質問箱2020年6月18日

只今リアルで会ったことある人限定で質問箱URLを試験的に送っています。
今回は届いた質問の答えを書いていきます。

「デリダとかフランス哲学において贈与は重要論点かどうか、イサクを捧げる箇所を引用したりしていますが。資本主義の贈与とは」

 はい、贈与はフランス思想の中でも歴史が長いものです。キリスト教カトリックの
恩寵からデリダまで贈与については色々と言われています。

 デリダの贈与と、イサクの贈与が並べられる理由は、敬虔な信者であるアブラハムが息子イサクを神の命令によって、捧げようと(殺害)しようとしたが、結局最終的には神がアブラハムを信用し、イサクの命を持っていかなかったという点でしょう。古典ギリシャ経済のエコノミー、出て行ったものが必ず帰ってくるという円環を否定するための比較だとは思います。ただし、アブラハムに関しては聖書的解釈に左右されます。キリスト者は息子の魂が地上に残されたと捉えますが、哲学者は魂より肉体の存命を重視します。そういった認識のズレはあるかと思います。あともう一つズレが生じるのはキリスト教では啓示によって開示が行われるものですが(アブラハムに天使が降りて啓示を受けてイサクが助かる、よって開示を受ける)哲学概念では逆で(元々開示があり、イサクは助かる運命であったが、試された「啓示」)という真逆の見方がありますし、まだ論争は続いているようです。
 資本主義と贈与に関してですが、日本とフランスの資本主義は違います。国の保証から離れて民間でやることがうまくいくのか、民間がしっかりと稼いで国のお世話になることが良いのか、どちらも資本主義と言えることであり、国や国民性にも左右される難しい問題だと思います。今回のコロナウィルスの保証のように手当を受けられれば資本主義によって贈与を受け取れたともいえるし、破産してしまい、保証も受けられない状態であるとすれば資本主義の失策ともいえるでしょう。フランスの場合は資本主義によって国と連携し社会保障を充実させ、災害時や国難のときに国民に保証出来る「贈与」を目指したいということではないのでしょうか。日本の場合は意見が分かれていると思います。可処分所得が随分と小泉政権下から減り続けているので、とりあえず現金が欲しいというのが国民の願いであり、国にお世話になるぐらいなら、自分で稼いだ分は自分で責任を持って管理したいという人が多い気がします。だからこそ減税を望む声が多いのかと。


引用

All human beings are like grass, and all their glory is like wild flowers. The grass withers, and the flowers fall, but the word of the Lord remains forever.” TEV1Pet 1:24,25

天の国のたとえ

天の国のたとえ
天の国は次のように例えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
マタイによる福音書13章44節
土の中は外部と断絶する。宝物、すなわちこの場合は神にとっての宝物、「私達」のことである。この天の国の例えは全貌を語ろうとはしない。ベルクソンの純粋記憶もこの土の中に埋め込まれていると言えるだろう。これは反復した記憶ではなくこれは自発的な記憶―純粋記憶である。当時は銀行等が無かったので大切なものは土の中し隠していた。これは俗のものであり、反復記憶といえるだろう。神が愛している「私達」という存在は純粋記憶である。しかし、哲学で天の国を語ると、哲学自体が概念のために砂を救ってこぼしていくようだ。イエスの語ることは概念を超えているからこそ価値がある部分がある。人間には到底辿り着かないような気がする。キラリと光るもの、それを買うときは値段なんてものは関係のないのだろう。

私の可愛い子猫ちゃんラグドールのアダムくん。
昨日ようやくお砂の上で💩とおしっこを覚えました!
数日前まで、この子が来る前まで訴訟の準備をしていました。
訴訟で勝てないぐらいなら相手を殺してやりたいとまで
心が歪んでいました。でも、この子が来てから心の歪みが取れ、
相手のことなんて記憶の片隅まで消去に近い状態になりました。
私のことを母猫と思っているらしく、一緒のベッドで寝ますし、
鼻をくっつけてきます♡とってもかわいいです。
かわいくて悶絶状態。あれ?教会ってなんだっけ?
っていうぐらい、この子の存在に愛を感じています。
この子を守るためなら何でもします。

サマリアの女

  何処の教会に戻るかは分からないが、今日になって漸く一つ基準を作った。今の私はサマリアの女である。私の水を欲しいと言った司祭か牧師がいるのなら、ついていこう。

イエスはサマリアの女に水を飲ませて欲しいと言った。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねた。 当時はユダヤ人とサマリア人は関わってはならなかった。差別があったからだ。
「イエスは女には過去に五人の夫がいた事、今は結婚していないが六人目の男がいる事を言い当てた」
それでもイエスは女に話しかけた。それぐらいの力量がある司祭か牧師がいるのなら行くかもしれないが、今のところ見当たらない。

もう怒ることも、哀しいこともなくなった。あとはイエスを待つのみ。
一度失った信仰を

死者の書(折口信夫)について①

   幸せな人が
口にする言葉は
かりそめのひとふし
寡黙のひとの
感じとっているのは
こよなく美しい旋律。

エミリー・ディキンソン

こよなく美しい旋律を紡ぐというのは
狭き門のような気がしてならない。
マタイによる福音書の「狭い門からはいれ。滅びに
いたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って
行くものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出す者が少ない」
(マタイ7章13~14)

とあるように。

去年の大晦日は
ジゼルというバレエをロイヤルバレエと
ミラノ・スカラ座を立て続けに見ていた。

ジゼルとは、貴族の男は
婚約者がいながらも村娘のジゼルと恋仲になってしまうが、
結局は、婚約者である女性に手にキスをしてしまう。

意図せずとも、ジゼルを裏切るような形になって、
ジゼルは狂乱して心臓発作で死んでしまうという。

そんな話を立て続けに
2019年までのカウントダウン直前まで見ていた。
しかしジゼルは裏切った彼を許してウィリーの女王に
殺さないでくれと懇願する。

昨年に司祭に裏切られたせいか、妙に共感して涙まで出た。

許す気持ちと、彼を書きたいという気持ちは別ものだ。
それは、死者の書の郎女(いらつめ)のように憧れの気持ちでキリスト教
(仏教)に入った執心から、
現実を知り悟りを開いていくまでの道のりは、私にとっては
重要な生きた証である。そして彼女は蓮の茎で作られた
糸で曼荼羅を作って命を絞るところは、

