「芋虫」江戸川乱歩

全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています。
「芋虫」江戸川乱歩

はじめに

時子の夫「須永中尉」は、陸軍の誇りだと称えられ、軍神のような存在だったが、戦争によって四肢を失ってしまう。夫の顔は傷だらけで、聴力、声帯も失い上手く話せないが、内臓は鈍いながらも動き、男性としても機能していた。姿形は「芋虫」と言えるが、芋虫とは幼虫の段階のことであり、性別の判断はほぼ不可能である。話せもしない、男らしさのカケラも感じない、そんな夫への妻の心は、夫でもなく、男性というものでもなく、自分の快楽と鬱憤晴らしや、気持ち悪い存在でしかなくなってしまう。この作品を書いた江戸川乱歩の妻でさえこの作品は「いやらしい」と批判し、この作品は1939年に一度、戦時中の検閲により発禁となった。この話はまるで一筆書きのように流麗で、伏線という計算を感じさせない。これは奇談に過ぎなかったが、現代ではこういった事をQOLの低下の一例となるかもしれない。妻は情欲の果てに夫の眼を潰してしまうが、この残酷のように思える妻の行動も現代となれば、介護疲れとして妻の立場に立ったケアを重視されるのかもしれない。文学と医療倫理の相性は良いと聞く。虚構であるからこその「距離感」が客観性を与え、一見、無秩序であるような残酷さは、小説の形態となると、ある種の法則のように整えられる。このように「残酷」な話は人々に何か課題のように見せることがあるのだろう。

この話は四肢のない状態の人間に対して差別的に思われるような話だが、第三者視点が妻の内観に焦点を当てることによって、身体に問題の無い人間の心に問題があるようにし、アンビバレンスを保っている。

 物語序盤、時子は「茄子の鴫焼き」を一番嫌いだとあった。鴫焼きとは精進料理であり、一説によると肉が食べられない僧侶が歯ごたえや味を鴫に似せるために作られたらしい。この紹介の始まり、今から情欲について展開される予兆として、時子がこの茄子をぐにゃりと噛む食感は色んなことを暗示させる。苦手なものを口にするときというのは舌から全身へと嫌悪感が走る。感触、触感から得られる快楽に拘った乱歩ならではなのかもしれない。 第三者視点によって焦点が当てられるのは主に妻の内観だが、夫婦のフラストレーションの長期化、それによる両者のコンクリフト(葛藤)、愛着の対象が攻撃となること、アンビバレンス。妻の取った行動は、現代にとっては心理学の教科書のようであり、彼等の家はまるで心理学者の観察部屋のようだった。

Ⅰ Case1 献身とサディズム

四肢を失った夫は、意思を表すのに這いずり回るか自分の頭を床にぶつけるしかなかった。何度も何度もぶつけて不満を表し、その度に妻は丁寧に対応する。

「今、行きますよ。おなかがすいたでしょう」

「待ち遠しかったでしょう。すまなかったわね」

「今、ランプをつけますからね。もう少しよ、もう少しよ」

妻は夫に紙と鉛筆を渡すと夫は口に加えて不満を書いて言葉にした。

「オレガ イヤニナッタノカ」(俺が嫌になったのか?)

夫が頭を床にぶつけてまで自分を求め、姿同様の歪んだ字を書く者に、 「また妬いているのね」と、あやす。それから自分の接吻一つで安堵をし、一挙一動するものだから、妻にとって それがまた興奮の種となり情欲が湧いてしまう。妻にとってこの「肉独楽」(にくごま)は興奮する玩具だった。

時子には建前と裏の顔があったのだ。

「あの廃人を三年の年月少しだって厭な顔を見せるではなく、

自分の欲をすっかり捨ててしまって、親切に世話している。

女房として当たり前のことだと云ってしまえばそれまでじゃが、

出来ないことだ。わしは、全く感心していますよ。今の世の美談だと思っています

「どうか気を変えないで面倒見てあげてくださいよ」

外の人間は、この妻は欲を捨てて夫に尽くしていると思っていて、今の世の美談として、この夫婦に理想すら抱いている。この場合の「欲」を捨ててというのは、世間が妻に貞淑、献身的に夫の世話をしていることだった。しかし、実際は「少し」違っていた。夫は男性として機能が残っていたし、妻は夫をのことを、肥えた黄色い芋虫であり、奇形な肉独楽のよう扱い、「サディズム」が表れていた。

外に行けば時子は 貞淑な妻として、外の空気に合わせる。彼女にとって、自分を取り巻く世界というのは、馴染みがある世界だった。特に遠出でもしない限りそうだろう。時子を取り巻く人は 時子に対して何らかしらのイメージを持って既に存在している。それをわざわざ崩してまで時子が何を明かさなければならなかったと言うのだろうか?

