アンデルセン「影」


「いいですか、私はそこにいたんです。見るべきものはすべて見てきたんです」
アンデルセン「影」
  1. はじめに
  2. Ⅰ人格とペルソナ
  3. Ⅱプラトンと「影」
  4. Ⅲ 「唯一性」とモナド
  5. 最後に:「ラザロの死」

はじめに

「あなたはいずれ死ぬことになっているのです」影が語るときに、もっと先のことだと学者は聞き流していたのだろう。それが近い日だと知らずに。――  

学者が訪れた暑い国では、マホガニー色のように日焼けする。マホガニー色とは中々想像がつかない色なのかもしれない。これは深みがある美しい赤い色で、家具の塗料等に使われる。   学者は「真・善・美」を研究するために執筆をしていた。日中の暑さに耐えられない学者と「影」は日が沈むと身体を伸ばして安らいだ。学者は夜になると、向かいのバルコニーで美しい音楽と花を育てている女性に一目惚れをした。それで、自分の影が丁度よくその女性のバルコニーに伸びているので、冗談交じりにこの「影」が彼女の部屋に入って、様子をさぐってくるように命令した。「君だってそれぐらい役に立たなくっちゃ」というと学者は、影に向かってお辞儀をし、その影が女性の部屋に入るように動かした。すると、本当に影が消えてしまった。   影が居なくなった学者は焦ったが、それでも本の執筆をしていた。寒い国でもそのような話があったと、この世界では影がいなくなることがぜ「前例」としてあるようだ。(ペーター・シュレミールの不思議な物語:シャミッソー)ある日、誰かがドアを叩いてきた。すると、綺麗な身なりをした男が立っていた。「どなたですか」と尋ねるもそのはず。学者にとって全く見覚えがなかった。その男は言った。

「私は貴方の影だった男です。過去は貴方の影だったのです」

Ⅰ人格とペルソナ

アンデルセンが生きていた頃は、まだユングやフロイト心理学が生まれる前である。人格(Persönlichkeit:独)ペルソナ(persona:羅)はほぼ同じ意味で使われるが、正常な人格が人間的、「一」であるのに対して、ペルソナとは神と結びつく使い方と分けることがある。ラテン語の「ペルソナ」はもともと、顔を意味するギリシャ語であるが、俳優が舞台でつける仮面を意味していた。それから、仮面ではなく、「役柄」を演じる人物を指すようにもなった。それから、キリスト教の三位一体も父と子と聖霊とペルソナを持ち、純粋に行き来をして「一」となるということはイメージがつきやすい。ユングにとって「影」とは、プラトンがイデアを外に向けたのに対し、アリストテレス的でもある。形相の中に真実があるとし観察し続けたのは、患者と向き合ったことに繋がる。無意識とは、一言でいえば自分が達成できなかったものをさし、作品として、この学者に見えない影を持たせることも可能だったはずでもある。

それでも、この影は無意識下のものではなく、具現化した存在であることにも注目しなければならない。学者は「善・美・真」の研究に酔っていた。この影とは無意識というより、私はアンデルセンがオペラ歌手を目指していた若い頃の経験に焦点をあてる。彼は声変わりさえなければ、舞台の上に立っていたかった。役者と「人格」というものは妙な関係である。役というものは自己が持つ別の側面なのだろうか。ペルソナとは正常な状態であるのなら「一」で統一しようと戻るものだが、「役」は違う。自分の身体を使って全く別人を生み出すのである。舞台の上では別の名前として存在するが、そこで全く自分と切り離せるわけではない。「学者」の役をするとしても、その役者の人格と切り離せないものと共に「役」として人格を形成する。この話では、必ずどちらかが主体と影にならなければならなかった。人間の精神を「思考するもの」として「拡がるもの」として、「影」は色んな多義性を持っていたが、まるで役者が本来の姿に戻れず、役であった「影」が幸福を手に入れてしまったようにも見えた。

