穢れなき悪戯(marcelino pan y vino)

「穢れなき悪戯」を見て。
人は不幸であればあるほどイエスの磔刑までの道のりに近づき、
子どものように無垢であればあるほど天に近づく。
イエスの存在は至福の表しである。
非情に感想の難しい映画であった。スペインのとある村、
一人の神父が少女の病気を見舞いに行ったときに、周りが賑やかなのは何故かと問われ、
「聖マルセリーノ祭」だよと、聖マルセリーノ祭について語りだす。
それはまだスペインでは(19世紀)では修道院の存在は村人に歓迎されていなかったこと、12人の修道士達は修道院の二階の奥に大きなイエスキリスト像を何故か隠していた。そして、育ての子ども、マルセリーノに見せなかったのかというのは、この村人たちに「歓迎されていなかった」というところに少年の存在とイエスが被っていた。この少年はある日、修道院に捨てられていた。この少年の里親を探すが、適切な人間がいない。鍛冶屋はこきを使わせるために欲しがるが、修道士はこの鍛冶屋のあまりもの暴君加減に嫌気がさし、少年をその日の聖人の名前の「マルセリーノ」と名づけて育て始める。マルセリーノは炊事係のトマス修道士に自分の母親のことを尋ねる。トマス修道士は「彼は母親はもちろん美人で今は神様のところにいる」と答えた。それに、同じ年の友達がいなかったマルセリーノはマヌエルをイマジナリーフレンドとして独り言を言いながら遊ぶ癖がついた。
修道士は少年の数々の悪戯に頭を悩まされながらも、可愛がっていた。しかし、二階にある大きなイエスキリスト像の存在は知らせず、二階だけは行かせなかった。
後は、少年の心理はペロー童話の「青髭」症候群である。見るなと言われると好奇心旺盛な子どもは見たくなってしまう。あとは修道士の目を盗んで二階へ行くだけである。二階へあがって様々な工具が並べられている部屋の奥にもう一つ扉があった。それを勇気を振り絞って開けると、見たことがない大男がいた。
少年は驚いて逃げてしまう。しかし大男が追いかけてこないところから
好奇心旺盛な少年はもう一度、その大男に会いにいく。
するとそこに居たのは大きなイエス・キリスト像だった。少年は、彼にこっそりパンを持ち運び手渡すと、イエス様はそれを受け取った。それをきっかけに度々、イエス様に会いに行く。そしてイエス様は「私が誰だかわかるか?」と尋ねる。マルセリーノは誰に教わったわけでもなく「あなたは、神様です」と言い当てた。そしてラストにイエス様は「母親のところに行きたいか?」と尋ねてくる。少年は何の畏れもなく承諾する。それは本当に何の疑いもない無垢な目だった。そして、少年はイエス様の傍で謎の死を遂げる。そのラストをこっそりと見届けていた修道士は「マルセリーノが天に召された」と皆を呼んだ。
マルセリーノの死、それを神の奇跡とした。それから歓迎されていなかったマルセリーノの墓に人々が花を手向け、二階の奥で隠されていたイエスの像が表に出てきたのである。
そしていろんな人々の祈りの場となった。これがとある村の「聖マルセリーノ祭」の由来である。
この作品は最もカトリックらしい作品だと言われている。
鍛冶屋は修道士たちが気に入らずに取り壊そうと必死だったが、この少年の奇跡でこの鍛冶屋の存在は消えたかのように、この修道院は寺院へと建て替わっていた。そして、歓迎されていなかったキリスト教の集まる場所に人々が集まるようになるのである。
現代倫理感でいえば、この少年の死は不幸にも思える。自殺にも思える隠喩、イエス像の何かに刺さって死んでしまったとも思えてしまう。しかし、天国は父がいて愛のある場所だ。何故、生だけを肯定し、死を不幸だと私達はこの世に未練を残すのだろうか。この少年が幸福かどうかでさえも捉えられない。以前書いたノヴァーリスの花粉の愛するゾフィーへの想い、「すべての愛する対象は、それぞれ天国の中心である」というのとつながるような気がした。愛した人が行った場所だから、愛があると信じずにはいられない。歓迎されなかった少年、その少年が死を通して愛されている。愛すべき存在である父と、愛されるべき存在の子の結合、マルセリーノも天国の中心、愛が溢れる場所へと行ったと信じるほかないだろう。但しこれは、そう願う人にとっての話なのかもしれない。現実としての話ではないからこそ、受け止めることができるのであれば、心を癒すのではないか。例えば、死者を見送った後などに。
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