狭き門を通りたいという、クリスチャンの性であるようだと
最近は思う。善悪の計り知れない深淵から、
美しい旋律を見つけたいのだ。

休んでるように自撮り三昧だった間、

折口信夫の死者の書と
マルクス・ガブリエルの
なぜ世界は存在しないのか、
を勉強していた。

他に勉強したのは

使徒言行録、オーソドックスとカトリック
ミサという意味、そしてトラウマに立ち向かうべく
司祭という仕事とは何なのかという本を読んだ。

司祭に裏切られて、オーバードースを起こして
自殺未遂をした10月。

私の作品に対する経験は充分だろうか、それともまだ体験が必要だろうか、
それは分からないが、今のように学問に勤しむということは、
死者の書で郎女が仏教の『称賛浄土摂仏教受教』を
一心不乱に写経した気持ちに重なる。ついでに、
私の作家の在り方も彼女に共感するものがある。

執心から悟り、その執心の中には異端と含まれるものが
あるかもしれない。けれども恐れることは私はしない。
私の心の中の天国が定かになりつつあるからだ。

私は恐らく、執心から悟りへと変化しつつあるような気がして
ならない。

憧れから入ったキリスト教、正直、嫌な事のほうが多かった。
病気だって正直言って悪化した。十字架が重くなっていく
という表現が正しいだろうか? とりあえず私は不幸を背負って
寡黙を手に入れ死の淵から心の中の天国というのを見出しつつ
ある。

洗礼を受けた直後の幸福だった記憶は薄れていく。
世界なんて存在しないという哲学は正しいと言えるだろう。
極めて20世紀以降らしい。でもだからこそ
心の中の天国は必要なのだ。それは人間に魂があり続ける限り、
必要とされる。悟りに近いものを見つけたときに
宗教は強い力を持つのかもしれない。ただ入信しただけでは
幸福にはなれない。

(ルカによる福音書17章20章)

人生は長い道のりである。それを実感するからこそ、
2018年から2019年に変わったからといって、そこまで
お祝いの気持ちにはなれなかった。

次は「死者の書」について書いてみたいと思う。

私は二作品目のイコノグラフでは女子パウロに出しても
良いぐらいの正統派の「執心」から神の巻かれた種が育つまでを
書いた。けれども次回作はカトリックを裏切るような作品に
なるかもしれない。けれども、私は書かなければならないのだ。
幻想のような亡霊の王子のために朗女が、蓮の花で曼荼羅を作ったように。
私は教会のパーティやあの賑やかな円卓に戻ることはないだろう。
それは司祭に裏切られたときから決まっている。
その代わり、寡黙を保ちつつ現実では聞こえない旋律を聴くのだ。
存在していない世界から。

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Luke 2:1-14





Luke 2:1~14
  
2 In those days Caesar Augustus issued a decree that a census should be taken of the entire Roman world. 2 (This was the first census that took place while[a] Quirinius was governor of Syria.) 3 And everyone went to their own town to register.

4 So Joseph also went up from the town of Nazareth in Galilee to Judea, to Bethlehem the town of David, because he belonged to the house and line of David. 5 He went there to register with Mary, who was pledged to be married to him and was expecting a child. 6 While they were there, the time came for the baby to be born, 7 and she gave birth to her firstborn, a son. She wrapped him in cloths and placed him in a manger, because there was no guest room available for them.

8 And there were shepherds living out in the fields nearby, keeping watch over their flocks at night. 9 An angel of the Lord appeared to them, and the glory of the Lord shone around them, and they were terrified. 10 But the angel said to them, “Do not be afraid. I bring you good news that will cause great joy for all the people. 11 Today in the town of David a Savior has been born to you; he is the Messiah, the Lord. 12 This will be a sign to you: You will find a baby wrapped in cloths and lying in a manger.”

13 Suddenly a great company of the heavenly host appeared with the angel, praising God and saying,

14 “Glory to God in the highest heaven,
    and on earth peace to those on whom his favor rests.”
そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
それは、すでに身重になっていた、いいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
   「いと高きところでは、神に栄光があるように、
    地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」
STUDYーーーーー

   Glory to God in the highest. The angels proclaim the news about jesus: the eternal,omnipotent son of god has just taken “the form of a servant being born in the likeness of men” for “the fullness of time” has now come. And God has”sent forh his Son, born of Woman,born under peace of salvation that God gives though his son.jesus is the “prince of peace” prophesied by Isaiah among those with whom he is pleased god’s gift of “peace will come not to all humanity but to those whom God is pleased to call himself.

Ps
 Jesus was born since God says “Let there be light” in Genesis. From the chaos and poverty he was born again with light. Just as he will remind people that the light is passionate, Jesus will advance from executions to resurrection while interacting with people from now on.
Merry Christmas.
最も輝かしい栄光を天使達は称えて宣言しています。神の永遠であり全能であるイエスは「時が満ち溢れた証明として」、「生まれたしもべ」としてお生まれになりました。そして神の息子であるイエスはイザヤに予言された「平和の王子」であると称えられています。
補足:創世記で神が光あれと言ってから、イエスがお生まれになり、混沌と貧しさから再び光がお生まれになりました。その光は受難であると人々に諭させるかのように、これから人々と交流しながら処刑から復活へとイエスは進んでいくのです。メリークリスマス。

25日の福音朗読箇所です。
This is read on 25th.