それと同時に人格が「個人」の所有だけでなく、「集団」に従属としていることが含められている。

影は、学者よりも遥かに集団に属していたからだ。

Ⅱプラトンと「影」

学者にとって「影」とは何だったのだろうか。影が自立して出ていくことは、プラトンの 洞窟(Allegory of the cav)を思い出させた。プラトンの洞窟は、洞窟の中で囚人が暮らしているが、縛られているので背後に火が照らされていることも知らない。洞窟で囚人たちは火に照らされた人形の影を見て生きているが、一人だけ洞窟から出ることが出来た。その囚人はあの洞窟は「影」だったと知り、太陽が照らす外の世界を知った。けれどもそのことを残っている囚人に伝えると、彼等は信じなかった。   学者から離れた影は、もはや学者の分身的存在かどうか定かではなかった。アンデルセンは寧ろ、二人の共通項を伏せてしまっている。それだけでなく学者は故郷の寒い国に帰るまでに新しい影が伸びていた。以前の影は、主体である存在から解放されて、この影は外の真理を旅したのである。そしてその影は立派な姿になって、寒い国へと学者の元へ訪れたのである。学者は気前良く、別人格となった影を受け容れた。読者の先入観として、二重人格のような何か学者の繋がりを考えてしまうが、そうではない。これは全くの別人になってしまったと思ってよいのかもしれない。   暑い国で、学者が一目ぼれをした女性について影は「世界一美しいのは詩です」と答えた。 その女性と関わることで、影は自我が目覚めてしまった。靴や服が欲しくなり、人々に同情され身なりを整えた。そう楽しく会話すると、影はまた旅に出ていってしまった。

善のイデアを神の概念と同 一視することにおいて、プラトンの「ピレボス」では明確に記されている。

「他のあらゆる知識を持っていたとしても,最も 善きものについての知識が欠けていたのでは,むしろ害するほうが多いだろう」と、プラトンは「善」と「一」を同一視していた。学者はそのような存在だった。けれども、「影」は学者にとって違う存在になっていった。

Ⅲ 「唯一性」とモナド

 影はまた学者のところに戻ってきた。学者は「真・善・美」についての話を書き続けていたが、上手くいっていなかった。影は、まだこの時は友好的で「一緒に旅をしませんか」と提案するほどだった。しかし条件があった。「あなたは私の影になるのです」学者はたとえ旅費を出してもらえるとしても拒んだ。学者が語っていた真善美はたいていの人にとって、 牛に薔薇の花をやるようなものだった。だからこそ、学者は重病になってしまった。もう一度、影に旅をすることと「あなたが私の影になること」を提案すると、学者は条件をのんでしまった。

二人は仲良くしていたが、二人の呼び名に関して影が意見を唱えてから、二人の関係が変わっていく。影は、学者に「君」と言いたいと言い出した。それに対して、学者は、 「ばかげた話だ。あいつに『君』って言われるのに、こっちは『あなた』って言わなくちゃいけないなんて」と苛立ちがおさえられなかった。   日本語だけだと、これだと分からない。デンマーク語では、”Det er dog vel galt,” tænkte han, ”at jeg må sige De og han sige du,” men nu måtte han holde ud.となっている。

De(敬称)

Du (親称)

Duは動作をしていること、すなわち影が動き回っていって主人公が乗っ取られている状態を言語でも表している。Deは古い丁寧語 だが、だから主人公は影に古い言葉で呼ばれることに怒る。何故なら、古いということだから。この辺りになると、ルイス・キャロルの言語ゲームのようだ。動き回っている「アイツ」に、Duと呼ばれる屈辱、一応まだ自分のことを「主人」扱いで敬称だけど許せない。何故なら自分が影になってきているからである。   プラトン学派とも言える「真・善・美」を研究する学者にとって、形相(エイドス)が自分から離れて自分よりも優位に立とうとすることは受け入れがたいことだろう。何故なら、洞窟の外に出て知覚を得るのは「己」だからである。哲学が唯心ではなく唯物的なところは、必ず「己」が手に入れるところにある。それなのに、全く分離した状態で影は成功者となり、自分は本の執筆すらままならない。影は主人公の何を奪ったのか、それとも主人公は影にうっかり譲ってしまったのか、アンデルセンはそれを最期まで隠している。二人が訪れた保養地で、綺麗な王女様と出会う。その王女様は「物が良く見えすぎる」という病にかかっていた。王女様は、他の誰でも持っていない魅力を持っている影に興味を持って、二人で踊ったときには恋に落ちた。影は、学者のことを「なんでも知っている影」だと王女に紹介をした。「此奴に物を尋ねるときは人間のように扱ってやってください」と聞かされた王女は、それを承諾し、学者に色々と尋ねた。王女は、こんな素晴らしい「影」(学者)を持っている男と結婚すると決めた。

