主の祈りとモナドロジー

――前教皇ベネディクト16世ことヨゼフ・ラツィンガーは2022年12月31日に帰天されました。彼は生前に大作でもある「ナザレのイエス」を出版している。三巻のうち一巻は教皇在籍中に出版されました――彼の解説をもとに祈りの言葉の重要性と、予定調和とモナド的に展開することにする。

共通項

ライプニッツ カトリックとプロテスタントの対立に対する調和を考えた。

ベネディクト16世 宗教と時代の対立に対する調和を考えた。

モナドロジー:ライプニッツ著 90章構成の断章。ギリシャ語のモナス(単一、一)を語源とする。カトリックとプロテスタントの対立時に生きたライプニッツは、究極の調和や唯一性である「一」を探した。数学的幾何学的な点はそれ自身によって一であるが、抽象的観念的な位置でもある。しかし実在的な位置ではない。それでも実在性をもつ位置は性質をもつ一として、「多」でなければならない。それこそ羊の群れのように。円の中心は点でありながら、無限多の直径を含む。精神はそれ自身でありながら、過去・現在・未来に渡る無限な表象を含む。精神、それは実在的に内在するのではなく、精神は「多」を表現し、表出する。「表現」「表出」の概念こそライプニッツのモナドロジーの重要な概念となる。

  1. はじめに
  2. Ⅰ「天におられる私たちの父よ」
  3. Ⅱみ名が聖とされますように
  4. Ⅲ み国がきますように
  5. Ⅳ あなたのみ旨が行われますように、天において同じように地にも
  6. Ⅴ 私たちの日ごとの(糧)。パンを、今日、私たちにお与えください
  7. Ⅵ 私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します
  8. Ⅶ 私たちを誘惑へと導かないでください。
  9. Ⅷ 私たちを悪からお救いください 
  10. 分裂が故に愛の単純化を許さない
  11. 参照

はじめに

毎日唱える主の祈りが従順と欲求の二面性を認めるとするのなら、いつ私自身の言葉は神聖となるのだろう。それは誰にも決められない。祈りには人の心の空模様がある。それが人間のアナログなところであって、それこそデカルトのコギト・エルゴ・スムだけでは事足りず、意識しない私も常に存在する。気づきよりも、言葉は完成されている。それが祈りの言葉である。気づかない私、それは「小さき私」としたライプニッツのモナド的である。カトリックの代表的な祈りの言葉を記載すると、このようになる。

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。

み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。アーメン

 祈りとは神に向けるだけではなく自己の深奥にも問いかける。祈っているのは誰なのか、「私」という存在が常に問われていることに気づく。祈りに関して「人前で祈ってはならない」(マタイ6章)エゴを捨てよと自己を上げることを許さない解説が多いが、同調意識が強い日本人にとって寧ろ自己を見つめ直すことは重要である。欲望や我儘は溢れるが、自己の本質を見つめることこそ難しいからである。祈りの言葉が確定しているものは「私たち」であって共同体である。その一部である自分とは何なのか、共同体の一部の私とは世界に一人しかいないということに目覚めていくべきであろう。共同体の上辺の考えに染まっている祈りのほうが現在は多い。ライプニッツの有名な「モナド」はデカルトや近代哲学と比べると馴染みがないので例えるにも出しにくい状況だった。それでもベネディクト16世(ヨゼフ・ラツィンガー)の重篤から帰天されるまでに彼の執筆した「主の祈り」の解説は感動的で、モナドを連想させたので執筆を思い立った。ライプニッツが生きていた時代はカトリックとプロテスタントが対立していた。ライプニッツは解けない謎を温存するかのように調和をもたらす哲学を考えた人だった。信仰がある人にとって神は絶対であり、意識とはデカルト的に自分が出発点になることが容易だが、そうでないものは信念から入る。信念とは精神的で根拠を要しない。それは無意味な人生を生きているわけではない。信念と他者の信仰が窓を持たず、交わることがない。しかし、それは魂のように物質的でもないので柔軟性はある。

ライプニッツは生命を持つもの、動物や植物すべて肉眼で見つからない微生物を顕微鏡で見つけ、知らない宇宙も存在するとしている。デカルト以降、自分の意識によって「思考」することが最高のことであったが、ライプニッツ哲学では「表象」と「欲求」を基本作用とする。当然、カトリックの祈りは人間中心の意識的な祈りではあるが、現象を「仮象」とせず、精神の作用を実体ではなく、「主体」としたことはドイツ観念論の基礎となったが、祈ることを単なる仮象とせず、神という1点の中心を含んで構成する無限多の直径を表しているといえる。(神と人間を天と地と垂直にしたのではなく、神を中心とした円をイメージしている)

Ⅰ「天におられる私たちの父よ」

――祈りの主体は「私たち」です。神の子たちの「私たち」にいることによってのみ、私たちはこの世の限界を超え、神のもとに高く上がって行くことができるのです。この私たちが、私の心の最も奥深いところを呼び覚ましてくれます。祈りにおいては、まったく個人的な心の内奥と共同体の交わりとが、常に互いに浸透しあわなければなりません――ナザレのイエス ベネディクト16世:P75