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Silent night

Silent night, holy night
All is calm, all is bright
Round yon Virgin Mother and Child
Holy Infant so tender and mild
Sleep in heavenly peace
Sleep in heavenly peace
Silent night, holy night!
Shepherds quake at the sight
Glories stream from heaven afar
Heavenly hosts sing Alleluia!
Christ, the Saviour is born
Christ, the Saviour is born
Silent night, holy night
Son of God, love’s pure light
Radiant beams from Thy holy face
With the dawn of redeeming grace
Jesus, Lord, at Thy birth
Jesus, Lord, at Thy birth

Luke1:39-45




39 At that time Mary got ready and hurried to a town in the hill country of Judea,<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24933A" data-link="(A)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> 40 where she entered Zechariah’s home and greeted Elizabeth.41 When Elizabeth heard Mary’s greeting, the baby leaped in her womb, and Elizabeth was filled with the Holy Spirit.<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24935B" data-link="(B)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> 42 In a loud voice she exclaimed: “Blessed are you among women,<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24936C" data-link="(C)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> and blessed is the child you will bear! 43 But why am I so favored, that the mother of my Lord<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24937D" data-link="(D)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> should come to me? 44 As soon as the sound of your greeting reached my ears, the baby in my womb leaped for joy. 45 Blessed is she who has believed that the Lord would fulfill his promises to her!”

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」



study—–

in the thoseday links the present account with the preceding. it is likely that both the hill country and Judah refer the prophetic first instance of Jhon preparing the way for Jesus. John’s prophetic role is evidenced even as an unborn child in hte womb. Elizabeth, filled with the Holy Spirit explains the babe’s leaping.



この箇所は預言者ヨハネが胎内の中でも顕在していることを証明しています。そして同時にイエスキリストが宿り生まれることを祝っています。

追記:イエスは存在の美学でもあります。

皆様、良いクリスマス(生誕祭)を! Have a Merry Christmas!



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穢れなき悪戯(marcelino pan y vino)

「穢れなき悪戯」を見て。
人は不幸であればあるほどイエスの磔刑までの道のりに近づき、
子どものように無垢であればあるほど天に近づく。
イエスの存在は至福の表しである。
非情に感想の難しい映画であった。スペインのとある村、
一人の神父が少女の病気を見舞いに行ったときに、周りが賑やかなのは何故かと問われ、
「聖マルセリーノ祭」だよと、聖マルセリーノ祭について語りだす。
それはまだスペインでは(19世紀)では修道院の存在は村人に歓迎されていなかったこと、12人の修道士達は修道院の二階の奥に大きなイエスキリスト像を何故か隠していた。そして、育ての子ども、マルセリーノに見せなかったのかというのは、この村人たちに「歓迎されていなかった」というところに少年の存在とイエスが被っていた。この少年はある日、修道院に捨てられていた。この少年の里親を探すが、適切な人間がいない。鍛冶屋はこきを使わせるために欲しがるが、修道士はこの鍛冶屋のあまりもの暴君加減に嫌気がさし、少年をその日の聖人の名前の「マルセリーノ」と名づけて育て始める。マルセリーノは炊事係のトマス修道士に自分の母親のことを尋ねる。トマス修道士は「彼は母親はもちろん美人で今は神様のところにいる」と答えた。それに、同じ年の友達がいなかったマルセリーノはマヌエルをイマジナリーフレンドとして独り言を言いながら遊ぶ癖がついた。
修道士は少年の数々の悪戯に頭を悩まされながらも、可愛がっていた。しかし、二階にある大きなイエスキリスト像の存在は知らせず、二階だけは行かせなかった。
後は、少年の心理はペロー童話の「青髭」症候群である。見るなと言われると好奇心旺盛な子どもは見たくなってしまう。あとは修道士の目を盗んで二階へ行くだけである。二階へあがって様々な工具が並べられている部屋の奥にもう一つ扉があった。それを勇気を振り絞って開けると、見たことがない大男がいた。
少年は驚いて逃げてしまう。しかし大男が追いかけてこないところから
好奇心旺盛な少年はもう一度、その大男に会いにいく。
するとそこに居たのは大きなイエス・キリスト像だった。少年は、彼にこっそりパンを持ち運び手渡すと、イエス様はそれを受け取った。それをきっかけに度々、イエス様に会いに行く。そしてイエス様は「私が誰だかわかるか?」と尋ねる。マルセリーノは誰に教わったわけでもなく「あなたは、神様です」と言い当てた。そしてラストにイエス様は「母親のところに行きたいか?」と尋ねてくる。少年は何の畏れもなく承諾する。それは本当に何の疑いもない無垢な目だった。そして、少年はイエス様の傍で謎の死を遂げる。そのラストをこっそりと見届けていた修道士は「マルセリーノが天に召された」と皆を呼んだ。
マルセリーノの死、それを神の奇跡とした。それから歓迎されていなかったマルセリーノの墓に人々が花を手向け、二階の奥で隠されていたイエスの像が表に出てきたのである。
そしていろんな人々の祈りの場となった。これがとある村の「聖マルセリーノ祭」の由来である。
この作品は最もカトリックらしい作品だと言われている。
鍛冶屋は修道士たちが気に入らずに取り壊そうと必死だったが、この少年の奇跡でこの鍛冶屋の存在は消えたかのように、この修道院は寺院へと建て替わっていた。そして、歓迎されていなかったキリスト教の集まる場所に人々が集まるようになるのである。
現代倫理感でいえば、この少年の死は不幸にも思える。自殺にも思える隠喩、イエス像の何かに刺さって死んでしまったとも思えてしまう。しかし、天国は父がいて愛のある場所だ。何故、生だけを肯定し、死を不幸だと私達はこの世に未練を残すのだろうか。この少年が幸福かどうかでさえも捉えられない。以前書いたノヴァーリスの花粉の愛するゾフィーへの想い、「すべての愛する対象は、それぞれ天国の中心である」というのとつながるような気がした。愛した人が行った場所だから、愛があると信じずにはいられない。歓迎されなかった少年、その少年が死を通して愛されている。愛すべき存在である父と、愛されるべき存在の子の結合、マルセリーノも天国の中心、愛が溢れる場所へと行ったと信じるほかないだろう。但しこれは、そう願う人にとっての話なのかもしれない。現実としての話ではないからこそ、受け止めることができるのであれば、心を癒すのではないか。例えば、死者を見送った後などに。
 画像著作権は株式会社 アイ・ヴィー・シーにあります。