影は、学者に「今度からお前が俺の影となって生きろ」と言うが学者は拒んだ。ついに二人の結婚式の時には学者は殺されていた。    

何故、自分というものは一人しかいないのかというのは理由律(Principle of sufficient reaso)が生きようとする、理由律とは(ratio:羅)にもみられるように根拠という意味もある。ライプニッツが「唯一性」についてモナドでこう答えている。「自己意識、自覚的表象の有無である」。自分の「唯一性」はまず、自己意識を持つことである。何故、ライプニッツが「唯一性」にこだわったのかは分からないが、 ライプニッツが科学者だったからこそなのかもしれない。観察者1人、対象物が一つであることが確実でなければならない。検証と立証する人が、一人ではなく、二人かもしれない、そんな存在の観測は信用が出来ない。唯一の存在、唯一の対象物であるということによって、「前提」に立てるのである。

学者と影、どうして二人、別々に生きられなかったのか。影というものは、抑圧された自己であったりすることは、もっと後の心理学の話である。現に、前述通りに学者と影の共通項をアンデルセンは伏せてしまっている。しかし、「影」の存在はエイドスを超え、周囲の認知と魂と、ペルソナを備えて「一」になる時が必要となった。それが王女との婚姻が時機だったということが興味深い。キリスト教の婚姻は必ず一夫一婦制だからである。  

アンデルセンの話に似たような話がある。「幸福の長靴」という話だ。ここでも寒い国と暑い国とあるが、この話では土地名が明かされている。寒い国とは「スイス」で、暑い国とは「イタリア」である。「幸福」という若い召使と、「心配」と年老いた妖精がいた、幸福は女神に使える召使で、幸福を持ち歩いていました。「心配」は一人で仕事をする妖精でした。 幸福は、誕生日の祝いに一足の長靴を貰った。その長靴を履いた者は誰でもどんな願いも叶って幸せになれるというものでした。それを知った「心配」はその長靴を履いた人間は不幸となると、反対をした。

「幸福」の妖精は幸福の長靴を誰かが拾ってくれるように置いた。その長靴を、法律顧問菅、夜警、書記、と拾われていくが、願いが叶うにも悲劇にしかならなかった。やがて「神学生」の手元に届いた。神学生はまず寒い国から暑い国に行きたいとお願いした。すると彼はスイスにイタリアへと飛ぶことが出来た。やがて、神学生は旅に疲れてしまい、肉体があるせいだと思った。「この身体さえ無くなればいいのに」と願ってしまった。   神学生の魂は自由となり、死んでしまった。二つの人影が部屋を動き回り、「心配」の妖精は、「幸福」の召使に言った。「一体、彼にどんな幸せを与えたというの?」と。幸福は「こうやって、眠れていることに永遠の幸福を与えたのでしょう」と言った。すると「心配」は「とんでもない。彼は自分で死んだので召されたのではないのよ」と言い返した。

そして「心配」はこう続けた。「この人は自分の運命に運命づけられた賜物を見つけられるほど賢くなかった。でも私が彼に恵を与えてあげましょう」   「心配」は神学生から長靴を脱がせた。神学生は生き返り、起き上がった。それと同時に 「心配」の妖精は長靴と一緒に消えた。最後に、恐らく「幸福の長靴」の持ちぬしは「心配」のものになった。   「心配」の妖精が死んだ神学生に言った「自分の賜物を見つけられるほど賢くなかった」と、 別作品の「影」での学者の死の理由律は繋がっていると考えている。これは、アンデルセンの持つ「ペルソナ」であり、違うペルソナの物語なのである。著作「影」では、「心配」や「幸福」というような人の経験を探ろうとする言葉が無い。   「影」の教訓とは何か、これが難解とすることは影の多義性が定まっていないところである。著者の別の内面を書いた告白とも言えるし、もしくは単なる「物語」なのかもしれない。ライプニッツは可能なものすべてが現実化するのではないと考えた。現実化しなくても、可能なものは可能として存在する。現実とは生まれざる無数の可能から生まれる。 続いてライプニッツ哲学の理由律と無差別を借りれば「学者」の死は、こうともとれる。  

