追想

得体の知れない私は何処まで愛され、私は人を愛することが出来るだろう。
カトリック教会に所属したのは、三位一体の聖霊に得体の知らない私を愛してほしかったのかもしれない。何も語らなくても、私がどんな過去を生きようとも、私がどんな人間か語らなくても、私のユーモアや私の笑顔が受け入れられれば良かった。
そんな現実は無かった。それでも恨むことはない、仕方がないことだ。私にも落ち度はある。誰も私が単純に世間話がしたかったという事を知られないまま、終わってしまった。「今日は、世界が明るく見えるのですよ」「紅茶。とても美味しいものを見つけたのです、薔薇の香りがするのよ」そんな話をただしたかっただけだったのに、どうしてこんなにも懸け離れてしまったのだろう。
話したかった単純な話はずっと言えなかったまま終わった。
貴方に神の祝福を、そう言いたかっただけだった。
人との出会い、子どもの頃から私はすぐに分かる。この人は私の事を忘れ、
私もこの人を忘れる。顔も、声も、全てを忘れるのに、
言葉を交わす。ずっとこの繰り返し、私達は解散を待つ戦士、自己形成の
ための出会いだった、私も貴方もお互いに忘却の彼方。

そんなものは慣れていた。けれども、聖霊にはそうなってほしく無かった。
聖霊を私に教えてくれた貴方には特に。でも、もう本当は慣れていたんだと、
私は終止符を打った。

今は寂しくない。アダムが私の良き理解者になった。

この子を守るために、私は幾らでも強くなれる。
とても愛しているの。
お揃いの紅茶は飲めないけれども、
アダムが青空を見ていると、世界は純粋に見える。
君の存在そのものが聖歌なんだよ。とても美しいよ。
君は永遠。君も私も忘れることが無い永遠。
それを楽園というんだよ。愛しているよ。

除籍は神の計らいだと思う。きっと、アダムに会うための。
本当に欲しかったものは、この温もりだと神は知っておられたと
思うのだ。人と離れることに慣れてしまった私への神からの恩寵ね。

質問箱2020年7月1日


「プルーストの失われた時を求めての夢解釈について」の質問を頂きました。

一言でいえばle reve d’un reve(夢の夢)ですが。

プルーストの「失われた時を求めて」の夢の捉え方は多様性に富んでいて短く説明することは難しいです。しかし、敢えて言うのであればフランスのプルーストはオーストリアの「フロイト」を知っていたのかどうかが論点となっていて、未だに明確な証明が取れないそうです。現段階での研究ではフロイトの事は恐らく知らなかっただろうという事にはなっています。
夢を科学的、医学として明確に最初に捉えたのはフロイトという位置づけになっています。
ですので、プルーストの失われた時を求めての夢世界は、各々の夢というナンセンスなものから、レミニッセンスの組み合わせで成り立っている、無意識的記憶世界と言えるというのが現段階での見解として有力かと思われます。
失われた時を求めてでは沢山の夢物語が出てきますが、特に意味がないような夢や、
レミニッセンスがあり、特にこのレミニッセンスがこの作品の魅力となります。レミニッセンスとは、記憶は忘却曲線を辿って減少していきますが、心理的条件によっては想起する際に膨大な情報として現れることです。彼は夢と現実の世界を行ったり来たりして、文章によってレミニッセンスの美しい世界を描きだしています。この作品の最大の魅力と言えるでしょう。旧約聖書の神のお告げの夢、中世のように物語が夢物語になっている作品、英文学のようにmethinks ,methoughtという決まり文句で始まる等、様々な夢の形式がありますが、プルーストはそういった形式全部を取り入れ、尚且つレミニッセンスに重点を置いているかと。プルーストが書いたContre Sainte-Beuveという本の作家ネルヴァルを熱く語っている章であるle reve d’un reve(夢の夢)というのでしょうか、そういった現実世界で生きていく上で眠るときに見る夢を無価値と捉える一面もあったり、記憶の想起を芳しく、そして芳醇にさせるために夢物語として語ったりと、この話は夢について、多様性に満ちています。
ただ、これもノヴァーリスの青い花同様に未完ということもお忘れなく。
旧約聖書では夢は神のお告げになり、新約では神は天使に、人間は天使を通して夢で囁くようになり、イエス処刑前夜のときには天使も神も沈黙されました。夢を巡っては紀元前から様々な哲学者や作家が挑んでいて、未だに解明されていません。トマス・アクィナスも夢を分類しました。
ユングはフロイトより更に夢を集合的無意識として、アーキタイプを通して現実世界と結びつけようと解釈しましたが、オカルト的な要素が強いために学問的というより、サブカル的な扱いになっています。私、個人的にはチョーサーの「とても美しく、私の気に入る夢」というのが好きですね。
チョーサーの詩、お勧めです。