父という言葉にどれだけの尊厳を持つことが出来るのか、私たちは父を肉眼で見ることは基本は出来ない。神学では主となる父とは全ての良いものの根源であり、正しい(完全な)人間の尺度となる。「敵を愛し、あなた方を迫害する者たちのために祈ること、それはあなたがたが、天の父の子となるためである。天の父は悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせるからである」(マタイ5・44以下)「極みまで」愛しぬくこの愛(ヨハネ13章)は主の十字架上で敵に対する祈りにおいて成就され、父の本質を示している。父とはこの愛である。イエスはこの愛を成就されたので、完全に「子」とする。この祈りの元となったのはマタイの福音書6章の「山上の説教」一部である。(ルカ:6も同じ)それは正しい人間の在り方を包括的に示している。それでも、神は何故私たちの前に顕在化されないのか、この問いについてヨハネパウロ2世が興味深いものを書き残していた。

神秘を打ち出すことは人間が神秘に近づきすぎることに耐えられないがゆえに、かえって人間の目には、ご自分を見えにくくする事実を神は気になさいませんでした。(希望の扉を開く ヨハネパウロ2世:P62)

神の存在を記す根拠も存在もあるが、神の不在の根拠も歴史には存在している。ヨハネパウロ2世もデカルトの「我思う、ゆえに我あり」にこの点でおいて触れている。これはトマス・アクィナスや聖トマスとは別の土壌の合理主義の哲学から芽生えたとしている。存在を決定するのは思考ではなく、存在が思考と決定する、といった聖トマスと何ら変わらないのにと彼は言う。イエスは神の子であると公言してしまったがために、処刑されてしまった。当時の律法としてはそれが「正義」だった。神秘に近づきすぎることは人間に悲劇をもたらす、その一面性をヨハネパウロ2世は隠すことなく示した。

演繹と帰納とあるが、ライプニッツは短簡な真理から演繹で展開を試みた。原則として「私たちの父」は絶対であり、仮説が存在しない。だからこそ神学の基本は演繹である。ライプニッツの演繹で展開される合理論はとりわけ、経験論に対立した。神に関する事、そこから外さなかった哲学なので経験に由来していたら宗教的儀式が進まない。彼は更に確実な認識は生得的で、明証的な原理に由来するという立場にたった。

小説「ソフィーの世界」では面白い話をしている。無宗教の宇宙飛行士は何度も宇宙を見たけれども、神はいなかったと自慢気に話した。キリスト教の医者は言った。私は何度も脳の手術をしたけれども「思考」はなかった。ソフィーはこう答える。「でも、思考が無いということはないわね」思考とはどんどん小さく切り刻めるようなものとは全く別物であり、妄想を手術で取り除くことは出来ない。ライプニッツは物質で出来ているものと、精神に発するすべてのものの違いは、物質的なものはどこまでも小さな部分に分けることが出来るというところにあるとした。ただし魂はばらばらに切り分けられない。イエスの福音によれば、神が父であるということは二つの面を持っているということを確認する。神は私たちの創造主であり、私たちの父である。彼は私たちを創造したのだから、私たちは神に属する。存在そのものとして、神が人間を一人ひとりの人間として創られたということは聖書の人間像の本質である。しかし、それを受け入れるということはどういうことなのか。それを存在論だけで片づけてしまうと、信じる、信じないという二極化しか生まれない。当然ながら現代では多くの人が信じないとなる。

モナドとして考えてみる

 

 人間というものは心臓や脳で構成されているが、単純にそれをつなぎ合わせただけでは「私」は作られない。神も同じであり、様々な聖書によって説明されている言語だけを組み合わせても、神は作られない。ここに布教の難しさがあると言っても良い。因果関係のみでは相手に理解されない、存在すら困難であるということである。経験主義のヒュームは天使の存在を信じなかったので神学の本を燃やせと言った。経験だけでは語りえない「神」その一点をライプニッツは固辞した。モナドは常に独立し、窓を持たない状態で別に存在している。祈りの言葉というものは何度説明を受けても、何処がゴールなのかは決まっていない。それは経験をどうしても要するからである。解説とは、感情の手助けをするために過ぎないが、祈りの言葉は経験とは別に必ず存在する。その頂点(円の中心)は「私たちの父」である。

私たちの一部に私がいる。私は私たちの中に内在する。 (「私」というのを喪失させるような教えには私は賛同しない。そういう宗教者を私は嫌うし、強く否定する)

神とはモナドロジーにあるように主語が述語を含みながら述語優位である。例えば「神は愛である」というように、神にとって重要なのは述語となる。神は神という存在だけで突出して光を放っているわけではない。私たちは寧ろ、それだけの理由でひれ伏してはならない。神が何なのか、述語を重視していかなければならない。父なる神というものを何処か遠くの星の上に追いやってしまうことではなく、父たることの尺度であり源である唯一の父からくるということを祈りの言葉は示している。神が父であるということは、全ての地上の父が持っている以上の現実性を持っている。

