人魚姫とアンデルセン

人魚姫 高橋真琴
「魂が邪曲に生きるとき、死ぬ(略)
魂は神から後退することによって邪曲となり、
神の方に前進することによって義となる」

アウグスティヌス ヨハネの福音書読解 19講

はじめに

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは私の好きな作家の一人です。80-90年代にフロイト心理学に偏りすぎた解釈本が多く出版された時代もあったが、フロイトでさえも悪戯に使われて、「これが本当のアンデルセン」というように分析されることは幼い私にとって違和感を覚えさせた。確かに彼にとって、女性が憎いという気持ちも当然あったと思うが、反対にキリスト教徒として魂が神に近づこうとする気持ちもあった。彼は魂が神聖さを好むという事に関して、フロイトやユング心理学よりも先立っていた。私も年齢を重ねるごとに、一通り人生の四季を過ごしたのかもしれない。春、夏、秋、冬、そしてまた穏やかな季節になった時に、彼の魂の痕跡が分かるようになった。私はアンデルセンは神に祝福され、キリスト教徒として大切なことを残したと思っている。今回は自分の分析をアンデルセン自伝を踏まえながら批評する。

Ⅰ「わたしの一遍は美しい物語です」

不幸に見舞われたときに、人は神をどのように捉えるのか。神を憎んで信じなくなるか、もしくは神に救いを求めるのか――ハンス・クリスチャン・アンデルセンはそのどちらでもなかった。アンデルセンの作品には不幸が魂の段階であるかのように、童話的な純化や昇華が存在する。彼のそのような作風は、キリスト教的な要素を削ぎ落された日本の絵本でも、イエス的な愛は掻き消えることは無かった。登場人物たちの行動、愛に自己犠牲が伴うことが多い。私は子供ながらに優しい気持ちが何故こんなに美しいのだろう、と思った。それが痛みや貧しさを伴っていても、彼の放つ世界は美しかった。

アンデルセンの生い立ちも恵まれたものではなかった。貧困なだけではなく、祖父は固定観念にとりつかれた精神分裂病で、祖母は病的な虚言癖者だった。彼の父親は誰なのかは分からず、母親に関しては素行が悪く、男癖も悪かった。その母親を愛するべきか、軽蔑するべきかの矛盾を抱えていた。アンデルセンは祖母の影響で空想壁がついていた。同級生に貧乏だと馬鹿にされれば、「自分の本当は取り違えられた貴族の子で、神の使いが下りてきて自分と話をする」と答えたりしていた。

そうでもしないと、彼は友達関係がやりきれなかった。社会性において不幸話が事実だとすれば、それが自己紹介になることも酷なことである。そういう子供にとって、それは子供自身の自己紹介ではなく、家族の話になってしまう。宮沢賢治の「春と修羅」の「私という現象」と表現することがあったように、私というものが自然や複数人の人生によって成り立つ「現象」だとするのなら、私というものは「私」という体験の途中段階であって、それは未分化状態であり、本質そのものを他人の価値観ではなく内面世界に委ねる。それは他者から「貧しい人」と位置付けられるのでなく、本質は成長すると信じなければ立っていられない。本質を信じることとは、神が自分を愛してくれると信じることに繋がる。(そう信じたいのである)心奥では神に近づけるほどの神秘性があっても、幼ければ自分でもそれが何なのか分からない。『光』を語るには早すぎる場合、作家の才能がある人は一旦、社会性を保つために嘘をつかなければならない。それが華美な装飾になってしまうか、平凡に近づく為の嘘なのか、そういう境遇の子供なら誰しも知っている。そもそも、周囲も不愉快にしかしない生い立ちよりも、物乞いのように思われることよりも、心地よい話をするに社会性としても必要だからである。作り話は、心が仮初の自我を見せるための手段であろう。『光』を語るには早い段階で傷つけてくるものから、守るものが何なのかで運命が分かれる。もしかしたら仮初から本物になりたい、そう思いながら生きるのかもしれない。

アンデルセンの転機は、育ての父親の他界後だった。近所の牧師で詩人でもあったブンケフロートの妻(未亡人となる)とその妹に、シェークスピアやゲーテ等の文学作品に触れる機会があった。それによって、彼は芸術家というものを知った。それは一段高い教養に触れ、貧しく偏狭な精神世界から抜け出すきっかけとなった。