人は中々、この馴染みがある世界、自分の印象を崩すことは出来ない。情欲というものはずっと続くものではなく、外に行けば彼女も自然に外に合わせる。外の世界ではそれ用に 彼女も「正直」だったのだ。玄関から外へと出れば時子は貞節な妻として、婉然と微笑んだのだろう。そこに嘘があるわけではない。そして家に戻れば、夫の姿の醜さや、その醜さに欲情することを、妻は自分の心が純愛でないことや、道理が合わず秩序立てられない感情に嫌気を差し、自分の情欲、快感と共に恐れも持ち始める。

夫も以前は自分の活躍していた頃の新聞記事や勲章を時子に持たせて眺めて満足していたが、やがて飽きてしまった。夫婦二人で出来ることと言えば、行為にあけくれることだけで、動物の檻の中にいるようで虚無感があった。そんな中で、妻は自分が貞節の美名に隠れて、恐ろしい女だと見透かされるのではないかと、馴染みがある世界から、指を突き刺されて責められているのではないかと強迫観念に駆られる。その上、夫は嘗てのような凛々しさがなく、自分の言いなりだ。その割には動けない彼は自分が少し居ないぐらいで呼んでは、結局のところ自分を束縛する。時子の膨らむ感情、時子が夫へと跨るときに内観の描写はここで一旦、静止する。

時子は、弱々しい彼への支配力や感情が収拾つかなくなり、時子は夫の眼に手をかけ自分を見つめる夫の眼を凶器で潰してしまう。

目を潰された夫の胸に妻・時子は「ユルシテ」(Forgive me)と何度か身体に書いたが夫は返事をする素振りは見せなかった。妻は段々と夫の置かれている状況の哀れさと、自分の罪への意識に耐えかねられなくなり夫から思わず離れてしまう。そして、戻ってみると夫は居なくなっていて枕元の柱に子どもの悪戯書きのように読みにくい文字を残してあるのを見つける。妻はそれを「ユルス」と記してあると気づいたが、夫は身体を這いずり、もたげていた鎌首をガクンと落とし、井戸の中へと落ちて死んでいった。鈍い水音は手足がなく泳げない夫の死を意味している。

鎌首をもたげるとは、蛇が首を持ち上げた姿が鎌に似ていることから、戦闘体制に入るときに使う比喩表現である。夫の最期は、軍人としての死なのか、死に向かうことへの意志の表れなのか、謎は残るが、妻は夫から許されたと確信と共に夫の面影の幻想を思い描いた。

Ⅱ Case2  形と生命

Ⅰが妻に寄り添った心理的考察だとするのなら、Ⅱはもっと俯瞰したものになる。芸術作品というものは、一つの解釈に捉われない。相容れない解釈がひしめき合っていて、一つの文明を表している。芸術作品は音ではなく「形」となった時、視覚との縁が深くなる。例えば、「手」それはアルブレヒト・デューラーの「祈りの手」であり、絵画では表情を伝えるものとして重要なモチーフだった。カラヴァッジョの聖マタイにスコラ哲学を伝える天使の指、そしてレンブラントの聖マタイの手は、天使の口述の凄まじさを表しているかのように手が労働者のような手をしている。命とは「形」であり、「形」とは命である。腕が無い「ミロのヴィーナス」はそれを偶然にも成功させている。腕が無くても彼女の存在は多くの人達を魅了してきた。それこそ色んな解釈と一緒に―――腕が無いからこその、「手」が魅せる感情を想像のものとした。それに対して、小説は、「形」のない世界である。ついでに「音」もない。それらは、著者でも把握しきれない読者の第三の世界の構築に委ねられている。言葉とは、人間の精神をも表し、想像の世界や、神の言葉として人の内奥で処理される。言語に植物のように生態系があるとするのなら、言語ほどその生態系が乱れるものはないのかもしれない。それは時には積極的に、そして消極的に、視界中心でいえば低層部であるはずの見えない存在が、「形」になろうとする。江戸川乱歩の「芋虫」はそのような作品の一つと言える。灯りをつけなければ不便なほどの暗い部屋、時子の足元に、四肢の無い「夫」が転がっていることが想像しやすい。英訳版では「肉独楽」という言葉の翻訳が無く、Thing,flesh,lump of fleshとこれらは夫のことを意味している。しかし忘れてはならないのは、夫は「肉」が生命を持ったのではなく、生命の形(普遍)が、特殊な形になってしまったのだ。そして、人間の精神というものは、状況や環境という形にとても影響されやすい。感情を表す手を失い、自立するためにある「足」も無い。

