Cahier2024/01/22 Japanese

シモーヌ・ヴェイユ「幻想」(重力と恩寵)

・On se porte vers une chose parce qu’on croit qu’elle est bonne, et on y reste enchaîné parce qu’elle est devenue nécessaire.

・Les choses sensibles sont réelles en tant que choses sensibles, mais irréelles en tant que biens.

・L’apparence a la plénitude de la réalité, mais en tant qu’apparence. En tant qu’autre chose qu’apparence, elle est erreur.

L’illusion concernant les choses de ce monde ne concerne pas leur existence, mais leur valeur.

L’image de la caverne se rapporte à la valeur. Nous ne possédons que des ombres d’imitations de biens. C’est aussi par rapport au bien que nous sommes captifs, enchaînés (attachement). Nous acceptons les fausses valeurs qui nous apparaissent, et quand nous croyons agir, nous sommes en réalité immobiles, car nous restons dans le même système de valeurs.

ceux qui ont nourri et vêtu le Christ ne savaient pas que c’était le Christ.

・私たちがある一つのものに惹かれるのは、それが良いものだと信じているからであり、私たちがそれに縛られ続けるのは、それが必要になっているからである。

・感覚的なものは感覚的なものとして実在するが、善としては非現実的である。仮象は現実の完全性を持っているが、仮象としてである。

・仮象には現実の完全性がある。仮象以外のものとして、それは誤りである。

・この世のものに関する幻想は、その存在に関わるものではなく、その価値に関わるものである。洞窟のイメージは価値に関係する。私たちは善の模造品の影でしか持っていない。私たちが囚われの身であり、鎖につながれている(執着)のも、善との関係においてである。私たちは目に見える偽りの価値を受け入れ、行動しているつもりでも、実際には同じ価値体系の中にとどまっているため、身動きがとれない。

・キリストに食べ物を与え、着るものを与えた者はそれをキリストと知らなかった。

1「外観」

L’apparenceとはフランス語で「外観」と意味するが、法哲学や、心理学では仮象と訳すことがある。仮象とは現実の完全性を持つ一方で、現実の外観だけでなく他の対象に対しても誤解をもたらす可能性がある。日本語の概念ではあまり無い感覚なのかもしれない。フッサールは「想像作用」と「空想」を区別したが、フッサールは現象学において仮象や価値の考え方に関するアプローチを提供した。ヴェイユの引用の中でも現象(物理的な感覚)と価値(仮象)の区別が言及されている。

ceux qui ont nourri et vêtu le Christ ne savaient pas que c’était le Christ.

・ “ceux qui”:これは「〜をする人々」と訳され、特定の人々を指しています。

・過去の動詞形 “ont nourri” および “ont vêtu”:これらは直接翻訳すると「〜を養った」と「〜に衣服を与えた」になります。過去の形であることから、過去の出来事を表す。

・「que c’était le Christ」:これは「それがキリストであることを知らなかった」という意味です。queの後には主格である「c’était le Christ」が続く。

・音韻的な美しさ:この文では、母音と子音のバランスがあり、リズム感がある。例えば、「nourri et vêtu」のフレーズは、音の響きが繊細で響き合っていることから美しく感る。

2 「仮象」と「思い込み」の違い。

仮象とは、現実世界で直接経験したことのない物や事象を、想像や推測に基づいて頭の中でイメージすることを指す。思い込みとは、仮象と異なる概念で主観によって歪んだ認識をして疑わないこと。要するに「仮象」とは現実的に存在し、誤認はあるものの修正可能も含まれる。しかし、思い込みは修正が不可能な場合が多い。例えば、広告やマーケティングの分野では、仮象を使って人々を引き寄せ、その商品やサービスに固執させることがある。私たちは個別の商品やサービスの背後にある真の価値や利益を見逃さないようにする必要がある。また、自己啓発や人間関係の分野でも、他人の仮象や期待に捕らわれずに、自分自身の真のニーズや幸福を重視することが重要になる。

3 「善」「正義」

ヴェイユの断章は、詩のようでありながらも哲学が根底にあるように見える。例えばこの引用は、「プラトン」哲学の「善」と「正義」が元になっているのかもしれない。プラトンの「国家」では正義は魂に帰属している。ここでいう「洞窟」のイメージはプラトンの「国家」の洞窟の例えで間違えはないだろうと思う。

