人魚姫とキリスト教実存主義

Edmund Dulac
人魚姫は幾晩も幾朝も、王子と別れた波辺に浮かび上がりました。
アンデルセン「人魚姫」

アンデルセンの「人魚姫」は何度も考えさせられる。私はディズニー版の「リトルマーメイド」の話は度外視しているので評しないが、原作の解説で、人魚姫の最後は泡になって死んでしまう、で終了しているのが多く見られるが実際は続きがある。

人間の魂を得られなかった人魚姫は天国には行けずに精霊となる。それは悪い聖霊ではなく、300年経てば天国に行けると人魚姫は説明を受ける。良い子と触れ合えばその日は1日早くなるが、悪い子に会えば1日遅れていく。アンデルセンの子供たちへのメッセージは、

人魚姫が一日でも早く天国に行けるように、良い子でいましょうとしたのである。

人魚姫は大きく三つの要素によって構成されている。

➀実存主義

②愛

③キリスト教思想

 人魚姫はフーケのウンディーネの影響を受けているとされている。キリスト教圏にとって、水の聖霊は神の恩寵とは別に生きている。恐らくそれは創世記のはじめ、水は元から存在していたという聖書解釈に基づかれたものだろう。そういった対峙的な存在が人間になろうとすることによって、人間である意味を読者に想像させる。人魚姫のような存在は人間のように短命ではないという設定だった。そして何よりも死を恐れていて、人魚は300年生きられるが、死後は泡になってしまうという。人魚の世界では年寄りは、300年長く生きて、泡になって漂うことが幸せだと疑わず、末っ子の人魚姫だけ人間の死と魂に憧れを持つ。それと同時に愛の永遠を夢見るようになる。

彼女にとって、その機会を与えたのは一つの「恋」だった。人魚の世界は15歳になったら人間の世界へと昇れる。彼女達にとっては、それが神の創られた世界を見る1度きりのチャンスだった。それぞれの姉たちは色んな人間世界を見ている。水底から水上、そこで目の当たりにするのはそれぞれ違っていた。ユング心理学いえば水は無意識であり、それを通過して少女達は大人への儀式を行う。このように、目の当たりする景観が違うのは、人間の信者にとっても同じことでもある。同じ聖書を読みながら、信者に個性があるように、それぞれの信仰による景観は違うのである。キルケゴールが「真理」を追うことを辞めて、哲学と神学を切り離して哲学を挑まなければならないと言ったように、(後にフッサールに反論される)人魚の内在世界は、外界との関係を割り切った実存主義的なのである。彼女たちはキリスト教圏の世界と共存しながら別の時間を生きている。その中で末っ子の人魚姫だけ「恋」というものを手に入れた。まず恋とは相手と結びつきたいという感情だが、彼女は魔女というオカルト的な神秘主義を手に入れ、人間になった。

但し、声を失い、足も痛む。それを解消するには王子から見染められなければならなかった。

人魚姫はアンデルセンにとって「貧しい人」の象徴でもある(注1)人権がほぼ無いに等しかった人間が、どうやったら権利を得られるか、それは金銭的なものだと冷静に考えた皮肉だったように思う。聖書の世界では言語は重要な存在とされる。それはヨハネの福音書の1章の、ロゴス賛歌、神と一緒に言があったと、これも人間のものとされているが、彼女はその「言語」を奪われている。彼女が人間として残されていたものは、肉体、そして足の痛み、心である。彼女は愛と傷を知っている心を持っていた。

人魚姫は原作を細かく読んでいくと、実際は王子様に大事にされていた。解説ではよく人魚姫が落ちて消えてしまった後に探し回っていることも見落とされているが、これも重要な箇所だと思う。王子様とお姫様は、人魚姫の喪失を悲しんで、海の泡を見つめている。貧しい人ほど実質的な幸福が得られず神様の愛、神を慕う愛、それらを取り巻く愛であるアガペーに依存せざるを得ない事への皮肉(哀しみ)も込められている。アンデルセンは最後まで人魚姫が人間として存在するために、実質的なものを手に入れないといけないとした。人権を手に入れるために王子のような存在に属しなければならなかったこと、婚礼の儀式とはキリスト教圏ではもっとも神秘的なことであり、特にカトリックにとっては重視している程、一人前の証でもある。それが手に入らないということ、それだけで人は存在価値がないのだろうか? アンデルセンは御伽噺として儀式に囚われない重要なイエス・キリストの教えを人魚姫の昇天する魂に込めた。キリスト教実存主義とは私が勝手に名付けたが、この宗教も組織という相対性と、絶対の狭間に立たされる。同じ聖書や儀式を通過しても、不正や相対性によってかき消される個性がある。その中で人魚姫が自分たちの決められ構造化された世界よりも、恋を選び、人として神に愛される実存を求めるように、キリスト者も本質存在(不正を蓋したうわ言)よりも現実存在を優位にしなければ見えない「正義」や「愛」があるのだ。

「王子様に恋をした」それは一見は楽観的な夢物語に思える。

例えば、シャルルペローの貴族の娘の読み聞かせ童話と比べると、アンデルセンの残酷性は一線を引いている。婚姻と愛が繋がらなかった人魚姫にも彼は神の愛を描いた。

子ども達には人魚姫を純粋に可哀想だと愛して欲しかった。

そして、天国へ一日でも行けるように良い子でいてほしいと思ったのだろう。

これは悲しい話や残酷な話ではない。私達は人魚姫が天の国へ行けるようにと

私達の行いを見つめる作品である。

(注1:イギリスの心理学の授業で聞いたので出典が分からないので定かではない)

2023年1月3日に加筆

高橋真琴「人魚姫」

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