私たちは地上の父を持っているが……互いに地上の父が引き離すことがあっても、天上の父は結んでくださる。天とは、そこから私たちみな来、そこへ向かっていく。神のもう一つの高みを意味しているからです。(ナザレのイエス・ベネディクト16世:p190)

―神 の 作用 と 被 造物 の 作用 とを 区別 する ため に、 個体 的 実体( 1) の 概念 が どの よう な もの で ある かを 明らか に する(形而上学叙説・八)述語優位についての記載

一なるもの、すなわち単純な実体のうちで、多なるものを含み、これを表現する推移的な状態がいわゆる表象に他ならない(モナドロジー・十四節)

一つの表象から他の表象への変化または推移を引き起こす内的原理を欲求と名付けることができる(モナドロジー・第十五節)

単純な実体においては、一つのモナドから他のモナドには観念的な作用しか存在せず、その作用は神の仲介によらなければ効果を持つことはない(モナドロジー 第五十一節)

Ⅱみ名が聖とされますように

神は出エジプト記3章14節の「私は、『私は有る』という者だ」と 神が存在を名乗った。十戒の「あなたは神の名を汚してはならない」のモーセの時代には多くの神々がいた。そこで、モーセは、それらの神々に対しこの神の特別の権威を示すために、神にその名を尋ねる。神が名をもつというのは「多神教」の世界の考えである。モーセに語りかけた神も名前を持たなければならなかった。神は、神々の一人であるかのように、名前を持って神々の世界に入っていくことができなかった。「私は『私は有る』という者だ」と答えた神は、モーセの問いの同意と同時に拒否を表している。従ってJHWHで示される神の名はイスラエルにおいて発音されてはならないということは、全く正しいとする。神の名前は神々の名の一つに格下げされてはならない。神の判断は名前とは何かという疑問を残す。名前は呼びかけることを可能にするが、本性を示すわけではない。アダムが動物に名前をつけたことは動物たちを呼ぶためである。神は人間に呼ばれることも可能となり、そして傷つけられることを受け入れられた。それによって祈りの言葉の「み名が聖とされますように」ということが何の意味をされていのか、明確になっていく。

私たちは日常において神に縋っては、蔑ろにすることも出来る。そのように低められる日常も含めて、私たちは「み名が聖とされますように」と神が高められることを祈る。神が名を答えたことは、モナドロジーで言えば「表出」に値する。神という隠れた存在が言葉によって表出したのだ。それは仮象であってはならない。神の名は分解されることもなく、(モナドロジー四節)祈る側は神によって発生も終焉も、絶滅によって滅びる運命にある。(同・六節)祈る側は性質を持って存在する。それぞれの性質は異なっていなければならない。複合的の中で起こることは、必ず単一的な要素からきているからである。しかし祈る側は魂を区別することが出来ない。単一の「神」において。(同・八節)充分な理由の原理、Aが何故AであってA以外でないかということを充分に満たす。またどんな命題も、ただしくないということになる。もっとも、このような理由は十中八九、我々に知ることができない(同・三十二)記憶の原理によってのみ行われている間は獣と同じとしている(同・二十八)今日、たとえ悟れなかった日であったとしても、記憶だけがすべではない。その日祈るときは「神」「主である父」その存在を高めることは人間の神聖さを要する。

私たちにとっては常に心からの良心の糾明でもあるのです。私は神の名なる名をどのように扱っただろうか……神が私たちとともにおられるという神秘を神の名を穢す機会とすることなく、かえってその神秘によって神の純粋さと聖性の中に高められるよう、私は充分に心を配っただろうか。(ナザレのイエス ベネディクト16世:p.194)

Ⅲ み国がきますように

この箇所は聖職者ですらも勘違いしている人が多いが、ベネディクト16世ですら此処で神の国を願えば「桃源郷」が約束させるとは言っていない。宗教は幸せにするという中身のない言葉を信者になっても語る人がいるとすれば明らかに勉強不足が否めない。信仰生活は、何かを捨てれば自動的に地位が繰り上がるという単純な事はない。神の国とは神の支配であり、神の意志がすべての基準になるということである。

この神の意志が正義を作り、神の正義が人間の正義の尺度となる。「何よりもまず、神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、その他のものはすべてあなた方に与えられる」(マタイ6:33)この言葉によって、全ての人間的な行為、日常の生活における私たちの行動に対する優先順位の秩序が与えられる。旧約聖書では、このような話がある。主が夢の中で現れ、若い王に、どのような願いでも聞き入れるので、何でも好きなことを願うように言った。ソロモンは民に善と悪とを判断することができるようにと言った。神はソロモンが本質的なことを求めたので、神は彼を褒めた。「み国が来ますように」というのは主に支配されるが、聞き分ける心を持つこと、それが本質的な願いである。散らされ、分離した人類が善悪を判断できるように、やがてそれが一つになれるようにと祈る。

