La misa de las ánimas

迷える魂に捧げるミサ(La misa de las ánimas)

昔、小さな子供が三人いる貧しい夫婦がいました。父親は病気で働けず、哀れな妻が物乞いをしながら養っていました。ある日、施しを求めて回っていると、1ペセタを貰いました。しかし、それではご飯を買うことが出来なかったので、ミサが一番必要な魂に祈りを捧げようと、司祭のところへと行きました。「司祭様、この1ペセタを一番、ミサを必要としている人に捧げてください」と頼むと司祭はそれを聞き入れました。
その帰り道に、一人の若い紳士に出会いました。その紳士から奥さん、何処へ行かれるのですか?と尋ねられ、今までの経緯を妻は話しました。すると、その紳士が一枚のメモを渡し、「こちらの家に行きなさい、そしてそこの女主人に働かせてくださいと頼んでみてください」と言いました。
妻は別に不思議に思わずに書かれてあるメモの通りに進みました。ある一軒家にたどり着き、ベルを鳴らすと、女中が出てきました。「ここの奥様に用があるのですが」と言うと、奥様がやってきました。妻は「さっき、一人の紳士が働きたいのなら、この家に行くといいと勧められました」というと、奥様は「まぁ、それは一体どんな紳士なんでしょう」と不思議がると、妻は「あの方です。あの絵の人がここを紹介してくれました」と言いました。
すると、奥様は「あれは、四年前に死んだ息子ですよ?」と答えました。
妻は自分が貧しいこと、1ペセタをミサに捧げたこと、帰り道に紳士に会い、ここを紹介してもらったことと、今までの経緯を語りました。
すると、奥様は仕事を与え、沢山の食べ物も与え、明日また来るようにと言いました。
それから5日後、奥様の前に死んだ息子の亡霊が現れ、「お母さん、もう私のことで泣かないでください。もう私の冥福のためにお祈りを捧げなくても結構です。私はもう天国へ入り、神様の前にいるのですから」と。
あの1ペセタはこの息子のために祈られ、天国へと行くことが出来たのです。
******
スペイン民話の中で、最も私が好きな話です。スペインのカトリック文化の良い一面がよく出ている話です。ペセタとは昔のスペインの通貨です。1ペセタがどれほどのものか実際に触ってみたくなって、手に入れてみましたが、思ったよりも小さくて驚いてしまいました。日本の1円玉よりも小さいです。勝手なイメージで100円玉ぐらいの大きさで見ていましたので、この小ささを知れて感動しました。
私がこの話が金額だけではなく、たとえ小さな祈りでも重要なことだなと知れたお話。
5ペセタには可愛い十字架が記されています。

bible

 英訳版は、一応カトリック教会でお勧めになっていた
christian community bible
を使っている。私は英語ミサしか受けないけど、
英語ミサの英語は東京で翻訳されたもののようで
少し違う。
後はドイツ語版もカトリック推薦だったかな?
今度、新しい新共同訳聖書出るみたいですね。

The Lord’s Prayer

Our Father, who art in heaven,

hallowed be thy Name, 

thy kingdom come, 

thy will be done, 

on earth as it is in heaven. 


Give us this day our daily bread. 

And forgive us our trespasses, 

as we forgive those

who trespass against us. 


And lead us not into temptation, 

but deliver us from evil. 


For thine is the kingdom, 

and the power, and the glory, 

for ever and ever. Amen.

好きなお祈りの言葉2
Favorite words of prayer2

(my design)


olympus no.9908

気まぐれに私物公開。
Olympus no.9908
この顕微鏡は微生物研究用のもので国立大・新潟大学で色々な業績を残しているようです。学者・芋川稜威の使用品。アンティークとなります。オリンパス寄贈品になる予定のところを縁があって私のところに来ました。正確な製造年はわかりませんが、100年近く前のものかと。
顕微鏡の中は素晴らしいですよね。
これは基本はシャーレーで見るものだと思います。
反射鏡に映ってるのは
私の部屋の蝶の標本です。

画像元:tumblr 

Stabat mater

           
Stabat mater dolorosa               
iuxta Crucem lacrimosa,
dum pendebat Filius.

Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.

O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!

Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.

Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?

Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?

Pro peccatis suae gentis
vidit Iesum in tormentis,
et flagellis subditum.