理由のないものはないが、もしも無差別というものがあるとすれば、人間の無知が作り上げたに過ぎない。これはギリシャ人が「運」と呼んでいたことと同じである。学者の死は、無知が作り上げた運であると。   ライプニッツとプラトンは「観念」に関しては共通のものを目指していた。しかし、ライプニッツがデカルトの「観念」が主観に過ぎないというところから始まり、プラトンのイデアにも似ているものを「観念」としていたが、決定的に違うのは、ライプニッツのイデアは、 「観念の本質は表出」とした。学者は「真・善・美」を研究していた。だから、彼のイデアは彼の期待通りの「真・善・美」であるべきだった。「善」のイデアで理想の「善」があるように。ライプニッツはそうではなかった。主観では分からないイデアが存在する。しかし、学者はそこに辿り着かなった。少なくとも生きている間は、辿り着かなかった。怠ってしまった「表出」とは何だったのか。表出とは表現とも言う。彼は自分自身と「影」と双葉のような関係になっていたことに、問うことはなかった。双葉とは、枝分かれしながらも二本の植物ではない。「唯一性」である「一」の存在である。それなのに、学者は最後まで「意思」として、自分の「賜物」を見つけようとしなかった。影の存在が「善の反対」だったとも言い切れないというのが、この話の魅力でもある。それは後の心理学的な「影」、ペルソナと接点を持ち合わせてくるからである。

最後に:「ラザロの死」

「影」は、洞窟から囚人として解き放たれ、多くの真実を見た。それは、人知れず「一」となるための旅だったのだろう。他の童話作品等にもみられる「婚姻」に拘った著者のもう一つのペルソナであり、二人の男は一緒に「エイドス」として共存出来ないということだった。「影」は何が最善かを学者に伝えたが、学者は信じなかった。アンデルセンは、舞台に立ちたかったという話を書いたが、役者の視点に立つのなら、本当は「影」なんていなかったのかもしれない。二重人格としてではなく、学者が全てを演じていたと仮定する。精神の病気ではない。男は、単に世の中が知りたくて旅ばかり出かけていた。そうすれば、容易に何故、「真・善・美」の原稿が上手くいかなかったのか説明がつく。部屋には誰も住んでいなくて、原稿をおろそかにしてしまったのだ。そうだとすれば、墓の中は空っぽなのかもしれないし、王女と結婚なんて誰もしていないのかもしれない。けれども、そうではなくアンデルセンにとって「死」は空っぽであってはならなかった。「死」は必ず存在しなければならなかった。役者は必ず舞台を終わらせ、また「一」に戻らないとならない。残酷の死の後に、どんな自分の人格が緞帳でお辞儀をするのか。

 まず、  幸福の長靴の神学生にはSorgen(悲しみ)の妖精がついていた。それに対して、学者にはついていなかった。

 何故、学者には「悲しみ」の妖精が存在していなかったのだろうか。その「偶然」に焦点を当ててみる。それはどんな意味だったのか、似たような話を書いたアンデルセンのペルソナについて考える。悲しむ存在がいないことへの恐れだったのだろうか、恐らくそれだけではないのだろう。自分の死を悲しまないのは誰だったのか、それは紛れもなく「自分自身」なのかもしれない。アンデルセンは物語を通して貧しい人の「死」について考え続けていた。それだけではなく、彼自身も「死」について敏感だった。自分の人生を見つめたとき、価値のある人生だったと思える日もあれば、そうでない日もある。神学生への投影は、不安がありつつ、著者自身の希望も反映して息を吹き返したのかもしれない。学者の死は、「死」への価値観をそのまま受け入れた姿だったのかもしれない。   何故、「影」の話は哀しいのか、それはイエスがラザロの死に関して憤りを感じたことで話を纏めようと思う。アンデルセンの「影」は他の童話と比べると異彩を放っている。まるで神の祈りがなく、奇跡がない。けれども、彼の童話を読んだ人なら気づくのかもしれない。彼の隠れ持ったペルソナを。貧しい人は「死」によってしか幸福がもたらせないと言った意味を。確かに、学者は死に至る前に色んなものを怠ったのかもしれない。残酷を目の前にして、願うことはイエスが涙を流したように、人々に憤りを感じて欲しいというものがあったのかもしれない。そこで私は著者のペルソナとして「生命の尊厳」の一貫性を感じている。役を終えた著者は、そのような姿をしていたと思いたい。イエスはいつでも、「貴方の死」を悲しんでいるということを忘れないために。