魂は記憶によって、一種の繋がりを求める働きが与えられている。この働きは理性に似ているが、理性と区別されるものである。それは動物において見られるとおりであるが、例えば棒で打たれた犬が次は逃げ出すが(モナドロジー・二十六)人間は神の仕打ちであったとしても残ることがある。ヨブやエレミアのように。 人間には矛盾を含み、因果関係のみでは選択しない。目の前の光景が穏やかであっても、知らないところで戦争があり不幸がある。あるいは自分自身が不幸なのかもしれない。天の国のように満たされること、そのために正義を通すと誓うこと。眠っている間に目覚めたら世界が天の国だったことを祈ることはない。日々、義を選べること。それを唱える。こういった唯一のものとの合致、それが叶わないが故の合致への希望、理性的言語の裏の衝動、神秘を求める力はその矛盾の中に内包されるが、それは純粋だと思う(同・四十九~六十二参考)

キリストとの出会いによってこの願いはさらに深められ、具体的なものとなります。……聞き分ける心を願うことは、こうしてイエス・キリストとの交わりを願う祈り、キリストにおいて「一つの者」(ガラ3:28)となることを願う祈りとなる。そえは真のキリストの倣びを願う祈りであり、私たちをキリストと一つのからだとする祈りです。(ナザレのイエス ベネディクト16世 p.196)

Ⅳ あなたのみ旨が行われますように、天において同じように地にも

この願いの言葉から二つのことが直接明らかとなります。私たちにとっての、そして私たちのための神の意志、私たちの存在と意志の尺度となるべき神の意志があります。(ナザレのイエス ベネディクト16世 P.197)

もろもろの聖なる書は、人間は心の内奥において神の意志を知っていること、良心と呼ばれる神の知が心の中に深く根差していることを前提としている。マタイによる福音書26章36から46節において、イエスは弟子達と一緒にゲッセマネというところに来て、「私が向こうへ行って祈っている間に、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロのおよびゼベダイの子二人を伴ったが、そのとき哀しみもだえ始められた。イエスはこのように祈って言った。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」この場合の杯とは十字架のことであり、イエスはこの間違った審判によって殺されることを悲しんだ。よって、私の願いではなく神のご意志に問いかけた。しかし神はソロモンのように答えなかった。この「私の願い通りではなく、御心のままに」とはトマス・アクィナスが取り上げている。イエスはその後、裏切者が自分を殺そうとすることを語る話に移るが、こうして私たちは神の意志をイエスを交えて知ることを知る。そしてそれは、私たちの自己愛さえも打ち破るということを望んでいる。

アリストテレスは完全な現実体をエンテレケイア―entelecheiaとした。ライプニッツは、エンテレケイアには必ず秩序があるとしている。(モナドロジー・六十三節)分かりやすく言えば、植物である。植物は同じ法則で、同じ花弁の枚数で繰り返される。ライプニッツのモナドロジーは六十二節から六十六節を主に神の創造について扱っている。そしてそれ以降の六十七から八十節に関して、秩序では説明がつかないものを予定調和としている。これが反感を買ったものではあるが、予定調和とは解けない法則である。哲学や神学は幾ら抽象的に無限に語っても素因数分解のように素因数を出して細かく数字が出されても、元の自然数から超えることはない。例えば自然数60の素因数分解をしていけば、2×2×3×5=60となる。(13のみ素因数なので素因数分解は13となる)しかし神というものは素数の「1」として素因数が私達だとも例えられるが、しかし神が解である限り、人間が解けるまでは謎なのである。素因数は一つの「表現」に過ぎない―そして、漠然と眺める光景が予定調和だとしても、因果応報は分かりやすいものではない。神の用意したものは人間によって幾ら分解されても、分断されても創造の大きさを超えることはない。それでも、大きさは想像つかない。その世界を生きていくのに、イエスが唯一残した謎への手がかりは「愛」と「正義」だった。それが傷ついた人に手を差し伸べる距離、気づける距離、助けられる距離を近づけさせなければならない。そうでなければみ国は来ないだろう。

私たちの意志の重力は、常に私たちを神の意志から引きはがし、私たちを単なる「地」にしてしまうのです。しかし、イエスは私たちを受け容れ、私たちはイエスとの交わりの中において神の意志を知るのです。(ナザレのイエス ベネディクト16世 p200)

Ⅴ 私たちの日ごとの(糧)。パンを、今日、私たちにお与えください

 主の祈りの中でこの箇所はもっとも「人間的」な願い事となっている。弟子たちに対して「自分の意の知のことで、何を食べようかと思い悩むな」(マタイ6章25節)と言った主は、食べ物の悩みについて祈ることを勧めている。パンは大地の恵みであり、労働の稔りである。それは自分たちの力だけで稔りを叶えている、という傲慢と対立する。日ごとのパンをお与えくださいである「日ごとの」はギリシャ語ではエピウーシオス(EPIOUSIOS)となっているが二通りの翻訳がある。一つは「やっと生きるのに必要な(パン)」そしてもう一つは「未来の(パン)」である。