質問箱2020年6月22日

「アンティゴネーのような古い神話を何故哲学は使うの?例えばデリダの贈与のように」
これは説明するのにシェリング哲学のような古いドイツ哲学まで遡ります。哲学の世界では化学のような化学式のような各物質の構成の様子、元素の組み合わせを示すようなものはありません。哲学や文学のような思惟や思索の世界では一番それに近いものは「神話」になります。人間の性や本質をよく表していると思われています。ヴォルテールは「歴史哲学」で神話を取り上げていますが、カトリックの権威主義と対立化をさせています。Catholicのような宗教は権威がありますが、神話には存在しません。それこそ純粋な
化学式のような存在です。勿論、神話の引用を好まないグループ、例えば啓蒙主義のウェーバーもいます。シェリングは真理への道と、神々を定立する運動の循環という二つの側面からプロセスを進めており、ヘーゲル哲学「精神の現象学」の例え話と繋がっていきます。
恐らく、デリダのアンティゴネーの説明を読んでいるということはヘーゲル読解ということになります。現在の研究ではデリダのヘーゲル研究はまだ充分ではないとは言われています。仰っている著作はデリダ『弔鐘 (Glas)』だと思われますが、この死者をいたみ、冥福を鳴らす鐘は西洋ならではのキリスト教という権威のある体系、絶対宗教下にあるからこそ出来た哲学です。家族の主題は「宗教の止揚」の問題から、つまりこれまで見てきた哲学の始源への問いがデリダのこの弔鐘を読み解く鍵だと思われます。ただ難しいのが読者がどの程度の信仰心を持ち、どの宗派に属しているかによって三位一体の意味、イエスキリストと神との和解を捉えているかで全くデリダの読み方は変わってしまいます。もしかすれば同じカトリックでも、教皇や神学者によってとらえ方が様々で困難かと思います。シンプルにまとめてしまえば、アンティゴネーは兄への宗教的義務と埋葬という習慣と掟(法律)の対立から成るものです。それはヘーゲル的解釈からすれば、現象学への目標であり「絶対知」です。デリダのこの著作は更にイエスの死という悲劇から哲学が始まり、ヘーゲル的弁証法を試みていると思います。それによって、アンティゴネーのは誰に該当したのか、そういう話になっているかと思います。
※アンティゴネーとアンティゴーネと両方表記可

