金魚は青空を食べてふくらみ(桜間中庸)


金魚は青空を食べてふくらみ
鉢の中で動かなくなる
鳩だか 鉢(はち)のガラスにうすい影を走らせる
來たのは花辨(はなびら)か 白い雲の斷片(かけら)

"桜間中庸『〔金魚は青空を食べてふくらみ〕』


考察 “The Analysis of Poetry”

「金魚は青空を食べてふくらみ 鉢の中で動かなくなる」この一文だけで惹き込まれた。

それは、天空によって金魚は「お腹」を満たしたのか、それとも膨大な世界によって窒息してしまったのか。「鉢の中で動かなくなる」というのは、「死」なのか、それとも「表現」に止まるのか。

 この詩の作者は、日本でも知っている人は少ないのかもしれない。私も最近知ったのである。なんでも、早稲田大学在学中に夭折した作家としか、こちらでもほぼ情報がないのである。(現時点)英訳をするか迷ったが、試訳として残しておくことにする。

Beneath the azure sky, the goldfish expands, motionless.

A serene silence within the bowl no longer defies.

A dove’s silhouette, a gentle presence, bathed in light,

Gracefully dancing upon the glass, casting shadows so slight.

Arriving, a petal amidst white clouds, a scene so vast.

(試訳:ChrisKyogetu)

訳として“The goldfish expands, motionless, beneath the azure sky”と悩んだが、リズムと詩的表現としての矛盾と対比を選んだ。“blue sky”としなかったのは、まず「金魚」が日本では夏の季語であること、それによって夏の空が「紺碧」であること、著者「桜間中庸」が早稲田大学在学中に1934年4月18日に亡くなったということ、それと早稲田大学には「紺碧の空」という歌があることから、“azure sky”とした。それが故人を弔うことに通じることを願う。

  この金魚は、死んだのだろうか。その解釈は各々の読者に委ねることになるが、私は死んだと思っている。この詩は仏教でいえば「無常」に近いが、敢えて死と表現しなかったことや、対比して鳩の羽ばたきや、薄い影と存在が瞬いていることから、死と限定するのではなく、変容するというドゥルーズとガタリの「生成変化」のようだと思えることがあった。勿論、詩の言葉通りの状態のみなら、静止した金魚と、情景は別々の存在で互いに影響して連続して続いているわけではない。しかし、「隠喩」的に見るとどうだろうか。金魚の姿は何処へ行ったのか、金魚は詩の中で羽ばたきと共に、何処にも依拠しない存在として、変容しているのである。仏教的な「無常」の場合は、個々の存在が他の存在と相依し、共存するが、この詩は、詩によってそれを超えて「多様性」を含んでいる。気づけば心の中で、自分自身でも捉えきれない感動があった。英訳では鳩が最も生命力があるので、光(light)と薄い影を(shadows so slight)と韻を踏み、英語のリズムを優先し、羽ばたき(clap)ではなく、dancingにした。それによって詩情の中で持続を意味しようとしている。

金魚のお腹が膨れて死ぬ病気は「復水病」が代表的なものであるが、初期段階であれば、水温を下げれば延命できるが、末期になると助からない。昭和時代の日本の夏に、そのような対処が出来なかったとは推測する。詩の発想は、金魚を死なせた飼い主の罪悪感なのか、全てが単なる空想なのか、この死、特に「金魚」のような生き物の場合はすぐに土に埋められ、墓すら大したものは作らない人が殆どだろう。一度でも死んだ金魚の脱力感を見たことがある人なら、その儚さを知っているだろう。この詩は、その肉体の重みを感じさせない上昇が、まるで何かを「愛している」とでも言うかのように、過ぎ去りし日常でさえも、この世界そのものを恍惚に愛しているかのように思えた。金魚鉢のガラスに包まれた、世界から透過されて光が来るように。命を守るものとは、命が続くというのは、ガラスのように脆いのか、それとも泳ぎ続けることなのか。だとしても悲しくない、その静止は異なる生存が重なることによって、かなしくないのだ。

けれども、「彼の世」−– king of heaven があるように。

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ドイツ語訳(試訳)

Der Goldfisch dehnt sich aus, regungslos, unter dem azurblauen Himmel.

Eine stille Ruhe in der Schale widersteht nicht länger.

Die Silhouette einer Taube tanzt anmutig auf dem Glas,

Wie ein Blütenblatt inmitten weißer Wolken, eine solch weite Szene.

内韻(Binnenreim)を含む。但し、教示して頂きたいところです。

声に出して読んでみると、動かなくなると言うのは、語り方次第で、

金魚は恋でもして静止したようだとも思う。本当は死を描写したのだろうに、

人の声によって、「言葉」が息を吹き返すように。私たちが、言葉を目で追い、声で発し、見えるものから、見えないものまでの「世界」を見続けられることを切に願う。

英訳は旧約聖書の「ヨブ記」はヨブの嘆きを「散文」にしたことから、散文を試みていたが、

不幸なだけではなく、詩情による幸福があるように思えたので韻を踏むようにした。

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仏教の「無常」と生成変化の違い(簡易)

類似点としては、実体や存在における永続性や固定性を否定し、変化と流動性を強調し、

全ての現象や事象が絶えず変化し、一時的なものであるとしています。両者は、

個体や物の存在が周囲の状況や因果関係によって影響を受けていて、変化するという「観点」を

共有しています。

相違点としては、無常は、全ての存在が必然的に変化しますが、生成変化とは、生成と変化が

常に新しいものを生み出し、多様性をもたらすという点が違います。仏教の「無常」は

苦の原因や執着や欲望を取り除くことによって解脱を目指す教えですが、

「生成変化」は個体が変化と流動性を受け入れて、常に両岸を巻き込むことであり、

「自然な」形から引き離されるような歪形のプロセスを意味する。生成変化において何かが

起こるのはその「あいだ」で起こることである。それによって多様性、内面を形成することも含まれる。仏教の「無常」は、個体や事象の過程における一時的な性質を強調しますが、ドゥルーズの「生成変化」は、個体や事象の持続的な流動性や変化能力を強調します。

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