eventyr.dsl/hcaev021.htm

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