「人はパンによってのみ生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4章4節)奇跡によって増やされたパンは、奇跡を思い起こさせ、それを超えて人間の本来の食べ物はロゴス、永遠の意味であることを示す。永遠のロゴスは人間のための現実のパンとなる。それは神の賜物としてモーセによってイスラエルの民に示された食物に相当する。.それを哲学として話すとしたらどうなるのだろうか、貧しい人の願うパンは、その日の必要なものを願う神秘なので解像度は求めない。

まずそれが第一条件だということを念頭に置いたうえで敢えて理由律の欠如を語るとするのなら、「ビュリダンのロバ」(Buridan’s ass)の説明から入る。ロバのビュリダンは大好物の藁の束を見つける。しかし、ビュリダンは後ろを振り返って、もう一つの藁の束も気になってしまった。そのロバは賢くてどちらの藁を食べるのか悩んでしまった。そうしてビュリダンは飢え死にしてしまった。賢く理性的が故に、飢え死にという愚かな結果を招いてしまう、このことは哲学的考察、ドクサでパンを見つめても無意味なことと酷似している。このビュリダンはフランス語の哲学者だそうだが、出典の根拠がない資料であるが、ライプニッツは「弁神論」のたとえ話で出している。

表向きでは飢え死にしたロバは愚かであるが、その愚かさ故に原理が浮かび上がる。食と神聖が一致する時に、単純に日ごとの糧として受け入れなければ両方の意味を失ってしまうということだ。

「日ごとの糧をお与えください」と唱える度に、意味を理解する「私」も理解しようとしない「私」も唯一性であるが、精神に対する神との関係は、単に発明者と機械の関係ではなく、父と子のような関係である。(モナドロジー・84節)聖体拝領は信仰がない人にとっては迷信と信仰がある者にとっては絶対性として矛盾している。タブララサ(白紙)とは、永遠の真理と矛盾して存在している。しかし、貧しい人への糧を与えることは両者とも一致するだろう。貧しい人への糧、そして自分の糧は、未来に続き、子供達へ、そして貧しい人達へと神聖と命が離れることなく途絶えないことを祈ることが重要だと思う。

聖体への秘跡は特別の意味で「私たちの」、イエス・キリストの弟子たちのパンなのです。(ナザレのイエス ベネディクト16世 p207)

Ⅵ 私たちの罪をお許しください。私たちも人を許します

 

 ライプニッツの「弁神論」ではプロテスタントとカトリックの差異が取り上げられている。例えば、上記の「パン」についてもプロテスタントとカトリックだけの対立だけでなく、プロテスタント同士の対立をも記していた。日本においてプロテスタントといえばルターが有名だが、ルターとも対立したフルドリッヒ・ツヴィングリ(Zwingli)は聖餐論を一致させなかった。彼は主の晩餐におけるイエス・キリストの参加を単なる比喩的表現とし、その際、身体が常に一つの場所にしか存在し得ないという哲学的原則を利用した。一方、ルターはプロテスタント聖書の字義にもっと忠実で、超自然の神秘を含む現実のものとする。彼らは、聖書の表現から生じるものではなくTranssubstantiation(全質変化‐聖餐(せいさん)のパンとぶどう酒とをキリストの肉と血とに変化させること)の教義を拒否し、Konsubstantiatio(consubstantiatio-キリストはパンとワインと共存する)のドグマとパンについて、これらのことを無知とした。

それは両者の結合を要求しないものだが、彼らは単に理知的だけでなく、キリストの最後の願いを叶えるということを重要視していた。信仰義認によって、救世主の身体の常在を維持することを選んだ。現代において、カトリックとプロテスタントの対立は言わずもがなとするが、カトリックにおいても、主の願いを聞き入れようとする姿勢は変わらない。主の祈りの第五の願いは、負い目、すなわち罪のある世界を前提としている。赦しのテーマは全福音書にわたっていて、マタイの福音書18章に「仲間を赦さない家来」の話がある。高位の代官であったその人は高額な借金を王に懇願して免除してもらったが、その直後に、仲間の他人の僅かな差借金を許すことができずに恐喝した。その悪態は他の家来から許した王の耳に入り、彼は免除を取り消された。王とは神である父の譬えだが、話はこれで終わりではない。