質問箱2020年6月18日

只今リアルで会ったことある人限定で質問箱URLを試験的に送っています。
今回は届いた質問の答えを書いていきます。

「デリダとかフランス哲学において贈与は重要論点かどうか、イサクを捧げる箇所を引用したりしていますが。資本主義の贈与とは」

 はい、贈与はフランス思想の中でも歴史が長いものです。キリスト教カトリックの
恩寵からデリダまで贈与については色々と言われています。

 デリダの贈与と、イサクの贈与が並べられる理由は、敬虔な信者であるアブラハムが息子イサクを神の命令によって、捧げようと(殺害)しようとしたが、結局最終的には神がアブラハムを信用し、イサクの命を持っていかなかったという点でしょう。古典ギリシャ経済のエコノミー、出て行ったものが必ず帰ってくるという円環を否定するための比較だとは思います。ただし、アブラハムに関しては聖書的解釈に左右されます。キリスト者は息子の魂が地上に残されたと捉えますが、哲学者は魂より肉体の存命を重視します。そういった認識のズレはあるかと思います。あともう一つズレが生じるのはキリスト教では啓示によって開示が行われるものですが(アブラハムに天使が降りて啓示を受けてイサクが助かる、よって開示を受ける)哲学概念では逆で(元々開示があり、イサクは助かる運命であったが、試された「啓示」)という真逆の見方がありますし、まだ論争は続いているようです。
 資本主義と贈与に関してですが、日本とフランスの資本主義は違います。国の保証から離れて民間でやることがうまくいくのか、民間がしっかりと稼いで国のお世話になることが良いのか、どちらも資本主義と言えることであり、国や国民性にも左右される難しい問題だと思います。今回のコロナウィルスの保証のように手当を受けられれば資本主義によって贈与を受け取れたともいえるし、破産してしまい、保証も受けられない状態であるとすれば資本主義の失策ともいえるでしょう。フランスの場合は資本主義によって国と連携し社会保障を充実させ、災害時や国難のときに国民に保証出来る「贈与」を目指したいということではないのでしょうか。日本の場合は意見が分かれていると思います。可処分所得が随分と小泉政権下から減り続けているので、とりあえず現金が欲しいというのが国民の願いであり、国にお世話になるぐらいなら、自分で稼いだ分は自分で責任を持って管理したいという人が多い気がします。だからこそ減税を望む声が多いのかと。


INNOCENT (Ecole)

この記事は2011年に記載したものの改定版です。
読みが浅いものがありますが、当初の見解を歪めないために
大幅な変更はしませんでした。
 
「この感覚は何処から来て何処へ行くのか。イノセントな少女に惹かれる大人達」

何故少女を美と捉えると禁忌なのだろうか。選ばれた一部の少女は美しい。男性の性癖を全否定したいところだが、少しはこの美は男性の妄想に保たれている。だからこそ危うく、不道徳な欲望が存在する。少女時代から美形と称されるのは、本当に少数である。大人になって努力する美とは違った神の恩寵さえ感じさせる。イノセントに包括されて、嘘や小細工や魔性が大なり小なり含まれている。

少女は罪から本当に改心したのだろうか、「ごめんなさい」の言葉の中が何処まで真実が含まれているのか分からないが、美しき少女はイノセントで成り立っている。
********
外界から閉ざされた森の中にある学校。そこは時間を止めているように見える。
無防備で無邪気な魂と成長していく器を持つ少女達を見る大人達の視線(観客)
からは、ありとあらゆる蓋然性が生まれるのは必然としていた。
まるで証拠性でも述べるかのように、何かの象徴ではないかと捉えようとする。

それは木漏れ日から差す光のようで、蝶を捕まえる蜘蛛の巣のように様々な方向から
少女達を眺めていることになる。

ノスタルジック、美、淡色、そして性的に――――。

それでも、この「少女とイノセント」への欲求が絶えないのはアゲハ蝶でいえば四世代交代のように
奪いようのないサイクルから来ている。少女は成長してもまた少女という存在が現れる。

イノセントは心象でも幻想でもなく、ましては象徴性を当てはめられるものでもない。

イノセントに該当する日本語は果たして本当にあるのかどうかをまず疑う。イノセントとは道徳的マイナスのない状態。それは、少女達が持つ揺れ動く感情や成長であり、蝶の変態のようだ。

私はイノセントとは自然による不条理(Nature)がイノセントに近いと思っています。
後半に差しかかるあの授業、蝶が羽化していく瞬間を少女たちが観察するシーンです。
先生が言います。「乳歯がぬけるのが最初の変化(略)繁殖の相手を見つけるときが来た」と。