自分自身の価値を見失いそうになった時、自分が死んでも何も変わらないと思った時、自分の死を悲しむほど愛している人がいるということを、思い返してほしい。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」 ヨハネによる福音書 11:4

もしも私のペルソナが「一」にならないことがあっても、

緞帳が降りれば、この心に戻ってこれるように祈る。

モナドについての他の記事

Lykkens Kalosker   (幸福の長靴)

    http://wayback-01.kb.dk/wayback/20101108104438/http://www2.kb.dk/elib/lit/dan/andersen/eventyr.dsl/hcaev021.htm

人魚姫とアンデルセン

人魚姫 高橋真琴
「魂が邪曲に生きるとき、死ぬ(略)
魂は神から後退することによって邪曲となり、
神の方に前進することによって義となる」

アウグスティヌス ヨハネの福音書読解 19講

はじめに

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは私の好きな作家の一人です。80-90年代にフロイト心理学に偏りすぎた解釈本が多く出版された時代もあったが、フロイトでさえも悪戯に使われて、「これが本当のアンデルセン」というように分析されることは幼い私にとって違和感を覚えさせた。確かに彼にとって、女性が憎いという気持ちも当然あったと思うが、反対にキリスト教徒として魂が神に近づこうとする気持ちもあった。彼は魂が神聖さを好むという事に関して、フロイトやユング心理学よりも先立っていた。私も年齢を重ねるごとに、一通り人生の四季を過ごしたのかもしれない。春、夏、秋、冬、そしてまた穏やかな季節になった時に、彼の魂の痕跡が分かるようになった。私はアンデルセンは神に祝福され、キリスト教徒として大切なことを残したと思っている。今回は自分の分析をアンデルセン自伝を踏まえながら批評する。

Ⅰ「わたしの一遍は美しい物語です」

不幸に見舞われたときに、人は神をどのように捉えるのか。神を憎んで信じなくなるか、もしくは神に救いを求めるのか――ハンス・クリスチャン・アンデルセンはそのどちらでもなかった。アンデルセンの作品には不幸が魂の段階であるかのように、童話的な純化や昇華が存在する。彼のそのような作風は、キリスト教的な要素を削ぎ落された日本の絵本でも、イエス的な愛は掻き消えることは無かった。登場人物たちの行動、愛に自己犠牲が伴うことが多い。私は子供ながらに優しい気持ちが何故こんなに美しいのだろう、と思った。それが痛みや貧しさを伴っていても、彼の放つ世界は美しかった。

アンデルセンの生い立ちも恵まれたものではなかった。貧困なだけではなく、祖父は固定観念にとりつかれた精神分裂病で、祖母は病的な虚言癖者だった。彼の父親は誰なのかは分からず、母親に関しては素行が悪く、男癖も悪かった。その母親を愛するべきか、軽蔑するべきかの矛盾を抱えていた。アンデルセンは祖母の影響で空想壁がついていた。同級生に貧乏だと馬鹿にされれば、「自分の本当は取り違えられた貴族の子で、神の使いが下りてきて自分と話をする」と答えたりしていた。

そうでもしないと、彼は友達関係がやりきれなかった。社会性において不幸話が事実だとすれば、それが自己紹介になることも酷なことである。そういう子供にとって、それは子供自身の自己紹介ではなく、家族の話になってしまう。宮沢賢治の「春と修羅」の「私という現象」と表現することがあったように、私というものが自然や複数人の人生によって成り立つ「現象」だとするのなら、私というものは「私」という体験の途中段階であって、それは未分化状態であり、本質そのものを他人の価値観ではなく内面世界に委ねる。それは他者から「貧しい人」と位置付けられるのでなく、本質は成長すると信じなければ立っていられない。本質を信じることとは、神が自分を愛してくれると信じることに繋がる。(そう信じたいのである)心奥では神に近づけるほどの神秘性があっても、幼ければ自分でもそれが何なのか分からない。『光』を語るには早すぎる場合、作家の才能がある人は一旦、社会性を保つために嘘をつかなければならない。それが華美な装飾になってしまうか、平凡に近づく為の嘘なのか、そういう境遇の子供なら誰しも知っている。そもそも、周囲も不愉快にしかしない生い立ちよりも、物乞いのように思われることよりも、心地よい話をするに社会性としても必要だからである。作り話は、心が仮初の自我を見せるための手段であろう。『光』を語るには早い段階で傷つけてくるものから、守るものが何なのかで運命が分かれる。もしかしたら仮初から本物になりたい、そう思いながら生きるのかもしれない。

