最も貧しい才能へ

君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。
――太宰治「思案の敗北」

 海を渡る蝶は海面で休むが、水の重さで羽が重くなったら飛びはじめる。死と隣り合わせの小さき存在は消えてしまっても大海が蠢くだけだった。生きていた痕跡を知らせない死、波の香りに呑まれる、ガルシアマルケスが水死体の浮かぶ海を薔薇の香りに見立てた。潮の香りと薔薇の香りが融合する。夢の薔薇の香りは太陽が沈むと同時に闇と共に濃くなっていく、それが眠り、太陽の夢、

波の音だけを残して、残響が誘惑する。蝶の肢体を探しにいく人は誰もいない。

程よい、絶望にドビュッシーの海、

2018年はドビュッシーの没後100周年だったが、

結局、意識が指を動かすことがなかった。

過去に学んだ心理学上は生も死も研究対象で、心のしくみについての立証、検証、の繰り返しだった。心の正常が何かさえ研究段階、発表しては埋もれていく。生きることを肯定しているのが強いのはキリスト教だった。教理は教理として存在していて、神の愛は検証無く存在するという前提条件、それでも私の心は乾いていた。

愛に関して、人間の愛に関しては、心理の中では点数や状況で推測される。興味があるか、性的に見ているか、しかし、内包された愛とは信仰と同じように囚われない。この最高のものが神の愛ということは、移ろう人間の愛よりも定かだった。信じるも信じないも、その条件は意識の外に正解として存在する。神の愛に治療を頼むのか、人間の愛に治療を頼むのか、

私はどちらも信じることが出来なかった。

まず言葉が途切れ途切れにしか意識で構成できなくなった。それを隠しながら、書けなくなった事を黙っていた。その中で枯れきった愛を思い浮かべながら、嘘をつく。会議の途中で薬を飲み、ホテルに行くのも薬を飲んでから行っていた。割高の水の料金を払って、薬の抜け殻は探されない蝶のようだった。全ては腹の中、秘密は自分だけ蝕んでいく。2018年6月に震度6の地震があった。地鳴りがして、何が起きたのか分からなかった。死ぬのかもしれないと思ったが、当時付き合っていた人には電話しなかった。彼が冷めていたことを知っていて、冷たくされた場合、傷つくからだ。別れ話は早く済ませるべきだった。

人間の愛には醜悪も悪意も存在するが、愛は信じることも含まれていた。人間同士の愛は墜落し罪悪になるが、神の愛は人智を超えてくる。人間同士は我が身を守ることを考える。他者への愛より自分を選ぶ、それが人間だが、神はそうではない。自己犠牲は神に近く、理想はそれを目指すが桃源郷。人間同士の愛は、罪悪がある。心理学、哲学、神に囚われない考えは、この醜さもなければ、生きる活力にならないとする。私達は運命に育てられているのだから、それらを混合し、熱意のせいでのぼせながら、今日も人は尊い存在。

小さな絶望を繰り返すたびに、笑みが溢れて、限界に確信が近づく。死に向かうよりも蘇生法は苦しく、取り残された毎日は、波にかき消される日と待ち望む。

「天使達は天国でそれほど幸せでなかったと笑いに来る」

遺書の一部を読んだのも3年後の今日のことだった。本当は恨んでいるのに、恨んでないように書いて、文章が酷かった。言語が途切れ途切れで、もう書けない状態だったと理解出来る。切羽詰まっているだけのように思えるが、この日に限らず、長らく自分の意思すら伝えられないまま、書けなかったのだ。10月、まだ蒸し暑い、国際ミサの日だった。

何かを恐れて、何かに怯えて、憎悪が形相を超えては溢れかえっていた。

 血痕を掃除してもらい、猫のアダムが来た。だからあの子は天使だと思った。あの日の思浮かべた天使はもう居ない。この子は祝福に溢れていた。何故これだけアダムを愛しているのか、何故これだけ必要なのか、それを語ろうとすると、常にこの日に繋がっていく。人に虐げられた人間が成功すると、最低な日を暴露する光景はよく見かける。あの時、差別した人間を見返す、あの時、虐げられたことを乗り越えた、人は必ず最低の日と繋げるものなのだ。最高の日は最低の日と繋がる。だから最高を避けるようになる。

平穏は、最低の日を飼い慣らせるが、最高の日は最低の日によって押しつぶされる。

 今年のこの日は敢えて聖書の引用を選ばなかった。空席ができたら寂しいと言わんばかりの太宰治のこの言葉を選んだ。人の恋慕が神に近い言葉だと思った。恐らく、あの日はこれを聞きたかったのだろう。でもあの日は聞けなかった。

 最も愚かだった日から、私は何所へ向かっているのか分からない。誰に毎日感謝を言えばいいのか分からないほど、色んな人に助けられた。そしてこの朗読の声は、数年の私の失った世界に綺麗な声をくれた。辿ってみると、長い思案の旅だった。

最低の日が遠のくように、今はこの綺麗な声の傍で休息したい。この綺麗な声が生きる文章を書きたい。蝶は眠りから覚めた。また旅路の約束をして、何処かへ行こう。

私達、最も貧しい才能へ。

アダム

2016年 胸が痛いと救急車を呼んだ

2017年 常に安定剤と眩暈止め、色々な薬が手放せなくなった。

2018年 意識の中で言葉が途切れ途切れになっていった。

2021年 心臓と肝機能の薬で回復傾向(向精神薬の服用停止、ワソラン錠等の心臓の薬に変更)

「書けなくなった」そう遺書を残したのは太宰治だった。その言葉を意識したことはなかったけれども、知ってはいた。私は無意識の中でその言葉があったのだと思う。話が思いつかなかったわけではない、自分の言葉が消えてしまった時期があった。

あの日はそうなった。誰のせいでもなく、全てが書けなくなったからだった。

それは心の問題か、薬の副反応だったのか野暮な事は言わない。

重くならないように整理することに時間を要した。

回心をしてからも、人生の最高の日には、

あの日が戻ってくる。3年、長いようで早く済んだのかもしれない。

記事の整理も色々と、立て直したいと思っています。

朗読してくれる彼を始め、

皆さまの協力があったからです。ありがとうございました。

実は2018年のこと、もう乗り越えてます。

The Goldfinch(English)

The Goldfinch Carel Pieterszoon Fabritius

Should be a reflection of something purer.
André Paul Guillaume Gide

On 12 October 1654 an explosion in an explosive’s depot caused a large extent of casualties.

Many Dutch paintings were destroyed in the explosion, and this also damaged the workshop. One of the victims was Rembrandt’s pupil, Carel Fabritius, who was also killed in the accident. This captive bird is still alive today, even though it has lost its owner.

No doubt many people will agree that the “fate” of this painting is the reason for much of its re-evaluation.

Carel Fabritius was an Rembrandt student. His paintings have been influenced by Rembrandt. We can find Rembrandt’s influence in the way he painted light. Rembrandt’s early works show a wide range of colors, but he gradually developed a basis of brown and grey tones, with brighter colors used for the most illuminated objects. He also uses chiaroscuro, a compositional technique that clearly defines light and darkness.

Its influence is also felt by his pupil Fabritius. Overall, the work is completed in opacity, but the color contrast gives the wall a strong light. The walls are darkly shaded by the feeder and the birds as chiaroscuro,  Tarnished natural yellows create a psychological effect of light and shade. What distinguishes this painting from that of Rembrandt, in addition to choosing the bird as a motif, This is using hard paint..Like Van Gogh and the impressionists.

The bird’s background is a flat wall, but we can imagine that what the bird is watching is daylight.

By avoiding all human symbols and imagery, the bird sees the purest things. The light is reflected in her eyes and the imagination is always there. This painting, dressed in “Amor Fati” is a bird who never knew the escape.

This bird lives for a long time and is not capable of flying high.

It was the movie “The goldfinch”(2019) that made this painting instantly famous of our time.

In order to explain the film, a boy and his mother visit a museum and find themselves caught in an explosion. While they escape, the boy steals the goldfinch which has survived. Inspired by the destiny of the original painting of real life, I watched this movie in 2021 with no previous information. The film was inspired by the destiny of the original painting of actual life,and I got a sense of déjà vu from the paintings used in the film.

Had a life of his own for a film accessory. Nothing symbolic at the time, but the color palette was classic. The bird understands the light and is free from superfluous insights. It’s too far from being allowed to exist as a painting, and I’ve seen it before. During the movie, I thought so much about this painting that I didn’t remember exactly what it was about. I didn’t remember exactly what they were talking about, However, the characters began to say that it was a Dutch painting. I looked through the catalogue on the shelf in the other room, thinking maybe I saw this painting once.

In 2012, I was still watching the painting.

I placed a sticky note in the catalogue of Mauritshuis’s exhibition.

The page was “The Goldfinch”. Many Dutch paintings were produced during the boom in microscopic observation, So these are essentially specific tables. Rembrandt’s “Canticum Simeonis” was extremely bright. And Vermeer’s “Het meisje met de parel” tour. I passed by smiling faces art, smiling faces art, and found ‘Goldfinch’ in still life.

It seemed like an incomplete picture. After the human smile, the innocence of the animal, the feathers reflecting the pure light, looked even brighter. In the midst of all these still life’s, observed as the curious mind desires, there is a single and foreign imperfection.

This bird looked at the sky, far beyond the scope of the microscope. This picture was not intended to be framed. Whether it was a piece of trompe l’oeil or a case cover, the purpose of this painting is unknown. In my opinion, the exhibition was not very good, except for the “The Gold finch” and the “Canticum Simeonis” by Rembrandt.

The sound of the birds’ footsteps and the sound of its chain appear to come from a silent painting. Never has this bird been overshadowed by the trials and temptations of fate.

Imperfection, captivity and flight – these three points can strike an agreement with the infirm.

First of all, the downside of not knowing somebody didn’t make it easy for me to talk about that bird. I didn’t have the background or the information to keep it to myself.

The bird hides in the blind spot of memory, but fate so loves him that he comes back alive.

The moment I opened the catalogue, the map of the museum and the advertisements of the museum at that time fell out of the book…Kind of reminded me of a bird wing flapping.

 The way missing memories can be brought back to life is a reminder of the movement of time. Especially when it’s a sign of hope, That’s like a revelation of God.

Loved by fate, this trompe l’oeil, what is it that deceives? Even in the museum, this bird saw the light. A number of times, and through space, this bird sees the light,

I was ready to be deceived again, which made me feel like receiving the light.

Info

Translation, proofreading of past articles has not been completed. I’m finishing up this month.

I am so sorry for the late submission.