このたとえでは、人々が洞窟に閉じ込められ、洞窟の奥にある火によって壁に映される 影 を見て生活している状況が描かれている。彼らはその影を現実と信じ込み、洞窟から出ることはなかった。しかし、ある人物が洞窟から脱出し、外の世界を目にすると、初めて真の現実を知ることになる。そこでは、光や色、形など、洞窟の中で見た影とは異なる概念や事物が存在していた。この人物は、新たな知識や真理を見出し、洞窟の他の人々にその存在を伝えようとしたが、彼らは影の世界を信じ込んでいて、外の世界の真理を受け入れることを拒んだ。このたとえは、知識や真理の獲得についてのプラトンの考えを表している。洞窟は物質的な世界や感覚的な経験を象徴し、影は知覚による認識を意味する。一方、洞窟から出た人物が目にする外の世界は、理念界や形而上学的な真理を指すことになる。

プラトンの洞窟のたとえは、私たちが物事を現実の姿ではなく、その仮象や影の形でしか見ることができないことへの喩えである。洞窟の中にいる人々は壁に映し出された影を見ているだけであり、真の現実を知ることができないしたがって、「仮象」は洞窟の中に存在するものの、それが真の存在や現実であるとは言えない。それは、私たちが認識する世界は現実の一部であり、それ以上の真実や本質が存在することを示唆している。「仮象」はある意味では存在するが、それが真実や現実の完全な姿ではないことを強調する。

これは真理や知識は理性によって得られるべきであり、物質的な世界や感覚的な経験に囚われている限り真の理解は不可能だということの例えでもある。

プラトンの「国家」では正義についての真実を知りたい欲求を、善のイデアを通じて対話しているが、フランス語の単語の特徴もあるが、Nous ne possédons que des ombres d’imitations de biens. C’est aussi par rapport au bien que nous sommes captifs, enchaînés (attachement).でBientとは「善」という意味でもあるが「財産」という意味もある。

例えば、これを「財産」と訳する場合はどのような意味となるのか。

「私たちは洞窟の中に閉じ込められており、その壁には私たちの所有する財産の影が映し出されています。しかし、これらの影は実際の財産ではなく、ただの模倣に過ぎないのです。私たちはこれらの影に囚われているため、真の財産や贅沢を知ることができません。洞窟の外に出ることができれば、本物の財産や真の豊かさを経験することができるでしょう」

「財産」としても、私たちが物質的な所有に固執していることや、本物の幸福や豊かさを見落としていることを指摘する。

では、正解である「善」で考えたらどうなのか、

洞窟の中に閉じ込められている私たちが見ているのは、現実世界ではなく、現実の模倣や表象である影です。影は真の現実を反映していますが、それ自体は不完全であり、真の現実を正確に知ることはで機内。「善」とは、真の現実を知り、理性的に理解することになる。洞窟の外に出て真の現実を直接見ることで、私たちは真の善を理解し、受容することができる。しかし、洞窟の中に閉じ込められた状態では、私たちは真の善に関する知識を持つことはできず、単なる模倣の影に囚われたままになる。

このたとえは、プラトンが理想国家を提唱し、哲学者たちが真の善を追求し、それを他の人々にも伝える役割を果たすべきと主張していることに通じている。また、私たちが現実の善に関する知識を得るためには、洞窟の外に出て自己認識と自己超越を行う必要があることも示唆している。

断章続きではあるが、更に、ヴェイユは聖書のマタイによる福音書の26章の37節にイエスと気づかず食べ物を与えて、着るものを与えたという箇所も加えている。それは、キリストの存在を理解することの難しさや、人々の霊的な眼を開く必要性を示している。ヴェイユはこの記述を仮象の中で扱うことによって、人々がキリスト(あるいは神聖な存在)に接しているにもかかわらず、その存在や真理を理解することができないという普遍的なテーマや、神秘的な体験の難しさを表現しようとした可能性がある。

聖書の「財産」(金銭による)の位置付けは、

マタイによる福音書 6:19-21
「だから、あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」

これは、物質的な財産を否定するだけの言葉ではなく、自分の心が何処にあるのか、ということが問われている。イエスを知らずに食べ物や着るものを与えた人たちは、地上の財産と天の宝と「心」を持っていることもある。これはプラトン的な「善」と「正義」とも繋がるのである。プラトンは個人の善や正義が集まって成り立つものであると考えた。個人の魂が善や正義を追求し、実践することによって、国家全体も善や正義を実現することができると説いた。しかし、ヴェイユの話にもあるように、現実問題は「仮象」を含み、思い込んでしまう。「仮象」とは哲学者への問いなのかもしれない。

これはカイエですので、解説ではありません。

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