Vidit suum dulcem Natum
moriendo desolatum,
dum emisit spiritum.

Eia, Mater, fons amoris
me sentire vim doloris
fac, ut tecum lugeam.

Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum
ut sibi complaceam.

Sancta Mater, istud agas,
crucifixi fige plagas
cordi meo valide.

Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
poenas mecum divide.

Fac me tecum pie flere,
crucifixo condolere,
donec ego vixero.

Iuxta Crucem tecum stare,
et me tibi sociare
in planctu desidero.

Virgo virginum praeclara,
mihi iam non sis amara,
fac me tecum plangere.

Fac, ut portem Christi mortem,
passionis fac consortem,
et plagas recolere.

Fac me plagis vulnerari,
fac me Cruce inebriari,
et cruore Filii.

Flammis ne urar succensus,
per te, Virgo, sim defensus
in die iudicii.

Christe, cum sit hinc exire,
da per Matrem me venire
ad palmam victoriae.

Quando corpus morietur,
fac, ut animae donetur
paradisi gloria. Amen.

バッハも天才だと思いますが、ペルコレージのスターバト・マテルは
鬼才かな。(宗教曲の範囲では)スコアを見ても単純な構造なのに、
重厚感がある。特に数式のようなものは感じないが、長年繰り返されて
きたミサの儀式の流れを感じる。
音そのものは安定していて、人間らしさが削ぎ落とされていているが、聖母マリアの悲しみは伝わってくるところが秀逸。

悲しみの母は立っていた
十字架の傍らに、涙にくれ
御子が架けられているその間

呻き、悲しみ
歎くその魂を
剣が貫いた

ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか
あれほどまでに祝福された
神のひとり子の母が

そして歎き、悲しんでいた
慈悲深い御母は、その子が
罰[苦しみ]を受けるのを目にしながら

涙をこぼさないものがあるだろうか
キリストの母が、これほどまでの
責め苦の中にあるのを見て

悲しみを抱かないものがあるだろうか
キリストの母が御子とともに
歎いているのを見つめて

その民の罪のために
イエスが拷問を受け
鞭打たれるのを(御母は)見た

愛しい御子が
打ち捨てられて孤独に死に
魂へ帰っていくのを見た

さあ、御母よ、愛の泉よ
私にもあなたの強い悲しみを感じさせ
あなたと共に悲しませてください

私の心を燃やしてください
神なるキリストへの愛で、
その御心にかなうように

聖なる母よ、どうかお願いします
十字架に架けられた(御子の)傷を
私の心に深く刻みつけてください

あなたの子が傷つけられ
ありがたくも私のために苦しんでくださった
その罰[苦しみ]を私に分けてください

あなたと共にまことに涙を流し
十字架の苦しみを感じさせてください、
私の生のある限り

十字架の傍らにあなたと共に立ち
そして打ちのめされる苦しみを
あなたとともにすることを私は願います

いと清き乙女のなかの乙女よ
どうか私を退けずに
あなたとともに歎かせてください

どうかキリストの死を私に負わせ、
どうかその受難を共にさせ、
そしてその傷に思いを馳せさせてください

どうかその傷を私に負わせてください
どうか私に十字架を深く味わわせてください
そして御子の血を

怒りの火に燃やされることなきよう
あなたによって、乙女よ、守られますように
裁きの日には

キリストよ、私がこの世を去る時には
御母によって私を勝利の栄誉へ
至らしめてください

肉体が滅びる時には
どうか魂に、栄光の天国を
与えてください。アーメン

The secret garden

「天の国とはからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」マタイの福音書13章31-32節



   主人公、メアリーレノックスは孤独な少女だった。父親は仕事人間、母親は子ども嫌いでパーティに明け暮れる毎日。召使いはメアリーの言いなりで、彼女は我儘に育った。
彼女の両親や召使いたちはコレラにより死んでしまった。(映画では地震)それによってメアリーは遠い親戚にあたる、イギリスの屋敷に住むことになる。主人はあまり帰らないと聞かされ、メアリーはここでもあまり相手にされない。
けれども違ったのは、年が近く優しいメイドのマーサーやマーサーの弟のディコンと仲良くなれたこと、そして最もメアリーの話し相手になったのは「コマドリ」だった。コマドリとの対話によって、メアリーは次第に年相応の笑顔を取り戻していく。
そんなコマドリに導かれて偶然にもメアリーは
主人が閉じてしまった花園の鍵を見つける。

