信仰と法の狭間:教会法違反という現実を見ること。

もちろん労働者は、各部品がどんな風につかわれるのかを知らない。
一つの機械が、どういう役にたつのかなどということは、まるでわからない。
――シモーヌ・ヴェイユ 「工場日記」

はじめに

信仰においての制約が聖職者の不正によって抑圧されたものであってはならない。今回、 カフカの「審判」やミヒャエル・ハネケの「白いリボン」と比較し、現代の教会法及び、カトリック教会の実態を比較し批判することは、国教でないこの国で、日本社会に共通する価値観や道徳の理念を促進すること、イエス・キリストの教えが歪んだ形で誤解を受けないことへの一歩となること、表面的な平和ではなく平和のために闘争することを恐れないことを期待する。

権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。

権利=法の生命は闘争である。片手に権利=法を量るための秤をもつ

正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。

イェーリング「権利のための闘争」

Ⅰ 自然法と実定法

「誰かがヨーゼフ・Kを誹謗したにちがいなかった。何故なら、何もしなかったのに逮捕されたからである」

身に覚えがない法に裁かれるとするのなら――カフカの「審判」はそのような話だった。朝食のベルを鳴らした見知らぬ男が入ってきたところから話が始まるが、この男はKが差し出す身分証明書は無意味で、自分は下っ端なのでそんなものどうでもよくてKを監視して給料をもらうだけだと語る。この話は未完であるが、重要なのはKが「そんな法律って知りませんね」と序盤で言ったことである。何故なら、Kは直ぐに牢屋に入れられるわけでもなく、女性や協力してくれる人を探しながら死に向かっていくからである。一人の聖職者が「判決は一時に下るものではなく、手続きがだんだん判決に移り変わっていく」Kに言ったが、K自身が「知らない法律」と言ったように何の法によって拘束されているのか、物語は「何か」が分からないままKは無残にも扱われながら「まるで犬だ!」と恥辱が残る殺され方をして終わっている。この作品はカフカの死によって未完である。

カフカの「審判」は、自然法的な規範や実定法の法規範を具体的に扱っているわけではない。 この小説は、社会的、政治的なシステムが個人に与える影響、特に法的システムに焦点を当てている。法的システムに対する人間の無力、不条理さ、恣意的な判断をかきだしているので、この作品は、物語に独自の観点を持ち込んでいる。

多くの誤解を招いているが宗教、カトリックは一個人の価値観で社会規範が左右されるものでもなく、自然法のみではない。実際にはカトリックには自然法と実定法が存在する。実定法とは日本では国会で制定される成文法のことを差している。すなわち法律や条例、政令、勅令などがこれにあたる。実定法は憲法に基づいて制定され、法の階層がある。実定法は一定の手順を踏んで制定され、可決、交付された後に効力を持ち、一般市民もその法律を知ることができる。そのために、実定法は国民に多く広く認知され、守られることが期待されている。カトリックの実定法とは教皇が発行する教令や教理、カノン法を含む。自然法としては聖書や伝統から派生する倫理、道徳的な原理や原則に基づいている。カトリック教会の教義や法律は実定法に厳密に尊守されるが、これらは自然法に基づくようになっている。次に、現在、教会法はどのような位置づけになっているのかを掘り下げていく。

Ⅱ  日本にとっての教会法‐違反によっての社会への影響

  

 まず高校世界史でも取り扱うが、キリスト教の流れを書くことにする。カエサルによるローマ帝政の成立から東方のパルティアやゲルマン人の侵入による衰退の間、イエスの死後、彼をキリスト(メシアのギリシャ語)として信じる教えが弟子のペテロや小アジア出身のパウロらの布教活動で広がった。313年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令を発してこれを公認した。彼は更に教義論争の解決にものりだし、325年のニケーア公会議でアタナシウス派の考えを正統とした。アナスタシウス派の考えはのちに三位一体説として確立した。その後、4世紀末にテオドシウス帝はキリスト教以外の宗教を禁止した。これによって、キリスト教はヨーロッパ世界の統一的宗教としての「基礎」を築いたのである。それから現代に至るまで、教会と国家の関係はどうなったと言えるのか。例えば「教会税」が存在する国はアイスランド、オーストリア、スイス、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、フィンランドの7か国となるまで国や宗教は分裂や革命を経て、教会税が義務ではない国も存在する。教会法はキリスト教の誕生とともに広まり、初期キリスト教会では信仰仲間同士集まっていたが、紛争が生じた場合は何らかしらの解決法が必要だった。ローマ法の影響を受けて発展し、395年にカノン法を成立した。しかし、キリスト教が国教となると、地位と権利を巡る紛争が起きるようになった。教会法の形成において最初の重要な役割を果たしたのはグレゴリウス一世だった。