Ⅱ 持たざるもの

 アンデルセンは自分のついた幼い頃の「嘘」について一番理解していたようだった。貧しい人はそうしなければ生きられないことも、それでも甘んじることなく罰を受けることを表している。「赤い靴」では、少女カレンは聖餐式の靴を買うために行ったが、目が悪い養母を騙して華やかな美しい赤い靴を買って、養母を騙し続けた。育ててくれた恩も忘れ、養母の看病をせず、彼女は舞踏会へと出かけるようになった。そんなカレンに天使が舞い降りてきて、ずっと踊り続ける呪いをかけた。カレンは、踊りが止まらなくなり疲れて辛くなって、死刑囚の首を切る役人に足を切ってもらうように頼む。カレンは足をそれで本当に切断された。 この話はアンデルセンが独身で生きると決めた意思が反映されているらしいが、自身の人生を振り返っているようにも思える。少女は、元々ボロの赤い靴を大事にしていた。それを捨てたのは養母だった。幼い頃に大事にしていたものというものは確かに美しい。本質は美しかったとしても過ちを犯したとしても罰を受けなければんらない。もっとも大事だったものの代償として綺麗な赤い靴も選んだとしても、騙したことに変わりないという厳しさを表している。

アンデルセンの作品は生まれながらの「宿命」と自己犠牲が多いが、彼が活動していたのは、フロイトやユング心理学の誕生する前だったということも注目しなければならない。もしかしたら、デカルトの「生得説」ならアンデルセンは知っていたのかもしれない。生まれ持った観念は既に神が与えたものというものについて、両親も機能していない「貧困」であった彼にとっては「心」は確かなものがあったのだろう。自分は神と対話出来るほどの自覚があったのかもしれない。それでも生得説では割り切れないことについて、人魚が人間になるという『魔術』によって変われる願望を持ったのかもしれない。もしくは、魔術でなければ『身分』が変われるわけがないという確信かもしれない。アンデルセンは、美しい歌声を持っていたのでオペラ歌手を目指していたが声変わりで挫折している。この生い立ちを知れば、人魚姫が人間になる代わりに声を失うことと重なる人は少なくないだろう。水中で無自覚で与えられて生きていた少女の人魚姫が、声と引き換えに人間の大人になろうとすることは、アンデルセンの幼年期から、大人になるために奪われた経験と重なっている。彼にとって声を失うということは、「持たざるもの」になったのと同じだったからだ。

Ⅲ 仮初の私と宿命

彼の童話はただ魔術を都合よく使うわけではなく、彼にとっての父は常に神である『主』だった。両親が機能していなかった彼にとって、善悪の教師は聖書であったことは間違えない。アウグスティヌス神学のように、魂から身体に与えられるものと、神が魂に与える違いを反映している。

仮初の「私」がいつ「何者」になるのか、彼の童話執筆はその魂の段階を見せている。その中でも「人魚姫」は恋愛の話としても有名だが、人魚については人間に値しないものと「貧しさ」を表している。これはフーケの「ウンディーネ」を受け継いだような話で、ウンディーネは司祭に婚姻の秘跡をもらえたが、人魚姫は違った。秘跡を与える聖職者そのものが登場しない。ウンディーネは人間界でも地位のある存在と婚約し、男が婚姻の約束を破ればウンディーネは男を殺さないとならなかった。婚姻への裏切りに対しての厳しさは宗教的な罰も感じられる。人魚姫も地位のある王子と結婚できたら、人間として生き続けられると呪術にかけられるところは類似点である。ウンディーネのような水の精は、創世記の神の創造で水は予め在ったという『絶対無の場所』(西田幾多郎)を表している。それは書かれていない水中世界に想像を馳せて生まれたものである。ウンディーネは結婚相手を殺さないとならなかったが、人魚姫は王子と結ばれなかった後は失脚を選んでいる。