この鍵こそ、ここの主人が妻との思い出の庭を土に埋め、封印した鍵だった。
ディコンとメアリーは、秘密の巣作りと称して荒れた花園を復活させようとする。そして、この屋敷の主人の息子であり、病弱で車椅子が無いと生活が出来ないコリンも仲間に加わる。主人は失った妻を思い出させるコリンを可愛がったことがない。
そんな、からし種のような弱き、小さな存在達が、荒れた庭に花々を咲かせ、コリンは歩けるようになった。長らく我が子に心を開けなかった父親は、この庭で歩けるようになった息子を受け入れる。

大切なものを失い、自分の一部を無くし、
笑顔を忘れていた三人が庭で復活を遂げる。
聖書でも人々は天国というものをもっと立派で壮大なものだと思っていたが、
イエスは「からし種」のような小さなもので大きく育つと言った。

私は メアリー・レノックス達が行ったことは、
天の国の「生長」ではないだろうかと感動した。
そしてやはり、天の国では子供が一番偉いのだろう。
(マタイによる福音書18章1~5節) 

*******
子どもの頃は、クラスメイトの誰もがこの話を平凡だと思った。「小公子」で有名となったバーネットだが、たかだか庭いじりをして奇跡が起きたというのは、当時も流行らなく、エンターテイメントにあふれた日本では平凡な作品だった。そう感じたのは私もその一人だ。けれども何処か惹かれるものがあり、時々思い出しては読み返してみるものになった。その影響で古い鍵が売ってるのであれば買ってしまう。鍵がすきな女性がいるのなら、何らかしらその女性は児童文学の影響が強いだろう。この話については、聖書を意識したのかは分からないが、土いじりに意味があるように思えるし、子どもながらに、真似をしてみたくなった。きっとそこに、自分でも計り知れない神の御言葉が育っていたからかもしれない。気付かない間に触っていて、物語からイエスを見つけた。

物語は、神について沢山の例え話を生みだす力がある。だから私は物語が好きですね。
*マタイの福音書13章の前半部分は前回の私の作品でも軸です。「からし種」のたとえは、引用箇所の次の部分ですね。

*映像はイメージで、1993年度に公開された「秘密の花園」1993年、アニエスカ・ ホランド監督で「秘密の花園」を映画化された。制作総指揮はフランシス・フォード・ コッポラ。メアリー役はケイト・メイバリー。
この感想は主に原作から。The Secret Garden is a children’s novel by Frances Hodgson Burnett first published as a book in 1911. from wikipadia 

*画像の著作権はワーナーホームビデオに帰属します。

Litany of Loreto



(Litany of Loreto)


Lord, have mercy on us. 
Christ, have mercy on us. 
Lord, have mercy on us. 
Christ, hear us. 
Christ, graciously hear us. 
God the Father of Heaven, 
Have mercy on us. 



God the Son, Redeemer of the world, 
Have mercy on us. 
God the Holy Ghost, 
Have mercy on us. 
Holy Trinity, one God, 
Have mercy on us. 






Holy Mary, 
pray for us. 


Holy Mother of God, 
pray for us. 


Holy Virgin of virgins, 
pray for us. 


Mother of Christ, 
pray for us. 


Mother of divine grace, 
pray for us. 


Mother most pure, 
pray for us. 


Mother most chaste, 
pray for us. 


Mother inviolate, 
pray for us. 


Mother undefiled, 
pray for us. 


Mother most amiable, 
pray for us. 


Mother most admirable, 
pray for us. 


Mother of good counsel, 
pray for us. 


Mother of our Creator, 
pray for us. 


Mother of our Savior, 
pray for us. 


Virgin most prudent, 
pray for us. 


Virgin most venerable, 
pray for us. 


Virgin most renowned, 
pray for us. 


Virgin most powerful, 
pray for us. 


Virgin most merciful, 
pray for us. 


Virgin most faithful, 
pray for us. 


Mirror of justice, 
pray for us. 


Seat of wisdom, 
pray for us.

 
Cause of our joy, 
pray for us. 


Spiritual vessel, 
pray for us. 


Vessel of honor, 
pray for us. 


Singular vessel of devotion, 
pray for us. 


Mystical rose, 
pray for us.

 
Tower of David, 
pray for us. 


