Cahier 2024/02/19 Japanese

La pesanteur et la grâce (重力と恩寵)シモーヌ・ヴェイユ

・Tous les mouvements naturels de l’âme sont régis par des lois analogues à celles de la pesanteur matérielle. La grâce seule fait exception.

・Il faut toujours s’attendre à ce que les choses se passent conformément à la pesanteur, sauf intervention du surnaturel.

・Deux forces règnent sur l’univers : lumière et pesanteur.

・魂の自然な動きはすべて、物質的な重力に類似した法則に支配されている。恩寵だけは例外に排除される。

・超自然的なものが介入しない限り、私たちは常に重力に従って物事が起こることを期待しなければならない。

・宇宙には光と重力という2つの力が支配している。

memo 1

シモーヌ・ヴェイユの遺作となったノートをまとめた「重力と恩寵」の始まりはこのようになっている。彼女は、「pesanteur(重力)」と「grâce(恩寵)」という概念を軸に人間の行動や相互作用を説明しようとしている。

この文では、私たちの魂の自然な動きは、物理的な重力の法則に似た法則に従っていると述べられています。重力以外のものは、恩寵のみであり、超自然的な介入がない限り、常に重力に従って事が進むことを期待する必要がある。

この文の文法的特徴は次のとおりです:

  • 主語:「Tous les mouvements naturels de l’âme」(心の自然な動きすべて)
  • 述語:「sont régis par des lois analogues à celles de la pesanteur matérielle.」(物理的な重力と同様の法則によって統制される。)
  • 助動詞:「sont」(~である)
  • 動詞:「régis」(支配される)
  • 目的語:「des lois analogues à celles de la pesanteur matérielle」(物理的な重力と同様の法則)
  • 副詞:「seule」(唯一・唯一の人)
  • 「La grâce seule fait exception.」(ただし、恩寵のみは例外である)

まるで「恩寵」を与える存在が神という唯一性であるかのようだ。

リア王と重力

・Pesanteur. – D’une manière générale, ce qu’on attend des autres est déterminé par les effets de la pesanteur en nous ; ce qu’on en reçoit est déterminé par les effets de la pesanteur en eux. Parfois cela coïncide (par hasard), souvent non.

・Pourquoi est-ce que dès qu’un être humain témoigne qu’il a peu ou beaucoup besoin d’un autre, celui-ci s’éloigne ? Pesanteur.

Lear, tragédie de la pesanteur. Tout ce qu’on nomme bassesse est un phénomène de pesanteur.

D’ailleurs le terme de bassesse l’indique. L’objet d’une action et le niveau de l’énergie qui l’alimente, choses distinctes.・・・・・・

・重力。- 一般的に言って、私たちが他者から期待するものは、私たちの中にある重力の影響によって決まり、私たちが他者から受け取るものは、他者の中にある重力の影響によって決まる。時にはこれは(偶然に)一致することもあれば、多くの場合は一致しない。

・なぜ、ある人間が他者を、かなり必要としていると証言したとたん、その他者は離れていくのだろうか? 重力のため。

・リア王、重力の悲劇。私たちが「低さ」と呼ぶものはすべて重力の現象による。

 ・実際、”低さ “という言葉はそれを示している。行為の対象と、それを糧とするエネルギーは異なるものなのだ。(割愛)

memo2

マタイによる福音書 23:12 -に「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とあるが、ここでは律法学者たちやファリサイ派の人たちが、モーセの座についていた。彼らは重いものを人の肩に乗せるが、自分たちは何もしようとしなかった。イエスは群衆と弟子たちに、「先生」や「師」というのは地上にはおらず、キリスト一人とした。

シモーヌ・ヴェイユはウィリアム・シェイクスピアの「リア王」と「重力」を同質とした。リアとは三姉妹に自分への愛情の深さを尋ねた。二人の姉妹は言葉巧みに語るが、末娘は言葉で語れず心の中で示した。彼は、三女を許さず追放し、愛情を示してくれた二人に領土を分け与えた。それからが、彼の悲劇の始まりだった。リアのこの上辺だけで判断することで、娘二人に裏切られ優柔不断で兵を失ってしまう。

リアが分け与えたのは、富の象徴とも言える「領土」であったが、それがまるで彼の臓器を分け与えたかのように、彼の運命は流浪の身へと翻弄されていく。本当に信頼すべき人を誤ってしまったリアの末路は、自分を本当に愛してくれ、救ってくれた三女であるコーデリアを失うこととなる。

聖書にも箴言で「よく聞きもせずに言葉を返す 無知も恥辱もこういう者のこと」(箴言18:13)とあるが、他にも12節、「破滅に先立つ高慢、誉れに先立つ謙遜」15節「分別ある心は知識を得、知恵のある耳は知識を求める」と、表面だけのことにとらわれず、知恵深い悟りを持っている人間によって「究極の判断」ができるとされる。

箴言にもある前途ある「貢ぎ物」とは(箴言18:16)これこそ、イエスについていくことを優先とし、人間同士の依存について警告を出している「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイによる福音書10:37)マルコによる福音書では「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなた方の中で、頭になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい」と述べている(マルコ10:43-44)。

奇しくもリアは兵士を失った時に、このような言葉を述べている。「なんだと、必要を論ずるな。最も卑しい乞食でさえ、その貧しい持ち物の中に何かしら余分な物を所有しておるわ」リアは、ここで気分自身の理性と、物質的な必要性を問いかけている。このセリフはリア王の精神的な崩壊や自省の始まりを予示していて、彼は自らの愚かさや価値観の見直しを迫られている。