Dekalog episode5

デカローグ エピソード5(ある殺人に関する物語)
 ――恩赦の請願は却下された
 ――誰が弁護しようとも、判決は決まっていた
 まるで晴れることがない天候を表すかのように、このドラマは緑色のフィルターを使って撮影している。監督キェシロフスキによると、不要なものを取り去るためにこのフィルターを使ったようだ。この不穏な天候に相応しい登場人物達が一人、また一人と集まってストーリーを紡いで死刑執行という秩序を完成させていく。その冷徹さが秀逸だった。まずは殺されることになる太ったタクシー運転手。妻がいながら若い女性に色目を使い、乗客を選んでしか乗せない。悪戯にブザーを鳴らして子犬を驚かせては嫌味を吐く。時々は犬に餌を与えるなど、善人な一面も見せるが鑑賞者は誰もこの嫌味な男に好意を抱かないだろう。
 次に、ヤツェック。まだ二十歳の若い青年は、着々と殺人までの準備をしている。彼は事故で妹を失っていて、それから変わってしまったようだ。彼は殺人に使う道具を購入するだけではなく、自分の末路を予見していたかのように、写真屋に妹の聖体拝領の写真の引き伸ばしを頼んだりする。やがて、無差別にタクシー運転手を長い時間をかけて殺害する。

そして主要な登場人物はもう一人いる。それは彼を担当した弁護士だ。

物語は彼の法制度への想いの語りから物語は始まる。

「司法機械とでも呼べる兄弟な法制度が犯す過ちについて考えはじめました。弁護士ならば、その過ちを矯正することが出来る、少なくとも矯正を試みることが出来る、これは立派な社会的機能の一つなのだ」と。

  作中でもあるように、個人と個人の殺人は旧約聖書のカインとアベルの頃から続いている。次に、それを死刑として裁くのが法であり、国である。この措置を「殺人」と呼ぶのか「秩序」と呼ぶのか、これは問いかけているというより、フィルム全体が叫んでいと言えるのだろう。このフィルムは未だに整理がつかない問題を叫んでいる。その代理人が、死刑執行後に叫んだ若き弁護士となる。彼はドラマの最後まで怒りや悔しさを叫び続けた。
 私も昔は法学部で、死刑は賛成か反対かというのは散々考えた。(考えさせられた)けれども、常に答えは流動し、賛成にもなったり反対にもなったりと定まらない。そして、法律から離れると気が付けば考えなくもなった。けれども、それは法律中心に考えなくなったというだけのことで、心の何処かで意識せずにはいられないのだろう。例えば哲学をやっていれば必ずこの問題はやってくるし、小説としても殺人は必要な「設定」となる。このような非日常は常に自分の日常の裏に潜んでいるし、日常になることを恐れながら考えては関わろうとする。
 このドラマを見ていると、二年前、近所の神社で猫の手のようなものが落ちていたことを思い出す。しゃがんでじっくりと見てみると、やはり猫の手で血の跡と猫の華奢な手の切り口から肉が食み出ていた。例えば交通事故によって、猫は死に、偶然にもカラスが摘まんで、手首だけここに置き去りにしたというようなものを想定したが、明らかに、これは人工的なナイフの跡だと分かった。よく言われるのが、このようなものを見つけたら誰かが練習用に使っていると聞いたことがある。立ち上がって辺りを見渡してみると、小鳥達が見えないところで鳴いては木々を飛び移っては微かに木の葉を揺らすだけで誰もいない。ただ私が勝手に作り上げた不穏が立ち込めていた。埋めてあげようかどうか、足が迷いを表した。私は立ち去ることにしたが、結局はすぐに引き返して、ハンカチを取りだしてその猫の手を包んで、手で土を掘ってハンカチごと埋めた。
 良いことをしたとも、悪いことをしたとも思えない出来事。この時間は空虚だった。私はこの手を土に埋めることによって、剥き出しに転がっていた日常を非日常に戻した。この痕跡を近所に残すべきか、魂のことを埋めてしまうべきか迷った。どちらも必要なことだったからだ。私は結局は姿を知らない猫の魂を選んだ。
この小さな出来事、おそらくどんな作家や監督が「殺人」というテーマに挑もうとすると、自分の身体の小さなことに気づくだろう。土に埋めて沈黙すべきか、叫んでみるのか、迷いは必ずあるはずだ。


 この作品でも、カトリックの恩赦の請願は却下され、ヤツェックは司祭の手を接吻しようとするが、それを拒まれるかのように司祭は参列者のところへとすぐに戻ってしまった。若き弁護士の誰にも聞こえない叫びで終わるところから、キェシロフスキも分かっていたように私は思う。そしてこの「小さな」出来事が非日常ではなくて日常として考えられるように、殺人から死刑執行のシーンまで長く目を当てられない程、残酷に撮影されている。
デカローグ(その他) 

画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。 



エピソード1
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalog-episode1.html

エピソード8
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html

エピソード4

http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalogepisode4.html#more




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Dekalog episode4

「デカローグ エピソード4」
普通われわれには、自分が恋をしているのだと認める様々な印がある。
マルセル・プルースト 「失われた時を求めて」





   二十歳の演劇大学生アンカは、やもめの父親ミハウと二人で暮らしている。ある日、父親の書斎の引き出しからミハウの字で「私の死後、開封のこと」と書かれた封筒を見つける。それは、まるで見てほしいと言っているかのようだった。少し体から手紙を離すと、その文字がぼやけて見えるほど、アンカは視力が落ちていて、眼科へと行く。そこから何かを示しているようだ。アンカは外でその手紙を開けてみるが、入れ子式のように母親の手紙が封をされた状態で入っていた。そこには「わが娘、アンカに」と記されている。アンカはこれも開けようとハサミを入れようとするが、入れなかった。