Tower of ivory, 
pray for us. 




House of gold, 
pray for us. 


Ark of the Covenant, 
pray for us. 


Gate of Heaven, 
pray for us. 


Morning star, 
pray for us. 


Health of the sick, 
pray for us. 


Refuge of sinners, 
pray for us. 


Comforter of the afflicted, 
pray for us. 


Help of Christians, 
pray for us. 


Queen of angels, 
pray for us. 


Queen of patriarchs, 
pray for us. 


Queen of prophets, 
pray for us. 


Queen of apostles, 
pray for us. 


Queen of martyrs, 
pray for us. 


Queen of confessors, 
pray for us. 


Queen of virgins, 
pray for us. 


Queen of all saints, 
pray for us. 


Queen conceived without Original Sin, 
pray for us. 


Queen assumed into Heaven, 
pray for us. 


Queen of the most holy Rosary, 
pray for us. 


Queen of peace, 
pray for us. 

Lamb of God, who takes away the sins of the world, 
Spare us, O Lord. 
Lamb of God, who takes away the sins of the world, 
Graciously hear us, O Lord. 
Lamb of God, who takes away the sins of the world, 
Have mercy on us. 

Pray for us, O Holy Mother of God, 
That we may be made worthy of the promises of Christ. 
Grant, we beseech Thee, O Lord God, that we Thy Servants may enjoy perpetual health of mind and body and by the glorious intercession of the Blessed Mary, ever Virgin, be delivered from present sorrow and enjoy eternal happiness. Through Christ Our Lord. Amen. 





好きなお祈りの言葉と私のミサっ子ブライス。背景は
ボタニカルアートのPierre Bulliard

Confession

私が孤独を書く事で誰かが孤独が癒えるのであれば、
私は惜しみなく孤独を書きましょう。
私が期待を書くことによって、誰かが夢を見られるのであれば、
私は消えたくなっても光を見つけましょう。
私が愛を書くことによって、誰かが愛について深く感じてくれるのであれば、
私は幾らでも告白をしましょう。
常にあなたに隠すことなく
何度も何度も 虚構に混ぜて
あなたに告白しましょう。
*********
円卓を囲って笑っているような信者は私のところに来ないが、外れてしまった信者はよく来る。そして私を知ると、また考え直したいと言われる。私の居場所は其処のようで。教会で笑わないことも、一人でいることも、このように意味があるのだなと思った。
酒井司教、女子パウロ会、瀬戸内寂聴からも楽しんで読んでもらえた
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SundayMass

English Mass
今日は5件更新しました(Facebook更新分)

2018/02/19

生まれた。

#仮剥製

https://www.piika39.com/

L’intuition De L’instant.






私の想像力は上書きされては捨て去って行く。それを忘却と人は言うのかもしれないが、私は瞬間と呼ぶ。残された過去情景はまるで永遠を夢見ているようだ。撮影は10年前、私が現象学を選ぶ写真となった。レンズとフィルム設定だけで偶然撮れたこの写真は、こうなると予見をせずに、香りが奮い立つように、花々が私の目の前に現れた。私が接近しないと、世界というものは私の意識内に形成されることがないのに、出来上がりは私の意識を超越していた。
まるでカメラが感覚質を持ったように、心を持ったようになったのだ。
此処には私自身の記録が無い。私がどんな格好をしていたのか、何を考えていたのか、どんな表情をしていたのか。覚えているのは杖をついていたことだけだ。杖が煩わしく、視線が今よりも低い。私が居ないことによって、私らしさとなった。人は瞬間に嘘をつくから、無理して笑うから、本当に記録を残したかったら、自身を消してしまうべきだ。
虚飾の無い純粋さが其処に生まれる。
L’intuition De L’instant.
I didn’t edit the photo these.




2018/02/17

It was love at first sight. At last sight. At ever and ever sight.


