只今リアルで会ったことある人限定で質問箱URLを試験的に送っています。
今回は届いた質問の答えを書いていきます。
はい、贈与はフランス思想の中でも歴史が長いものです。キリスト教カトリックの
恩寵からデリダまで贈与については色々と言われています。
There are no people who watch you more than God.
只今リアルで会ったことある人限定で質問箱URLを試験的に送っています。
今回は届いた質問の答えを書いていきます。
はい、贈与はフランス思想の中でも歴史が長いものです。キリスト教カトリックの
恩寵からデリダまで贈与については色々と言われています。
何処の教会に戻るかは分からないが、今日になって漸く一つ基準を作った。今の私はサマリアの女である。私の水を欲しいと言った司祭か牧師がいるのなら、ついていこう。
もう怒ることも、哀しいこともなくなった。あとはイエスを待つのみ。
一度失った信仰を
幸せな人が
口にする言葉は
かりそめのひとふし
寡黙のひとの
感じとっているのは
こよなく美しい旋律。
エミリー・ディキンソン
こよなく美しい旋律を紡ぐというのは
狭き門のような気がしてならない。
マタイによる福音書の「狭い門からはいれ。滅びに
いたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って
行くものが多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見出す者が少ない」
(マタイ7章13~14)
とあるように。
去年の大晦日は
ジゼルというバレエをロイヤルバレエと
ミラノ・スカラ座を立て続けに見ていた。
ジゼルとは、貴族の男は
婚約者がいながらも村娘のジゼルと恋仲になってしまうが、
結局は、婚約者である女性に手にキスをしてしまう。
意図せずとも、ジゼルを裏切るような形になって、
ジゼルは狂乱して心臓発作で死んでしまうという。
そんな話を立て続けに
2019年までのカウントダウン直前まで見ていた。
しかしジゼルは裏切った彼を許してウィリーの女王に
殺さないでくれと懇願する。
昨年に司祭に裏切られたせいか、妙に共感して涙まで出た。
許す気持ちと、彼を書きたいという気持ちは別ものだ。
それは、死者の書の郎女(いらつめ)のように憧れの気持ちでキリスト教
(仏教)に入った執心から、
現実を知り悟りを開いていくまでの道のりは、私にとっては
重要な生きた証である。そして彼女は蓮の茎で作られた
糸で曼荼羅を作って命を絞るところは、
狭き門を通りたいという、クリスチャンの性であるようだと
最近は思う。善悪の計り知れない深淵から、
美しい旋律を見つけたいのだ。
休んでるように自撮り三昧だった間、
折口信夫の死者の書と
マルクス・ガブリエルの
なぜ世界は存在しないのか、
を勉強していた。
他に勉強したのは
使徒言行録、オーソドックスとカトリック
ミサという意味、そしてトラウマに立ち向かうべく
司祭という仕事とは何なのかという本を読んだ。
司祭に裏切られて、オーバードースを起こして
自殺未遂をした10月。
私の作品に対する経験は充分だろうか、それともまだ体験が必要だろうか、
それは分からないが、今のように学問に勤しむということは、
死者の書で郎女が仏教の『称賛浄土摂仏教受教』を
一心不乱に写経した気持ちに重なる。ついでに、
私の作家の在り方も彼女に共感するものがある。
執心から悟り、その執心の中には異端と含まれるものが
あるかもしれない。けれども恐れることは私はしない。
私の心の中の天国が定かになりつつあるからだ。
私は恐らく、執心から悟りへと変化しつつあるような気がして
ならない。
憧れから入ったキリスト教、正直、嫌な事のほうが多かった。
病気だって正直言って悪化した。十字架が重くなっていく
という表現が正しいだろうか? とりあえず私は不幸を背負って
寡黙を手に入れ死の淵から心の中の天国というのを見出しつつ
ある。
洗礼を受けた直後の幸福だった記憶は薄れていく。
世界なんて存在しないという哲学は正しいと言えるだろう。
極めて20世紀以降らしい。でもだからこそ
心の中の天国は必要なのだ。それは人間に魂があり続ける限り、
必要とされる。悟りに近いものを見つけたときに
宗教は強い力を持つのかもしれない。ただ入信しただけでは
幸福にはなれない。
(ルカによる福音書17章20章)
人生は長い道のりである。それを実感するからこそ、
2018年から2019年に変わったからといって、そこまで
お祝いの気持ちにはなれなかった。
次は「死者の書」について書いてみたいと思う。
私は二作品目のイコノグラフでは女子パウロに出しても
良いぐらいの正統派の「執心」から神の巻かれた種が育つまでを
書いた。けれども次回作はカトリックを裏切るような作品に
なるかもしれない。けれども、私は書かなければならないのだ。
幻想のような亡霊の王子のために朗女が、蓮の花で曼荼羅を作ったように。
私は教会のパーティやあの賑やかな円卓に戻ることはないだろう。
それは司祭に裏切られたときから決まっている。
その代わり、寡黙を保ちつつ現実では聞こえない旋律を聴くのだ。
存在していない世界から。
39 At that time Mary got ready and hurried to a town in the hill country of Judea,<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24933A" data-link="(A)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> 40 where she entered Zechariah’s home and greeted Elizabeth.41 When Elizabeth heard Mary’s greeting, the baby leaped in her womb, and Elizabeth was filled with the Holy Spirit.<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24935B" data-link="(B)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> 42 In a loud voice she exclaimed: “Blessed are you among women,<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24936C" data-link="(C)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> and blessed is the child you will bear! 43 But why am I so favored, that the mother of my Lord<span class="crossreference" data-cr="#cen-NIV-24937D" data-link="(D)” style=”box-sizing: border-box; font-size: 0.625em; line-height: 22px; position: relative; top: 0px; vertical-align: top;”> should come to me? 44 As soon as the sound of your greeting reached my ears, the baby in my womb leaped for joy. 45 Blessed is she who has believed that the Lord would fulfill his promises to her!”
study—–
in the thoseday links the present account with the preceding. it is likely that both the hill country and Judah refer the prophetic first instance of Jhon preparing the way for Jesus. John’s prophetic role is evidenced even as an unborn child in hte womb. Elizabeth, filled with the Holy Spirit explains the babe’s leaping.
