
大学(英)で私が書いた論文が人格形式と児童心理学だった。人格を心とした場合による。大体人間は土台が死生観,
宗教・思想、家族・恋人・友人等で人格が形成されるが、ライフイベントやアクシデント、もしくは薬物やアルコールによって自殺までの勢いがついてしまう。2006年のアメリカが出した論文によると、
人格形成の核にライフイベントが始まり、安全装置が働かなかった場合に死に至ると画期的なものを出したが、どんな安全装置が働くか?社会なのか、家族なのか、伴侶なのか、それらが機能しなくても人格形成の段階に免疫のようなものはあるのか、というようなテーマだった。
第一作「Pangaea doll」はこれらの研究の後の小説だった。論文ではエビデンスを取ろうとしなかったものは、これこそ空想世界として適しているのではないかと若さと衝動が執筆へと向かわせた。
但し、10年前の作品で、幼少期、学生時代の記憶、体感が薄れていくのが分かっていて、感情と体感の因果関係は取れなかったが、恐らく今の体感は良くも悪くも成長して消えていくような気がしていた。記憶の標本として書きとどめることにした。
実体験と思わせるような独白視点が続いていく最中で、経験を元にしたものと、脚色、この世の世界ではない「現実」というものを書くことに私は熱中した。ノンフィクションでなく、現実世界に似たフィクション私の作りとは、何の衝動だったのかは忘れてしまった。当時の記録は消えてしまったようだ。(不正ログイン)
ただ文学世界は常に資本主義と共産主義の合いの子を生きている。教育は「文章が読めない」ばかりに注視しすぎて、物語の意味を見失っている。少しでも不満を漏らそうものなら、資本主義基本の平均値から攻撃を受けるし、共産主義のようなものだと生ぬるい中でいつまでも感性は伸びない。それでも最後、芸術家として音楽から絵画へと何度も手段を変えて求め続けて文章世界に入ったのは、やはり人格形成の段階で孕んでいった孤独から世界へと手を触れたものが、芸術だったのだろう。音楽はピアノを弾くのには手の大きさが圧倒的に足りなかった。グレード試験を駆けあがっていっても、いずれ寿命が訪れることが分かることは幼い私を大きく傷つけた。誰かに傷つけられるのではなく、運命である。培った絶対音感が疎ましい頃に、印象派の色彩感覚を理解出来るようになった。太陽の光が見せる色彩という科学と内観世界の融合は私の最終発を促した。この頃の純粋な気持ちはもう覚えていないが、pangaea doll執筆時は覚えていた。ずっと繰り返して私の中にあった言葉、「思考の時間は老いるよりも早く、静止することなく周り始める。それは左回り、右回り、不規則に私の意識を留まらせない」(P13)この一行は私の記録である。言い表しようがなくて黙るしかなかった私の代弁者は、言語を得た私だった。
本作でもそのような足元がおぼつかない未分化された主人公が存在する。どう売り出すかで結局、私は沈黙してしまった。経歴がどのように世間で評価されようとも、経験としてはまだあの頃は若く、「自殺」を取り扱ったこの作品は頭を抱えさせた。 何故書いたのか、次の作品のための心の切り替えと上手くかみ合わずに、私は一作品目を人に紹介しないまま10年が過ぎた。大学の研究チームの中で何を見たのか、それを語ることも「時効」のようなものを待っていたのもあったが、あの時の体感が忘却しつつある。この時の患者に本作の「人形のような女の子」のモデルがいたが、生い立ちが自分と酷似していたので、一要素だけ使った。既に私の構想は法廷な時効を意味するprescriptionと「処方」を意味することと、繋げ始めていた。
一度、少数ながらにも読者に希望を抱かせた私は絶望を書きにくくなった。欲しかった評価を貰ったが、それが更に自分の首を絞めていく。
その中でどんな「Chris Kyogetu」になるか、私の課題となった。
文学は、自己啓発のように答えがすぐにあるわけではない。聖書のように何度も読んで深く内面世界で形成しなければならない。それは私の人生もそうだった。誰かに言われた言葉にすぐ答えがあるわけではない。経験がどのように自分の記憶となり、人格へと繋がっていくのか、延々と続いていく。気が付けば、自分自身に自問自答もしなくなっていた。その時に、気が付いたのだ。もう「老いた」のだと。