一目見 たときから愛していた、最後に見たときも、そしていつ見るときも、永遠に

ナボコフ「ロリータ」
香水のような描写。


恋の絶頂を表現した香水、香りで恋をどう表現したのだろうと作家として気になり、イブサンローランのモン・パリを試してみた。甘くて シャネルと違って女性を美しくするというより、空間を演出する、ムードを演出する香りだった。夜につけるのがお勧めかもしれない。イブサンローランのスモーキングジャケットがイメージのボトル。

香水は頂き物

Gabrielle Chanel

      調香師: オリヴィエ・ポルジュ

      昨年発売された「ガブリエルシャネル」は確かに最高傑作だった。シャネルno5と同じようにジャスミン、イランイランが入っているが今回はオレンジフラワー、チュベローズという花が追加されている。

      チュベローズは朝にしか積むことが出来ない花で、冬を越すことが難しい。ガブリエルシャネルという香水は、まさしく彼女が幼い頃は貧しかったこととを表すかのように、冬を越して来た花の強さである。ガブリエルとは彼女の幼い頃の名前で、彼女は自分らしく生きるためにココ・シャネルを名乗る。


      だからといっても、ガブリエルという名前を捨てたとは言い難い。人々はガブリエルとはシャネル自信が自分だけが呼ぶことを許した名前だったのではないかと囁く。

      ガブリエルシャネルという香水は
      人間を強くする秘密、内面世界のようだ。

      私がシャネルの香水で好きなところは、他の香水や人工の香りでは無いものがあるからだ。それは何かというと、香水の定番方程式である香りのピラミッドというものが存在しない。音楽のように音と音が響き合って、時間と共に香りが形成されていき、女性の肌と混ざることによって、その女性と合わせた主題が浮かび上がってくる。これこそシャネルの伝統の芯のある香りなのだと私は思う。

      形もなく、存在していない香りを作る調香師。
      間違いなく生き残りの調香師は天才と言える。

      現代というこの世の中を、芯のある芳醇な香りとして捉えるのだから。

      (大きいボトルは 頂き物)

L’Étranger(異邦人) 

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Et c’était comme quatre coups brefs que je frappais sur la porte du malheur.

(そしてそれは、僕が手荒く四回、不幸の扉を叩いた音でもあった)

Camus, Albert. ” L’Étranger ” (French Edition)  異邦人より。

—————————————————————————————————–

内容は今回はPDFです。

異邦人の批評。
宗教(キリスト教・カトリック)
哲学(サルトル)
文学と三方向から書いたので、
PDFになりました。暇なときにでもどうぞ。

PDF

https://drive.google.com/file/d/174d_Vxm6IBzaQMoUcsI37_WXIUea5zjI/view?usp=sharing

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 The Childhood of a Leader ②


 「何が少年を独裁者として変貌させたのか」


というのがこの映画のキャッチコピーでしたが、この答えを探しに行った人は残念ですが、結論として答えは無いのです。サルトル流で言えば、「虚無」ということになります。

「何が少年を独裁者として変貌させたのか」とは、意識に目を向けさせていますが、
サルトルは意識というより、「存在」に目を向けた哲学者です。
サルトルで有名なのが、「即自」と「対自」です。これは元々はヘーゲル哲学のものでした。
即自とは、意識の自体的な在り方であり、対自とは、即時的な意識が対象化されたものであります。このキャッチコピーはヘーゲルの対自を意識しながら、少年という即自を探させるように見えます。


しかし、実際はこの映画はサルトル哲学の配下です。サルトルの即自と対自は「存在」に目を向けています。サルトルの場合は、即自とは物のような在り方であり、対自とは、自己否定をし自己を改革することであり、人間のことを指します。
少し深く掘り下げるとすれば、即自というのは、客観的な意味や価値の付加によってしか存在が浮かび上がってこない存在、対自というのは、価値の付与が根本的に無関係な在り方をさします。
ここで、私達現代人は心理学を多少なりとも知っていますので、疑問に思うわけです。即自も人間じゃないか、客観的な意味や価値の付加で人間は浮かび上がってくるし、対自についても、価値の付与なんて根本的な無意味なわけがない、人間は評価されたり、過去の分析をして人格を見られるじゃないかとか、色々あると思いますが、「独裁者」「死刑囚」の場合はそうとは言い切れないのです。いくら、過去にトラウマがあって誕生したとしても、その過去に同情することが出来ない。存在として悪しき者として括弧に入れられます。独裁者には特に「対自」というものが合っています。
それこそカミュの「異邦人」の死刑囚ムルソーのように。
問題に対して予め、用意された原因があるわけでもないというのが「虚無」です。
もしかしたら、サルトル以外で考えればこの少年の因果関係は見つかるのかもしれない。
けれども、ここはサルトル世界なのです。サルトルは感情について心理学に頼ろうとは
しなかった。
あるのは、独裁者になるまでの「現象」。