この箇所は預言者ヨハネが胎内の中でも顕在していることを証明しています。そして同時にイエスキリストが宿り生まれることを祝っています。
追記:イエスは存在の美学でもあります。
皆様、良いクリスマス(生誕祭)を! Have a Merry Christmas!
そして主要な登場人物はもう一人いる。それは彼を担当した弁護士だ。
物語は彼の法制度への想いの語りから物語は始まる。
画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。
エピソード1
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalog-episode1.html
エピソード8
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html
エピソード4
http://chriskyogetu.blogspot.jp/2018/04/dekalogepisode4.html#more
デカローグ
エピソード1
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エピソード8
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デカローグ エピソード8について
→http://chriskyogetu.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html
画像の版権は販売元である紀伊国屋書店、イマジカにあります。
私が学生のときに買って読んでいた本。「なぜ殺される」と言っている間はまだ生存が確認出来ていたからこそ言えたことであり、今となっては「文学」によるメタファーは既に死んでしまったように思えるし、長い月日を経て殺され方も見た気がする。メタファーとは本文に限らず、本文が組み立てた構造から脱構築し、本文の内容を汲み取ることでもある。現代日本では、ほぼ直喩とマスメディアのみで、脱構築をし、本文の旨味を引き出そうとする術は減ったし、皆無に等しい。残っているのは社会行動学に関する隠喩であるが、それだけだと面白みがない。とまで言ってみるが、この決定には曖昧性がある。けれども虚妄とも思えず、誰でも思い当たる節はあるだろう。これは「現実的」であるし、規範定義にもなり得る。但し、常に決定と曖昧は連れそうのである。
この決定が出来ないために、実は徐々にメタファーは死んでいるように
思える。本来なら必要がない決定なような気がするのだが。
この本を久しぶり開くと感じたのは「時代」だった。過ぎ去った抵抗。
そして受け入れてしまった死。
Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.
O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!
Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.
Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?
Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?
Pro peccatis suae gentis
vidit Iesum in tormentis,
et flagellis subditum.
Vidit suum dulcem Natum
moriendo desolatum,
dum emisit spiritum.
Eia, Mater, fons amoris
me sentire vim doloris
fac, ut tecum lugeam.
Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum
ut sibi complaceam.
Sancta Mater, istud agas,
crucifixi fige plagas
cordi meo valide.
Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
poenas mecum divide.
Fac me tecum pie flere,
crucifixo condolere,
donec ego vixero.
Iuxta Crucem tecum stare,
et me tibi sociare
in planctu desidero.
Virgo virginum praeclara,
mihi iam non sis amara,
fac me tecum plangere.
Fac, ut portem Christi mortem,
passionis fac consortem,
et plagas recolere.
Fac me plagis vulnerari,
fac me Cruce inebriari,
et cruore Filii.
Flammis ne urar succensus,
per te, Virgo, sim defensus
in die iudicii.
Christe, cum sit hinc exire,
da per Matrem me venire
ad palmam victoriae.
Quando corpus morietur,
fac, ut animae donetur
paradisi gloria. Amen.
呻き、悲しみ
歎くその魂を
剣が貫いた
ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか
あれほどまでに祝福された
神のひとり子の母が
そして歎き、悲しんでいた
慈悲深い御母は、その子が
罰[苦しみ]を受けるのを目にしながら
涙をこぼさないものがあるだろうか
キリストの母が、これほどまでの
責め苦の中にあるのを見て
悲しみを抱かないものがあるだろうか
キリストの母が御子とともに
歎いているのを見つめて
その民の罪のために
イエスが拷問を受け
鞭打たれるのを(御母は)見た
愛しい御子が
打ち捨てられて孤独に死に
魂へ帰っていくのを見た
さあ、御母よ、愛の泉よ
私にもあなたの強い悲しみを感じさせ
あなたと共に悲しませてください
私の心を燃やしてください
神なるキリストへの愛で、
その御心にかなうように
聖なる母よ、どうかお願いします
十字架に架けられた(御子の)傷を
私の心に深く刻みつけてください
あなたの子が傷つけられ
ありがたくも私のために苦しんでくださった
その罰[苦しみ]を私に分けてください
あなたと共にまことに涙を流し
十字架の苦しみを感じさせてください、
私の生のある限り
十字架の傍らにあなたと共に立ち
そして打ちのめされる苦しみを
あなたとともにすることを私は願います
いと清き乙女のなかの乙女よ
どうか私を退けずに
あなたとともに歎かせてください
どうかキリストの死を私に負わせ、
どうかその受難を共にさせ、
そしてその傷に思いを馳せさせてください
どうかその傷を私に負わせてください
どうか私に十字架を深く味わわせてください
そして御子の血を
怒りの火に燃やされることなきよう
あなたによって、乙女よ、守られますように
裁きの日には
キリストよ、私がこの世を去る時には
御母によって私を勝利の栄誉へ
至らしめてください
肉体が滅びる時には
どうか魂に、栄光の天国を
与えてください。アーメン