中世になると、教会法は発展したが、16世紀に宗教改革が起きると宗教が国家から分離されるようになったので教会法の権威は落ちていった。教会法は国家の法律としての役割を失い、司法や行政上の問題については国家の法律が優先される。19世紀に、カトリック教会は再度回帰を試み、1917年に「カトリック教会法典」が交付される。しかし、1962年のバチカン第二回公会議が開催されると改訂され、カトリック教会が社会の変化に対応するための柔軟性が確保された。教会法が国家の法律同等としている国はバチカン市国のみである。他の国については、カトリック内での裁判等の限定的な効力がある。

日本は政教分離国家であり、夜警国家、福祉国家の混合型の国家で夜警国家として治安維持に力を入れ、警察力や自衛隊等の安全保障的な側面が強くある。一方で福祉国家として、社会保険や福祉制度、医療制度等が整備されているが、少子高齢化や、経済格差といった問題を抱えていることから福祉国家としての役割が課題となっている。主に宗教を取り入れることは個人の判断に委ねられ、道徳、倫理といった社会規範にある。

日本のカトリック信徒にとっての教会法とは、宗教法の一種であり、カトリック教会内における信仰と実践に関する一連のルールや規則である。それはカトリック教会の聖書信仰、伝統的信仰、および継続的な信仰に基づいて構成されている。カトリック教会に所属する信者にとって、教会法を守ることとは共同体を守るとともに信仰生活の実践が期待される。それでも「教会法」は日本の法制度に内在する法律的な効力は確立していないことから、カフカの「審判」の状況に置き換えるとすれば、Kの最期まで見かけなかった「裁判官」「上級裁判所」とは、日本でのキリスト教徒と共通項がある。それは単なる心理状態のみを差すのではなく、法学的でも教会法に強制力が持たず、民事訴訟によって損害賠償を求めることしかないところに見られる。では民事訴訟や国の社会規範で裁判を起こすだけでは何が問題なのか。

それは訴訟や被害者の声が蚊帳の外のように、なんの悪びれた様子も見せない聖職者があまりにも多いことである。それによって教会法が生きないことによって社会に与える悪影響は、いくつかの側面から論じられる。性虐待や社会内部での不正等の問題が発生した場合、教会法が機能しないことは被害者に正当な補償が行われなかったり、被害者に対する公正な司法手続きが行われなかったりする。また教会法が機能しないことによって、教会内部の不正行為が放置され、犯罪行為が隠蔽されることが当たり前となるので、社会全体への被害が拡大する。信者も社会の一員であり、倫理が放置された組織が社会に危害を加えないということは在りえない。常に可能性を孕んでいる。日本では影響力が少ないように思われがちだが、教会法が生きないことは、社会の総合的な倫理水準を低下させる可能性へとつながっていく。その危機感が日本のカトリックは特に低い。教会が法律に違反するということは、信仰の問題だけで治まらない。法治主義や公正な裁判制度を損なう可能性が発生する。教会が自己規制を行わないということは、法的責任を認めないということだ。被害者を保護しないということは、多大なる精神的苦痛を与えることになる。法律に違反する組織や個人は、法の支配がない団体だという認識になっていく。