The Goldfinch

The Goldfinch:Carel Pieterszoon Fabritius
もっと純粋なものを反射しなければならない
ジッド「日記」第一巻

1654年10月12日に爆薬庫の爆発事故は大規模な範囲の犠牲を生んだ。多くの死者を出し、アトリエも巻き込まれ多くのオランダ絵画が焼失した。その中の一人の、レンブラントの弟子のカレル・ファブリティウスも事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。この捕らわれの鳥は飼い主を失っても今も生きている。

この絵画の再評価の多くの理由は「運命」に惹かれた、という人は少なくないだろう。

 カレル・ファブリティウスはレンブラントの弟子であり、光の描き方がレンブラントの

影響があるだろう。レンブラントは初期の作品は多彩な色使いが見られるが、次第に茶とグレーの階調を基礎とし、一番光が当たるものに明るい色を置く。レンブラントはキアロスクーロという明暗を明確にする構図に惹かれていく。

この影響は弟子のファブリティウスにも見られる。全体的に鈍色で仕上げられているが、対比によって壁に強い光が当たっているように考察出来る。餌箱と鳥の背後の影が濃い。天然色の影響なのか分からないが、くすんでいる黄色が心的な光と影を作り出している。レンブラントとの違いは、宗教的な題材ではなく、鳥を選んだこと、固めの塗料を使用していることである。それは、ゴッホや印象派を連想させる。

鳥の背景は無地の壁であるが、この光の当たり方で鳥が見上げているものは日の光だと想像出来る。イタリア語でCardellinという名前のこの鳥は、カズラの実を好んで食し、イエスの受難を意味している。人間につけられた象徴、想像をよそに、もっとも純粋なものをこの鳥は見つめている。目に光が映りこんで、一瞬という瞬間に想像力が宿る。

Amor fati(運命愛)に纏われたこの絵画は、飛翔することを知らない鳥だった。

それなのに、長い時を経て生きている。

 この絵を現代で一気に有名にしたのは映画「The Goldfinch」(2019)だった。美術館に母親と二人で訪れた少年は爆発事故に巻き込まれる。少年は、逃げる際に生き残ったGoldfinchを盗みだしてしまう。元々の実在の絵画の運命をモチーフとして作られた映画だが、2021年、私はこの映画を前情報無しで見ていた。そこで使われている絵画に既視感を覚えた。映画用の小道具、という短命の運命にしては生命力があった。たかが鳥の絵ではあるが、背景の色が現代の発想で描いたわりには古典的な描写だった。光を理解していて、余計な思想が無い。絵画一枚として存在するにしては構図が右に寄っている、それにやはり見たことがあった。映画の話が頭に入って来ないほど、この絵のことばかり考えていて、登場人物達がオランダ絵画と言いだしたので、もしかしたら一度見たことがあるかもしれないと、別室の本棚から図録を探した。

2012年、私はこの絵をやはり見ていた。

マウリッツハイツ美術展(2012)の図録に付箋を貼っていた。そのページが「The Goldfinch」だった。オランダ絵画は顕微鏡等で観察がブームだった時代のものもあり、基本は精密な絵画が多い。レンブラントの「シメオンの賛歌」は圧倒的な異才を放っていた。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」目当てに美術館のコースが決まっている。人間の笑った顔、笑った顔の作品を素通りしながら、静物画のエリアで「The Goldfinch」を見つけた。

それは未完成のような絵画だった。人間の笑みの後に見ると動物の持つ邪の無さ、純粋な光を反射している羽は余計に輝いて見えた。探求心の欲しいがままに観察された静物画の並ぶところに、一枚の不完全が存在している。顕微鏡で覗けない距離に、その鳥は空を見上げていた。この絵は額に入る予定ではなかった。トロンプ・ルイユ(だまし絵)の一枚か、もしくはケースの蓋だったのか、正体は不明である。正直、この絵画展の評価は低かったが、この鳥の絵とレンブラントの「シメオンの賛歌」だけ良かったと感想を残している。

音を持たない絵画に、鳥の足音、鎖の当たる音の想像が混ざる。この鳥は運命のいかなる試練や誘惑にも消されることがなかった。不完全、捕らわれの身、飛べる存在、この3点は不自由な人間の心を打つのかもしれない。名作と思いながら、この絵画を語る機会がなかった。

まず、誰も知らないというのは不自由さ、語りだすことが難しい。

自分で秘めるにしても、経験と情報が少なかった。

この鳥は私の記憶の死角に潜んでいたが、運命に愛されているので生還する。

 図録を開いた瞬間に、挟まっていった館内マップと、当時の美術館の広告が本から落ちていく。それが鳥の羽ばたきの音を連想させた。消えていた記憶が蘇るとは、時間の動きを感じさせる。特に、それが希望に繋がる場合は、神の啓示にすら思えた。光を享受する力がある生き物の、その瞳の向こうには美しい世界が広がっている。

鎖で繋がれた鳥は、自由の代わりに特定の誰かの愛を受ける。この鳥を愛している人間の眼差しを想像すると、外も悪いものではないのかもしれない。この鳥に餌を与えていたのは誰だったのか、この鳥は多くの時間と空間を超えて、いつも光を見ている。

運命に愛されたこのトロンプ・ルイユ(騙し絵)、何を欺いているのか、生命力の強さに圧倒される。もう一度騙されてもいいので、光を受けてみたいと思わせた。

The Goldfinch(2019)
原作あり

Information

From the 7th to the 30th of September, I will be reviewing the blog.

I will repeat the examination on several occasions.

The Japanese blog will be reviewed later on.

Thank you for waiting.

The style of this blog is

Post,→correct→revision→Proofreading and try to repeat.

I try to keep up with updates more frequently.

I will expand the total number of articles at a time when it is easier to be reflected in google searches.

(Probably 2022)

9月7日から30日までにこのブログの英語版のみの校正にはいります。

記事総数を増やすことを先にしたので、後で微調整という形にしました。

日本語記事はまた別の日にします。内容はほぼ変えません。

よろしくお願いします。

時間が取れなくて予定が延びました。

No longer human (English.ver)

And lastly, there's still a way to seek God in you. That is, there are ways of doing away with things that are limited. For if artists look for the face of the King in the soul of a tree, they will leave everything behind for the love of that face.
Nicolaus Cusanus-De quaerendo Deum 49

Foreword

 It would be easy to be misunderstood as an infantile mind when talking about Dazai Osamu’s ‘No longer human’, but as of 2021 Dazai Osamu is famous, but whether he ranks high or low alongside the great masters of the Showa period, (1926~1989)he is not even sure. What was his essence, after all, is still not settled. Seventy-six years after the war, here we are. I realized again that this is the allure of Dazai for me.

I hear Dazai’s collection sells well in the summer and it looks like it’s selling well now. There are those who say that his colloquial style lacks the intellectuality of the great writers. The fact that he wrote with such sensitivity about something so trivial may raise both religious and philosophical questions. His sensitivity is also characterized by the fact that his works are not full of metaphors and technical details, Instead, a series of words are used in everyday life.

I’ve grown up, the reason I mention Osamu Dazai again is that, as a Christian, I know and admire other authors whose ideals of love and life and death are quoted in Catholic newspapers, but even after two years of convalescence,I was unable to find a source of language as deep-rooted as theirs. I saw a lot of light and love, I decided that time was of the essence, considering my age and my illness.

When I said, “If I translate in English, I’ll address it to somebody who understands Dazai.” it was a declaration of my defeat and a sign of my resumption. However, I cannot write about Dazai Osamu in one article, So I will be writing about it in a number of articles.

“No longer human” and “Osamu Dazai”

The protagonist, Yozo, from childhood was a beautiful boy,It could not, however, be attributed to the contemplation of happiness and had doubts about it. Beyond its interior life, society considers it “fortunate”. The words are somewhat superficial and do not resonate with the protagonist. And as if the world around him were a Japanese honors student, he can’t find anyone who has the same problem as him. The protagonist wonders to the world if they “sleep well at night and are refreshed in the morning?”

Today, there are more and more jobs, and it is fashionable to do whatever we want, But at this time, working to eat was the norm.

Among them, the job of a writer may have been a divine revelation for a writer, even for a writer, but it was in the category of a hobby, an intellectual’s other love, a job he liked.

Yozo is not able to understand his neighbors, and his last seduction of human beings is the one of a clown. Even his parents don’t get itAs he grew, the smell of solitude attracted women.

Dazai Osamu was not baptized, but he was passionate about the Reading Bible. This is recorded in the diary of Tomie Yamazaki, with whom he committed suicide, and he also carried a Bible in his bag when he went to see his other mistress, Shizuko Ota, the source of “Shayō” , Dazai once asked Tomie what Bible quotations had made the greatest impression on her.

“No longer Human” is the posthumously written work of Osamu Dazai and is said to be a semi-autobiography written by Tomie while she was nursing Dazai.If you read Tomie’s journal, you will understand why women are attracted by the hero and why they follow Dazai. 

Dazai said to Tomie, “Why not risk your life in Love?” She learns that Dazai is grieved by the Japanese who change after World War II,  Tomie got married during the war because her family feared she was late, and her husband never went back to Manila in the Philippines. She ended up a widow. Back in the day, no one could comfort his loneliness.

In “Phosphorescence”, written on June 3rd, 1947, Dazai describes her love for Tomie and her invocation of her husband around a fictional flower, phosphorescence. The audience didn’t know where to go with her love of her husband who died in the war.

The Society has not forgiven Tomie, only Dazai, and he has accepted his love for her husband.

If he was a ” good husband” as they called him in those days, and protected the family,There wasn’t any help for Tomie,As far as she was concerned, only Dazai, a married man, understood.

Society won’t stand for it?

It’s not society. you’re the one who won’t stand for it-right?

No longer human

Japanese people are asked what their favorite part of this work is, the majority of them might quote this. Dazai’s words, “the society will not forgive you”, and the commonplace phrase,

“You’re the one that doesn’t forgive me.” he said, Focus on the personality.

The weakening of the ego through society resembles the ego of the woman of the time. The focus is on marriage rather than on love as a first step. Even when husbands are Killed in action, there is language for mistreating women. 

Yasunari Kawabata and many other experts criticized him. As a result, Dazai’s life is a life of affirmation. Dazai lives by the women who affirm him. For example, he lives in his stories.

Yozo in “No longer human” is one of them.

The image of the woman in Japanese literature is less of a Christian woman. Even if unintentionally, a man’s monologue touching a woman is both a Bataillean “invasion of beauty” of women and, on the contrary, something like caging a small bird and loving it. Sensuality and feminine females live together in a familiar colloquial text. His image of women has neither the mature sexiness of the wife in Junichiro Tanizaki’s “The Key”, nor the refined elegance of Satoko in Yukio Mishima’s “Sea of Fertility”.

Dazai’s work is the most sober of all the Japanese writers’ portraits of women. In contrast to the reality of their emotional deaths, they are sober.  Just the fact that their cheeks are stained with tender emotions, that they speak openly of death in the midst of a subject in which life and love are weighed in the balance, is another charm of the literature of Dazai’s later years.

It is impossible to express diversity in words. There is always a question of ethics when there is so much to interpret. Yet there is always no solution. Dazai is a clown of the society, he avoids to be confronted with the truth, but he writes with words that do not bind people. In him there is no doctrine of ” Love is what it should be “. They seem to have no core, “No longer human”.

God, I ask you, is non-resistance a sin?

Disqualified as a human being.

Now I have neither happiness nor unhappiness.

Everything passes.

Jesus would be saddened by this decision, which could be called pruning. There is a story that God is the farmer and Jesus is the vine. (John 15) Pruning does not mean cutting down the unwanted, but it means that Jesus, the trunk, is also grieved, representing the ” support oneself “. After pruning the tree, it produces sap. It is compared to the weeping of Jesus.

Now I have neither happiness nor unhappiness.

Everything passes.

One pruned branch thought this way. Maybe it’s the voice of the protagonist and the literary artist.

It is not clear whether Osamu Dazai and Tomie Yamazaki were simply drowning in the Bible and extending it to romance.

It is not clear whether Osamu Dazai and Tomie Yamazaki were simply drowning in the Bible and extending it to romance. But as we get older, we realize that somewhere along the line, we reach a point where we can’t make it. Some people never notice the end of their life, whilst others feel it sooner.

Most people seem to be aware of it when they get cancer or when they are told that they have only a few days to live, but the awareness of death is particularly prevalent in Buddhism.  If you were in a Buddhist school, the first message was that the “possibility of death begins already when you are born”

The lesson was not new discovery. because I had noticed it myself.

Most of us are vaguely aware of death, but most of us relegate it to the corner of our minds because we are afraid of it. If I were to read Osamu Dazai to a child, “Run, Meros” is well known, and we learn about his feelings in the author’s biography. At the time, a friend of mine once read Dazai’s biography and asked me “why he committed suicide?”.

What I answered in my childhood mind was: ” He simply accepted death”.

Naturally, it is scary to disappear from this world without notice on my own. There are some deaths that we accept, like the rest of our lives. So what about suicide, we rarely get to know the true feelings of the dead person. No matter how much is written down, we are always looking for facts that are not written in words. Even if it is written down, we cannot read it as it was written. I have always suspected that there is a dying spirit as well as a dying body. It doesn’t matter how much you write about your spiritual death, other people can’t see it. What happens when the mind becomes so tired that it forgets to seek help?