人魚は15歳の誕生日に人間の世界を見ることが出来るが、姉妹それぞれ違う世界を見た。それはカトリックの洗礼を受けた人間が、同じ段階を踏みながらも違う世界が見えることと似ている。もしくはユング的に水とは無意識世界とも解釈できるかもしれない。人魚姫の魂が人間のように恋心を知ったが、その代償はあまりにも過酷だった。人魚姫は人間の足を手に入れたが、歩く度に激しい痛みがあったのだ。失恋続きだったアンデルセンにとっては、大人の恋愛の成就が書けなかったが、恋という躍動に痛みが伴うことと、それが童話として少女から大人になるための現実と、キリスト教の「天の国に入れる者」という教えを反映させることになる。そこには、女性に対して自分自身を愛してほしいという願望が含まれていたのかもしれないが、彼はその欲求を童話として昇華している。

著者がまるでこの世を許したように、貧しい存在の人魚姫は神の祝福を受ける。 何故なら、この話はイノセントな子供が読むために、著者の生い立ちの面影を消しているからである。整えられた文体で、美しい人魚の世界になっていたからだ。王子を助けたのは本当は自分なのに、王子は他の女性が助けたと勘違いしてしまう。普通の女性なら、恋が終わるということは人生の通過点であるが、人魚のもつ「宿命」として、身分を変えてまで仮初の「私」に与えられた時間は短かった。あまりにも残酷なので、人魚姫の姉達は王子を殺せば人魚に戻れると魔女と取引をしてナイフをもらったが、人魚姫はそれを渡されても殺すことが出来なかった。人魚姫は、王子を殺すことが出来なかったが、泡になって終わってしまうことはなかった。原作にはこの続きがあって、人魚姫は空気の精霊になった。精霊となった人魚姫は最後に、王子の花嫁の額に口づけをして、去っていく。人魚姫は三百年良い行いを積んでいけば、死なない魂を授かって、尽きることのない人間の幸せに預かれると他の精霊に聞かされる。両親の愛に応える子供を探すと人魚姫が人間の魂を得られるのが一年縮まるが、悪い子供に出会って涙を零すごとに一年延びてしまうというものだった。

***

 アンデルセンは幼い仮初の自分から、何を見出したのだろうか。日本ではキリスト教的な要素が削ぎ落された絵本になってしまっているので、泡になって消えてしまうところで終わっているものが多かった。それだけだとペシミズムに過ぎなかった。けれども、高橋真琴挿絵の人魚姫だけは、神様が「風の娘」に変えた話を入れていた。幼い頃の私はそれを読んでいた。もしも、これを現代版に置き換えて、現実世界に照らし合わせると悲劇でしかないのかもしれない。これは幼い女の子が「死ぬことが美しい」と信じる話ではない。幸福とは物質的なものを手に入れることも重要である。健康な身体、社会的地位、家族、友人、恋人、それらは物質的なものと神聖さが混ざっているので、二元論では済まない。反対に魂だけを高める幸福はオカルティズムを生み出してしまう。そうではなく童話やメルヒェンは、虚構の世界で内面を育むために存在する。それは今日明日、何か実利的なものを手に入れるためにあるものではない。アンデルセンは、貧しい人は「死」でしか幸福が得ることが出来ないと、その現実を知っていた。彼の自伝にもこの貧困へのコンプレックスは外すことがなかった。

彼は「仮初」な存在から、創作と共に根底にあった聖なるものを童話を通して、海外では「幸運の寵児」と言われるまで愛された。童話は教訓があったとしても、直ぐに何かを実践するためにあるものでもない。微かにでも思い出すと著者が歩んだキリストの愛に近づいていく。ただそれはメルヒェンに表れる天の入り口の手前なのかもしれない。明日すぐに貧しい人が救われるわけではない、自分が救われたい日もあれば、人を助けたい日もある。仮に手を差し伸べたとしても上手くいかない。良いことをしたことが裏目に出て恨まれる日もある。不正がすぐに裁かれることもない。正しいことが実るわけでもない。毎日毎日、奇跡を祈ると辛くなっていくので、祈りが中身を失うこともある。それでも人の心奥に神と対話したいと輝きがある。きっとそれは誰でも持っている。それはどうしたら聞いてもらえるのか、知遇を得た幸福を、感謝の念と多くの喜ばしいことが、針の穴(マタイ19章16節~30節)の向こう側の光を見つけようとする。