よって、たとえ日本の重要な法律ではないとしても社会全体の秩序としてカトリックは充分に教会法を生かさなければならない。

Ⅲ 門の掟

カフカの審判には入れ子式のように挿話がある。それは「掟の門」として聖職者が語り部である。(これは別に短編でも存在する)話は、一人の男が掟の門に入ろうとするが、門番は入れないと譲らなかった。例え自分の門を通ったとしても、その次にはもっと強い門番がいると話した。男はその門番のために贈り物等をして媚びて尽くすが一向に門を開かなかった。次第に男は門番の判断で拒まれているという気になる。やがて男は命が尽きようとしているときに門番に訪ねてみた。「どうして自分以外の人間はここを通ろうとしないのか?」 それについて門番は「この門はお前のためにしかなかった」と答えた。このように門番は門番としての義務を果たした、というだけのことが何故不条理となるのか? 門の掟は個人を差し置いて判断する目的で制定された規則というものが、不公正なものであることを表している。ある法的規約が不平等な可能性をもたらせる場合は、柔軟にどのように対応すべきか規定を授ける必要がある。門番のルールは不透明な権力であり、個人の権利や利益を保護するためには、法律の明確性や、公正さが求められる。これが機能しなくなってしまったら、個人の立場が抑圧され法が無意味となってしまう。門とは見せかけの法律のことで、男は拘束されるだけで門を通る権利が無かった。その皮肉が込められていると考えられる。

Ⅳ カトリック教会の問題の解決方法

確かにカトリックは、他の新興宗教よりも伝統があり過激な方法での洗礼やプロパガンダは行われておらず、「カルト殺人」と直接結びつくようなものは犯罪心理学上で直結しないが、司祭に児童性虐待や横領等は頻繁に行われている。これらの事件は信仰の欠如は勿論のこと、権力者の権力の濫用、階層的な組織の在り方に問題が生じている。犯罪心理学的には、カトリックにおけるような事件が発生した背景には、倫理・道徳的な指導者に対する信頼の失墜や、権力者による犯罪行為の隠蔽、性的な扱いについてのタブー、階層的な社会構造の中での権力の集中等多岐にわたる。

カトリック教会の問題の解決方法は多岐にわたるが、4項目に今回はまとめてみることにする。

1トランスペアレンシーの向上:Transparency‐教会事態が運営する監査機関の設立や、不正行為を通報できる場所を明確にすること、情報公開の透明性を高める取り組みの必要性を求める。

2被害者支援体制の充実:被害者の立場を考え、保身に逃げずにイエスの教えが何だったのか立ち返り、心理的、法的な支援を行う体制を充実させることを求める。

3教育・啓発活動の拡充:教育は社会が構成されている以上、必要不可欠なものである。信者や聖職者の教育、啓発活動を拡充することを求める。

4 聖職者の管理・教育の見直し:聖職者の選出・教育方法を見直し、問題行動の防止に取り組むことである。昨今、芸能界や学校教育でも未成年への性被害が相次ぐ中、一向に組織の改善が見られない。カトリックは先立ってこの問題に取り組んで手本を見せる必要性がある。そうでなければ、宗教の意味はますます無くなる。如何に信仰があっても、カトリックの不正や聖職者の怠惰まで庇えない、その状況下に晒されているということに危機感を持ってほしい。

これら4項目の解決策へと歩みだすには、教会内部の意識改革が不可欠となる。そのためにも教会内部において働くすべての人々がこの問題を認識しなければならない。

Ⅴ ミヒャエル・ハネケ「白いリボン」から見るサイレント・マジョリティー

 1~4が上手く機能しなかった話を例に出すとする。

ミヒャエル・ハネケの映画「白いリボン」では、19世紀、閉鎖的な村で抑圧的な牧師、自分の子供を性的搾取する医者が権威を持っていた。第一次世界大戦がはじまるが、戦争への恐れを見せずに自我がまるで無いかのように大人達は目先の利益を追っていた。その背中を見て子供達は育っていくが、彼らはナチス党員と成長する。実際にナチス党員となった映像は無かったが、この物語は何を見せてくれたのか。モノクロの映画でセリフが少ない中で人々の悪しき「沈黙」が描かれている。それは社会心理学でいえば「サイレント・マジョリティー」といえる。社会的規範や期待に合わせて自分自身の価値観や行動を変化させることを示しているが、閉鎖的な村社会で、権力や規範を守ることが重要視され、不正や卑劣な行為を正常だと思い込んでしまう。彼らの心理状態としてこのサイレント・マジョリティーの状態が、大きく誇張され、多数派の意見や態度が見えにくくなってしまう。よってナチス党員となって社会に参加し、状況を改善しようとしたと考えられる。