   彼女はこの手紙は自分の出生に関する話だと予感が走り、今までミハウに抱いてきた感情を発露させてしまう。アンカは母親の筆跡を真似て、自分がミハウの子ではないという遺書を作り上げてしまう。それを父親の帰省後に空港で暗唱したかのように聞かせるとミハウはアンカの頬をぶった。すぐにアンカは恋人と結婚すると言い出し、二人は仲直りをしたが、父親はアンカに好きに生きてほしい、このままだと男と女の嫉妬になってしまう。そうはなりたくないと娘以上の感情を抱いていたことを仄めかす。
最後は、ミハウにアンカは本当のことを話す。あの遺書は私が作ったもので本物ではないと。そして二人で「事実」が書かれた封筒を燃やして終わる。
恋愛は四種類あるとスタンダールは言った。一つ目は「情熱恋愛」二つ目は「趣味恋愛」、三つ目は「肉体的恋愛」、四つ目は「虚栄恋愛」。(これは各自調べてください)

 今回のデカローグ、エピソード4はこの四種類に当てはめるとしたらどれかに当てはまるのだろうか。それともどれにも当てはまらないのだろうか、それさえも明確には分からない。ただ、プルーストによれば、恋をしているとそれぞれ印があるようだ。私はこれは信じられる。二人ともその『印』には自覚はあったようだ。それは視聴者には見えない奥深い場所にある。今回のエピソード4はモーセの十戒の「父母を敬え」というものをキェシロフスキの技巧によって複雑にしている。キェシロフスキは「このドラマシリーズは観客が真実を読み取るべきである」と言ったそうだ。最後に燃やしてしまった意味は何だろうか、私もこの選択が一番だったと思う。本能的に事実を突きつけられて先に進むよりも、自分達の心でどうするのか決めたかったのではないかと私は思う。

真実を突きつけられたくなかったのはまだ異性として愛していたからこそでもあり、燃やしたことは何処かへ進まなければならないからこその選択。観客は親子関係が崩れなかったことを見届ける。そしてこの二人の心の旅の道のりはまだこれからも長くなるということの暗示さえ感じさせる。






画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。


デカローグ

エピソード1
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalog-episode1.html

エピソード8
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Dekalog episode1

デカローグ エピソード1「運命に関する物語」
クシシュトフは神や魂を信じていない男だった。彼の妹は敬虔なカトリック信者で愛と神を信じていた。その兄妹の間で彼の息子、パヴェヴは育った。パヴェヴが「人は死んだらどうなるの?」とクシシュトフに尋ねると、彼は「その人がしてきたこと」「その人の周りの人にはその人の記憶が残る」と答えた。それに息子はこう返した。「人は思い出のために生きているの?」と。

クシシュトフとパヴェヴはとても仲の良い親子だ。一緒にチェスを打ったり、コンピューターに質問をしたりする。パヴェヴは池の氷でスケートを滑りたがっていたので、二人はコンピューターで滑れるかどうか、氷の厚さを測っていた。ワルシャワの厳しい寒さの中、漸くパヴェヴが待ち望んでいた日が訪れる。コンピューターによると最高のスケート日和だと結果が出たのだ。父親も事前に本当に大丈夫かどうかを確認しに池の氷の上を歩いている。それでも、悲劇は起きてしまった。氷が割れてパヴェヴは池に落ちて命を落としてしまう。パヴェヴが池に落ちた時間帯に、クシシュトフは翻訳機械についての論文を書いていた。そこで息子の死を暗示するかのように、突然、青いインクの大きな染みが出来る。その前に、彼は大学の講義で、コンピューターには選別能力、つまり意志があり、意識があると言っていた。まだプログラムされる一方だから、人間の意識とは一緒に出来ないが、コンピューターにも個性があると言っていた。そして、エリオットの「詩は翻訳不可能なものを謂う」というのに対してこうも付け足した。「コンピューターは夢を見ている」と。
私はこの場合の「詩」とは信仰のことであり、コンピューターとは日常だと思っている。カトリックは共同体と言うが、各々が抱いている信仰心は翻訳不可能であり、人間の日常は俯瞰視点だとプログラミングされたように動いているからだ。それでも人々の日常は個性があり、日常とはまるで夢の世界のように説明がつかない。
 
 鑑賞者として人の運命を見るということは結局のところ自分の運命と照らすことになる。まるで他人の人生を見て、自分用に翻訳するみたいだ。この話の悲劇は誰しもが翻訳しやすい「神」であり、共感出来る「神」であろうと思う。けれども受け入れがたい話である。実在者であった息子の存在が消え、魂という曖昧な存在になってしまった時に、クシシュトフにとって息子の非存在は神と同列になったと体感したのかもしれない。彼にとっては魂も神も同列の拒絶していた存在だったからだ。だから、建設途中の祭壇に飾られている聖母マリア画へと向かったのだろうと私は思う。そして彼は祭壇に手をかけて押し倒してしまう。


例えば、

Aを拒絶し、Aを受容しない生き方は可能である。その代わり、持続する信念が必要だとする。

神を拒絶し、神を受け入れない生き方は可能である。しかし、人間に愛という必要な感情でもあり不確かな感情があり続ける限り、その信念は脆くなってしまうのではないのだろうか。彼が聖母マリアの元へと足を運んだように。

なぜなら、神は人間を愛しているのだというのだから、心をかき乱さずにはいられない。特に大切な人を失ってしまった後は。


十戒 1.「あなたは私の他になにものにも神としてはならない」






デカローグ エピソード8について
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EL SUR

「たとえ、予言する賜物を持ち、あらゆる神秘に通じていようとも、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも愛がなければ無に等しい」(コリント人への手紙13章2節)
この話にはこの聖書の引用がよく似合うと思った。