ここで、自らの過ちを見直すことは精神的な崩壊も伴うこと、心理学でいう心理的防衛機制(psychological defense mechanisms)、自己評価の崩壊(self-esteem collapse)に相当することにも陥っていることも興味深い。カトリック(キリスト教全般)は罪を見つけることは悔い改めと回心の出発点とされている。実際に、昨今のカトリック関連の訴訟によって、無実を訴える教会法違反聖職者や、被害者を叩く信徒に自己評価の崩壊を避けるがための心理的防衛機制が見受けられる。まるで自分自身を鏡を見ることが出来ないような、(今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている:1コリント人への手紙13:12)愛は、完全な知識や理解を得るための鍵であり、愛の中で完全性が実現するとされているが、彼等はその愛ですら見ようとしていない。そのように、神の愛と人間の罪というのは対極でありながらも同じ鏡像にある。それを見つける術は、詩篇51篇では、ダビデ王が神の前で自分の罪を告白し、悔い改めの心で赦しを求めている。この詩篇の中で、ダビデ王は「真心で悔い、罪を見つめ、心の奥底で神に正直になります」と表現していることに私は着目する。

また、イエス・キリストも、マタイによる福音書18章21-22節で、罪人に対して「7回どころか70倍」(マタイ18:21〜22)赦しを与えることを求める教えを語っている。この教えは、相手の罪を見つめ、赦しを与える心の姿勢を示している。

D’ailleurs le terme de bassesse l’indique. L’objet d’une action et le niveau de l’énergie qui l’alimente, choses distinctes. 低めることへの行為とはリア王の誤った判断のことをさすが、その後のリア王の自分自身への愚かさへの気づきと共に精神が揺らいでいくことについてのは「糧」というのは、鏡を見つめたということに相当する。何故なら、彼は三女の愛に気づけたからだ。(但し、三女コーデリアは殺されるが)

est-ce que (What) 疑問系 

低めたものと「恩寵」

・Le bas et le superficiel sont au même niveau. Il aime violemment mais bassement : phrase possible. Il aime profondément mais bassement : phrase impossible.

・ ––− une vertu basse est peut-être à certains égards mieux à l’épreuve des difficultés, des tentations et des malheurs qu’une vertu élevée.

・La grâce, c’est la loi du mouvement descendant.

・低いものと浅いものとは、同一のレベルにある。彼は激しく愛するが、低級に。彼は深く愛しているが、低級に:とは不可能な判決だ。

・−–−恐らく低い徳の方が、高い徳よりも、様々な困難や誘惑、不幸に耐えられることもあるだろう。

・恩寵とは、下降運動の法則である。

memo3

この引用は、シモーヌ・ヴェイユが低いものと浅いものについて考えていることを示している。ここでは引用が長くなってしまうので割愛させてもらったが、––une vertu basse est peut-être à certains égards mieux à l’épreuve des difficultés, des tentations et des malheurs qu’une vertu élevée.−−彼女は、低次元の動機や感情に基づく行動や感情は、高次元のものと同じように価値があると主張している。言い換えれば、彼女は低次元のものを軽視することなく、まるで真理がそこにあるかのように汲み取っています。

ヴェイユは「重力」(Pesanteur)という概念を通じて、人間の行動や感情における“basse”「低級な」という言葉が示すものについて言及しているようだ。彼女は「低める」行動や感情は、重力の現象であると述べている。また、「低さ」と「表面的」は同じレベルにあると述べており、彼女が指す「彼」とは、リア王のように、強烈な感情を持ちながらも低俗な行動をすることがあり得ると繋がっているだろう。それと同時にヴェイユは「深さ」だけでなく「低俗に」愛することは不可能であると主張している。彼女は「鏡」を見つめるかのように、人間の行動や感情の内部に存在する重さや低俗さの影響について目を逸らすことなく、教会的(この意味では世俗的な教会を指す)ではなく哲学的な考察だと考えられる。

ヴェイユは「低級の動機」や感情に基づく行動や感情は、高次元のものと同じように価値があるとしている。

キリスト教には、リア王と同じような過ちを犯した人物の物語は「直接的」には存在しないが、ただし、キリスト教においては、人間の判断や欺瞞性に対する警告や教訓がある。たとえば、パリサイ派の人たちへの譬えがそれに当たる。

イエス・キリストが数々の奇跡を行う中で、パリサイ派は自分たちの正統性や高潔さを強調しようとする宗教指導者たちについて述べられた。彼らは自己中心的で誇り高く、外見上の行為や信仰を重視して内面的な変化や他の人々への深い愛に欠けていたからだ。この物語を通じて、キリスト教は表面的な信仰や独善的な態度を警戒し、真の信仰は内なる変化と他者への愛に基づくことを教えている。

リア王の場合も、彼の選択は一見正しく思われたかもしれないが、実際には誤った選択となってしまった。この話から私たちは、言葉の表面や外見だけで判断せず、内面の真実や愛を重視する大切さを学ぶことができるだけでなく、重力に逆らうことが出来ない中でも与えられた「恩寵」についても書かれてあるのかもしれない。

重力とは簡潔に科学的に言えばZwaartekracht の訳語で、地球上の物体が地球上の引力によって、物体の重さとなっている。地球の万有引力と「自転」による合力である。質量の本質とは、物体同士が引き寄せ合うのではなく、空間を歪めて引き寄せ合う。重力は宇宙全体を支配しているが、その力は、鳥が飛ぶように、そして私たちが飛び跳ねられるように弱い。決して、強くはない。その「重力」の支配下の中で、リアはコーデリアの存在に気づいた。その愛は、神の愛に通じたのだろう。

*これはカイエです。深くは掘り下げていませんが、何か教示があったらコメントまで。

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