絵画を辞めた理由も複合的な理由だったが、キリスト教絵画を描きたいと言い出したところから大人と揉めることになった。この頃は漫画やアニメが黄金期ではあったが、写実の絵画がまだ上をいっていた時代ではあった。現代は、イラストとバカに出来ないほど、テーマも骨組みも、パースの取り方もレベルが高くなっているが、当時はまだ落ち度があった。しかし、若さが故に感じる余震は、「金になるか」どうかというのは、もう漫画になっているのは気づいていた。今後、そうなるだろうとも確信があった。デッサンは現実のモチーフと向き合っているようで、2、3日、一週間の現実逃避と逆転していくことを感じていた。絵画は自己表現である。自分の世界を表さなければ意味がない。表したいものを失っていく事に気づいていた。それで見つけたのがキリスト教絵画だった。カラヴァッジョの聖トマスと聖マタイを模写する間に、私は抽象絵画でもいいので、イエス、聖人達を描きたいと言い出した。聖書世界は奥深く、殺人犯として逃亡しながら聖書を読み続けたカラヴァッジョのように、恐らくここには尽きることがない課題があるのだと譲らなかった。カラヴァッジョは聖マタイの召命と自分を重ねていた。このようにいつか自分の誰もが応えようがない内面世界に神は光を差すと信じて止まなかった。
しかし、当時は大人との和解が必要とされていたので、私はそのまま絵を捨てた。いつ、人を説得できるのか、ずっとそればかりを追っていて日本を出たが人を説得することを辞めた。
二次元の世界から、私は幾度となく小世界を創り続けていた。それは楽譜というものから、
カンヴァスまで。そして次は文章世界という二次元で生きている。幾ら志が高くても、何かを見落とし、小さな選択を誤って、正しいことをしたと思っても、深淵が応えてくれることは無くなっていた。別に文学でなくて良いのではないか? と私は静かに経歴を戻して適している就職と論文を書き始めるところに戻ったが、やはり、あと「文学」をもう一作書きたいと最後にしがみついている。カトリックへの回心もそこに含まれている。
私が文学を書きたい理由は長い。長い独り言が何を望んでいるのかもう少し耳を傾けようかと思う。
隠し続けて、恥ずかしいとさえ愛せなかった一作品目、pangaea doll
最後のページにはこの言葉を残している。
「約束をしよう、ずっと一緒にいようと。ずっと見えない未来まで。
言葉よりも早く駆け巡る、感じるもの全てを温もりの中で。
それは永遠、永く遠くという幻想へ。そして一緒にこの線を越えよう」
若い私の疾走、私が幼い私の代弁者だったのに、
過去が語り掛けた。この小説の役割は私への安全装置だった。
沢山の嫌味な言葉や大きな影を突き抜ける光は、私の中にあった。「証明を」「証明を」「お前が出来る人間だという証明を」紛れもなく、他人の声よりも強く喚いているのも己の声だった。希望も絶望も全部自分が所有していた。私の声が頂点で、常に死が傍にあった。常に死にたいという願望が傍にあった。同情と羨望と、罵りと、
いつも現実は混沌としていて、視界に入るものは静寂だった。
それでもあの頃は闇を避ける強さがあった。今でもあるのだろうか、自信はないがもう一度賭けたい。
人生楽しむのは「賭け」である。賭けなくなったら、生きていても死と同じなのかもしれない。愚弄や、批判は賭けなくなった生ける屍。ダンテの地獄篇で地獄にも入れない
哀れな魂。聞く必要があるのだろうか? 無いだろう。
天国はそのような力は求めていない。
Chris Kyogetu


出版から10年経った感想
私は沈黙と共に時効を待っていた。
イギリスの研究室には、科学では説明できない患者が訪れていた。エビデンスが無い患者、それが私の内観世界と繋がった。その人形のような少女の存在は私の中で大きくなっていく、彼女は私の人生の道しるべとして果てしない幻想世界へ指さした。
人との対話よりも、感性を重視した。憎まれながら、愛されながら、愛しながら、逆らえない忘却、記憶しながら、若い頃に溢れていた想像や想起が減っていく。走ることをやめて、気が付いたら私は眠っていた。また書きたいと思うまで長らくかかった。
あらすじは英語版のみ。本のリンクに割愛。
自殺プロセスの論文:Hendin H et al ,The American Journal of Psychiatry 2006
イメージ図:https://style.nikkei.com/article/DGXMZO27917660Z00C18A3000000?page=2
WHO
https://www.who.int/bulletin/volumes/86/9/07-046995/en/
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