In fact, even now, 73 years after his death, no one knows what Dazai Osamu Real intention. No one can understand the feelings of a pruned branch. “No longer human” does not lie about “the society” He is without hypocrisy.

Some perhaps will deride me.

What do you mean by not having faith in human beings?

When did you come a Christian anyway?

For the writer, doesn’t loving ultimately to mean remaining a writer? If that is what the women he loved wanted, so be it. Moreover, their deaths would be anathema to Christianity in this work. Nevertheless, without the ability to look at the imperfections of people, neither religion nor literature would be possible. The man of the piece ends up in hospital, while the author dies with his mistress. Without the ability to look at the imperfections of human beings, neither religion nor literature would be possible. The reality that created their “acceptance of death” and the fact that they had to make such a choice in the life they were given.

We must not forget that Jesus wept over such a decision.

We must not forget. If God (love) does not weep

Who will weep?

Pruning should not be considered solely for the proper growth of the vine.

When I was a child, I made no mistake in accepting that ” He simply accepted death”. In fact, the ” acceptance of a painful fate ” comes to all of us at some time. Many times the mind gets tired and the heart feels dead. Yet, the mind may come back to life. The mind will accept death. Over and over again

Feeling for love or death rises and falls repeatedly. Behind the simple expression, I hope that the sound and the thought will reach somewhere with a deeper sound than at that time.

John15:1~12

I am the true vine, and my Father is the gardener.He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes so that it will be even more fruitful.You are already clean because of the word I have spoken to you.Remain in me, and I will remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.”I am the vine; you are the branches. If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.If anyone does not remain in me, he is like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned.If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be given you.This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples.”As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love.If you obey my commands, you will remain in my love, just as I have obeyed my Father’s commands and remain in his love.I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.

My command is this: Love each other as I have loved you.

人間失格と太宰治

最後にまだ、あなたのうちに神を探し求める道がある。すなわち、かぎられているものどもの除去の道がある。というのは、芸術家が木の魂のなかに王の顔を求める場合、
その御顔のために全てを捨て去るからである。 

ニコラス・クザーヌス
De quaerendo Deum49

「はじめに」

 太宰治の「人間失格」を語るとなると精神が幼いと誤解を受けやすい。2021年現在、

太宰治は有名ではあるが昭和・知の巨人と呼ばれる人達と並ぶと、地位は高いのか低いのか、それさえも彼は定まらない。彼の本質は何だったのか、結局のところ、未だに何にも定まってはいない。戦後76年も経って、これである。それが私にとって太宰の魅力だと再認識した。

太宰文庫は夏に売れると聞くが、今でもそのようだ。彼の口語調の文体に重々たる文豪に備わっている理知的なものは存在しないと言う人もいる。当たり前に存在しているものを感性豊かな文章で書いたことは、宗教的にも哲学的にも問題提起と成り得る。そして、彼の感性というのは、飾られた比喩や技巧ではなく極めて日常的に使われる言葉の羅列が多いことも特徴である。

大人になった私が再度、太宰治を取り上げるのは愛と死生観に関して、クリスチャンとして理想を知っていて、尊敬する作家は他の人であり、彼等がカトリックの新聞に引用されるような作家であり、2年の療養期間を設けたが、彼等のように根を張るほどの言葉の源泉を発掘することが出来なかったからだ。多くの光と愛を見たが、年齢と病気も考えると時間がないと判断した。

「英訳するのなら太宰が分かる人に向けるよ」と言い出したのは私の敗北宣言でもあり、再起を意味する。但し、太宰治については今回一回では書き上げられないので複数回に分けて書くことになる。

「人間失格と太宰治」

 主人公の葉蔵は幼少期から美少年だったが、幸福というものへの思索に帰結出来ず、疑問を持っていた。彼の内部を覆う外皮、人々は彼を「仕合せ」と判断する。その言葉は何処か表面的で主人公の心には響かない。そして彼を取り巻く世界が日本の優等生かの如く、彼のような悩みを持つ者が見当たらない。主人公は世間に対して、彼等を「夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら」と思いに耽る。

現代となっては職種も増え、好きな仕事をするというのが流行っているが、この時代は「食う」ために仕事をするのが当たり前だった。現代よりも、それは当たり前だった。その中でも作家という仕事は、作家にとっては神の啓示でも、道楽、インテリの他愛事、好きな仕事をしているという部類だったのかもしれない。葉蔵は隣人を理解出来ずに、人間に対しての最後の求愛は「道化」とする。父母でさえ、溶け込めない葉蔵は成長するにつれて、孤独の香りが魅惑となり、女性たちに嗅ぎ当てられる。そして、彼は女性たちの秘密を守る色魔となっていく。

太宰治は洗礼を受けていなかったが、聖書に熱心だった。それは一緒に心中した山崎冨栄の日記に記録されていて、他の愛人、斜陽の元となった太田静子に会いに行くときも聖書をバッグに入れていた。太宰は冨栄に印象に残った聖書の引用を尋ねたことがあった。冨栄は二か所の引用を答えた。

「人間失格」は太宰治の遺作であり、冨栄が太宰を看病する中執筆された半自伝と言われている。冨栄の日記を読めば、この「人間失格」の女性が何故主人公に惹かれるのか、理解出来るのかもしれない。冨栄は太宰に「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ち掛けられたが、太宰の結核の看病に必死、愛情を独り占めするために必死にらなければならない、という現実を知ることになる。太宰が戦後の変わりゆく日本人に対して苦悩しているということを知り、女が大きなものに巻かれて生きることしかない事を盲目に受け入れていたことに自覚する。冨栄は戦時中に、家族に行き遅れを恐れられ結婚し、その夫がフィリピンのマニラで帰らぬ人となった。彼女は未亡人となった。「所帯くずし」という言葉が存在する日本、当時の彼女の孤独を癒せるものはいなかった。彼女は夫を愛していた。太宰は世間とは違い、昭和22年、6月3日に脱稿した「フォスフォレッセンス」で架空の花、phosphorescence(燐光を発すること)を中心に冨栄への愛と、夫への招魂祭を描いている。戦死した夫への愛情を何処へやったら良かったのか、富栄の鬱屈した気持ちを世間は許さなかったが、太宰だけが許し、夫への愛情も受け入れてくれた。

当時で言う「全うな夫」であり、家庭を守っていたのなら、冨栄には救いはなかった。彼女にとっては既婚者の太宰だけが理解したのである。

「世間というのは、君じゃないか」(それは世間が許さない)

人間失格 太宰治

この作品の好きな箇所はと問われれば、大多数の人がこれを引用するのかもしれない。

太宰の世間が許さないという言葉、そのありきたりの言葉に「世間が許さないのではなく貴方」と人格を浮き上がらせた。世間から削り取られていく自我と、当時の訳ありの女性たちは似ていたのかもしれない。女性は特に若ければ独身、次に家庭の中にいなければ人権が無いようなものだった。未亡人となれば、結婚を手段としてまた儀式的な再婚が待っている。川端康成を始め、彼を酷評する専門家は大勢いたが、彼を肯定してくれる女性たちによって、彼は生き始める。「人間失格」の葉蔵はその一人だろう。

 日本文豪の女性像は当然ながら、キリスト教に生きる女性は少ない。意図せずとも、男の独白が女を触ることは、バタイユ的な女性の「美の侵犯」でもあり、反して小鳥をケージに入れて可愛がるようなものでもあった。親しみのある口語文に官能と、女性の少女性が一緒に生きる。彼の女性像には谷崎潤一郎の「鍵」の奥さんのような大人の色香、三島由紀夫の「豊饒の海」の聡子のような洗練された上品さもない。もしかしたら日本の文豪が書く女性像の中で一番地味なのかもしれない。派手な心中をした現実に反して、いささか地味なのである。ただ、恋慕に頬を染め、生活と恋愛の天秤にかけられている題材の中で、死を堂々と語る、これも晩年の太宰文学の魅力だろう。

言葉で多様性は表現出来ない。倫理面で解釈のメスが沢山入ると疑問が付きまとう。けれども常に解が無い。彼等のように刹那に生きること、彼は世間の道化であり、真意を突きつけられることを避けるような文体でありながらも、人を束縛しない言葉で綴る。彼の中で「愛とはこうあるべきだ」という教理まがいなものはない。彼等には芯が無いように見られるが、「人間失格」終盤、

「神に問う、無抵抗は罪なりや」

「人間、失格」

もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます

この剪定ともいえる言葉の選択にイエスは悲しんでいることになる。神は農夫でイエスは葡萄の木という話がある。(ヨハネの福音書15章)剪定とは、要らない存在を斬ることではなく、幹であるイエスも悲しんでいるという意味であり、「命の繋がり」を表している。剪定した後の木は樹液を出す。それをイエスの涙と例えられる。

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます」

剪定された枝の一つはこのように思った。それがこの作中の主人公であり、文学者の肉声なのかもしれない。太宰治と山崎冨栄は聖書をロマンスに拡大解釈し、溺れただけの人間なのか定かではない。ただ年齢を重ねると分かることが、人生は何処かで「間に合わない」という地点に気づいてしまうということだ。「命の終わり」それに気づかない人もいるが、早く感じる人もいる。大半の人が癌や、余命宣告を受けて気づくことのようだが、死を意識することは仏教では特にあった。仏教の学校に居れば「生まれたら既に死の可能性は始まっている」が第一声だった。その教えを新しい発見とならなかったのは、漠然と自分もそう気づいていただけなのである。死を知っていながら意識すれば怖いと思うので、大半の人が死角へ追いやる。太宰治を子どもに読ませるとしたら、「走れメロス」が有名であるが、作者略歴で彼の心中を知る。当時、友人が太宰の略歴を読んで「何故自殺をするんだろう」と言い出したことがあった。幼心の中で答えたことは「死を受け入れただけ」だった。当然、勝手に自分が気づかない間にこの世から消えることは怖い。余命のように受け入れていく死もある。では、自死はどうなのだろうかと思うと、死んだ人の本音に辿り着くことは殆ど無い。肉体の死と他に、精神の瀕死が存在すると昔から疑わなかった。精神の瀕死具合を幾ら書き残していようが、他人は気づけない。助けを求めることも忘れる程、精神が疲れれば、どうなるのか?

どのみち、人は言葉に書かれていない事実を探してしまう。書いてあっても人は、他人は思いたいようにしか思えないから書いた通りには読めない。現に、死没73年経った今でも太宰治の本音は結局のところ誰も知らない。誰も剪定された枝の気持ちは理解出来ない。「人間失格」は「世間」というものについて、嘘はついていない。彼には偽善がないのである。

「所詮、人間に訴えるのは無駄である」

「へぇ? お前はいつクリスチャンになったんだい」

人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らない

 それをいつの世も、悲しむのは愛してくれる存在と、イエスであると仮定する。

作家にとって、愛するとは最終的に作家として残ることではないか。愛した女達が、そう望んだのなら、それしかない。

更に言えば、この作品も彼等の死はキリスト教としては禁忌だろう。

作品の男は病院に入院して終わるが、著者は愛人を連れて死ぬ。

それでも人の不完全さを見つめる力がなければ宗教も文学も成り立たないのは同じである。彼等の「死の受け入れ」を作り上げた現実と、彼等の与えられた生涯に、そのような選択があったことに、神も泣いているということを忘れてはならない。神(愛)が泣かないとするのなら、誰が泣くのだろうか。

剪定は、葡萄の木の良い成長のためだけだと捉えてはならないのである。

幼いころに「死を受け入れただけ」という受け答えに間違えはなかった。精神は何度も疲れ、心が死を感じる。それでも、心は生き返ることがある。心はまた死を受け入れるのだろう。何度も、何度も。

実際に「哀しい運命の受け入れ」は誰しもいつしか訪れる。

愛や死に抱く想いは、上昇と下降を繰り返す。単純な言い回しの裏で、あの頃よりも音と思惑が深く響きながら何処かへ届くように、希っている。

再起:悪い状態から立ち直ること

ヨハネの福音書15章(1~12)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

Remembering L’ Amant(English.ver)

je suis la préférée de sa vie


I am his favourite part of life

L'histoire de ma vie n'existe pas. Ça n'existe pas. IL n'y a jamais de centre.