 「明日夜が明けたら、お父さん、すぐに墓参りにいきます」と冒頭に放たれた言葉からは、「人は死んだら何が残るの?」と聞かれ「その人がやったことだよ」と答えたキェシロフスキデカローグを思い出させる。エル・スールの主人公、アリアドナの存在は死んだ父親の残した娘であり、父親への想いを語る独白は、アリアドネの糸を手繰り寄せるかのようだ。アリアドナとアリアドネという音は偶然にも近しい。迷宮から出るための道しるべとなったアリアドネが渡した糸。聞けば、迷宮とは道が重なることがなく、振り子状に回転するというではないか。
 自殺をした父親は魔術的な振り子を愛用していた。それで、まず生まれてくる主人公が男の子か女の子か当てたことがある。振り子は何のために揺れているのか、未来を知るためなのか、奥深く埋められているものを見つけるためなのか、アリアドナは父親の死後、残された振り子を揺らす。振り子は父親の「やってきた」事なのだ。そこには本当にあった事実と、そう想いたいと無自覚に振り子を揺らしてしまう不安定さがある。一人の人生こそ、知ろうと思えば迷宮である。
父親の真相についてわかるのは彼女にとっても一部であり、その頼りない独白がより謎が多かった父親像、父親が本当に愛した女性、それらが影を濃くさせていく。「死」と「墓」から始まる原作は映画とは違った時間軸を持っている。映画は父親の死の予感から始まり、過去の回想によって父親の生きている姿が生き生きとしているのに対して、原作はどんなに思い返しても、父が墓にいるところから始まり、死が常に生き続けている。
そんな中で主人公アリアドナは思い返すことによって父親の魂を救出していると私は思う。母でさえも父の墓を見捨てた。誰もが父親の墓を見捨てた。そんな中で父親が生きた証となるのは、この娘の愛ではないのではないのだろうか。
物語全体が恋しがっているような、EL SUR(南へ)、そこにはスペインの分離独立時代の背景がある。
映画では旅立つ直前で終わり、原作では主人公は南に行くことが出来る。
南についても謎が残った本作は、きっと最後はプロローグになっている「私たちは影でないものなど愛せるのだろうか?」に繋がる。
*(映画では、主人公の名前はエストレリャ)
*同じ、映画のビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」は南の話である。
原作者の名前はアデライダ・ガルシア・モラレス
*画像の権利はdvd販売元の紀伊国屋書店、及びブルーレイの販売元のアイ・ヴィーシー社にあります。

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メタファーはなぜ殺される











私が学生のときに買って読んでいた本。「なぜ殺される」と言っている間はまだ生存が確認出来ていたからこそ言えたことであり、今となっては「文学」によるメタファーは既に死んでしまったように思えるし、長い月日を経て殺され方も見た気がする。メタファーとは本文に限らず、本文が組み立てた構造から脱構築し、本文の内容を汲み取ることでもある。現代日本では、ほぼ直喩とマスメディアのみで、脱構築をし、本文の旨味を引き出そうとする術は減ったし、皆無に等しい。残っているのは社会行動学に関する隠喩であるが、それだけだと面白みがない。とまで言ってみるが、この決定には曖昧性がある。けれども虚妄とも思えず、誰でも思い当たる節はあるだろう。これは「現実的」であるし、規範定義にもなり得る。但し、常に決定と曖昧は連れそうのである。

この決定が出来ないために、実は徐々にメタファーは死んでいるように
思える。本来なら必要がない決定なような気がするのだが。

この本を久しぶり開くと感じたのは「時代」だった。過ぎ去った抵抗。
そして受け入れてしまった死。


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愛を識ること








「言葉は聖霊の住むところです」(日本語版 p134)

「こうして私たちは再び、神の内的な神秘についておぼろげながら語ることが
できます。父と子はお互いにお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡しあう運動です。この運動において、両者は豊かであり、その結実は両者の一致です。……三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければなりません」

(日本語版 p137~138)

Der der Geist der ewigen Freude ist. (神の霊は永遠の喜びの霊なのです)
derが二回並ぶことについては説明が長くなるので省きます。
(Germany ver : p93)

イエス・キリストの神 ヨゼフ・ラツィンガー(ベネディクト16世)

 洗礼を受ける前に勉強したのは、聖書の他にカテキズムとベネディクト16世の本でした。三位一体の解説の美しさ、ヨハネの福音書の解説、言葉に住む聖霊の神秘に圧倒されました。文学としてもこれだけ美しい言葉を並べられる彼に敬意を表したい。但し、彼の時代はカトリックの問題が浮上した時期でしたので、学問的な、論理性を高めた神学の死を感じました。ですので、もしかしたらこの本は時代遅れかもしれません・・・・・・。カテキズムだと、感動した箇所は天使の項目です。(英訳版:334~336)今となってはそれを生かすことは人間限られているのだなと実感します。それはとても小さなことで、今はチャイルドスポンサーの子どもに、イースターカードのメッセージカードを何て書こうか悩んでいます。
天使についての記事はこちら




 よく聞かれることは、「鏡玥さんにとって信仰とは何か」ということですが、私にとっては「愛を識ること」(知ること)です。特に神は愛というのが強いのはカトリックで、洗礼前はあまり実感が湧きませんでした。というのは神は愛も与えもするが奪いもする、というのが私の捉え方でした。
 私にも大事なものが奪われたことがあった時があり、奪われただけではなくて、奪われる前から生きていることに無意味さを感じたときに、神に奪われたというのなら意味があるように思えました。不幸との対話は、無常との対話ではなくて、神との対話と信じたかったのですね。私の神への信仰の始まりは悲しい。
それでも本来なら洗礼講座を1年受けてから受けられるものを、私はたまたま、特別にその時期だけ試験期間であった夏の洗礼式を受けることになりました。ですので洗礼講座を受けたのは二か月あまりということになります。私みたいな疑い深い人間に対して、まるで招くみたいに入ったわけです。私はどちらかというと、当時は信仰義認のプロテスタント寄りだったと思います。
  洗礼後、幸せがいっぱい待っているかと言えばそうではありません。それでも訪れる不幸や問題を神様への愛で蓋をすると盲目になってしまいます。重要なのは己に返り、己を見つめ、問題点から逃げないことです。洗礼前と変わらない課題もあれば、キリスト教徒だからこそ感じる苦難はあります。洗礼後のほうが自分らしい居場所に連れていかれることがあるかもしれません。
 それと、キリスト教徒になってからのほうが愛が何なのか愛に関することが力動化するようになりました。ギリシャ語ではアガペー、エロース、フィリアー、ストルゲー、とありますが、私にとって翻訳されない愛が何なのか? というのが哲学としても、生き方としても重要になりました。必ず、ギリシャ語の愛だけが全てではありません。日本文学の曽根崎心中を含め、酒井抱一の絵画のような未分化された愛があります。もっと言えば古事記のイザナミとイザナギでしょうか。それを感じ取ることは考え込むことではありません。自分の足で動いて、機会を作り出し心を動かすのです。
 愛は与えらえる喜びもありますが、愛によって失望することもあります。でもそれも愛があるが故なのです。信者になってからのほうが男女の恋愛だけではなく、友愛やいろんな意味での愛への捉え方が深くなりました。それは説教を聞いたからとか、啓示があったとか具体的な理由はありません。信者になってから、遭遇するものによって変わっていくのです。
私の場合はですね。
 以前、神学者でもある和田幹夫神父様からバルタザール(hans urs von balthasaer)の本、7巻セットを貰いました。彼は神学で美を突き詰めた人で、日本語訳になっていないものです。サブタイトルとなっているSeeing the formとは十字架、三位一体のことであり、Looking(意識的にみる)ではなく、Seeing(自然と目に入る)ということに意味があるのでしょう。これから色んな経験を通して、この三位一体の愛の謎について観ていきたいと思います。何せ分厚い本で7巻もありますので、長い時間をかけて読むことになるのでは
ないのでしょうか。言葉に住まう聖霊を忘れずに、いつか十字架の神秘に翻訳されるその日まで。
酒井抱一についての記事