ルカによる福音書の23章、イエスの磔刑でイエスの他に罪人が他に二人処刑されることになっていた。 罪人のうちの一人は死ぬ直前までイエスに「お前がメシアなら自分自身を救ってみろ」と罵った。それに対してもう一人の罪人はそんなイエスを庇った。死を目前とした同じ境遇でありながらイエスに対して「貴方の御国においでになるときには、私を思い出してください」と謙虚な気持ちで接した。イエスは、そんな罪人に対してこういった。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と――この罪人は死する直前でイエスに辿り着いている。ライプニッツの「区別不可能=同一の原理」について、イエスと罪人は同じ処刑場にいながら別々の存在である。それぞれの運命の時計は別々に交わることなく存在していが、「赦し」によって絆を持った。キリスト教では、イエスは十字架に降りてこられたと言うが、磔刑とは罪人が吊るしあげられることである。ベクトルの違う二人が「その場限り」の絆を持つことを知る。罵った罪人と違ってそれは「赦し」によって絆は実現している。「赦し」こそライプニッツ哲学とカトリック神学の美しい接点であると私は思っている。罪人が、善へと向かった事は目に見えない生成変化である。祈りの言葉である「悪を許すこと」今日の悪意に対する善意への変化を常に願うことである。それは「私たち」であり、私であることを込められている。気づきとは集団性では生まれない。集団は処刑を野次馬状態で楽しんだ。共同体とは愛も正義も履き違えている機能停止ではない。死の直前で罪人が目覚めた「正義」こそイエスへの愛である。それが行き届いている世界を望むとともに、自分を奮い立たせる祈りの言葉としている。

「父よ、どうぞ彼等を赦してやってください。彼等は自分が何をしているのかを知らないのですから」(ルカ23:34)イエスのこの願いを私達が完全に理解し、自分のものにしたいと思うのならば、私達はもう一歩進んで、赦しとは一体何なのかということを問わなければなりません。そこで行われることは何であるのか。罪とは一つの現実です。……赦しは無視すること以上のものでなければなりません。単に忘れるということ以上のものでなければなりません。(ナザレのイエス ベネディクト16世 P.209)

Ⅶ 私たちを誘惑へと導かないでください。

ライプニッツの「弁神論」の言葉を借りるのなら、哲学とは神秘が空虚な言葉にならないよう、言葉の意味を発展させる必要があることを示した。長い歴史を見ても、言葉がある限り、推論によって反証が行われる。正しい祈りのために、確率論に誘惑され現象が互いに繋がっていることを一度見つければ、常に繋がっているという思い込みに駆られてしまう。

「誘惑」とは人間の不道徳なことも含めて躓きであるが、誘惑と導く者とは誰のことなのか。 誘惑とは悪魔のことであるが、エレミア書の20章7節にも興味深い一節がある。

エレミヤ書20:7(ドイツ語)Du hast mich verführt, Herr, und ich habe mich verführen lassen; du hast mich gepackt und mir Gewalt angetan. Nun spotten sie immerzu über mich, alle lachen mich aus. Denn sooft ich in deinem Auftrag rede, muss ich Unrecht anprangern. »Verbrechen!«, muss ich rufen, »Unterdrückung!« Und das bringt mir nichts als Spott und Hohn ein, Tag für Tag.

「主よ、あなたが私を誘惑した」というところだが、これは映画「大いなる沈黙」(Die grosse Stille)で何度も連呼され疑問を招いた箇所である。日本語では別の言葉で翻訳されているが、制作国のドイツ語版ではverführtと誘惑となっている。若きエレミアは主から預言者とされた。しかし、彼は正しいがゆえに人々から疎まれた。ドイツ語版ではそれがより顕著に表れている。Tag für Tagと、それは「毎日毎日」と繰り返しているが、不正と叫び続け嘲笑と軽蔑され続け、彼はうんざりした。

大衆の言う通りにしているほうが生きることは楽である。だからこそ、神の与えたものを「誘惑」と言ってしまった。ベネディクト16世はヨブで例えたが、今回私はエレミアを出した。誘惑は悪魔とするのが、キリスト教的であるが現実のところ、神よりも悪魔のほうが理解不能である。

神の行いには聖典がある。(他の宗教も含め)永遠の真理と偶然の心理という矛盾がありながらも、神には定点があるが、悪魔に関しての存在は永遠の真理としては存在しておらず、偶然性のみである。シモーヌ・ヴェイユの「創造。善は粉々にされて悪にばら撒かれている」はまさしくそれだろう。神の行いは粉々になる原型があったということだが、悪はそうではない。聖書朗読によって人は神を共通として認識できるが、悪意に関しては各々の偶然性となる。光が全てを解決してくれるわけではない。何故なら、ヨハネの福音書1章にあるように、闇は光を理解しないで避けるからである。

新約聖書の1コリント10章では「神は耐えられないような試練を与えない 」とある。これは無宗教でも有名な箇所ではあるが、これには続きがあるがこの続きを聞かされることが少ないので根性論とされ良い意味を持たないことが多い。

その続きとは、「誘惑の時には逃げ道を用意し、誘惑に耐えることができるようにしてくれる」ということである。

この項目に関しては、ベネディクト16世の話は素晴らしい解説ではあったが、カトリック聖職者問題も含めて実践に及んでいないと判断している。よって、自分なりに取り入れているシモーヌ・ヴェイユも参考に終了する。「真理を愛することは、真空を持ちこたえること、その結果として死を受け入れることを意味する。真理は、死の淵である」誘惑に耐えられる免疫なんてものがあるのかは不明であるが、そういう理想論の想像は難しくはない。一個人の過ちも含め、魚の群れのように集団性をもって誤った方向にならないためには、どうしたら良いのか。