My life story doesn't exist, there is no such thing. There is no core to create a story.

(L’amant:Marguerite Duras)

Zoetrope

Once the storm has passed, the last tense becomes beautiful. Love history is purified and unpleasant things disappear. Even the cruel and sorrowful parts vanish. Among them, the first love of a woman is most likely to fade away. Probably it is not even “forgotten”, as one would expect a form to be lying on the banks of a river, but it has disappeared as if it had never existed.I regret that I did not make a special note of the memory of the first love to writers, myself included. Duras’s “L’ amant” is his first love, but for a long time the protagonist is unaware of it. In my experience, men often remember the story of their first love. I don’t remember much, honestly. I don’t know when it was love, but then there’s a haze when I try to remember it.

I was dating a guy a few years ago and he asked me about my first love, but I have a semi-questioning narrative tone mixed with my English. I kept saying “maybe” as if it was not my experience. This usage is normally taboo in English-speaking countries.  it’s strange to say “Maybe” when it’s your own memory. Nevertheless, when it comes to my memories, it’s “maybe”.

He remembered his first girlfriend so clearly. It seemed that just by listening to him, the woman would come to life. I could even see them kissing with the scent of aquanaut. I was watching the zoetrope-like afterimages he was showing me. His memories are untainted and in constant motion.

I said, ” good memory,” and he said, “Chris too?” I said, “Maybe”

When he kept asking me about the past, I said, “Is it such a big deal?  I vividly remember the sound of my fork dropping on my plate. Up to this point, I had always smiled. But in the flow of words I recall, there is no smile. I guess this is my tone of voice now. The truth is that I was laughing and talking, but now I begin to feel sad.

On the metro train on the way home, I reflected on the beautiful afterimage of him. The ” Girlfriend ” he talks about loves him all the time, and it makes my own heart burn. It wasn’t jealousy, but perhaps a love for the way he remembered her. At this moment, I remembered “L’ Amant” written by Marguerite Duras. I felt defeated that she remembered her first love, with an overseas Chinese, which I suppose is a talent for a writer. The first time a woman is with someone, she probably doesn’t remember it. The “pure ego” is a difficult thing.  Once a relationship has lost its way, its way of functioning, once it has been positioned as ” not to love “, it does not allow the conceptual manifestation of having loved to take place. I kept forgetting for the sake of the new guy. I had to forget as a break.

The characters in this novel world have no names.  This man and woman seem to have expressed that they will not leave their names in history.

The girl’s family, tricked into poverty, lives in French Indochina. There she meets an older man, an overseas Chinese, with whom she has an affair. The man tells the girl that he loves her, even though he has been contracted to marry another woman. But the girl tells him that it was for money. After the wedding, the girl waits in the “common bedroom” for him to come again, but he never comes.  Thanks to his “support money” she is able to return to her hometown and notices that his car is parked there.

She rests her elbows on the handrail, just as when she first met him.

When the girl realizes that she has loved an overseas Chinese, the scene on the ship enters the minds of many readers.

With the realization that “I have lost confidence that I did not love him”, She was on the ship, not with him. Chopin’s waltz No. 10 in B minor, OP69-2, played on the cruise ship, is the piece that led the protagonist to give up the piano, but it seems to have finally run its course for her.

It frustrates the performer to be unable to play the piano, even though there is a complete score. But in the world of writing, she has completed Chopin’s music.  She has succeeded in making her readers listen. More than anyone else, more beautiful than any pianist, she has made Chopin heard.

The word “image” appears frequently in the book, and Duras uses it to describe all the glances and memories of her girlhood. In French, the word image can also mean a reproduction, an exact copy. The girl in the work is also a likeness of herself. In the film, a scene in which she puts her foot on the fence of a ship is very impressive.

Regardless of human sentimentality and the search for love, the Mekong River flows unchanged, passing trade and people. The water has no ego, no desire, it lives and it dies. The Mekong has always existed, without memory being able to contract eternity. As we grow old, we may forget. Remembrance, the ship, seldom departs. The ship is a symbol of substance. The girl’s elbows (or, in the film, her feet) on the fence of the boat are evidence of the reality of the image.

Why did Duras write about his memories as a teenager after all these years? Speculation and reader curiosity about why Duras wrote about his teenage memories after all these years became the wind in the girl’s hair.

She had succeeded in preserving her first love. Like the success of a long sea journey.

For the girl, God’s revelation was on the ships.

There is no scaffolding in the nature of immersion. Hiding from each other, a shady relationship was a world of disconnection between two people. We never introduced them to our friends, we never told our families. I was running down the stairs to the underground, avoiding the crowds, following the many open doors with wide eyes, when I heard a ring on my earpiece.

How happy I was to hear him say, “I had a great time”, and my feet moved away from the doors, as if to break away from the crowd.  Leaning against the platform wall, my feet hot in my heels, and waited for his reply. ‘I’m worried about you, call me when you get home,” he said, so I got on the next train.

Pleasant memories become melancholic stories at the end of the relationship.

Like the girl who said, “I’m old at eighteen”

The first love I tried to tell him about was the tale of how I eventually became a woman.  I wonder if there is a moment in a man’s life when becomes a man, I have never heard of it until now.

I had nothing to say except that I had become a woman.I couldn’t say, “I’d choke if I remembered the man “, and my hand slackened involuntarily and I dropped my fork.

That’s all I remember sometimes. Love between humans can hurt people to death .It gives and receives wounds, and when it is over, the tears are more for the good memories than for the sad ones.

Melancholy narratives are more than words, they are dreams.

Unbound by the confines of words, the heart is a dream that becomes an image.

I always dream that one day I will be able to tell a story that is only sad now, but that it was love. I keep dreaming about how a sad story can become love.

Duras has completed everything.

L’ Amantを想う

je suis la préférée de sa vie
私は彼の人生のお気に入り
L'histoire de ma vie n'existe pas. Ça n'existe pas. IL n'y a jamais de centre.
私の人生の物語というものは存在しない、そんなものは存在しない。物語を作るための中心なんてないのだ。
(L’amant:Marguerite Duras)

Saは所有形容詞 

ゾートロープ

 嵐が過ぎ去れば、過去形は美しくなる。愛に関する事は記憶の純化によって煩わしかったことを消してしまう。残酷な部分も、辛かったことも蒸発していく。その中でも女性の初恋は、全て蒸発してしまう可能性が高い。恐らく、河のほとりに形が転がっていることを期待するような「忘却」ですらなく、恰も存在していなかったかのように消えてしまっている。私も含めて作家にとって初恋の思い出を特に記銘しなかった事を後悔する。

デュラスのこの「愛人/ラマン」は初恋なのだろう。主人公は長らく作中では気づいていない。私の経験上、男性はよく初恋の話を覚えていると思う。私は正直、あまり覚えていない。どの時点が愛だったのか、それから思い返そうとすると頭に靄がかかる。

数年前に付き合っていた人に、初恋を尋ねられたが、私は半疑問形の語り口調が英語に混ざる。まるで自分の経験じゃないかのように、「Maybe」を連呼する。この使い方は本来、英語圏ではタブーである。自分の記憶なのにMaybe、それは変な話なのかもしれない。それでも私の記憶に関しては「Maybe」なのである。

彼は初めての恋人を鮮明に覚えていた。話を聞くだけでその女性が表れて立ってくるようだった。二人がアクアノートの香るキスをしたのまで見えてくる。私は彼から見せられるゾートロープのような残像現象を見ていた。彼の思い出は汚れを知らないように一定に動いている。

「良い思い出ですね」と返すと、「クリスも良い思い出だった?」という彼の言葉に、

「Maybe」、昔のことを何度も聞かれることに対して「Is it such a big deal?(それはそんなに重要なこと?)」と言ったときに、皿に響いたフォークの落下音を鮮明に覚えている。ここまでの流れは常に笑顔だった。けれども、思い返す言葉の流れからはまるで笑顔が無い。これが今の私の語り口調だろう。本当は笑いながら会話をしていたのに、語りだす自分は物悲しい。

帰りの地下鉄列車の中で彼の綺麗に残っている残像映像を思い返していた。彼の語る「彼女」は彼をずっと愛している、それが自分の胸を焦がしていく。嫉妬ではなく、彼の記憶の仕方に惚れたのかもしれない。この時に、マルグリット・デュラスの「愛人」を思い返した。彼女が華僑の人との初恋を覚えていた事を、それは作家としての才能なのだろうと敗北感があった。初めての相手なんてものは、恐らく女は覚えてなんかいない。*純粋自我なんてものは難しいことである。関係の仕方、機能の仕方を失い、「愛してはいけない人」と位置づけが決まってしまったら、愛していたという観念的なものの顕在化を許さなくなってくる。新しい男のために忘れ続ける。私は区切りとして忘れるしかなかった。

映画「愛人(ラマン)」より

 この作品の登場人物は名前が無い。名前を歴史に残せない人間の刹那を描いているようだった。騙されて貧困層になった少女の家族は仏領土のインドシナに住んでいた。そこで出会った年上の華僑の男性と少女は情事を過ごす。男は他の女と契約結婚が決まっていたが、男は少女に愛していると言う。しかし、少女は「お金のためだった」と彼に言う。挙式後、彼がまた来てくれると少女は「いつもの場所」で待つが彼は来なかった。彼の「支援金」のお陰で故郷に帰れる少女は、彼の車が停まっていることに気づく。出会った時と同じように彼女は手摺りに肱をつく。

少女が華僑の男を愛していたと気づいた船の上のシーンは多くの読者の心に入り込んだ。

「愛していなかったという確信がなくなった」という自覚と、少女が愛していた下の兄の死が覆いかぶさる。船で響いたショパンのワルツ第10番、ロ短調OP69‐2は少女がピアノを断念するきっかけになった曲だったが、漸く彼女の中で完走したのだろう。楽譜という完成された存在を目の当たりにしながら、指が追いつかないというものは演奏者としての終わりを知らせる。けれども、彼女は文章世界ではショパンの音楽を完成させた。読者に聞かせることに成功したのである。誰よりも、どのピアニストよりも美しく、彼女はショパンを聞かせたのである。

作中に度々登場するimage(イマージュ)という言葉、デュラスは少女時代の視線や記憶をすべてimageと表した。フランス語では、イマージュとは再現、生き写しという意味もある。作品の少女は自身の似姿ということにもなる。これは少女というimageと、著者にとっての再現のimageが同時進行として話が進んでいくが、船の柵に足をかけるシーンを映画では印象的に作られる。

人間の感傷深さと愛の探り合いと関係無く、メコン河は貿易や人を渡しながら変わらず流れていく。水は自我が無く、欲求もなく、生命を営みながら、死を誘う。メコン河は常に存在しているが、記憶というものは永遠を契約してはくれない。老いていけば忘れてしまうことだってある。想起という、その船が出発することは滅多に無い。船は実体の象徴である。少女が船の柵に肱をつく(映画では足をかける)イマージュの実体に触れた証拠だった。