*****

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朗報②

日本看護協会出版会の「教養と看護」という特設サイトにて「魂の世話」というテーマで連載をしています瀧本 往人様よりIcon o graphの評価を頂きました。瀧本様は哲学の講師ですので、こちらは哲学的な評価です。お忙しい中、ありがとうございました。とても感動する書評でした。

評価はこちら→

https://drive.google.com/file/d/1WzZ1Uuo1R5CAIi1hF8WX1xiCu-Pe7prI/view?usp=sharing

Icon o graph 案内はこちら→

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2016/07/icon-o-gprah.html

Offret-Sacrificatio

「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」
 タルコフスキー・「サクリファイス」
*******
 物語の始まりは、アレクサンデルが細い木を植えるところから始まる。このときの彼の幼い息子への語りはこうだ。「正教会の修道院の僧が枯れかかった木を山裾に植えた。ちょうどこんな木だ。そして同じ修道院の若いヨアンに、この木が生き返るまで水を与えなさいと言った。ヨアンは毎日、山を登り水をやった。そして三年後に見事にこの木に花を咲かせた。一つの目的を持った行為はいつかは効果を生む。儀式のように順序よくやれば、
いつかは世界は変わる」と。
アレクサンデルの息子は口が利けない。
 アレクサンデルは死についてもこう語った。「死なんて存在しない。あるのは死に対しての恐怖だけだ」その後に友人で医師であるヴィクトルの家を訪ねる。そこで色々と語っている間に核戦争の非常事態の知らせがくる。死を自覚したヴィクトル家はパニックに陥る。まるでアレクサンデルが独白した通りのことが次々と起こってくる。その後に一番パニックになった夫人が落ち着いた後に言った「人は何故、常に為すべきことばかりなの?」が今の私には胸に響いた。こんな死の淵に立たされても生きている限り、人間は常に為すべきことを意識しなければならない。
この台詞が生きてくるまでの映像表現が素晴らしかった。

物語の進行と共に、口を利けない息子が突然いなくなり、呼んでも返事が出来ないという恐怖の複線が秀逸。タルコフスキーの作品を見るときは見失わないために、名前と人格をよく覚えておくことだ。そして、この世界は夢現の境目がないように時制もあってないようなものである。前半の出来事が複線を引いてくることがあるので意識しておくと、見やすいだろう。
 昔のブルーレイ化されてくる中で、名作と呼ばれたハリウッド映画のセット感が目立つようになった。そんな中でタルコフスキーは最新の技術を使ってリマスターしても常に鮮やかに美しい。それは彼が根気強く自然の力を利用したところにもあるだろう。DVDも買ったのに、ブルーレイでも買いなおしたいという監督は少ない。

******

「お知らせ」

カミュの「異邦人」についてなのですが、9割は出来ましたけど出来かかったところで、サルトルも入れたほうがいいと言われ、また時間がかかることになりました。

ウェブのアクセス数が多い順、5番目ぐらいまでが書籍化されますので、気に入った作品があったら見ておいてくださいね。今のところダントツで、太宰治と三島由起夫となります。三島に関しては書籍用に掘り下げますが。







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お勧めの本

お勧めの本
①「フランス・オペラの美学」
オペラは昔は低俗なものだった。リュリとキノーが自分達の音楽劇を「悲劇」と呼んだところから、劇詩と比較され、貧弱さが指摘される。オペラの眠たくなるようなところも改善しそうな一冊。とても面白いので是非。
②「イマージュの肉」
見えるものと見えないもの、中心的主題である「肉」の概念を再考し、世界の現実を知覚と想像の両面で捉える(帯より)存在哲学の基礎にかえりながら、光への愛について、宗教的価値観、各々の精神世界にも問いかけてくる名著。
③「新約聖書」ギデオン協会版。
これはホテル等で無料で置かれていて、自由に持って帰ってもよい。自殺防止用とも言われるこの聖書は、確かに短く区切られていて、傷心のときにホテルの部屋で一人で読んでいると、すんなりと頭に入ってきたので凄いと思った。それで、この一冊はお勧めしたい。非常に読みやすい。
④「シャネルNo5の謎」
以前も紹介した本。(facebookのみ)私は最近、調香師に凝っていて特集を見つければ必ず読むようにしている。存在していない香りを作り出し、トップノート、ミドルノート、ラストノートとストーリーを作るかのように、移り変わる香りを生み出す彼等は天才であり、小説に映画にと駄作が増えるのに対して、香水の新作作品は、俗の世界のようで孤高の美の創作を見せつける。香りにまつわるキリスト教や、文学まで触れ、香水は贅沢品だとは言い切れないと思わせる一冊。
***ただ本を並べるのも芸がないので、イメージに合うのを載せてみました。オペラのところは、ヴェルディの「リゴレット」(原作:ビクトル・ユゴー)の道化の帽子をイメージしました。可愛いでしょう? 