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La misa de las ánimas

迷える魂に捧げるミサ(La misa de las ánimas)

昔、小さな子供が三人いる貧しい夫婦がいました。父親は病気で働けず、哀れな妻が物乞いをしながら養っていました。ある日、施しを求めて回っていると、1ペセタを貰いました。しかし、それではご飯を買うことが出来なかったので、ミサが一番必要な魂に祈りを捧げようと、司祭のところへと行きました。「司祭様、この1ペセタを一番、ミサを必要としている人に捧げてください」と頼むと司祭はそれを聞き入れました。
その帰り道に、一人の若い紳士に出会いました。その紳士から奥さん、何処へ行かれるのですか?と尋ねられ、今までの経緯を妻は話しました。すると、その紳士が一枚のメモを渡し、「こちらの家に行きなさい、そしてそこの女主人に働かせてくださいと頼んでみてください」と言いました。
妻は別に不思議に思わずに書かれてあるメモの通りに進みました。ある一軒家にたどり着き、ベルを鳴らすと、女中が出てきました。「ここの奥様に用があるのですが」と言うと、奥様がやってきました。妻は「さっき、一人の紳士が働きたいのなら、この家に行くといいと勧められました」というと、奥様は「まぁ、それは一体どんな紳士なんでしょう」と不思議がると、妻は「あの方です。あの絵の人がここを紹介してくれました」と言いました。
すると、奥様は「あれは、四年前に死んだ息子ですよ?」と答えました。
妻は自分が貧しいこと、1ペセタをミサに捧げたこと、帰り道に紳士に会い、ここを紹介してもらったことと、今までの経緯を語りました。
すると、奥様は仕事を与え、沢山の食べ物も与え、明日また来るようにと言いました。
それから5日後、奥様の前に死んだ息子の亡霊が現れ、「お母さん、もう私のことで泣かないでください。もう私の冥福のためにお祈りを捧げなくても結構です。私はもう天国へ入り、神様の前にいるのですから」と。
あの1ペセタはこの息子のために祈られ、天国へと行くことが出来たのです。
******
スペイン民話の中で、最も私が好きな話です。スペインのカトリック文化の良い一面がよく出ている話です。ペセタとは昔のスペインの通貨です。1ペセタがどれほどのものか実際に触ってみたくなって、手に入れてみましたが、思ったよりも小さくて驚いてしまいました。日本の1円玉よりも小さいです。勝手なイメージで100円玉ぐらいの大きさで見ていましたので、この小ささを知れて感動しました。
私がこの話が金額だけではなく、たとえ小さな祈りでも重要なことだなと知れたお話。
5ペセタには可愛い十字架が記されています。

bible

 英訳版は、一応カトリック教会でお勧めになっていた
christian community bible
を使っている。私は英語ミサしか受けないけど、
英語ミサの英語は東京で翻訳されたもののようで
少し違う。
後はドイツ語版もカトリック推薦だったかな?
今度、新しい新共同訳聖書出るみたいですね。

The Lord’s Prayer

Our Father, who art in heaven,

hallowed be thy Name, 

thy kingdom come, 

thy will be done, 

on earth as it is in heaven. 


Give us this day our daily bread. 

And forgive us our trespasses, 

as we forgive those

who trespass against us. 


And lead us not into temptation, 

but deliver us from evil. 


For thine is the kingdom, 

and the power, and the glory, 

for ever and ever. Amen.

好きなお祈りの言葉2
Favorite words of prayer2

(my design)


Stabat mater

           
Stabat mater dolorosa               
iuxta Crucem lacrimosa,
dum pendebat Filius.

Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.

O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!

Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.

Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?

Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?

Pro peccatis suae gentis
vidit Iesum in tormentis,
et flagellis subditum.

Vidit suum dulcem Natum
moriendo desolatum,
dum emisit spiritum.

Eia, Mater, fons amoris
me sentire vim doloris
fac, ut tecum lugeam.

Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum
ut sibi complaceam.

Sancta Mater, istud agas,
crucifixi fige plagas
cordi meo valide.

Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
poenas mecum divide.

Fac me tecum pie flere,
crucifixo condolere,
donec ego vixero.

Iuxta Crucem tecum stare,
et me tibi sociare
in planctu desidero.

Virgo virginum praeclara,
mihi iam non sis amara,
fac me tecum plangere.

Fac, ut portem Christi mortem,
passionis fac consortem,
et plagas recolere.

Fac me plagis vulnerari,
fac me Cruce inebriari,
et cruore Filii.

Flammis ne urar succensus,
per te, Virgo, sim defensus
in die iudicii.