デュラスが十代の頃の思い出を何故、

月日を経て書いたのか、憶測や読者の好奇心は少女の髪をなびかせる風となり、

無事、彼女は初恋の温存に成功したのである。長い船旅の成功のように。

少女にとって神の啓示は、船の上だった。

 イマージュの本質に足場は存在しない。隠れて付き合うということは、日陰の関係というものは、二人だけの断絶された世界だった。友人にも紹介せず、家族にも話さない。私は地下鉄への階段を駆け下りて、人込みを避けながら、開かれた沢山の扉を目で追っているときに、イヤホンから着信音が鳴った。「楽しかったですよ」と言われた事がどれ程嬉しかったか、群れからはぐれるかのように、足が扉から遠ざかった。ヒールで足が熱くても、ホームの壁に寄りかかりながら私は彼の返信を待っていた。「心配だから、家についたら連絡して」彼がそういうから、次の列車に乗った。

楽しかった思い出は、関係が終わると憂いた語りに変調する。

「十八歳で年老いた」と言った彼女のように。

昔の彼に語ろうとした初恋とは何だったのか、結局は女になったという話だった。男には男になったという瞬間があるのだろうか、今の今まで聞いたことがない。

私は女になった、という以外、語れることがなかった。「昔の男の話は息が詰まる」それを言えなかった。手が無自覚に緩んだのでフォークを落とした。

それだけが時々思い出される。人間同士の愛は人を殺すほどまでの傷を与えることがある。

傷を与え、与えられ、終わった後は悲しいことよりも、良い思い出に涙が溢れてくる。

物悲しい語りは、言葉以上に夢を見ているものである。

言葉という枠に囚われず、心はイマージュとなって夢を見ている。

今は悲しいだけの話だが、

いつか「愛」だったと語れることを、いつも夢見ている。

哀しい話が、愛になることを常に夢見ている。

デュラスは全てを完成したのだろう。

*純粋自我 フッサール

Anniversary of one’s passing English.ver

ChrisKyogetu Acrylic painting(2004)incomplete
Do not grieve, do not mourn, Ananda. We have together taught. I have taught that all that is beloved and dear is a being that is parted and separated. How can we say, "O, don't tear it down," when it is born, exists, is formed, and is broken? It cannot be so. Thou hast done a good deed, O Ananda. You have done a fine deed. You will be pure in no time.

Today, the 17th of August, is the anniversary of the death of a friend. Sometimes I wonder if the soul of a friend misses this world, if he misses the world that we talked about as being boring together.

I sometimes talk to Buddhists, including him. “Do not grieve, do not mourn, Ananda. We have together taught”

We have preached this together.”

At that time, I tell them that I like the words of the Buddha.  Ananda was suffering from separation from love and Buddha was enlightened. This contrast is typical of Buddhism.

He was sitting alone with his macbook in his favorite cafe.

He didn’t tell me anything about his physical weakness.

He didn’t tell me anything about his health.

After his death, the songs he wrote were not accessible by password.

I joined Mixcloud for his songs, but his songs had disappeared.

I still get Mixcloud notifications that I haven’t unsubscribed from.

I get Facebook birthday notifications and his age keeps increasing.

I had been posting on his timeline every year on his birthday.

I had to recreate the old account myself and I couldn’t find him.

When I was told that he had passed away, I tried to find traces of him as if in a panic, and I felt impatient that I couldn’t do it while he was still alive. There was not much to report this year.

In the years since he died, there has been nothing to report.

 And even now I have nothing to tell him.

Because it was not the future he wanted.

We talked about the future of the world, of Japan, and I was pessimistic and he was hopeful.

The world was not what he had said it would be.

I wondered if his soul would still love this world.

I thought so.

 In faith, it is the dead who know the facts about the gods and Buddhas with whom they have talked.

In my letter to him I wrote “In a letter to him I wrote: “You have gone to the answer

More than the words of our prayers, more than the reach of our hearts and hands, the dead are always beyond the imagination of the living.

The dead are always beyond the imagination of the living. I remember him laughing and saying.

“I want a chance.”

I never thought that a few words could leave such a deep impression on me.

The everyday, always ordinary, can become a lifetime of scars and sayings in relation to others.

The cancer that had consumed him as a young man took him away as speedily as it could.

We still have a chance.

Anniversary of one’s passing

ChrisKyogetu Acrylic painting(2004)incomplete

悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダ。私は説いてきた。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在だと。生まれては、存在し、形成され、壊れていくもの、それを「ああ、壊れるなかれ」ということがどうして得られようか。そのようなことはあり得ないのだ。(略)アーナンダよ、汝は善い行いをした。精進することに専修せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。

本日8月17日は或る友人の命日になる。時々思うのが、友の魂はこの世を恋しくなるものなのだろうか、共に退屈だと語り合ったこの世を恋しくなるのだろうか、そう思う。

彼も含めて私は仏教徒と話すことがある。「悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダ。共に説いてきたではないか」その時に、この仏滅の言葉が好きだと話す。アーナンダは愛別離苦に苦しみ、ブッダは悟っていた。この対比(コントラスト)は仏教らしさだろう。

いつもの行きつけのカフェでmacbookを広げて一人で座っていた彼、

身体が弱いということを一切、私には言わなかった。

彼は一切、身の上での辛いことを話さなかった。

彼の作った曲は、死後はパスワードで入れないそうだ。

Mixcloudは彼の曲のために入ったが、彼の曲は消えていた。

退会していないMixcloudの通知は今でも続いている。

Facebookの誕生日通知が来ていて、彼の

年齢だけが増えていた。

私は誕生日の度にタイムラインに毎年書き込みだけしていた。

私自身も旧アカウントと作り直すことになってしまって、彼が見つからない。

亡くなったと聞かされたときに、慌てるように彼の痕跡を探ろうとしたときに、生きている間にしてやれなかった事に焦りを覚えた。今年はそれほど報告出来るような事がなかった。

彼が亡くなってから何年経っても報告することが無かった。

 そして今も彼に伝えたいことがないのである。

何故なら彼が望んでいた未来じゃなかったからだ。

共に語り合った世界、日本の未来展望図は、私は悲観的で、彼には希望があった。

彼が言っていたような世の中にはならなかった。

それでも、彼の魂はこの世を愛してくれるのだろうか、

そう思った。

 信仰の上で、語り合った神や仏の事実を知っているのは死者である。

彼への手紙で私はこう書いた。「あなたは答えのところに行ってしまった」

私達の祈りの言葉よりも心も手も届かない場所、死者は必ず生きている人の

想像を超えてくる。

彼が笑って話したことを思い出す。

「お願い、チャンスが欲しいよ」

聞き流したこの言葉が、このように深く心に残るとは思わなかった。

常に平凡な日常は、一生の傷や格言に成り得る。

若い彼を蝕んだ癌は、あっという間に彼を連れ去っていった。

「私達にチャンスは残っている」

*ご遺族のプライバシー等も考慮して詳細は伏せました。

Assumption of Mary English.Ver

"Was the author of the Book of Revelation really not under the influence, so to speak, of a being who was in conflict with Jesus Christ? of the 'Schatten', as it is called in psychology" C. G. Jung, "The Aion".

A great sign appeared in heaven: a woman clothed with the sun, with the moon under her feet and a crown of twelve stars on her head.  She was pregnant and cried out in pain as she was about to give birth.  Then another sign appeared in heaven: an enormous red dragon with seven heads and ten horns and seven crowns on its heads.  Its tail swept a third of the stars out of the sky and flung them to the earth. The dragon stood in front of the woman who was about to give birth, so that it might devour her child the moment he was born. 5She gave birth to a son, a male child, who “will rule all the nations with an iron scepter.”And her child was snatched up to God and to his throne.  The woman fled into the wilderness to a place prepared for her by God, where she might be taken care of for 1,260 days.

 Then war broke out in heaven. Michael and his angels fought against the dragon, and the dragon and his angels fought back.  But he was not strong enough, and they lost their place in heaven.  The great dragon was hurled down—that ancient serpent called the devil, or Satan, who leads the whole world astray. He was hurled to the earth, and his angels with him.

 Then I heard a loud voice in heaven say:

“Now have come the salvation and the power

    and the kingdom of our God,

    and the authority of his Messiah.

For the accuser of our brothers and sisters,

    who accuses them before our God day and night,

    has been hurled down……

Revelation:12

On August 15, 2014, Assumption of the Blessed Virgin,I was baptized as a Catholic. Most people are baptized in the spring at Easter, but this was the only year that the baptismal service was also held in the summer. I had planned to attend a baptismal course with my fiancé at the time, but I went to the church he had chosen in June, just to see what it was like. While I was taking baptism alone, I had to attend a year-long study group, but the priest in charge at the time said he could fit me into the baptismal service in August. I asked my fiancé to let me in without asking for confirmation. At that time I didn’t know if it was an invitation from God or a betrayal, but I didn’t know that my relationship with him would deteriorate.

He intended to continue to love the Bible without being baptized, But I was convinced that he would come later, and I found myself with a bunch of lilies on August 15.

When the Bible reading began, “The temple of God in heaven was opened, and the …… woman was pregnant, but because of the pain and suffering of giving birth to a child, the …… dragon wanted to give birth to a child,” I turned my head and began to I had the chills when the reading started. is Revelation 12, the maiden, and the dragon. The dragon is said to be a heretical being and the woman is the Virgin Mary. This world of Revelation is the end of humanity and is depicted in cryptic prose and lyricism. In this chapter alone, This prefigures the dream of Joseph in Genesis 37, and the Bible itself writes about the beginning and end of the world.

The reason why I was so moved by the story is that the maiden and the dragon is a Jungian archetype, which I also dealt with in my work “Pagaea Doll”, in which I compared it to the dragon legends of East and West. Like the protagonist “Shoko”, I have been pursuing the “virginity of the imagination” since I was a child. As in the story of Borges, one can imagine and still resemble someone else. Without sympathy and admiration, the imagination is wounded, flattered, thirsty and lonely, aging and dying.

When I was painting in my teenage years, I sometimes thought that when I was free to create, I couldn’t find what I wanted to paint because I couldn’t find what I wanted to paint. The world I wanted to paint depends on my capacity to describe it, and I couldn’t even approach it. What I found out, what I might have known if I had studied philosophy, Hadd was already a pioneer in philosophers. It’s always changing my mind, searching for new discoveries. The time when the eye blinks, or the time to fall asleep, the opportunity is unpredictable and even the notebook is not ready. Without any time to think, drawing assignments arrive, study assignments arrive, and I waste my time on dreams.

 When I finally said that I wanted to make a religious painting, the adults did not agree with me, and I set off on a journey to concretize myself, without financial means.

Jung’s “archetypes” are even deeper than Freud’s unconscious: C.G. Jung remarked that Jesus and Mary do not appear directly in dreams as much as church people do. The Sun is Jesus, the Lilies are Mary, and they exist as symbols in the field of collective unconsciousness. Freud did not deny this statement from his own, but said he was having problems with it.I would later learn that Freud was right. Jung’s work is laborious for a man as exhausted as his patient. Myth and faith may have been a fading influence of 19th century science, but even if Jung’s theory was correct, it was probably obvious that neither theology nor religion, or more specifically myth and fable, would become stronger in the 20th and 21st centuries, and that the masses would no longer understand them. That is why the “archetypes” are so isolated from their patients.

I was in primary school when I wrote the story of the dragon. I already had an idea for the story of Shoko’s childhood in “PangaeaDoll”. I knew the book of Revelation chapter 12 from a Bible I found in a Christian friend’s house. I didn’t know what it meant, but it fascinated me as a fantasy story about the dynamism of this wriggling dragon and the obsession with a maiden (the Immaculate Heart of Mary).

What do I want to show? I was looking for a place for the significance of the “something” that was born. Eventually I quit painting because I no longer wanted to be understood, and I lived in my writing. I will live for my existence, even though no one in particular asks me to. In order not to be crushed by others, my thoughts go beyond my language and my imagery and become even more passionate. An inexpressible pain in my chest, my soul dreams of rising. For such a man, the dragon was a symbol of uncontrollable ” Sensation “. It followed the maiden Mary as she fled from the clutches of King Herod. It was such a struggle to have faith or not to have faith. There was doubt and a constant shadow of the Bible. Such is the world of the unconverted. It was always ridged like a serpent and moved with a lot of heat.