幼い頃に天使と話せると嘘をついた彼は、それさえも創作にするほど正直だった。彼は自分を隠そうとしなかったのだ。粗筋だけを心理分析することは、著者の欲望のみしか分析出来ないだろう。だからこそ、失恋の恨みという分析も多く存在する。

人魚姫の話に戻ると、絵本では分からなかった描写の美しさで溢れている。彼は旅をしながら世界を愛したと伺える。

Ⅳ 巡礼

――はるか沖へ出ると、海の水は青味のいちばん強い矢車草に負けないぐらいの青色の、透明な水晶に負けない澄み切った海に、人魚姫は住んでいた。海の底には白い砂が寒々と広がっているだけだと、思わないでほしい。そこには見るも不思議な木や草が茂っていて、その茎や葉が揺らいでいる。水がわずかに動くだけでも、生きているように揺れ動くのだ。小さな魚も大きな魚も、みんな陸地の鳥たちが飛び回るように、魚たちは枝の間をすいすいと泳ぐ――(本文より)

 地上よりも夢のある水中世界から、人魚姫は恋を選んだ。恋は一時でも幸福にしてくれ、成長させる。恋が実らなくても、愛することの価値が表れている。彼女は何故そこまで王子を愛せたのか、それは語り尽くせない。地上がいくら辛くても、どんな身分のものでも人を愛せるということがこの話にあった。きっと地上では、それは誰も信じないことだ。

童話は、水中に現実の声が届かないところへ連れていく。現実へ戻るときに、その時の心が残っていることが願いだろう。だからこそ最後のように、人魚姫の魂が天の国へ行けるように、良い子になってほしいと書いたのではないのだろうか。

魂が息づいて、何に迷い何を求めたのか、これほど魂の機微が見える童話集は無い。信仰があった人間の魂は美しい、と思わせた。彼の場合はただの魂を崇拝することであなかった。彼から学ぶことは、誰しも神と対話したい心があると信じて書くことだった。残酷な現実を知りながらも、魂は神の善に近づこうとする。だから、人の心は優しさを知る。その純粋な気持ちを引き出すために、人々をメルヒェンに連れていかなければならない。彼はよく旅をしていたが、それは彼にとって仮初だった『私』が神を理解していく巡礼だったのだろう。恋に破れ続けたが、彼は人を愛することを童話で書き残していた。愛を最も信じられないことのはずなのに、彼は愛を書いた。それは強さではないだろうか。家族愛や恋人、神への愛、「愛」を教えることや、愛を信じること、愛を与えること、それは、人間にしか出来ないのだから。

イエスもまた人の理解と言葉を必要としている。かつては持たざる自分は仮初の姿でも心を神に信じてもらいたかった。その心が誰かにもあるということを。人魚姫が出版されてから、まだ300年経っていない。まだ人魚姫の魂は天国に行けていないのだ。良い子がいれば、その日は一年早くなり、悪い子がいれば、その日は一年遅れてしまう。魂が神に近づくということ、それは

針の穴の奥に見える光、それを多くに伝えたいとするのなら、多くの種をばらまかなければならない。

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コラム掲載しました。(別サイトリンク)「迷える魂に捧げるミサ」

・今回も「人魚姫」を中心に書いた。アンデルセンには「影」等、この批評に収まらない作品があるが、今回は第二弾として絞ることにした。第一弾はこちら。

・「針の穴」(マタイ19章16節~30節)キリストが弟子に天の国に入れるものについての例え話の一つ。針の穴に入れるのは富んだものではなく、ラクダのほうが容易に入れると言った。

・ともあれ幸運の星は一旦は輝いた。そして私は十分な分け前を受けてきたのだ。幸運の星の沈むところ、

そこに新たに私の最善の道がひらけるだろう。私は神と人間とに対して、謹んで私の心からなる感謝と愛とを

捧げる。(アンデルセン自伝)

・Bredsdorff.E.:Hans Christian Andersen Phaidon Press Ltd 1975

・聖餐式 プロテスタントの儀式

・アンデルセンはプロテスタントです

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