Post card 

海外へ。

ドイツ人とスペイン人とフィリピン人へ。

黎明(2016/05/09)


イエスはトマスに言われた。「あなたの指をわたしの手に当てて、あなたの手をわたしのわき腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい」トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」 (ヨハネの福音書 20:27-29)

 私がキリスト教を意識したタイミングを話すと長くなるのですが、恐らく今までで大きな意識なら四回ありました。細かいことをいれると七回ぐらいなのかな? 意識しては忘れての繰り返しでした。今回は二回目の十代の頃の話です。 昔は絵を描いていて、デッサンとかは訓練みたいなものなのですが、自由創作となるとテーマを自分で考えたりします。まだ十代と言っても高校生になる頃になると大人と同じ賞に応募したりしました。

そして頭打ちしたのはテーマと描写力がついていけないということでした。想像力が自分の力量に合わせるしかなくなるのでイメージに妥協が生まれます。それなのに、人間の脳というのはおかしなもので、その妥協が妥協に感じなくなっていきます。絵 に関しては完成と感じたことが無かったのではないのでしょうか。賞を取れたら嬉しいのですけど、思い入れがある作品が無くて毎回戻ってきたものは捨てていました。そういうものがあると、そういう自分に愛着を持ってしまって成長出来ない気がしていました。

よく他の人に「何を考えて描いてるの?」と言われていたのですが、 実際には今と比べるとこの頃は確かなことなんて考えていませんでした。誰かに説明出来ないことや自分でも分からないものを抱いていたもので、対話相手がキャンバスです。「言葉にならないことを書く」ということ、それを才能と捉えるか未熟と捉えるのか、私は後者でした。
そんな私が何か勉強がてらに模写をしようと選んだのが古典作品達で、デッサンの練習のために選びました。画材は木炭と鉛筆で、カラーではなくてモノクロでやりました。モノクロにすると色で目移りしていた情報や錯覚が整理されるので私は好んで練習していました。模写をした中で印象に残ったのはカラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」です。よく知らないまま形だけを捉えて描いていたのですが、描いてて楽しかったのはトマス のこの疑っている目でした。

目を見開いて出来た額の皴、描写をすればするほど、私レベルの画力でも彼の目や手に魂が宿っていくことを実感しました。その絵を見ていた人が「贋作師にでもなったら?」と言われるほどでした。それでも全く描けなかったのがイエスです。イエスの俯きの表情がなんとも言えず、上手くいかなかったのを覚えています。この人は痛がってるのか、何を考えてるのか、見た目の表情だけでは何故か捉えられませんでした。それにトマスの腕を握っている手は誰の手なのか分からなかったので、これがどういうシーンなのか少しだけ聖書を読みました。処刑されて復活したイエスに対して、トマスが疑って処刑したときに出来た釘跡、若しくは脇腹(聖痕 に指を入れないと信じないと言うところですが、結局のところ、トマスの手 を握ってる手については謎のままです。 文脈からその手がイエスのなら指を入れてみなさいと力を入れているのだろうし、脚色で弟子の手なら「それぐらいにしておけよ」という感じで手を押さえているようにも見えます。聖書を読まなかったときはトマスが無理矢理入れてるところをイエスが止めてるように見えていました。カラヴァッジョはもしかしたら敢えて分からないようにしたのかもしれません。
絵画を過ぎ去っていく時間と共に見てるだけなら理解したつもりの表情でも、描いてみるとイエスが何を思ったのか分析が必要になってきますし、トマスと弟子達は前屈みになっているので重心の かけかたが分かるのですが、イエスに関してはどんな気分で立ってるのか想像出来ませんでした。トマスと二人の弟子達が小さな洞窟を作るかのような構図、それはとても人間臭いというか分かりやすい感情で描きやすかったですが、イエスに関しては、顔が他の三人の影となってしまって影の中で濃淡が曖昧で難しく、右肩にラフな光の靄を描いたまま描くことが出来ませんでした。イエスの表情が隠れているというより、三人の影によって知る由もないということでしょう。
一体この画家は何を見て描いてきたんだろうなと、カラバッジョは短剣を持ち歩いて気に食わない人がいたら刺していたとか書いてありました。そういった彼の気性の激しさと「信仰」にそのときに少しだけ注目しました。彼等に照らす衣服は私にとってはただの光で、色を似せることしか頭にありませんでした。けれども、本当は違うのです。この光はもしかしたら彼の他の絵にもあ るようにエピファニーなのかもしれません。彼はエピファニー(Epiphany・キリスト顕現、事柄・人物の本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写するこ と)、二つの意味を上手く利用していたと思います。  

