my favorite

Mozart Piano Concerto No.23

Mozart -Piano Concerto No 23 A major K 488, Maurizio Pollini, Karl Bohm

Mozart Piano Concerto No.23 Movement 2 (Horowitz)

特に二番が好きです。

memo201604

前回のゴッホついでに
映画「気狂いピエロ」(Jean-Luc Godard)で
「ゴッホが耳を切る決心をしたカフェを見た」
というのがあったのですが、実際のところ夜のカフェテラスという絵画はそういう場所だったのでしょうか?誰かご存知の方は教えてください。
ゴッホは独立した点や短い線を連ねて描くのを好んでいて、彼が一筆づつ細かく筆を重ねたのは色が混ざらないようにしただけではなく、精神の高揚を伝えるためだった(E・Hゴンブリッチ)そうです。
彼がアルルから出した手紙に、「時に感情があまりにも昂ぶり、絵を描いているという自覚がなくなってきている」というのがありますが、この一文は私も十代の時に何かで読んで、作品を作っているときって(この時は絵画)そうだという実感があって、今でも(小説)変わらないかもしれない。



私はこの映画のゴッホの台詞が印象的で、感想としても、この男女が最初は協力し合っている愛し合っている男女のようなのですが、最後は女性が裏切るので混ざり合わない関係だなと、ゴッホの絵みたいだなと思います。アンナ・カリーナが細くて美しいので綺麗な一筆の色みたいだなと思えるところがあるかもしれません。
****
あと、個人的なメモですがゴッホの人生ってモーツアルトのK550の曲のようだなと思うのです。甘い旋律と情熱的な音の印象だけれども、ト短調の中に隠せないペイシズム。自分にとってはゴッホってこんな感じなんて思います。(ゴッホの世界観とモーツアルトの貴族のような音とは相反しているようなのですが)完全にこれは音だけで選んだ選曲なのですが、K550の成り立ちを見てみるとそこまで間違っていない気がしました。


是非、興味がある方は調べてみてください!
あとは「envie(望み)にはvie(人生)がある」とは
気狂いピエロの台詞です。envieとはどちらかというと
「欲しい」という意味じゃないかな?
皆様、良い週末を。
K550
https://youtu.be/2HbMzu1aQW8

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Bruno Schulz, "Sanatorium pod Klepsydrą"

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*原作と映画の感想*
次回作に向けて話をしていく前に、たまには自分とは違うジャンルの話でもしようかなと。
ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の「砂時計」というこの映画はブルーノ・シュルツ原作「砂時計サナトリウム」の映像化で、小説同様一回見たぐらいじゃ何が起きているのかすら掴みにくいのですが、シュルツ作品の中では比較的筋が見えやすい話ではないかとは思う。この監督は父親がユダヤ人、母親はカトリック信者ですが、本人は不可知論者のようで、
こういう作品を語るとき必ず外せないのが「幻想」という言葉です。幻想とは現実にないことを思い描くことであるが、日本語の幻想とは元々はhallucination(幻覚・妄想)の訳語だったらしく病んでいる意味あいが強かったようです。
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幻想物語とは心地が良い夢物語や英雄に仕立てることもあるけれども、敢えて現実と共通している無秩序でもありカオスにも目をつけ、現実の例え話のように仕立てる幻想もあります。彼は意図的かどうかは知りませんが後者のほうでしょう。
時々芸術家は自身の心象や夢想を自分の心と和解せずに抱き続けては増幅させ、自分の世界の中で再構築しますし、
自分の心で見ているものをあらゆる表現によって外に曝け出すということもします。
***
この主人公のヨゼフという男は二つの時間へとそれぞれ分裂したように歩き出します。それが分身か、本体かという区別はなかなかつかなくなりますが、この映画の映像美に惹かれて何となく最後まで見れてしまう。この世界は体調が悪いときに見る夢のようです。私の感想としてこの作品(小説)から感じ取ることは、彼の世界にはマニアックでありながらも「愛着」がないように思えます。彼の幻想世界は嗜好性の集まりのようで、実際にはそういう偏愛を感じない。凝った描写に隠れている真実は、このタイトルの「砂時計」のように一瞬一瞬通り過ぎていくだけの事象です。
シュルツの人生はゲットーに収容されながらも一時期は画家として雇われますが、射殺されます。彼の人生は小説世界よりも
残酷な最後でしたが、作品は彼という本体や時代考察という運命共同体的なものから離れて、純粋に残っています。
*** 
色々彼の時代背景等、外堀を話していきましたが、
物語は事実と関係無く純粋にその世界の時間を持っています。けれども質が高い作品であればあるほど、
著者の隠れた心が見えてきます。偏愛のように見えるこの世界の裏には著者の戦争中の苦悩が詰まっていて、現実に愛着を持てなかったことが正直に表れていると思います。
文章世界というのは、書いてあることよりも書かれていないことが浮かび上がってくるものです。ですので嘘がつけないのが作家の心です。人によって読者は小説だけではなく著者の心を愛することがあります。
この監督はこのシュルツ作品の愛読者なんだそうで、短編であるはずのこの作品を二時間ものへと脚色し、療養所の暗さは深遠を匂わせています。この監督はこの作品に愛着を持っています。
世界に愛着を感じさせない原作と、その世界に愛着を持った者から見た感性、私はそれらの交差する視線を楽しめました。

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