読者は簡単に妻、「時子」の眼を手に入れることが出来た。外部が知る由もない夫婦の寝室に、私たちは踏み込むことになる。暗闇の部屋の中に、妻の灯りを頼りに待つ「芋虫」の姿、彼にとって妻が光だった。このように一歩引いて空間を手に取りながらも、次第に読者はこの夫婦に操作される。やがて妻の心理描写に感情移入する。ここには夫の「形」を巡っていくつもの視線の隠喩が存在する。まずは妻の時子、次に近所の人、世間、過去の栄光、そして夫。特に夫は「視線」だけが人間的に感情を表すものだった。家というものは、眺めるためだけにあるのではない、生活をし慣習化させる。(フランシス・ベーコン『随筆集』)だからこそ、夫は過去の栄光であった勲章に飽きてしまったのだろう。眺めているだけでは毎日が生きられない。夜の営みも生物学的なものだけではなく、これらも慣習化する。ルイ14世が立派な椅子に座るように、人間とはその人の役割である習慣が必要となる。それは、夫として、妻として、それぞれ文化的、慣習化となる動きをしなければならない。それが四肢を失った夫にとって、それは夫という役割ではなく、「芋虫」のようになってしまった。

夫の姿が彫刻であれば、鑑賞者として美しいとすら思うのかもしれない。しかし、彫刻のように命無きものが命を得たのではなく、命あるものが、失ったのだ。二人の居住空間に広がるはずの夫婦としての機能は幻となってしまったのか、それはそうではない。まだ夫に四肢がまだ残ったままだったら、どんな家庭になっていたのだろうかという「妄想」の隙さえも与えなかった。それはより目が潰された夫の内面に引き込まれるからである。美徳を試されているのは妻だけではなかった。また夫も美徳を試されていた。そこに終盤になって気付かされる。献身的に支えてくれる妻がいることで、夫として威厳が保てるのか。気狂いで頭をぶつけて意思表示をしていたのではない。それしか手段がなかったのだ。「形」の内部に、生身の魂があるということ、虚しいことを言えば、それ以外何もないように思われた。けれども、夫は口で咥えて書いたとはいえ、腕がある人と同じ行動をとった。四肢だけではなく、

心がある人間のように、

妻を「ユルス」と。

Ⅲ Case3 「世界の卵という眼」

 見えない視線が、「美談」という幻想と空間を作り上げる。この時代の日本の「愛」というものが、どのあたりまで今日と共通しているのか私は把握できない。しかし、この二人が然程、遠い感覚ではないように思えるのは何故なのだろうか。それは現代の「自由恋愛」も 万全な幸福 でもなく人格者になれると言い切れないからなのかもしれない。恋愛は、幸福でもあるが相手を死へと追い詰めるほど罪悪なところもある。そもそも愛というものは、エーリッヒ・フロムでいえば「鍛錬」が必要となる。だからと言って、特に日本の古典文学を考えれば刹那的な愛を否定できない。なぜなら、それもリビドーであり、生命のエネルギーでもあるからである。

私から見える時子には、夫が愛おしい存在であったのには間違いはなかったと思う。愛おしいと性欲が共存するときに、主導権を握り始め、暴力的になっていく。着目すべきとろは、彼女は忘我していたわけではなく、そんな自分に気づいていたことだ。その罪悪感から改心することがでず、見えない世間の批判に怯えるようになっていった。夫の眼を潰してしまった後に、彼の胸に「ユルシテ」と指で何度も書いた。 乱歩は、これまで妻の内観と共に闇へ闇へ、快楽、恐怖と駆け足で転げ落ちていったが、妻がユルシを乞うところから妻が闇に落ちることが静止している。読者によっては妻が改心をして「ユルシテ」と言っているようにも見えるし、自己中心的に自分が許されたいがために「ユルシテ」と言っているだけのようにも見せている。