誘惑-何から私達は自分を守るのか、これは「謎」ではあるが残しておいてはならない「謎」ではある。真理を愛すること、これによって魂は善を向く可能性が高いが、それでも人は罪を重ねる。真理とは説明するだけでは真理は生かされない。真理への通じる道を途絶えさせたら、それは死と同等である。謎を放置しない哲学的合理性、解けない謎に目を向けること、この箇所は特に他力本願ではなく、自力である。外にではなく、自己の心へ向けて戒める。「自覚」とは自分で自分のことを考える「反省」としたライプニッツ哲学のように目を背けてはならない祈りである。

「私達を誘惑へと導かないでください」という願いは、「前もって敵(サタン)に何かが許されているのでないのなら、敵は私たちに向かって何も悪いことをすることはできない」という認識を表現しているのです……主の祈りの第六の願いを祈る時、一方では、私達に見合った試練の重荷を引き受ける用意がなくてはなりません。……聖パウロの言葉に従って、信頼と確信のうちにこの願いを口にすることができます。「神は真実な方です。あなた方が耐えられないような試練にあわせることはなさいません。誘惑の時には逃げ道を用意し、誘惑に耐えることができるようにしてくださいます」(1コリント10:13)(ナザレのイエス ベネディクト16世:p215,p216,217)

Ⅷ 私たちを悪からお救いください 

主の祈りの最後の願いはその前の願いをもう一度取り上げ、それを積極的な願いに変えます。(ナザレのイエス ベネディクト16世:p217)

 ライプニッツのモナドロジーについて魂に窓がないという言葉ですら理解が追い付かない人も多いだろう。文章自体は端的であるが難解である。それは祈りの言葉とよく似ている。「弁神論」を読めばライプニッツの宗教観に触れ、モナドの意味はより一層深まるがモナドロジーは切り離した。「弁神論」やその他の書籍は彼の言う経験、偶然の真理に過ぎないが、モナドロジーは永遠の真理の補助としたかったのではないか。今日に当てはまるように、どんな時代にも合わせるためだと思う。

主の祈りの言葉は非常にシンプルであり、言葉通りの意味で構わない。そこには現代の道徳の基礎が詰まっている。神学としては、ここでの悪は決まっているようである。政治悪や懐疑主義、キリスト教徒を陥らせる悪から救ってくださいという意味があるようだ。しかし祈りの言葉そのものは「悪の力か」もしくは「悪い者から」を明確にしていない事が私は良いことだと思う。ギリシャ哲学では信仰とはdoxa(憶測)と同じ位置づけであって知識よりも下だった。古代ギリシャの性生活は独特で男性同士の愛こそが本物だとされていた。女性は子供を産む存在にすぎず、知識も美貌も兼ねそろえた女性がいても地位は男性に勝ることがなかった。私がこのように文章を書くこと自体、古代では「悪」だった。悪というものは時流に左右される。

現実の悪とは黙示録の竜のように象徴的とは限らない。イエスキリストは冤罪で処刑されたわけではないと一回は理性を持つことが重要である。冤罪ではなく当時ではそういう法律だったのだ。植物は花弁の枚数や葉の枚数の規則性を持って繰り返すことが決まっているが、同じ花は咲かない。法律も殺人を犯してはならないとは古代から存在する法律だが、古代と全く同じではない。祈りの言葉もこの言葉で三回目の「み国がきますように」に戻る。しかし、これは単純な繰り返しではない。聖書に記された言葉や知った真理をかき集めても私達は実体は知りえない。しかし、学びが増えていく間にエレミアを始め色んな苦しみや不条理を 知っていく。私達の願いがより一層表面的なものに留まらないように祈らなければならない。

分裂が故に愛の単純化を許さない

今回、ベネディクト16世の危篤状態の間にナザレのイエスという三巻構成の書籍の残り一冊を購入したが、そこに「主の祈り」の解説があった。それを読んでいる間に、彼は2022年の12月31日に亡くなった。「神は私たち一人ひとりを、他の誰も知らない名前で呼んでくださると、聖書は言っています」(黙示録2章17節)と彼は引用していたが、丁度その箇所を読んだときに訃報を知った。彼は神に最後呼ばれたのだろうか、彼のように賢い人間が知らない「名前」を。これこそ彼の記憶で知る由もないモナドではないか。――この書籍にも書けなかった「名前」を。私の感傷深くなったのはこれだけだった。その一言の感想を書き残したいだけが始まりだった。私は彼のことは書籍でしか知らないが、書籍は好きだった。それは彼を構成している一部に過ぎないのかもしれないが、彼はマタイによる福音書から七つの願いを記している。三つは「あなた」と呼びかける祈りであり、四つは「私たち」の願いであり、残り四つは希望、欲求、困窮についての願いである。