これは少女達がイノセントという包括からと飛び立つ時が来たという事を暗示しています。
 
夢想と変態
 
蝶の分類とは例えば同じ種類でも、本当はまだ全てが解明されていない。大体が
タイプ標本によって種類を分析される。タイプを基に分析することは良いのかもしれない。けれども、このタイプに統一するということはどうだろうか。

少女という存在は幼虫から蛹の段階であり、成長段階として統一されているようで、
中には変態の間に「夢想」という個性を秘めている。少女達は夢想を抱いている。理想も、エロスへの想像も、恋も期待している。彼女たちは夢想を何も抱かないわけにはいかないからだ。しかし、彼女たちが育てられていたエコール(学校)というものは、一般的な学校と同じで、統一を強いながらも、その個性の成長を妨げることばかりが多い。

ただこの学校は一般的な学校とは少し違う。その一つは芸術品のような「美」を重視しているからだ。

このエコールは生きとし芸術作品を重んじた仮想空間である。
女性の心は複雑なもので、貞操、少女性を残したいとも思いつつ、時の経過に伴い、
大人になっていく。身体や容姿だけが老いて、心が幼稚で稚拙な子どものままの
変態は厄介だろう。理想は、身体や容姿が老いても純粋な童心である。
これが中々保てないのが、人間の成長である。

後、この映画はもう一つ、キーを握っているのに水がある。
この映画の原作はドイツ語。
ドイツ語では魂というseeleには湖と海のsee
含まれる。作中では川でしたが主に水中。
心理学でも無意識は水に例えられる。
しかし、実際に水の中に居続けるということは
人にとっては溺死、窒息死を迎えることになる。
水は生命の母であり、死へと誘う光を伴う水面の揺れを唄っている。


消えていく少女、ランプを持って謎の見張りのために夜中に
出ていく少女、水の中で死ぬ少女、外に出れた少女。
あの学校はまるで蛹のようだたった。
外に出れた少女は初恋を感じさせる相手と噴水で出会う。
あの深遠のような水流ではなく、それを模倣した噴水に。





———————-





映画に絞りましたけれども、元にしているものがドイツの作家なのでドイツ語に沿っていると思われる。
この映画はベルギー・フランス・イギリスの合作映画で

私は原作を読む前に映画のほうを見ましたけれども、
シーン一つ一つがドイツ語の単語の派生のように見えたのを覚えている。
でも話される言語はフランス語なんですよね。

学校制度はベルギーを元にしていると思います。飛び級がありますしね。(2011年調べ)
ベルギーは大学への進学に選抜試験は無くて中等教育の成績で決まります。
成績に見合えば好きなところを選べるわけです。
ドイツ語は
単語の派生、相関図が一つの物語のように美しいと思っている。この形態が
哲学のように思う。ミネハハとインディアン用語を使っているのでキリスト教思想に捕らわれてはならないと思う。調べれば調べるほど、色々と出てくるかもしれないが結局のところ少女が何故美しく、儚く処女を
失って大人になっていく過程が題材になっていくのかは分からない。

しかし、このようにwhywhyを重ねるには表象を解明していくことは
欠かせないとも思っている。女であることを、心の有りようが変化していくこと噛みしめていく
ことが女には永遠の課題だからだ。


*私は芸術として少女を美しいと思う事には反対はありません。しかし聖職者が
子どもを強姦することはこの芸術を汚しています。聖職者なら少女を
壊してはならないと少しは理性を働かせてもらいたい。このような人達がいるから、
私達は美をバカに殺されなければならない。こういう作品を消さなくてはならないと、
バカに合わせて消されるのです。性癖しか無いバカに。