Christe, cum sit hinc exire,
da per Matrem me venire
ad palmam victoriae.

Quando corpus morietur,
fac, ut animae donetur
paradisi gloria. Amen.

バッハも天才だと思いますが、ペルコレージのスターバト・マテルは
鬼才かな。(宗教曲の範囲では)スコアを見ても単純な構造なのに、
重厚感がある。特に数式のようなものは感じないが、長年繰り返されて
きたミサの儀式の流れを感じる。
音そのものは安定していて、人間らしさが削ぎ落とされていているが、聖母マリアの悲しみは伝わってくるところが秀逸。

悲しみの母は立っていた
十字架の傍らに、涙にくれ
御子が架けられているその間

呻き、悲しみ
歎くその魂を
剣が貫いた

ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか
あれほどまでに祝福された
神のひとり子の母が

そして歎き、悲しんでいた
慈悲深い御母は、その子が
罰[苦しみ]を受けるのを目にしながら

涙をこぼさないものがあるだろうか
キリストの母が、これほどまでの
責め苦の中にあるのを見て

悲しみを抱かないものがあるだろうか
キリストの母が御子とともに
歎いているのを見つめて

その民の罪のために
イエスが拷問を受け
鞭打たれるのを(御母は)見た

愛しい御子が
打ち捨てられて孤独に死に
魂へ帰っていくのを見た

さあ、御母よ、愛の泉よ
私にもあなたの強い悲しみを感じさせ
あなたと共に悲しませてください

私の心を燃やしてください
神なるキリストへの愛で、
その御心にかなうように

聖なる母よ、どうかお願いします
十字架に架けられた(御子の)傷を
私の心に深く刻みつけてください

あなたの子が傷つけられ
ありがたくも私のために苦しんでくださった
その罰[苦しみ]を私に分けてください

あなたと共にまことに涙を流し
十字架の苦しみを感じさせてください、
私の生のある限り

十字架の傍らにあなたと共に立ち
そして打ちのめされる苦しみを
あなたとともにすることを私は願います

いと清き乙女のなかの乙女よ
どうか私を退けずに
あなたとともに歎かせてください

どうかキリストの死を私に負わせ、
どうかその受難を共にさせ、
そしてその傷に思いを馳せさせてください

どうかその傷を私に負わせてください
どうか私に十字架を深く味わわせてください
そして御子の血を

怒りの火に燃やされることなきよう
あなたによって、乙女よ、守られますように
裁きの日には

キリストよ、私がこの世を去る時には
御母によって私を勝利の栄誉へ
至らしめてください

肉体が滅びる時には
どうか魂に、栄光の天国を
与えてください。アーメン

The secret garden

「天の国とはからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」マタイの福音書13章31-32節



   主人公、メアリーレノックスは孤独な少女だった。父親は仕事人間、母親は子ども嫌いでパーティに明け暮れる毎日。召使いはメアリーの言いなりで、彼女は我儘に育った。
彼女の両親や召使いたちはコレラにより死んでしまった。(映画では地震)それによってメアリーは遠い親戚にあたる、イギリスの屋敷に住むことになる。主人はあまり帰らないと聞かされ、メアリーはここでもあまり相手にされない。
けれども違ったのは、年が近く優しいメイドのマーサーやマーサーの弟のディコンと仲良くなれたこと、そして最もメアリーの話し相手になったのは「コマドリ」だった。コマドリとの対話によって、メアリーは次第に年相応の笑顔を取り戻していく。
そんなコマドリに導かれて偶然にもメアリーは
主人が閉じてしまった花園の鍵を見つける。

この鍵こそ、ここの主人が妻との思い出の庭を土に埋め、封印した鍵だった。
ディコンとメアリーは、秘密の巣作りと称して荒れた花園を復活させようとする。そして、この屋敷の主人の息子であり、病弱で車椅子が無いと生活が出来ないコリンも仲間に加わる。主人は失った妻を思い出させるコリンを可愛がったことがない。
そんな、からし種のような弱き、小さな存在達が、荒れた庭に花々を咲かせ、コリンは歩けるようになった。長らく我が子に心を開けなかった父親は、この庭で歩けるようになった息子を受け入れる。

大切なものを失い、自分の一部を無くし、
笑顔を忘れていた三人が庭で復活を遂げる。
聖書でも人々は天国というものをもっと立派で壮大なものだと思っていたが、
イエスは「からし種」のような小さなもので大きく育つと言った。

私は メアリー・レノックス達が行ったことは、
天の国の「生長」ではないだろうかと感動した。
そしてやはり、天の国では子供が一番偉いのだろう。
(マタイによる福音書18章1~5節) 

*******
子どもの頃は、クラスメイトの誰もがこの話を平凡だと思った。「小公子」で有名となったバーネットだが、たかだか庭いじりをして奇跡が起きたというのは、当時も流行らなく、エンターテイメントにあふれた日本では平凡な作品だった。そう感じたのは私もその一人だ。けれども何処か惹かれるものがあり、時々思い出しては読み返してみるものになった。その影響で古い鍵が売ってるのであれば買ってしまう。鍵がすきな女性がいるのなら、何らかしらその女性は児童文学の影響が強いだろう。この話については、聖書を意識したのかは分からないが、土いじりに意味があるように思えるし、子どもながらに、真似をしてみたくなった。きっとそこに、自分でも計り知れない神の御言葉が育っていたからかもしれない。気付かない間に触っていて、物語からイエスを見つけた。

物語は、神について沢山の例え話を生みだす力がある。だから私は物語が好きですね。
*マタイの福音書13章の前半部分は前回の私の作品でも軸です。「からし種」のたとえは、引用箇所の次の部分ですね。

*映像はイメージで、1993年度に公開された「秘密の花園」1993年、アニエスカ・ ホランド監督で「秘密の花園」を映画化された。制作総指揮はフランシス・フォード・ コッポラ。メアリー役はケイト・メイバリー。
この感想は主に原作から。The Secret Garden is a children’s novel by Frances Hodgson Burnett first published as a book in 1911. from wikipadia 

*画像の著作権はワーナーホームビデオに帰属します。

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