アンデルセンの転機は、育ての父親の他界後だった。近所の牧師で詩人でもあったブンケフロートの妻(未亡人となる)とその妹に、シェークスピアやゲーテ等の文学作品に触れる機会があった。それによって、彼は芸術家というものを知った。それは一段高い教養に触れ、貧しく偏狭な精神世界から抜け出すきっかけとなった。

Ⅱ 持たざるもの

 アンデルセンは自分のついた幼い頃の「嘘」について一番理解していたようだった。貧しい人はそうしなければ生きられないことも、それでも甘んじることなく罰を受けることを表している。「赤い靴」では、少女カレンは聖餐式の靴を買うために行ったが、目が悪い養母を騙して華やかな美しい赤い靴を買って、養母を騙し続けた。育ててくれた恩も忘れ、養母の看病をせず、彼女は舞踏会へと出かけるようになった。そんなカレンに天使が舞い降りてきて、ずっと踊り続ける呪いをかけた。カレンは、踊りが止まらなくなり疲れて辛くなって、死刑囚の首を切る役人に足を切ってもらうように頼む。カレンは足をそれで本当に切断された。 この話はアンデルセンが独身で生きると決めた意思が反映されているらしいが、自身の人生を振り返っているようにも思える。少女は、元々ボロの赤い靴を大事にしていた。それを捨てたのは養母だった。幼い頃に大事にしていたものというものは確かに美しい。本質は美しかったとしても過ちを犯したとしても罰を受けなければんらない。もっとも大事だったものの代償として綺麗な赤い靴も選んだとしても、騙したことに変わりないという厳しさを表している。

アンデルセンの作品は生まれながらの「宿命」と自己犠牲が多いが、彼が活動していたのは、フロイトやユング心理学の誕生する前だったということも注目しなければならない。もしかしたら、デカルトの「生得説」ならアンデルセンは知っていたのかもしれない。生まれ持った観念は既に神が与えたものというものについて、両親も機能していない「貧困」であった彼にとっては「心」は確かなものがあったのだろう。自分は神と対話出来るほどの自覚があったのかもしれない。それでも生得説では割り切れないことについて、人魚が人間になるという『魔術』によって変われる願望を持ったのかもしれない。もしくは、魔術でなければ『身分』が変われるわけがないという確信かもしれない。アンデルセンは、美しい歌声を持っていたのでオペラ歌手を目指していたが声変わりで挫折している。この生い立ちを知れば、人魚姫が人間になる代わりに声を失うことと重なる人は少なくないだろう。水中で無自覚で与えられて生きていた少女の人魚姫が、声と引き換えに人間の大人になろうとすることは、アンデルセンの幼年期から、大人になるために奪われた経験と重なっている。彼にとって声を失うということは、「持たざるもの」になったのと同じだったからだ。

Ⅲ 仮初の私と宿命

彼の童話はただ魔術を都合よく使うわけではなく、彼にとっての父は常に神である『主』だった。両親が機能していなかった彼にとって、善悪の教師は聖書であったことは間違えない。アウグスティヌス神学のように、魂から身体に与えられるものと、神が魂に与える違いを反映している。

仮初の「私」がいつ「何者」になるのか、彼の童話執筆はその魂の段階を見せている。その中でも「人魚姫」は恋愛の話としても有名だが、人魚については人間に値しないものと「貧しさ」を表している。これはフーケの「ウンディーネ」を受け継いだような話で、ウンディーネは司祭に婚姻の秘跡をもらえたが、人魚姫は違った。秘跡を与える聖職者そのものが登場しない。ウンディーネは人間界でも地位のある存在と婚約し、男が婚姻の約束を破ればウンディーネは男を殺さないとならなかった。婚姻への裏切りに対しての厳しさは宗教的な罰も感じられる。人魚姫も地位のある王子と結婚できたら、人間として生き続けられると呪術にかけられるところは類似点である。ウンディーネのような水の精は、創世記の神の創造で水は予め在ったという『絶対無の場所』(西田幾多郎)を表している。それは書かれていない水中世界に想像を馳せて生まれたものである。ウンディーネは結婚相手を殺さないとならなかったが、人魚姫は王子と結ばれなかった後は失脚を選んでいる。