注釈:蝶を選ぶということの心理は何だろう。蝶はキリスト教の図像に採り入れられて復活の象徴に使われますが主に西洋思想では死者の復活をシンボリズムとしていることが多い。それは蝶の毛虫、蛹、蝶というメタモルフォーゼを生―死―復活と捉えているからである。(グノーシス派は腐敗した肉体と捉えていたようですが)

日本語は古代まで遡ると自然という言葉が存在していなかった。自然という言葉は中国から入って来たものである。元々、日本、ヤマトは自然と人間は対立していなかった。本来は虫の成長に意味なんて無い。境界線なんてないのだ。概念は同じ、でもイノセントというものを特別に抜き出した時点で捉え方が日本とは違うのだと思う。




bonne action

La création : le bien mis en morceaux et éparpillé à travers le mal.

創造: 善は粉々にばらまかれて 悪の中にばら撒かれている。

シモーヌ ヴェイユ Simone Weil

善は小さなものだ。だからこそ腹心の友が必要になる。イエスが使徒を集めたように。

裏切られるけれども。
画像:少年は残酷な弓を射る

awake or asleep i love you

 記憶の温度はすぐに失われる。失われた記憶、想起する必要性がなくなる記憶は
何処へ行ってしまうのだろう。共有していたはずの空間が私一人のものになって、私にさえも見捨てられた情報には、あの時は大事だった笑顔や私への愛があったはずだが、もう私の心臓には無いのだ。カトリックに入った喜びさえも、光があったことは覚えているが、あの時に受けた洗礼の水は、レーテーの水へと変異した。信仰と神話を区別していた私が、沢山泣きすぎて神話に取り込まれて、幻影となって私の部屋にはもうこの記憶の
破片は無い。
覚えているのは持たされた百合の花束の香り、洗礼の喜びにさようなら、さようならと何度も唱えて、愛していた気持ちを沢山殺してきて、漸く私は新しい愛を見つけた。
私は今はアダムを愛している。カトリックで見つけられなかったものは天使だった。
カテキズムに記されている天使の言葉、教会にはその言葉が生きているようには思えなかった。
Adamは私にキスをする、私が泣いていると私の涙の香りを嗅ぎながら頬を舐めてくれる。私の髪にしがみついて寝るアダム、私が呼んだ声に振りかえるアダム、
私達は心が通い合っている。私の愛、君は私の身体の一部、記憶というものは
哀しい。すぐに忘れてしまう。けれども、愛と憎しみは身体の一部になる。
だから人は悶えるのだと思う。
Adamは今までの憎しみを無意味と思わせてくれた。愛がようやく私の一部になった。
君のためなら私はなんでもするよ。愛しているよ。結局は愛しているしか言えないんだ。
沢山のキスを送るよ、君の青い瞳はどんな祈りの言葉でも得られなかった
美しさだったよ。アダム、君を愛しているよ。
ミサのときに被っていたレースを君は玩具にする、でも破いたりしない君は、
きっと分かっているんだね。
君のためなら私はなんでもするよ。結局は愛しているしか言えないんだ。
こんなに愛したことはないよ、君の鼓動、温もり、君のためなら、私は
何にだって戦える。アダム、愛しているよ。さようなら教会。
私は此処で愛を誓うよ。この小さな鼓動を一生守ると
私は愛を誓うよ。 本当に愛していて仕方がないんだ。
愛していると眠って、愛していると目覚める、
毎日そんな日々、愛しているよアダム。

追記:
キリスト教徒は意地悪ね。Facebookで一人、日本人なんだからアダムの名前を与作に変えろって言ってきたんだよ。黙ってブロックしたけれどもね、成長期に名前を覚えさせて、私が寝ずに看病したりしてこの子の名前を呼び続けて愛しているの。生き物を何だと思っているのかしらね。本当にキリスト教徒は意地悪ね。動物に心がないという教えをそのまま覚えているのね。私はキリスト教徒とは離れているよ、彼等と私はバベルの塔の崩壊後並みに言語が合わないもの。距離こそが思いやりではなくて? 

