Cahier 2023/12/25

「重力と恩寵」 悪(La mal)シモーヌ・ヴェイユ

Le faux Dieu change la souffrance en violence. Le vrai Dieu change la violence en souffrance.

「偽物の神は、苦しみを暴力に変える。真の神は、暴力を苦しみに変える」

Alors, où mettre le mal ? 

「それでは悪をどこへしまい込めばいいのか」

Il faut le transférer de la partie impure dans la partie pure de soi-même, le transmuant ainsi en souffrance pure. Le crime qu’on a en soi, il faut l’infliger à soi.

「自分の中の不純な部分から純粋な部分へと悪に移し、悪を純粋な苦しみに変えなければならない。自分の中の罪を自分自身が背負わなければならない」

文法

・「Le faux Dieu」や「Le vrai Dieu」といった定冠詞を使って、特定の神に言及する。

・ 「change」は直接法現在「transférer」といった動詞は、対象の物事を他所に移すことを示す。

・「La partie impure」と「La partie pure」は、定冠詞を使って特定の部分を指している。

・「de soi-même」という表現は、myself、自己を示すために使われる。

・ 「qu’on a en soi」という表現は、自己を示し、前述の部分に関連する罪を指す。

・ 「à soi」という表現は、自己に対して行動を起こすことを示す。

Note:

何故だか、「それでは悪をどこへしまい込めばいいのか」が気になった。ヴェイユはあくまでも自分自身の内面にある「神秘性」と「不完全」に語りかけているようだ。人間の生の目的は自己実現であり、自分自身の限界や制約を超えることを提唱したニーチェの「自己超克」(Übermensch)のようにも思える。

しかし、カトリックのお祈りの「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」の悪(ラテン語:malo)とは、「悪魔」を意味する。ヴェイユは哲学者でありながらも、カトリックの影響を受けているので、この場合の悪はニーチェ的な悪も含んでいるが、カトリックの位置付けている悪魔にも近いと思う。

ここで軽く、悪魔について。エクソシズムの語源は悪魔祓いという意味ではなく、「厳格に誓う、宣言する」というギリシャ語が語源とされている。悪霊に取り憑かれた人、もしくは悪霊の誘いを受ける人がイエスにおいて神の絶対的な支配を認め、信仰を宣言するものである。

映画、「ヴァチカンのエクソシスト」でも「罪は自分自身を見つける」とあったように、福音書でも、イエスは自分の十字架を背負うことを語っている。

悪魔、と言い切ってしまうと、私自身は悪魔に関しては祓魔式の経験もないので、今の所はっきりとは言えないが、真の神は、暴力(悪魔的な)ものを苦しみ(十字架)に変え、偽物の神とは、神の奇跡を謳っては、悪魔的なものにする、と、この話は言いたかったように思う。

#ニーチェ #シモーヌヴェイユ

#悪 #福音書

#エクソシズム

参照

PATER noster, qui es in caelis, sanctificetur nomen tuum. Adveniat regnum tuum. Fiat voluntas tua, sicut in caelo et in terra. Panem nostrum quotidianum da nobis hodie, et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimittimus debitoribus nostris. Et ne nos inducas in tentationem, sed libera nos a malo. Amen.

(ラテン語の主の祈り:Pater Noster)

それから、弟子たちに言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に

従いなさい。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、私のために命を失うものはそれを得る。

マタイによる福音書16:24から25

それから、イエスは皆に言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、私に従いなさい。

ルカによる福音書9:23

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