The dragon who wanted to eat the maiden (Jesus) seemed to me to be a conflicted baptismal candidate itself. Especially the dragon of chapter 12, which followed Mary, may be so. The Baptist is also a pagan.

Nevertheless, after his baptism in 2014, the maiden and the dragon were not read until today, in 2021. Even the Assumption of the Blessed Virgin Mary festival was not attended after this. Even though they participated in other ordinary Masses and ceremonies. They were not there. For a long time, I never regained the sense of baptism.Part of the reason I wanted to write another track, and also because I had already lost the dragon to my heart. I never thought about grief, a pagan symbol.

Every time I went to mass, I wore a white veil, but after my friend died, I wore a black veil. I began to remove the veil in time, and although I always carried a Bible, I no longer do.

The world I saw after my baptism was a world of grace and solitude waiting for me.  The soul of an artist can only live in his work, and with that revelation in my heart, I had been hopeful, only to find myself on the edge of a cliff.

In 2018, I was standing in front of suicide.

Sound is said to be uninformed, and so is the existential nature of language. The tongue is a background of symbols, on which concepts exist. A concept has a meaning as a word, but it is synthesized by a series of words. The linguistic world is a composite one. Languages are not by themselves. Although you need someone to understand it, it is often not understood.

It was Christianity that clarified why words existed, as John’s Gospel says: “In the beginning was the word, and the word was with God”. Just as in Russia, where there was no clear language in the beginning, language was created as Christianity spread.

The language is isolated. But it is to God, it is the mystery of the word. and I didn’t feel so alone.

Many have said to me, “Why won’t you write free?”

I’ve been asked by many people, but I’ve never answered. I don’t feel lonely with this question any more, because I realize that I don’t need to answer it in particular. What started as giving up is already “freedom”.

The beginning was a painful “freedom”. Baptism did indeed give freedom. The surrogate mother who wiped the holy water dripping from my hair, the priest who celebrated, all those who surrounded me, we will never gather in the same place again. They will never come together again. The bouquet of lilies that I carried at that time is still blooming in my memory, although it has vanished already. The people I loved then, the people I left, the people I met, the sight I saw when I looked up, where I smiled towards, the characters of this moment, my emotions, will never represent my “now” again, they will never come into my sight.

For a long time I wondered whether I should accept this disappearance or leave it as a memory of my baptism again.

After seven years of hesitation, I finally looked back on this time.

Indeed, at the time of my baptism, my soul was joyful.

15 August 2021 

baptismal certificate

聖母マリア被昇天(2021年)

「黙示録の作者は、いわばイエスキリストと対立した存在の影響を本当に受けていなかったのだろうか? 心理学でいうところの「影」の」 C・Gユング「アイオーン」

天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見えた。

また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」

(ヨハネの黙示録12章)

2014年8月15日の聖母マリア被昇天の時に、私はカトリックの洗礼を受けた。本来なら春の復活祭の時に洗礼を受けるのが殆どだが、この年のみ洗礼式を夏にも設けてあった。当時の婚約者と共に洗礼講座を受ける予定だったが、教会の下見という感覚で6月に彼が指定していた教会へと行った。洗礼講座を試しに一人で受けている間に、本来なら1年勉強会に参加しなければならないのだが、この時の担当神父様が8月の洗礼式に入れてくれると言った。私は婚約者に確認を取らずに入れてくださいとお願いした。この時は神に招かれたというのか、裏切りというのか、彼との関係が悪化するとは知らなかった。

彼はやはり洗礼を受けずに聖書が好きな人でいたいと言い出したが、後から来てくれると勝手に信じ込んだまま、私は8月15日に百合の花束を持ってベールを被った。

俯きながら「天にある神の神殿が開かれて……女は身籠っていたが、子を産む痛みと苦しみのために……竜は子を産もうと」と聖書朗読が始まった時に、幼い頃から何故か涙が出てくる箇所が読まれたことに鳥肌が立った。ヨハネの黙示録12章、女と竜(乙女と竜)である。竜は異端の存在であり、女とは聖母マリアの事だとされている。この黙示録の世界は人間の最期であり、暗号めいた散文と抒情的に描かれている。この章だけでも、創世記の37章のヨセフの夢という伏線が張られていたりと聖書そのものが世界の始まりから終わりを書き上げている。

何故そこまで感動を覚えたのかといえば、乙女と竜はユングでいうところの元型を私の作品の「Pagaea Doll」でも扱ったところであり、作中で東西の竜伝説に準えていた。主人公の「翔子」のように、私は子供の頃から、ずっと「想像力の処女性」を追及していた。ボルヘスの話でもあるように、人は想像しても誰かと似てしまう。想像力というものは共感や称賛を得なければ、傷ついて、媚びを売り、渇愛と孤独を抱えながら、老化して死に向かっていく。十代の頃に絵を描いているときに時に思っていたのが、自由創作の時に描きたいものというものを探すときに、自分の描きたいものについて悩みが尽きなかった。描きたい世界は描写力に左右されて、理想に近づかない。哲学を学んでいたら分かることが、自分が発見したことは既に哲学者が開拓していた。新しい発見を探しながら、私の思念の中で常に変容する。瞬きの瞬間や、眠りにつく瞬間、その機会は何時なのか、予測不可能でノートさえも間に合わない。自分自身が、その変容にさえも追いつかずに、出来る範囲で中途半端な作品が生まれる。内観する暇もなくデッサンの課題が来る、勉強の課題が来る、私は夢の中まで時間を使った。

 漸く宗教絵画を描きたいと発言した私に大人たちの賛同はもらえず、まだ経済力が無かった私は自身を具体化する旅に出た。

ユングの「元型」とは、フロイトの無意識よりも更に深く存在している。C・Gユングは教会関係者ほど夢にイエスやマリアが直接出て来ないことに気づいた。太陽がイエス、や百合がマリアと、象徴として集合的無意識の領域に存在する。フロイトは彼のこの発表を否定はしなかったが、苦労すると言った。フロイトの見解は正しかったと私は後に知る。ユングの研究は患者のように疲弊した人間には労苦するのだ。神話や信仰は19世紀科学で薄れていた影響なのかもしれないが、ユングの学説が正しかったとしても、20世紀、21世紀に神学も宗教、もっといえば神話、寓話も強くなることはなく、大衆の理解に及ばなくなっていくのが目に見えていたのだろう。だから「元型」というものは患者が孤立するのだ。治療としては適していなかったのだろう。

私が、竜の話を書いたのは小学生の頃だった。「PangaeaDoll」の翔子の幼い頃の話の構想は既に在った。黙示録の12章はキリスト教徒の友人の家にあった聖書で知った。意味は分からなかったが、この蠢いていく竜の躍動感と、乙女(無原罪のマリア)への執着という幻想譚として私は心が奪われた。

何を私は表したいのか、生まれた「何か」の存在意義の居場所を探していた。そのうち理解を求めなくなって絵を辞めた私は、文章の中で生きていく。特に誰にも求められてもいないのに、私は私の存在のために生きていく。他者に潰されないように、思惑が私の言語やイマージュを超えて、更に熱量を持っていく。形容しがたい胸の痛みである魂は上昇を夢見ている。そのような人間にとって、竜は制御出来ない「感応」の象徴であった。乙女マリアがヘロデ王の魔の手から逃げるのを追った。信仰を持つか持たないか、葛藤するのはそのようなものであった。疑心や、常に聖書に影があった。それが無宗教者の見えた世界である。常に蛇のように畝っては、熱量を持って動いていた。

竜が乙女の子(イエス)を食べてしまおうと思った、は葛藤を抱いている洗礼志願者そのものだと私は思えた。特にこのマリアに付き纏った12章の竜はそうなのかもしれない。洗礼志願者は異端でもある。

 それでも、2014年の洗礼後、2021年の今の今まで乙女と竜は今日まで読まなかった。聖母マリア被昇天祭りすらこの後は参加していない。他の通常のミサや式典は参加していても、この日は参加しなかった。長らく洗礼の気持ちに返れなかったからだ。別の作品を書きたかったのもあるが、もう私の中の竜は死んだのだ。異端の象徴なので弔うことを考えなかった。

ミサは毎回白のベールを被っていたが、友人の死の時に黒のベールを被っていた。ベールはそのうちに外すようになり、聖書を常に持ち込んでいたが、持たなくなった。

洗礼を受けた後の見えた世界は恩寵と孤独が待っていた。芸術家の魂は作品の中でしか生きられない、その啓示を胸に希望を抱いてきた私が、気が付けば崖の上にいるように、

2018年、自死を前に立っていた。

絵を描いていた頃はまだ良かった。絵はオリジナルが一点存在すれば良い。

言語となると実存性は疑わしくなってくる。言葉の世界は理解されなければ存在価値の無い記号となる。文章世界の場合は何処に私の核があるのか、私は何処にも生きていないような感覚に陥っていた。世界は「色即是空」や「諸行無常」なのか、イエスという存在を現すのか、これらの教理は表裏一体である。対峙し、時には融合してしまう。言語で明確に区切ってしまえば、「空」(くう)は成り立たない。言葉と結果に囚われている。聖書も自身の経験が伴わなければ、イエスの教えを生きたとは言えない。机上の空論となってしまう。

ヨハネの福音書に「はじめに言ありき、言は神と共にあった」とあるように、何故言葉が存在しているのか、明確にしたのはキリスト教である。ロシアがはじめは言語という明確なものがなくてキリスト教が布教していく中で言語が作られたように、存在を追うのであれば、キリスト教となる。

この道が見えたので洗礼を受けた。

一般的に公開される心理分析は生い立ちの分析である。しかし、人の心とはもっと複雑なのだ。このように、思念の刻みがある。一見意味を感じない夢現も人間を現すことに必要なのである。

信仰の理由も「救済」の一言ではない。これを初めて明確に肯定したのは、「聖書」なのだと思う。そして文学者にとって、聖書は頂点でなければならない。私が作家としてイエスを頂点に置いたのは、人間は傲慢になるからである。想像力の処女性は存在しない。2千年の歴史を経て築き上げてきた人類の思念の水脈に重なる。聖書はその中でも母体である。その絶望を最初に受け入れなければならない。けれども発見は人生を貴重なものにしてくれた。

「何故自由に書かないの?」と何人も言われたが、答えたことは無い。もうこの質問に孤独を感じることもない、特に答える必要がないと気づいたからだ。諦めから始まった事は、既に「自由」である。

始まりは悲しい「自由」だった。洗礼は自由を確かに与えた。私の髪に聖水が滴り落ちる中、拭いてくれた代母も、祝ってくれた神父も、自分を取り囲んでいた人達全て、二度と同じ場所には集まらない。二度と、集まらないのだ。あの時抱えていた百合の花束も記憶の中で咲き続けているが、もう疾うに消えている。あの時愛した人も、別れた人も、出会った人も、顔を見上げた時に見えた光景も、私が何処へ向かって笑ったのかも、この時の登場人物も、私の感情も、二度と私の「今」を表さないし、視界の中には戻って来ない。

この消失を受け入れるか、再度また洗礼の記憶として残すのか、

長らく迷いがあったが、7年経ってようやく私はこの当時を振り返った。

確かに、洗礼を受けた時、私の魂は喜んだのだ。

2021年8月15日 

洗礼証明書

Ophelia’s fragments English.ver

A document in madness, thought and remenbrance fitted.

–Laertes

Hamlet 


Act4 Scene4
Sir John Everett Millais

Ophelia’s madness, and her brother lrartes’ words, “A document in madness, thought and remenbrance fitted” Whereas Hamlet, who hates unrighteousness, believes in God and hates “Dirty”, is reduced to murder by his sense of justice, Ophelia is made insane by Hamlet, from the painting of John Everett Millais. Ophelia’s drowned body is adorned with numerous symbolic Christian plants, as though it were a water burial. Even in her madness, Ophelia kept Jesus’ name.