他に調べてみると風景画を描いている日本画家も出家した人とかも多いわけで、出家したのに遊郭通いの人もいましたが一応はそういう心を知った上で描くことに関心を覚えていく わけです。『伊藤若冲』は出家はしていませんが、若冲の号は居士号で、僧侶と同じ扱いを受けています。 (居士とは出家はしないけれども家庭の中で仏教の修行をすることです)

仏教の学校(高校)に通っていたので当時知っていたことは、キリスト教の場合は私達の世界は神の被造物という結論があるのに対して、仏教の場合は 本質は「空」で本当のところは分からないということ。 キリスト教をモチーフにした絵画は必ず「神は存在する」ということが含まれていました。それが自分に とってはどんな感覚なのか分からなかったし、とにかく閃きやアイディアを欲していた自分にとっては持っていなかったものでしたので憧れを持ちました。
多様な解釈が許された現代の中でも揺るがないものが「在る」ということ、それに惹かれるわけです。
それでも、アイディアに腕がついていかなかったように、予感に思索というものがまだこの頃はついていけず、トマスが未完のイエスの腹部に指を入れて、小さな闇を見つめたままで終わりました。
  今なら分かることは、恐らくこれはイエスの手だということです。より鮮明な画像を見てみると分かったのはトマスの手に対してこの手は綺麗です。 カラヴァッジョは聖人を人間臭く描くことを選んだ人で、聖人を労働者のように描きました。当時の教会からは聖人は綺麗な服を着せるべきだと批判も受けていま した。けれどもカラヴァッジョの場合、聖人は人間臭く描いたとしてもイエスや天使に関しては感情の掴みどころが難しい表情を描いたと思います。(聖マタイと天使)若しくは、イエスや天使の感情を勝手に考えられないという私自身が想像を拒否をしているのか分かりませんが、写実的だからこそ精密度が必要になり、余計に彼の解釈やイメージが謎 になりました。イエスのことを考えてるのか、カラヴァッジョのことを考えてるのかよく分からなくもなってきました。これはあくまでも模写をした感想ですし、もっと画力が上がれば掴めるものだったのかどうなのか分かりませんでしたが、私はこのとききっとこの 先も分からないだろうと思いました。
カラヴァッジョは非常に良い一瞬を自身のイメージと共に切り取り取ったと思います。トマスが指を入れて見つめてる先をイエスの表情や照らす光ではなく、この穴の中をトマスの指の隙間から私達は見ることが出来ません。ですので、 「私を見たから信じたのか、見ないのに信じるものは幸せである」 というイエスの言葉が深くなるのではないのでしょうか。トマスのこの疑いの目は美しいとは言えないこと、肉を開くその指をその緩めなかったことは、この言葉のためにあるように思えます。 


それはイエスが描けなかった私にも言えることだったのではないのでしょうか。
*「聖トマスの懐疑」はカラヴァッジョが殺人を犯して逃亡生活をする前の絵画です。逃亡生活中、死ぬ直前で描いた作品が今、(2016年)日本に来ているそうです。http://caravaggio.jp/
*カラヴァッジョって、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョで名前はミケランジェロなんですね。ピエタのミケランジェロと区別するためにカラヴァッジョってなったのかな? それともやっぱり罪人だから天使の名前では呼ばれなかったのかなミケランジェロの名前の由来はミカエルのことですので。
これは2016年の記事です。

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