本来はそれだけの事についてモナドロジーを使ったことは、先ほども扱ったようにカトリックの不祥事が解決されていないことによる配慮である。よって、神秘を単純に素晴らしいと書けなかった。周囲の批判が怖いこともない。確かに聖なるものは真理なのかもしれない。しかし、経験が「偽善」だと真理を語る言葉を阻害する。それによって歪んだ言葉は胡散臭いのである。そしてベネディクト16世自身も世の分裂の調和のために新しい神学を築いたように、聖職者の堕落や争いを目の当たりにしていたライプニッツも同じだったのではないか。単純に神だけを見ていればよかったものを、彼は人間を見ようとした。醜い人間をどうするのか、尊い人間をどうするのか、価値を高めるわけでもなく、低めるわけでもなく謎多き「モナド」としたこと。その行為と私の現在の心境は重なる。

分裂が故に愛は単純に生きられない。不都合なことでも愛だと言い切ってしまえば幾らでも楽になれる。愛とは「正義」と共に矛盾を抱えながら生きなければならない。矛盾は飼い慣らせば安定の揺り籠になることを私は知っている。ライプニッツは意識していない間の「欲求」についても微小化された考察が残っていることを言っていた。

「私達を悪からお救いください」常に気づけるように、目の前で苦しんでいる人に蓋をしても、安らかに眠れるような人間にならないように。そして困っている誰かが救われるように。苦しい人に安らぎを、重荷から解放されるその日、神だけしか分からない名前で呼ばれる日が哀しい日とならないように。その日は喜びであることを、私達は目を覚ましていられますように。

アーメン。

参照

G.W Leibniz

Monadologie Racle, -German.

Discours de métaphysique.

Versuche in der Theodicée über die Güte Gottes, die Freiheit des Menschen und den Ursprung des Übels: Philosophische Werke Band 4 (Philosophische Bibliothek 499) (German Edition) 

Was das Begreifen anlangt, so pflichte ich ihm  hierin bei, habe aber schon gezeigt, daß die Mysterien eine Entwicklung des Wortsinnes erheischen, um nicht sine mente soni, leere  Worte zu sein: und ich habe auch gezeigt, wie notwendig es ist,  auf Einwürfe antworten zu können, da andernfalls die These verworfen werden müßte.   Er zitiert theologische

. Er zitiert theologische Autoritäten, welche die Unauflöslichkeit der gegen die Mysterien gerichteten Einwände anzuerkennen scheinen. Einer der ersten ist Luther. Ich habe schon im S 12

sowenig wie die Träume. Wir täuschen uns selbst durch den Gebrauch, den wir davon machen, d. h. durch unsere Folgerungen.  Wir lassen uns eben durch Wahrscheinlichkeitsargumente verführen und dadurch werden wir zu der Annahme getrieben, so wie  wir die Phänomene oft miteinander verbunden gefunden haben,  so müßten sie immer verbunden sein. Da nun alles, was keine Ecken  zu haben scheint, für gewöhnlich auch wirklich keine hat, glauben wir leicht, es müßte sich immer so verhalten. Ein solcher Irrtum ist verzeihlich und zuweilen unvermeidlich, wenn wir rasch  handeln und das Wahrscheinlichste wählen müssen; haben wir aber  Muße und Zeit zur Sammlung, so begehen wir einen Fehler, wenn  wir das als sicher hinstellen, was dies gar nicht ist. Die sinnliche  Erscheinung befindet sich also oft mit der Wahrheit im Widerspruch, aber unser Urteilsvermögen niemals, wenn es genau den  Denkgesetzen gemäß gebraucht wird. Versteht man unter Vernunft  ganz allgemein die Fähigkeit, schlecht und recht zu räsonieren, dann  gebe ich zu, sie vermag uns zu täuschen und täuscht uns auch wirklich, und zwar sind die Erscheinungen unseres Verstandes ebenso  oft täuschend wie die der Sinne: aber es handelt sich hier um die  Verkettung der Wahrheiten und um Einwürfe in schulgerechter  Form, und in diesem Sinne kann uns die Vernunft unmöglich täuschen.

Dort spendet Gott Gnade und Erbarmen den Unwürdigen;  hier spendet er Zorn und Strenge denen, die sie nicht verdient haben;  an beiden Stellen zu heftig und unbillig mit Bezug auf die Menschen,  aber gerecht und wahrhaft mit Bezug auf sich selbst.

Denn wie das  gerecht sein soll, daß er Unwürdige krönt, ist jetzt zwar unbegreiflich, aber wir werden es erkennen, wenn wir dorthin kommen, wo  man nicht mehr glauben, sondern das Offenbarte mit eignen Augen  schauen wird. Wie es daher gerecht sein soll, daß er die verdammt,  welche es nicht verdienen, muß solange geglaubt werden, bis es der  Menschensohn uns offenbaren wird.

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