現代のカトリックの問題でも同様の傾向が見られる。カトリック教会では性被害や聖職者の横領等が隠蔽され続けていた。これは聖職者や信徒等のサイレント・マジョリティーが存在しているが、あまりにも小さいために問題の深刻さが軽視され、倫理感覚の後退が見られる。

Ⅵ 机上の空論ではない根拠

果たしてサイレント・マジョリティーが本当に起こっているのか、この現状を現職の神父が司牧の立場から残している希少な論文がある。これらの問題をフランスの性被害の訴訟等、海外だけの話だと思い込んでいる人は多い。田中昇神父「2020年の教皇庁国際神学委員会文章における信仰の欠如と婚姻の無効」に、昨今でも聖職者の怠惰な様子が書かれてある。聖体の秘跡については教会の生命であり一致の要であり信仰生活において源泉であり頂点でもあるが、(教会法第897条,カテキズム1324-1327番)聖体拝領の際に落ち着いて祈らない信者、そして司祭もまた式文の言葉を口にする際に左程心を込めてすることもせず、ある人はこれ見よがしに、また無機質な仕方でミサをする。説教についても酷いときには聖書の言葉を語らず、神不在の世間話で終わる神父も存在する。助祭から神父になる際の叙階の秘跡は(教会法第1008条,カテキズム1534-1536番)司祭はキリストに象られ、キリストの代理者として教える任務、「聖化」する任務、司牧する任務を遂行する。

それでも近年の聖職者による、パワハラ、セクハラ、モラハラに始まり、性暴力、教会財産の私物化、使い込み等の様々な問題行動が改善されないまま継続されている。司祭の務めとは神の恵みと慈しみを現実的に伝えること、人々をキリストの愛で包み癒すことである。

田中昇神父の論文や書籍を見つけるまでは、信者一人の声では横暴な神父達の言葉の暴力で私は封じ込められた。不正をしたのはその神父達だった。しかし、今回は大学登録の論文で私はエビデンスとしてこの批判を書くことが出来た。しかもこれは、正論だと言える確信がある。このようなサイレント・マジョリティーの重要性は、1969年にアメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争に関する演説で用いた言葉で、「沈黙した多数派」サイレント・マジョリティーを指した。当時のアメリカ社会は反戦運動やカウンターカルチャーなどの社会変革が激しく信仰しており、ニクソンはこうした動きを抑制させるために、サイレント・マジョリティーと呼ばれる戦争支持や保守的な価値観を持つアメリカ人を味方につけようとした。ニクソンはサイレント・マジョリティーこそがアメリカの真の健全な力であり、彼らの指示を受けてベトナム戦争を勝利に導くとした。企業においてもサイレント・マジョリティーを認識することは、できるだけニーズを把握し清貧やサービスの改善に役立つとしている。製品やサービスの改善に役立てることは、企業の競争力を高めるために重要なこととしている。

新約聖書の中ではイエス・キリスト自身が多数派のほうが法学者や聖職者たちと対立し、正統派の教義を従うことを拒否したことがある。(マルコによる福音書2:13‐17)また、初代キリスト教の信者たちも多数派のローマ帝国の政治体制や宗教制度に依存しなかったために、迫害を受けることになった。歴史は繰り返され、カフカの「審判」、映画「白いリボン」のモデルとなった時代背景は既に人間の反省点が書かれてあるが、現代において一向に進化は見られない。それこそ、何よりも進歩のない私たちの凡庸さが生み出す残酷さである。民事訴訟で割り切れないもの、それが必ず訪れることを表しているかのようにカフカの「審判」は現実を例えたような話だった。イエス・キリストの愛と正義において、愛は幾らでも都合のよい解釈をされるが、正義に目覚めた私達はサイレント・マジョリティーである。イエス・キリストの教えを「見せかけ」の門としているのは、黙っていて何もしない信者や聖職者と例えられる。私達は、心理的防衛規制によって、不正について冷静に考えることを避け、個人的な義務や良心を度外視してまで、周囲に媚びることによって安定を保つ。そして友情や信頼のために自我を消している。それは、信仰の意味があるのだろうか。無宗教から見れば私達の不正や隠蔽に向き合わず、イエスの愛を平然と語る姿はカルトにしか見えないのではないのだろうか。社会心理学でいえばこれは「傍観者効果」によるものとも言える。また日本のカトリック信者の大半は世間に期待されていない事に甘んじることによって、倫理が乱れた組織が社会に違反行為をしていくという想定が足りていない。