Perhaps I like this scene because it gives me a strong sense that no matter how the body perishes, the soul remains with Christ.

 If I were asked about my favorite quote from Shakespeare, I would say that Hamlet’s ‘A document in madness, thought and remembrance fitted’.

  “Even in madness there is a lesson” This is a question of human nature. Is man worthless if he loses his reason and social competence in conscience? Ophelia left the name of Jesus in the middle of his madness. Here she shows that those whose faith has grown are deeper rooted in something beyond human knowledge. God’s grace is visible in her. This is the contrast to Hamlet, who was cheated by his father’s ghost.

There is eternity in time, which is “pursued” like an infinitely open and free space.

But the time that is forgotten and that passes is “finished”.

Ophelia believed in Hamlet. She saw love as eternal.

Suddenly Hamlet’s betrayal thrust her into a finite world in which she herself is trapped by the end of love.

The end of love drives her to a world finished for herself. Her suicide is magnificently mourned by numerous readers. Her mad words are shown over and over, and kept alive in time by the actors.

Stepping onto the stage, where we enjoy drifting on the border between fiction and reality.

That photograph looks like a fragment of Ophelia. These flowers are not blooming in the water, These flowers don’t bloom in the water, we throw them in the water. It shows the cruelty of children who innocently pull out flowers, and the frailty of flowers that have lost their roots . Perhaps it is because the photographer does not spare the shadows.

Under the water the sound of the hustle and bustle is more audible than in our daily. It is faster than the speed of sound in the air, and Image has to catch up with it. Another strong point of this image is the bubbles, playing at the surface of the water. We can only imagine the conditions under which the bubbles were created. I don’t know what the conditions are like in the water, but the expressiveness of the water, the blisters and the short-lived flowers, life and death, light and shade, are all expressed in a lustrous way.

Light can only travel through straight lines, but it is blocked by a lot of things, creating shadows. The flower lives by photosynthesis, but also creates shadows with its own existence. Just by being alive, the existence of the world receives light and creates shadows. The shadows range from the innocent to the guilty, and their saturation is immeasurable. We don’t want to see the shadows created by the existence of flowers. “I don’t like people who can simply say that flowers are innocent. I am sure that the man who photographed them understands what this means. Flowers are certainly innocent , although they do create shadows.

The crying flower Ophelia is a familiar flower.”Schatten”.

Photographs:凪 https://twitter.com/C6H12O5_

blog https://wilhelog.hatenablog.jp/

London 2015

Benedict Timothy Carlton Cumberbatch

 

Ophelia’s fragments

A document in madness, thought and remenbrance fitted.
――侠気にも教訓があるというものか、物を思っても忘れるなとでも言うようだな――

–Laertes

Hamlet 


Act4 Scene4






ジョン・エヴァレット・ミレイのオフィーリア

オフィーリアの狂乱、彼女の兄のレアティーズの「狂気の中にも教訓があるというものか、物を想っても忘れなとでも言うようだな」と言う台詞がある。不正を嫌い、神を信じて穢れを嫌ったハムレットが正義感で殺人まで落ちぶれていく中で、オフィーリアはハムレットに振り回されて狂ってしまう。ジョン・エヴァレット・ミレーの絵画のオフィーリアの水死体には、水葬とでもいうかのようにキリスト教の象徴植物が数多く置かれている。オフィーリアは狂気の中でも、イエスの名は残していた。

どんなに肉体が滅びようとも魂はキリストと共に、という意味が強く感じられるので、このシーンは好きなのかもしれない。

 好きなシェークスピアの引用はと聞かれたら、ハムレットの「A document in madness, thought and remenbrance fitted」と私は答える。「狂気の中にも教訓がある」これは人間の本質を問うものである。人間は意識で理性や社会性を失えば、価値が無いのか、オフィーリアは狂っても最後までイエスの名から離れなかった。そこに、信仰が育った者はより深く人智を超えたところに根差していると示している。彼女には神の恩寵が可視化されている。

それが父親の亡霊に惑わされたハムレットとの対比である。

無限に開かれた自由な空間として「継続」されている時間、それには永遠がある。

それに対して、忘却され過ぎ去っていく時間は「有限」となる。

オフィーリアはハムレットを信じていた。愛を永遠と捉えていた彼女に、

突然訪れるハムレットの裏切りは、愛の終わりによって彼女自らが閉された有限の世界に

押し込まれる。彼女の自死は、数多くの読者が美しく弔う。彼女の狂った言葉は何度も上映され、役者によって継続した時間を生きている。

虚構と現実の境を漂うことを

楽しむ舞台という存在に、踏み込むのはまた新しい芸術家である。

この写真は、オフィーリアの断片のように思えた。水中に咲いているのでなく、水面に放り込まれた花々。子ども達がイノセントに花をちぎるという残酷性と、根を失った花々たちの短命さが語らずとも表れていた。恐らく、撮影者は影を惜しみなく消さないからだろう。

水面下は私達の日常より蠢く音が聞き取れる。それは空気中の音の速さよりも早く、imageはそれに追いつかなければならない。この写真のもう一つの見どころは、水面で弾かれている水泡である。水泡はどうやって作られたのか色んな条件が想像出来る。この水中がどのような条件なのか分からないが、水の表情豊かさと、水泡、それと短命な花という生と死、光と影が艶やかに表れている。

 光は直線でしか進めないが色んなものが遮って影が出来る。花は光合成で生きながらも、己の存在で影を生み出している。生きているだけで、世界の存在は光を受けて影を作る。影はイノセントから、罪まで、その彩度は計り知れない。花の存在が作り出す影は見ようとしい、「花には罪がない」簡単に言えてしまう人は私には合わない。撮影した彼はきっとこの意味が分かると思う。花は確かに人間のような罪は無い、けれども影は作る。

オフィーリアを弔う花は「影」を知っている、そういう花である。

写真

撮影者:凪 https://twitter.com/C6H12O5_

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関連紹介記事

日時:
05 Aug 2015 – 31 Oct 2015
場所:
Barbican Theatre – London
カテゴリ:
演劇

主演:Benedict Timothy Carlton Cumberbatch

Om det oändliga(English.ver)

" life does not seem to be so sure and prosperous.

Arimasa Mori (By the Streams of Babylon)

In a story, there is a protagonist who reveals what seems to be true feelings. This is what makes a story simple to understand, and is often the case in Manga. But when it comes to art, to the pursuit of an idea, it is possible to write about people and leave the audience behind. If there is a time limit to the number of pages in a work, or to the duration of a film, then a life is artificially speeded up within that limit. Perhaps it is Roy Andersson’s “Om det oändliga” that falls short. There is no narrative technique here. It seems to me that human life is a series of inorganic things, and that there is an existence in motion that others cannot see. It is not a horror, it is a comical story.

For me, the scene in which a human imitation of Jesus walks down Golgotha Hill was comical. The modern costumes, cut down to the expense of a modern opera, the farce of a narcissistic director by his side, were truly an expression of the irony of the modern artist. Or perhaps this is a fashion show for a high brand that makes you think meaningfully. It was irony at its best in this day and age, when critics will praise anything to get a sale, even a bad one, because they want a job. The dream is of a pastor who has lost his faith.

And the pastor, who drinks a glass of wine before the service, was very funny.

People’ expectations of a story begin with their perception of it in their conscious world. It requires imagination to find commonalities and differences between one’s own conscious world and the conscious world of the work, and to fill them. Next, we move on to our own ideals. It is at this point that the work is sometimes evaluated as deviating from its essence. Some people are disciplined enough to read the intentions of the work, while others judge it on the basis of whether it conforms to their own desires.

Descartes found consciousness and innate ideas, but he could not find the real mind.

Science has returned to Descartes again and again, but the real mind is still unclear, even in neuroscience. For anyone who has been able to sort out consciousness from Husserl’s establishment of intersubjectivity to Heidegger’s immanence,

If you are able to organize your consciousness from Husserl’s inter-subjectivity to Heidegger’s immanence, you may find that this film is close to what Heidegger calls “Das Man”.

There is no wise man in this world who lives in his true nature. The film portrays a man who is always buried in a world of cloudy skies and non-essentials. We expect the existence of a person who has stepped out of the world like a person who lives his true nature. One of them is the presence of a role model in the character’s ” truthfulness “.

One of them is the presence of a model student.

I think that the truthfulness is more difficult to find than love. True feelings and love are related to each other, but But they work in different ways.

For example, I have a cat, Adam, who sometimes wakes me up suddenly in the morning. I am sleepy and have a hard time, but I don’t mean to, I don’t feel obliged to, and I always get up, even if I am a little late.

I never complain, I feel that I feel that I really love him.

Love is thus unplanned. If the camera had followed the description of Adam’s embrace and the treatment of him, we would have seen love there.  But if the film stops only at my drowsy inability to wake up quickly, my true feelings seem to be exhausted. My true feelings are unreliable and uninteresting to judge in a short time.

“Om det oändliga” lacks that kind of description that we expect.

People probably assume that there is something “truthfulness” in the work, but the truthfulness is cut out.

However, they can see their own expectations in it. If we wanted to see an unbelieving pastor turn. It would be I can forgive him for drinking wine twice before the service.

That’s how much I value the Holy Family, and how little I know about my own consciousness.

It’s the opposite of what the PR people want, but it’s a place where what you want has been cut out. However, I thought it was a kaleidoscope in which I could see what I wanted in what was cut out.

I think I will continue to delve into the real heart, good and evil, and love.

A lighter version of this is on twitter, but the interpretation is subject to change.

I see it as a new kind of realism. It might be an irony for people who, in more recent years, have lost sight of the authority of the individual voice, and who are no longer able to do more than make a fuss on social media about just that. It is now only celebrities and cartoons that pretend to be conscience or good. But is it possible to enjoy a fictional world that is not so different from the real one? This world exists like a painting, a fictional world itself.

And it is realistic. People don’t think about the rest of the story that was not shown. We look at the outside world with a narrow perception, unaware that it represents so much of who we are. We don’t realism that we are living in a world that has forgotten to enrich the inner world. I don’t understand the meaning of this film because I’m not aware of it.

my lovely Adam. My little one

ホモ・サピエンスの涙

「人生はそんなに確信にみちた、景気よいものではないように思われる」

森 有正(バビロンの流れのほとりにて)

物語には本心らしきものを露わに話してくれる主人公がいる。それが分かりやすい話というもので、漫画等に多い。芸術性、イデア追及に入ってくる作品となると、人を書きながら、観客を置き去りにするような作品が出来上がる。作品のページ数や、上映時間が時間制限であるのなら、その制限以内に一つの人生を人為的に速度調整する。それに物足りなくなったのが、ロイ・アンダーソンの「ホモ・サピエンスの涙」なのかもしれない。ここには起承転結のような、物語の技法は存在しない。此処には人間の人生は無機質の連続なのでないか、他者からも見えない存在が動いているように思える。それを恐怖とせず、コミカルに描いている。

私にとっては、イエスを模した人間がゴルゴタの丘を歩くシーンがコミカルだった。近代オペラのように経費削減された現代衣装、ナルシストな監督が傍にいるような茶番、まさしく現代の芸術家への皮肉が表れていた。もしくは、これは意味深に思させるハイブランドのファッションショーなのかもしれない。批評家が仕事欲しさに、駄作でも売れるためなら何でも褒めるようになった現代では最高の皮肉だった。この夢は信仰を失った牧師が見る。

そしてその牧師は司式の前のワインのラッパ飲みをするが、非常に面白かった。

人間の物語に対する期待は、まずは意識世界での認識から始まる。自分の意識世界と、作品の意識世界との共通項、相違、埋め合わせる想像力を要する。次に、自分の理想へと移行する。そのときに作品の本質と乖離して評価されることもある。作品の意図を読み取る律儀な人もいれば、自分の欲望に沿うかどうかで判断する人もいる。