人魚は15歳の誕生日に人間の世界を見ることが出来るが、姉妹それぞれ違う世界を見た。それはカトリックの洗礼を受けた人間が、同じ段階を踏みながらも違う世界が見えることと似ている。もしくはユング的に水とは無意識世界とも解釈できるかもしれない。人魚姫の魂が人間のように恋心を知ったが、その代償はあまりにも過酷だった。人魚姫は人間の足を手に入れたが、歩く度に激しい痛みがあったのだ。失恋続きだったアンデルセンにとっては、大人の恋愛の成就が書けなかったが、恋という躍動に痛みが伴うことと、それが童話として少女から大人になるための現実と、キリスト教の「天の国に入れる者」という教えを反映させることになる。そこには、女性に対して自分自身を愛してほしいという願望が含まれていたのかもしれないが、彼はその欲求を童話として昇華している。

著者がまるでこの世を許したように、貧しい存在の人魚姫は神の祝福を受ける。 何故なら、この話はイノセントな子供が読むために、著者の生い立ちの面影を消しているからである。整えられた文体で、美しい人魚の世界になっていたからだ。王子を助けたのは本当は自分なのに、王子は他の女性が助けたと勘違いしてしまう。普通の女性なら、恋が終わるということは人生の通過点であるが、人魚のもつ「宿命」として、身分を変えてまで仮初の「私」に与えられた時間は短かった。あまりにも残酷なので、人魚姫の姉達は王子を殺せば人魚に戻れると魔女と取引をしてナイフをもらったが、人魚姫はそれを渡されても殺すことが出来なかった。人魚姫は、王子を殺すことが出来なかったが、泡になって終わってしまうことはなかった。原作にはこの続きがあって、人魚姫は空気の精霊になった。精霊となった人魚姫は最後に、王子の花嫁の額に口づけをして、去っていく。人魚姫は三百年良い行いを積んでいけば、死なない魂を授かって、尽きることのない人間の幸せに預かれると他の精霊に聞かされる。両親の愛に応える子供を探すと人魚姫が人間の魂を得られるのが一年縮まるが、悪い子供に出会って涙を零すごとに一年延びてしまうというものだった。

***

 アンデルセンは幼い仮初の自分から、何を見出したのだろうか。日本ではキリスト教的な要素が削ぎ落された絵本になってしまっているので、泡になって消えてしまうところで終わっているものが多かった。それだけだとペシミズムに過ぎなかった。けれども、高橋真琴挿絵の人魚姫だけは、神様が「風の娘」に変えた話を入れていた。幼い頃の私はそれを読んでいた。もしも、これを現代版に置き換えて、現実世界に照らし合わせると悲劇でしかないのかもしれない。これは幼い女の子が「死ぬことが美しい」と信じる話ではない。幸福とは物質的なものを手に入れることも重要である。健康な身体、社会的地位、家族、友人、恋人、それらは物質的なものと神聖さが混ざっているので、二元論では済まない。反対に魂だけを高める幸福はオカルティズムを生み出してしまう。そうではなく童話やメルヒェンは、虚構の世界で内面を育むために存在する。それは今日明日、何か実利的なものを手に入れるためにあるものではない。アンデルセンは、貧しい人は「死」でしか幸福が得ることが出来ないと、その現実を知っていた。彼の自伝にもこの貧困へのコンプレックスは外すことがなかった。

彼は「仮初」な存在から、創作と共に根底にあった聖なるものを童話を通して、海外では「幸運の寵児」と言われるまで愛された。童話は教訓があったとしても、直ぐに何かを実践するためにあるものでもない。微かにでも思い出すと著者が歩んだキリストの愛に近づいていく。ただそれはメルヒェンに表れる天の入り口の手前なのかもしれない。明日すぐに貧しい人が救われるわけではない、自分が救われたい日もあれば、人を助けたい日もある。仮に手を差し伸べたとしても上手くいかない。良いことをしたことが裏目に出て恨まれる日もある。不正がすぐに裁かれることもない。正しいことが実るわけでもない。毎日毎日、奇跡を祈ると辛くなっていくので、祈りが中身を失うこともある。それでも人の心奥に神と対話したいと輝きがある。きっとそれは誰でも持っている。それはどうしたら聞いてもらえるのか、知遇を得た幸福を、感謝の念と多くの喜ばしいことが、針の穴(マタイ19章16節~30節)の向こう側の光を見つけようとする。