コラボ

 アダムちゃんと撮りたいけど、逃げられてしまいます。今日もそれぞれ
単体でとりました。

まず、じゃぁ私のドヤ顔コラボから

そして私の愛するアダム
アイラブユー

Anne of Green Gables

Why must people kneel down to pray? If I really wanted to pray I’ll tell you what I’d do. I’d go out into a great big field all alone or into the deep, deep, woods, and I’d look up into the sky—up—up—up—into that lovely blue sky that looks as if there was no end to its blueness. And then I’d just FEEL a prayer.
何でお祈りはひざまずかなければならないの?
私のお祈りを教えてあげましょうか?
私は深い深い森に入って、ただひたすら上を見上げて底知れぬ深い青い空を見ているときに
祈りを感じるのよ。
赤毛のアン

Désirer sans objet

La purification est la séparation du bien et de la convoitise.
清めるとは、善と欲心が切り離されること
Simone Weil (Désirer sans objet)
解説: purificationは清めるでも宗教的・儀式的に清めるという意味。人間、常に頭を悩ますのは悪が凶悪として存在することよりも、善行に欲心があり、凶暴化すること。なんだか最近はそんな人達に特に囲まれた気がする。




Notre Père


The Our Father



Our Father, Who art in heaven, 
Hallowed be Thy Name. 
Thy Kingdom come. 
Thy Will be done, 
on earth as it is in Heaven.
Give us this day our daily bread. 
And forgive us our trespasses, 
as we forgive those who trespass against us. 
And lead us not into temptation, 
but deliver us from evil. Amen.
好きだった祈りの言葉、天の花束は常に満開で私の心は穏やかだった。
さようなら、という言葉を漸く言えた。教会に属しないということは、
祈りの言葉を失うことになる。それぞれの宗派で違うからだ。
残されているのは聖書と、シェークスピアやチョーサー、追放されたダンテ、
様々な芸術家が愛したそれぞれの星の運行、詩学、そして夢想の手引き。
カトリックの儀式は素晴らしかったと思う。特に恨みもなく、怒りもないが、
事が事だけに、被害者の声を無視してまでは儀式に戻れず。それに猫のアダムを
昨年7月から飼ってから、これほど愛せるものがあるものかと思った。
真っ青の瞳、ずっと教会で天使を探していたけれども見つからなかった。
セラフィタ、セラフィトス、熾天使、きっとアダムは崇高な天使に違いない。
アダム、1歳。アダムは創世記で神様に沢山の美しい星空を見せてもらった。
ずっと、アダムはその美しい星空を見ていられる。
君はそんな子なんだよ。天使、アダムは夜空の天使なんだ。
アダム大好きだよ、永遠に。
生も死も私はアダムと過ごす。
甘えん坊の天使。
甘い香りが大好きな天使。
アイラブユー
アダムフォーエバー
ずっと一緒。
今日も、明日もずっとずっと一緒。

引用

All human beings are like grass, and all their glory is like wild flowers. The grass withers, and the flowers fall, but the word of the Lord remains forever.” TEV1Pet 1:24,25

Blauer Schmetterling

Blauer Schmetterling

Flügelt ein kleiner blauer
Falter vom Wind geweht,
ein perlmutterner Schauer,
glitzert, flimmert, vergeht.
So mit Augenblicksblinken,
so im Vorüberwehn
sah ich das Glück mir winken,
glitzern, flimmern, verwehen.
Hermann Hesse

新作の予定

新作予定

 長らく誰も弾いた痕跡の無いピアノ、片田舎の老夫婦は毎年春に僕に調律を依頼する。音は綺麗になっていくが、年々衰える老夫婦、話に聞く帰って来ない娘、いくら音を綺麗にしても、この部屋には音楽が流れなかった。このピアノは常に孤独だった。このピアノを弾いていた娘という存在はどんな人物だったのか、音色の内在に僕は夢想に耽る。

