Evangelist

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」

(第二コリント4・8~9)

 パウロは4章において自分自身を「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」(7節)とした。私は弱い存在だけれども、主が、その弱さの中に力強く働いてくださり、そして私の栄光を現わしてくださる、というものです。宝を土の器の中に持ち歩くとは、聖書伝道師そのものだと私は思いました。持っている神からの賜物、能力を敢えて土器のような地味のものに入れること、それほど伝道師とは地味な事なのです。イギリスは聖公会でしたので、伝道師がいました。私はオックスフォード大学で心理学部に在籍していましたが、神学部に憧れるようになりました。もう私の在籍したころではイスラム教徒や色んな将来の聖職者の卵達が来ていました。信仰自体はイギリスも薄れている様子でしたが、Christ Church内の聖書伝道師の講義は興味深いものがありました。聖書の解説をする人の大半は異世界を語るような話が多いのですが、話術を持っているその者は目に見えないものと、見えるものを絡ませて、私達が言語化、イメージ化していない夢想や思惑に語り掛けてくるのでした。私はこの頃はまだ今ほどの確信はありませんでしたが、このように伝道師をしながら、*ジョージマクドナルドのような作家になりたいと思わせました。

日本には両親を残していたので私は帰国しましたが、日本での私のなりたい作家像は困難なものでした。そして2018年に諸事情で伝道師になることを断念しました。信仰というより、小説や執筆を意識するようになり一時期はジャーナリストの見習いもやりましたが、医療系や恨まれる部分も扱っていたので、脅迫も噂通りに確かに来るようになりました。何よりも困ったのが、飼い猫のアダムへの殺害予告、twitterでの執拗な不正アクセス、ログインによる情報漏洩でした。(twitterは退会、最近、evernoteも不正ログインでデーターを盗まれて削除されました)

 飼い猫との生活を考えて、世俗関連の執筆は全部引退しました。全く光明が見えなかった一年間、アダムが来てから更に一年間、投資家としては戻れても、作家として戻ってくることがありませんでした。2020年に再度、所属教会と酒井司教様の支援により、伝道師としての道が開けることになりました。昨今は論理を対立や攻撃として使うことが増えてしまいましたが、和解という使い方もあります。もっと悪質なのが、論理と勘違いして人に殺害予告等を平気で送ってくる人間が何の罰も受けずに生きていられることです。私はこの卑怯な塵芥と戦わなければならいのだろうか、と我に返ると戦う必要がないと思いました。塵芥は塵、人たるに値しないのです。パウロも味方が沢山いましたが、攻撃する人も同じぐらいいました。洗礼を受けている者は、正しい事をしている人ほど苦しむのです。人間を取り巻くのに、カイロスとクロノスという時間が存在します。承認欲求に負けて無駄な争いをすることは、クロノスに生きて無駄な時間を過ごすことになります。カイロスに生きるということは、自己を磨くことであります。この時間は他人に泥を投げることは許されません。悲しみや不幸は善行に変えるしか、使い道がないことを知るでしょう。そうでなければ、ただ無駄に老いるだけで、自信も加害者と同じく塵芥そのものです。時が過ぎれば一緒に風化します。特に伝道師を目指すのであれば、宝石のような大切なものは、地味な土器に入れて時がくるまで深く考察することが大切なのです。恐らく辛い日は続くでしょう、それでも私は洗礼を受けた者として強いので屈しないことです。宝をしまう土器は常に磨く必要も飾る必要もないのです。それがクリスチャンの試練の乗り越え方であり、伝道師なのだと思います。

(参照・補足)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

(第二コリント4・18)

弱いときこそ強い(第二コリント12章7節~10節

*カトリックは現時点では伝道師という職業はありませんが、やはり作家がその役目を背負うことがあります。現在の日本では困難ですが、困難だからこそ生きる意味があるのかもしれません。

*ジョージマクドナルド スコットランドの作家であり、聖職者。

聖書伝道師のトールキンや、ルイスキャロル等が影響を受けている。聖書から影響を受けたリリスという作品はとても美しい。

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