幼い頃に天使と話せると嘘をついた彼は、それさえも創作にするほど正直だった。彼は自分を隠そうとしなかったのだ。粗筋だけを心理分析することは、著者の欲望のみしか分析出来ないだろう。だからこそ、失恋の恨みという分析も多く存在する。

人魚姫の話に戻ると、絵本では分からなかった描写の美しさで溢れている。彼は旅をしながら世界を愛したと伺える。

Ⅳ 巡礼

――はるか沖へ出ると、海の水は青味のいちばん強い矢車草に負けないぐらいの青色の、透明な水晶に負けない澄み切った海に、人魚姫は住んでいた。海の底には白い砂が寒々と広がっているだけだと、思わないでほしい。そこには見るも不思議な木や草が茂っていて、その茎や葉が揺らいでいる。水がわずかに動くだけでも、生きているように揺れ動くのだ。小さな魚も大きな魚も、みんな陸地の鳥たちが飛び回るように、魚たちは枝の間をすいすいと泳ぐ――(本文より)

 地上よりも夢のある水中世界から、人魚姫は恋を選んだ。恋は一時でも幸福にしてくれ、成長させる。恋が実らなくても、愛することの価値が表れている。彼女は何故そこまで王子を愛せたのか、それは語り尽くせない。地上がいくら辛くても、どんな身分のものでも人を愛せるということがこの話にあった。きっと地上では、それは誰も信じないことだ。

童話は、水中に現実の声が届かないところへ連れていく。現実へ戻るときに、その時の心が残っていることが願いだろう。だからこそ最後のように、人魚姫の魂が天の国へ行けるように、良い子になってほしいと書いたのではないのだろうか。

魂が息づいて、何に迷い何を求めたのか、これほど魂の機微が見える童話集は無い。信仰があった人間の魂は美しい、と思わせた。彼の場合はただの魂を崇拝することであなかった。彼から学ぶことは、誰しも神と対話したい心があると信じて書くことだった。残酷な現実を知りながらも、魂は神の善に近づこうとする。だから、人の心は優しさを知る。その純粋な気持ちを引き出すために、人々をメルヒェンに連れていかなければならない。彼はよく旅をしていたが、それは彼にとって仮初だった『私』が神を理解していく巡礼だったのだろう。恋に破れ続けたが、彼は人を愛することを童話で書き残していた。愛を最も信じられないことのはずなのに、彼は愛を書いた。それは強さではないだろうか。家族愛や恋人、神への愛、「愛」を教えることや、愛を信じること、愛を与えること、それは、人間にしか出来ないのだから。

イエスもまた人の理解と言葉を必要としている。かつては持たざる自分は仮初の姿でも心を神に信じてもらいたかった。その心が誰かにもあるということを。人魚姫が出版されてから、まだ300年経っていない。まだ人魚姫の魂は天国に行けていないのだ。良い子がいれば、その日は一年早くなり、悪い子がいれば、その日は一年遅れてしまう。魂が神に近づくということ、それは

針の穴の奥に見える光、それを多くに伝えたいとするのなら、多くの種をばらまかなければならない。

――――

コラム掲載しました。(別サイトリンク)「迷える魂に捧げるミサ」

・今回も「人魚姫」を中心に書いた。アンデルセンには「影」等、この批評に収まらない作品があるが、今回は第二弾として絞ることにした。第一弾はこちら。

・「針の穴」(マタイ19章16節~30節)キリストが弟子に天の国に入れるものについての例え話の一つ。針の穴に入れるのは富んだものではなく、ラクダのほうが容易に入れると言った。

・ともあれ幸運の星は一旦は輝いた。そして私は十分な分け前を受けてきたのだ。幸運の星の沈むところ、

そこに新たに私の最善の道がひらけるだろう。私は神と人間とに対して、謹んで私の心からなる感謝と愛とを

捧げる。(アンデルセン自伝)

・Bredsdorff.E.:Hans Christian Andersen Phaidon Press Ltd 1975

・聖餐式 プロテスタントの儀式

・アンデルセンはプロテスタントです

・創世記の「創造」とはへブル語では無からの創造という意味ではない。ということから元から水はマイムで水は在ったとされている。(宗派によって違いがある可能性はあり)

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