同時に時子は泣き出し、世の常の姿を備えた人間が見たくなり、哀れな夫を置き去りにする。一人に耐え兼ねて逃げ出したのだ。夫婦と恋愛を切り離して考えるひとも多いが、人間同士の愛には愛憎や、負の感情も避けられないのだから、私は切り離して考えない。妻は夫が愛おしいながらも、自分の欲に溺れていた。けれどもそれは美徳ではないというだけで、「愛」がないとも言い切れない。思い出だけが輝いていて、現在は見る影もないのも繋がりが切れているとは言えない。

人同士の繋がりが切れるとは、何処で決めるのだろうか。夫婦にも離婚やカトリックでも婚姻無効訴訟があるが、過去の記憶が生き続ける間、その過去は何処へ行くのだろうか。

それは死者との繋がりにも言えることである。違うのは死者との思い出はある一点で静止し、死者もある一点で変化を止めてしまう。「記録」を愛することができる。「記憶」は色々と思惑によって視点を変え、想像と創造的に流動的となって、様々な解釈を得て、死者への想いは生き続ける。それとは別にお互い生きている場合の「変化」はまた困難を極めている。特に愛していると言い切れなくなっていった場合、その対象は疎ましくも思うのかもしれない。そうなると未婚の場合は別れるという選択をするのが普通だが、結婚となると話は変わってしまう。現在の法律では「離婚」は認められているが、そこまで至った人間同士の絆を簡単に語ることはできない。 裁判を経て二度と会わないと決まった二人でもそれなりに何処かに心の隅には愛の残滓はあるものだ。「芋虫」の夫婦に話を戻すが、夫婦の絆はどれほどあったのか、私は、妻は「ユルシテ」と背中に書き続けたところに感じた。

日本人なら子どもの頃に、友人同士で背中や手のひらに文字を指で書いて何て書いているのか当てるゲームを一度はしたことがあるだろう。受け取り側は、単純な平仮名やカタカナでないと分かりにくい。特に身体が弱っているときに、本当に妻の言葉は通じていたのだろうか。 読み取る力というのも、一つの信頼関係も要する。もしかしたら、目の大怪我で皮膚全体の感覚は麻痺していたのかもしれない。身体が本当に万全に言葉を受け止めていたのか、それこそ信用が無いのだ。それでも、夫は最後に「ユルス」と書き残した。

もしかしたら、言葉は伝わっていなかったのかもしれない。

私はそう思うからこそ、夫の最期の「ユルス」に魂の重さを感じずにはいられないのだ。

魂の重さ、そこには上辺だけの愛情では計り知れないものがある。

対話というものは、通常でも成り立たないことがある。本人の聞きたいように、相手の言葉を受け取ってしまうことだってある。単純に「ユルシテ」という言葉を言われるだけで、被害者は自分が受けた仕打ちを考えれば聞きたくない言葉にだってなりえた。  男女の間に起こる刺激は常に秩序によって整っているわけでは無い。何処までが愛情だといえて、何処からが単なる刺激なのか簡単に説明出来るものではない。男女の間では、演繹的に「愛」だと確信出来ることもあれば、帰納的に「男女だから」としか言えないときもある。 どんな男女でもこの両方を兼ねているだろう。

この二人の関係性を、「現世」で断ち切ることは、夫の自害となった。そうしなければならなかった衝動を説明することは容易ではない。

ショーペンハウワーは、「自殺について」という書籍でラテン語のpunctum saliens (Engl. the salient point) について「世界の卵という眼」とした。punctum saliensとは訳が難しいが、直訳すれば小さな穴のような源泉という意味である。使われ方としては、「彼」の場合はこうだった。人間的な欲望や、人間愛などの現象の展開と対照的に、人間の生殖行為がある。それを彼の哲学では、最高度の焦点として意志の核心としている。どのような時代背景があろうとも、愛や意志などの変化に微動だにしないのは、神のような「神聖」なものを巡って、繰り広げられる現象に人間としての機能である「小さな穴のような源泉」として、生殖行為は対照としてある。これは否定できない事実だろう。

もう一人、punctum saliensについて書いていた哲学者がいる。それがシモーヌ・ヴェイユだった。「重力と恩寵」の脱創造の章で彼女は、「人間には架空の神聖が与えられたこと」

そして、「人生には、完全に裸で純粋な瞬間は二度しかない」としている。生まれる時と死ぬ時とし、自己の内部を徹底的に探求することによって、自己を取り去ろうとしている。