最後に

カフカの「審判」では、不透明な権威によって個人が抑圧されることと法が生きないカトリック内部と比較した。挿話「掟の門」では見せかけの門で待つ哀れさとカトリックの置かれている状況を照らし合わせた。次にミヒャエル・ハネケの「白いリボン」では、心理学見解からサイレント・マジョリティーを引き出し、埋もれている声が生かされなかった場合、どのような力を持ってしまうのかを書いた。カフカの「審判」との共通点は、見えない権威と抑圧によって自分の行動や信念を自由に選択出来ないということだ。何故、宗教者、キリスト教徒の私達は「気持ちが悪い」のか。それは、社会全体の構造を考えず組織の中だけで法や倫理を犯しても、社会への影響性も分からずに黙っていることだ。それが神によるものだとすれば、人は宗教を誤解しかしないだろう。そして聖書を持ち出して、分かったように説教をすれば誰だって気味が悪い。理解されない事も確かに辛いことだが、私達は批判すべき対象を「無宗教」「無神論」だと勘違いしている。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(コリントの信徒への手紙一 13:12 )私達は常にどんなに英知を尽くしても、一部しか知らないという謙虚さを覚えるべきだ。そしてはっきりと見えるということに何が必要なのか考えることだ。

自己欺瞞で祈っているのなら、常に虚偽がつきまとう。黙っている人達は、このまま自分が何なのか分からないまま生きていくのだろうか。祈りの言葉の「私たちの父」、その意味。それを欺くことはカフカの「審判」であったように、最後の「恥辱」だけが残る死に相応するだろう。

これらの話は遠い話でも御伽噺に聞こえない。抽象的で残酷な話が現実味を帯びない御伽噺であれば、どんなに良かっただろう。残念だが、正義を軽視した人は悪い夢の世界を祈っている。毎日、毎日、愛に酔っているだけの嘘吐きは、いつ目覚めるのだろうか。

これは、現実。

--主の平和--

参考書籍等

             フランツ・カフカは2023年7月3日で生誕140周年を迎えます。

・フランツ・カフカ「審判」青空文庫

・「2020年の教皇庁国際神学委員会文章における信仰の欠如と婚姻の無効」南山大学45号(2022年3月)P87-169:田中昇神父 P87~96  ――以前から,教会の宣教がうまくいかない,聖職者・修道者の召命も減少している。それは社会の世俗化のせいだとか,日本のような文化には根本的にキリスト教は異質で根付きにくいせいだとか,まるで他人のせいにしたような構釈を見聞きする――

・家庭の友:2023年4月号 田中昇著 P6 教会が、人が「聖なるもの」と出会い、恵みによって成長させられる場であることにアイディンティティ―を見出さず、またみことばに対する無理解、祈りは教会への教えの無関心、道徳観念の欠如した状態で社会運動や組織運営ばかりに達成感や使命感を覚えるといった姿勢(略)教会の私物化に他ならない。 p7カトリック教会も常に、真っ当な宗教であるかどうか問われています。

・オウム真理教によって宗教学はいかに変わったか:東京大学機関リポジトリ

・高校世界史B 山川出版

・イェーリング「権利の闘争」

・ミヒャエル・ハネケ「白いリボン」(映画)

・法学の基礎 第2版 団藤 重光 P35 ―もし、法が全面的に社会道徳から見離されるような状態になったときは、それは、法がもはや法として機能することができなくなったことを意味する。

信仰と法の狭間:教会法違反という現実を見ること。” への1件のフィードバック

追加

  1. 大阪梅田教会は酷い教会になりました。極左活動に以前の神父は信者と高そうなレストランにばかり行っていて、信仰とはかけ離れていました。セクハラもありましが。ChrisKyogetu
    さんの仰ってる神父はここだと思っています。裁きが下るように祈ってください、裁判所の神父様も見てるサイトなので書き込みました

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