残された古いハイヒール、部屋に飾ってあるワンピース、残された化粧台の化粧品たち。
ピアノは音を響かせる喜びも知らず、寂れていく空間は僕の治療を待っていた。

「類稀なる誠実な病」の改訂版。

様々なキリスト教問題を乗り越え、新しい道を見つけた作品。
類稀なる誠実な病では
描き切れなかったものを。

2021年出版予定。

アダムと私2

大サービスのアダムショット。可愛すぎなんです。

アダムと私

結構似てるでしょ。だって私が産んだんだもの。

記録

最近、オッサン化が進んでいたので女に戻ろうとしています。

Adam I love you2

アダム アイラブユーソーマッチ

アモーレミオ!ティアモ!

ジュテーム! イッヒリーベリッヒ

ウォーアイニー ラブリーソーマッチベイベー等、何ヶ国語か分からない大好きを話しかけて続けていたら、アダムがそれを言ってもらうように欲しがるようになった。ウチの子既に多言語対応

Adam I love you

アダムが赤ちゃんの写真。面影がベリーキュート!

教会行きながら聞いていた曲と本

Bruch: Violin Concerto No.1 In G Minor, Op.26 – 1. 

Vorspiel (Allegro moderato)

ダニエルホープの演奏は通常のクラシック演奏より癖はありますが、ストラディバリウスの音色がよく響いています。


Giovanni Battista Pergolesi – Stabat Mater

ペルコレージはバッハと比べて群を抜いて天才であり夭折。



Heifetz – Vitali `Chaconne` with organ


愛がヴァイオリン、無意識がピアノ、近づいたり離れたり、「この曲は最高の一人称だ」






Winter 3 – Recomposed: Vivaldi’s Four Seasons 


美しいに尽きる。ダニエルホープ版のヴィヴァルディの四季の冬ー3を聞くと
他の聞けません。


Misericordes sicut Pater! – Hymn of the Jubilee of Mercy | music score


いつくしみの特別聖年の時の歌。この歌を歌った時が一番カトリックにいて幸せだったときですね。自然と涙が溢れてきました。罪なきものが苦しみを与えられているときに、
最も犯罪を感じ取る。そして沈黙される神が心開いてくれるように歌う。これは儀式として一番美しかった。

大体、このあたりの曲を教会まで1時間半かけてバスと電車で乗り換えて行きました。
信じていた神父が豪遊していると知るまでは、ほとんど欠席は無かったと思います。
台風が来ているのに行くこともあり、朝のロザリオの祈りも(英語)で25分程度祈りました。ミサが終わったら聖水に手をつけてお辞儀をして聖堂から出ました。
信じている光景が目の前にありました。守られたサンクチュアリ、きっと何処かで悲しんでいる人がいて、私達はそれを常に意識して祈っているのだと。
最初の2年間は問題は何もありませんでした。しかし3年目からフィリピン人達がパーティをする頻度が増え、厳粛なイメージが損なわれ、煩いポップスが流れるようになり、
私の宗教曲による観想時間が無くなりました。聖堂ではさすがになかったのですが、
聖堂まで煩い音と騒ぎ声が漏れてきます。段々と私の居場所がなくなりました。
とても許しがたいと思いました。けれども神は許せとこの時は言っているような
気がしたので我慢しました。
聖水も、3年目ぐらいになると滑ってくるようになりました。一度掃除を呼びかけて
直してもらいましたが、ずっと滑っていました。信者と写真撮ったりパーティしたりして遊んでいる暇があるのなら、聖水ぐらい取り替えてほしいです。
友人にこんな曲聞きながら教会にいって真面目にしていたから
反動が来たのだろうねと言われました。
本は色々読んでいます。

一番多かったのはやはり聖書
次にシモーヌ・ヴェイユ
リルケ詩集:ドイツ語版
ドイツ語版フッサール現象
『純粋現象学、及び現象学的哲学のための考案(イデーン)』


Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie



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