ショーペンハウワーとシモーヌ・ヴェイユのpunctum saliensを巡って、共通項を取り除くと、不穏で、愛とも期待外れとも言える暗い眼差しが現象として取り巻いている。人間の存在や、不在、私たちは匿名の観察者となっていく。乱歩自身は「夢を語る私の性格は現実世界からどのような扱いを受けても一向に痛痒を感じないのである」(政治的意味について)と言ったようだが、本当にその通りで、この話は特に主観的な視点と、主題が揺れ動いていては現象としてのPantasma(ドイツ語)がある。Einbildung(自由奔放な想像)と違ってPantasmaの空想は知覚と感覚の関係と平行である。この芋虫は、ただの妄想に過ぎない話ではなく、時代の価値観を越えて、夫婦の愛についても問題定義をしようとしているのか? それだけでなく、やはりこれは時子が夫の死後も芋虫の幻影を見ていたように、幻想譚なのだ。

夫婦二人が抱えたものは、生と死、全ての現象の合間を潜り抜けた源泉、人間の「原罪」とも言える、 関係が終わっても、生死の別れがあっても、記憶が如何に忘却され美化されようとも、

世界の卵と言える眼を中心として、人間を営んでいる。

Ⅳ  Case4 幻想・対話・美談 

 夫婦の対話のすれ違いについては、聖書の「雅歌」に5章にこのような話がある。花嫁は花婿への愛が冷めてしまい、花婿が扉を開けて欲しいと言っても開けようとしなくなった。花婿が熱心に花嫁に扉の向こうで尽くしているうちに、漸く花嫁は扉を開けたが、花婿は既に居なくなっていた。「あの方の言葉で、私は気が遠くなりました。私は探し求めましたが、あの方は答えてくれません」(5:6) 聖書の教えでは「花婿」が主に置き換えられるように、愛によって繋がった関係には主のような繋がりを求め、すれ違う。時子と夫はこのように、対話がすれ違っていた可能性があった。今の日本の「愛」の価値観は違うとは言っても、美談と「主(神)」は無関係ではないことは、現代の「愛」にも通じるものがある。愛とは、それだけの理知的なものを人は誓おうとする。その一つが「忠誠心」である。宗教上でなくても、家同士の契約だったとしても永遠の絆や忠誠心が求められる。お互い助け合い、常に見えないところでも気づいてくれているという期待と共に共存する。お互いを理解し、尊重すること、互いの違いを認めつつ、包容力も必要となっていく。理解よりも早く愛があるように、いな、愛と言える前に「善」が働くように、幸福追求のための努力が求められる。それでも、裏切り続ける詐欺師のようで、忠誠を誓いたいという理性もまた人間の魂なのかもしれない。

「芋虫」となった夫は、四肢のない状態で、口で筆記具を使ってカタカナで「ユルス」と書いた。それは日本語のカタカナだからこそ出来た技だった。英訳のforgiveでは四肢がない状態で書き残すことは困難で果たせない。もしも妻がなんて書いていたのか、夫が判っていなかった場合でも、彼の中での理解があったとするのならどうだろうか。雅歌の夫婦のように言葉や尽くしたって対話がすれ違うのが当たり前の中で、そうだったとするのなら、どうだろうか。もしくは、妻の言葉を聞き入れたとしたのなら、尚、その「対話」とは愛において「理想」なのだ。対話を受け取るのは「言葉」と限らないことでもあるが、意志や心を表すのには、言葉を最後は要する。それを夫はよく理解していた。妻に残されたのは、夫の幻影となる、「芋虫」が毎年「春」になると現れるという贖罪だろう。

人間とは、人間の情とは絶望的でありながら、接してみないとわからない宝がある。

乱歩は私のことも錯視へと陥らせる。わたくしの語りの着地点を何度も悩ませた。

「芋虫」という奇談、夫の許し、軍人としての死、乱歩作品の中で私の中では一番の名作となっている。結局は、生死を境に二人の関係は途切れたが、妻の時子には芋虫を見るたびに思い出すだろう。私は、一時期は人格が歪みながらも、「形」が変わってしまっても妻は夫だけを見ていて、夫も妻のために生きた、

この話を「一途」な愛と忠誠とすら錯覚した。

「一途?」 いやいや、これは奇談なのだ。やはりこれは奇談なのだ。

最後まで「美談」という一本筋を通したような話だった。

「芋虫」江戸川乱歩” への3件のフィードバック

追加

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