デカルトは意識や生得観念を見つけたが、本心というものは見つけることが出来なかった。

何度も科学はデカルトに帰るが、本心というものは脳科学でもまだ明確ではない。フッサールの間主観性の成立から、ハイデガーの現存在までの意識の整理が出来ている人なら、

この映画はハイデガーでいうところの「世人」に近いと気づくのかもしれない。

この世界には、本来性を生きる賢明な人間が存在しない。常に曇り空のような非本来性のような世間に埋没している人間像を描きだしている。何処か一歩、本来性を生きる人間のように踏み出した存在というものに、人間は期待する。その一つが登場人物の「本心」に、

模範生があることである。

本心というものは、愛よりも難しいと私は思う。本心と愛は関わり合いながらも、

それぞれ違う働きをする。例えば、私は猫のアダムがいるが、朝方に急に起こされることがある。眠くて辛いが本心でも、義務でもなく、少し遅れることがあっても必ず起きる。

愚痴をこぼすことなんかない、本当に愛していると実感している。

愛はこのように無計画である。アダムを抱きしめる描写、アダムへの扱いにカメラが回っていたのなら、そこに愛が見えるのだろう。けれども、眠そうにすぐに起きられない私の姿のみでフィルムが止まってしまったら、私の本心は疲れきったように見える。

本心というものは、短時間の判断ではあてにならないし、面白みがない。

ホモ・サピエンスの涙は、そういった人間が期待する描写が存在していない。

けれども、そこに自分の期待が見えるのだろう。信仰を持たなかった牧師が回心する

姿を望んだのなら、それが私の資質なのだろう。司式の前に二回もワインをラッパ飲みした事でも許せる。

それほど、私は聖家族を重視している、自分の意識を少し理解した。

広報の売りとは真逆な感想になるが、此処には望むものが切除されている。

しかし、その切除されたものに自分の望んでいるものが見える万華鏡だと思った。

私はこの作品は新しいリアリズムだと思っている。より近年になって個人の声や権限が見えなくなっている、SNSで騒ぐことでしか無くなった人間への皮肉なのかもしれない。良心や善を振りかざすのは、著名人や漫画だけになった。だからといって、現実の空間と左程変わらない虚構世界は楽しいだろうか? この世界は絵画のように存在し、虚構世界そのものである。そして、現実的なのだ。皆は、映されなかった先を考えない。狭い認識の中で外界を見る、こんなに自分を表しているということに気づけない。内面世界を豊にすることを忘れて生きていることを自覚出来ない。自覚していないから、この映画の意味が分からない。

今後も、本心、善悪、愛に関して掘り下げていくと思います。

軽く書いたものはtwitterにありますが、解釈が変わる場合もあります。

*デカルトの生得観念はイギリスのバークリー大陸合理論と対立。

*広告では「千夜一夜物語」のようにと記載があったが、この話だとシェヘラザードは王に

殺されるだろう。

私の可愛いアダムはこちら。

SoarⅠ (English.ver)

Catholicism had yet to be philosophically organized.
Simone weil

There are many genres of fiction today, One of the things I love about literature is that it makes use of what is really only a record. A simple lost love can be embellished by a single word, a forgotten dead can have a meaning. The loneliness that people tell us to forget, the happiness that seems so ordinary, all depend on our own sensibility, and we can decide whether our life is just a record with oblivion or a shining life.

It is left to the sensibility of the writer to verbalize and leave behind the succession of moments that disappear from the world that no one picks up. Perhaps those who have such a point of view are those who are terrified of the moment disappearing as it is. Some people are happier to forget, others to talk about their misfortunes, so that their loneliness becomes cathartic through monologue.

For these people, the ability to speak their own language is important.

As for me, I create in the fictional world the heat that I did not live in the real world. There may be many emotions that I have killed for social reasons, but the emotions that I could not delete and the place where my faith lives is the fictional world. It is an introversion, but an extroversion that challenges the world. I’ve never been pessimistic about it.

Artists are left with only two choices: mere madness or genius. Van Gogh and Caravaggio are good examples. And Emilie Bronte, whose inner world was immeasurably darker than the one she wrote about in “Wuthering Heights”. A true artist does not look for “genius” to win the admiration of others. The poetic sentiment and the way of looking at things that he could not abandon is a God-given gift, and that is what he is in Christianity. The sensibility that almost killed me many times when I was urged to be social was never socially disadvantageous to me in life. What’s next is to find out if this really was a gift from God.

I want to know the answer to the question of whether it really was. Vladimir Nabokov’s “The Gift” is such a story, and it is also the story of Nabokov’s alter ego in exile in Russia.

One term I have coined is “Soar point”. It has taken me many years to get this theory down to an understanding.

I’m going to write about it in an irregular series.

 In the fictional world, there is no standard height of land. It is a world of language.

I try to write about light, temperature, color and space. The writing is plain, sober, rhyming, It is pregnant with poetic sentiment,

The words are like music, even the spaces between the letters are meaningful, and the protagonist walks through the world I have created, manipulating them.

The first work, ‘Pangaea Doll’, is based on a real patient in a laboratory in England. She was a patient who was strange, but who did not know where she had gone in the real world. The intersection of dream and reality was a psychological and scientifically possible delusion. But the name of the disease was something I made up. It was my first fictional world.

In the second work, “Iconograph”, there is no prominent fictional object, but the clock tower of a mechanical clock becomes imaginary. The phenomenology of the “bird’s nest” is based on the 13th chapter of Matthew’s Gospel.

Jesus was at sea, on a boat where no plants could grow. So he compared the Word of God to a seed. Some seeds can be sown in one place, but the birds will come and eat them. Other seeds fell on stony ground, where the soil was not deep enough and they sprouted quickly, but when the sun came up, they were burnt and withered away because they had no roots. It is difficult for the plant, the Word of God, to grow. ”Listen if you have ears.“The boy who hears these words and The protagonist, Kawamura Koune, goes on a journey of thought to hear God’s blessing. In Japan, Christianity is frowned upon if you don’t like it, and the characters cross over from longing for faith to oblivion, to disgust, and back to blessing. If this were the only explanation, people would mistakenly believe that there is no romance in this novel. That’s the trouble. There is love and death in this story too.

But the first reason I don’t say this is because I believe that waiting for the assessment of a mediocre love affair or death is just an emotional assessment. It is a sad fact that the real world is the same way. Death is equal, but there are special graves for special deaths, and classes for the deaths of the unconscious and the body. But the soul is equal, and the literary world can save even the most unlikely of beings. Literature must have the fervor to express what the masses have ceased to say. Love and death cannot be conveyed by begging only for sympathy, even if it is true. The soul may live without emotional sympathy if it is metaphorically told how the world works and how God works in it. The external world is rarely captured. But the enrichment of the inner world can make even an empty life seem like a footnote.

Many times I have been opposed to adding philosophy or religion to literature, but I have never given in. Perhaps it is because I know how cruel it is to assess the feelings of others. It follows that one’s own words do not grow, and that the same is true of God.

If the Word of God is a plant, it is the bird that spins it into a nest that grows beautifully. The bird’s nest is not only a bird’s nest, but also a part of the human world that it picks up and builds.

My fictional world is such a phenomenology. It represents the formation of orientation, the world created by orientation, while waiting for the analysis of existence. My literature is thus an amalgamation of spins, and there is no such thing as a complete lie. The heat that did not live in this world becomes a fiction.

Just as a bird’s nest still does not know exactly how to nest with precision, so I weave my experiences, my fantasies.  From the fictional “land” of the precise nest, uncertain of how it is completed, my story takes Soar. And the seeds dropped by these birds of fancy can grow or disappear. The reader’s understanding constructs a third world as a plant that grows. That image is both sad and hopeful.

The story must always take flight and Soar .

I have called it the ‘Soar point’.

Continued from (2) (Irregular)

飛翔点(1)





 

「カトリックをまだ哲学的に整理する人はいなかった」
シモーヌ・ヴェイユ

 小説というものも現代では数多くのジャンルがあるが、私の愛する「文学」というものの一つの魅力は、現実にとっては記録に過ぎないものを活かしてくれることだった。ただの失恋が言葉一つで綺麗になったり、忘れ去られる死が意味を持ったりもする。人から忘れろと言われた孤独も、平凡のように見える幸福も、全てが自分の感性次第で、人生をただの忘却を伴う記録か、輝いた人生だったのかがを受け取ることが出来る。

誰しもが拾わない世界から消え去られる瞬間の連続を、言語化して残せるものは作家の感性に委ねられている。恐らくそういう視点を持った者は、瞬間がそのまま消えてしまうことに恐怖を覚えた人であると思う。忘れるほうが幸せという人もいれば、不幸をどう語るか、それによって自分の孤独が独白によってカタルシス生み出す者もいる。

そういう人にとって、己の言語能力は重要なのである。

私の場合は、現実世界に生きなかった熱量を虚構世界に作る。社会性を重視して殺してしまった感情も多くあるかもしれないが、殺せなかった感情や、信仰が生きる場所は虚構世界だった。それは内向的であるが、世界に挑む外向性だった。 私は一度もそれに悲観的になったことはない。

芸術家はただの狂気か、天才か二択しか残されていない。ゴッホやカラヴァッジョ等良い例だと思う。エミリーブロンテも内面世界は計り知れない闇を持っていて「嵐が丘」に書き出した。真の芸術家は、他者からの称賛を得られる「天才」は求めていない。自分が捨てられなかった詩情や物事の捉え方が、神から与えられた賜物であると、キリスト教の中ではそういうことになる。社会性を促されて何度も殺されそうになった感性は、生きていて社会的に不利になったことはなかった。次は本当にこれが神の賜物だったのかどうか、

本当にそうであったのか、その答えが知りたいのだ。ウラジミール・ナボコフの「賜物」もそのような話であり、ロシアからアメリカへ亡命したナボコフの分身のような話である。

一つの私の造語で「飛翔点」がある。この自分の理論を理解まで詰めるのに何年もかかった。

今回は不定期にシリーズ化してそれについて書いていく。

 虚構世界は陸というものの基準となる高さが存在しないが、言語世界でありながらも、

光や体温、色や空間を書こうとしていく。それは平素な文で冷静にようで、詩情を孕んでいて、韻を踏み、日本語の場合は言語から見える概念、外国語の場合は言語が作り出す空間、

語感は音楽のように、文字と文字の空白すらも意味があるように、それらを操りながら、主人公は私が作った世界を歩いていく。

 第一作品目の「パンゲアドール」はイギリスの研究室にいた実在した患者をモデルに書いている。奇異でありながらも、現実世界では何処へ行ったのかも分からない患者だった。夢と現実の交差点は心理学的であり、科学的には存在しうる妄想だった。しかし、病名は私が作ったものだった。それが私の初めての虚構世界である。

 第二作品目の「イコノグラフ」は目立つ虚構らしきものが存在しないが、機械式時計の時計台が想像のものとなる。要となった「鳥の巣」の現象学がマタイの福音書13章を元に広げられている。

イエスは海にいて、植物が育つはずもない船の上にいた。そこで神の御言葉を種に例えた。ある場所に神の御言葉を蒔いても鳥がきて食べてしまう。ほかの種は土の薄い石地に落ちたが、そこは土が深くなく、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。神の御言葉という植物が育つことは難しい。耳があるものは聞くが良い。この言葉を聞き取った少年と、主人公、川村光音は神の祝福を聞く思想の旅に出る。日本では、好きではないと疎まれるキリスト教、登場人物達は信仰への憧れから忘却、嫌悪感、そして再び祝福へと渡り歩いていく。これだけを説明すると人々は、この小説には恋愛がないと勘違いする。それが厄介だ。この話にも恋愛と死は存在する。

 しかし第一に言わないのは、凡庸な恋愛や死の評価を待つというのは感情の査定に過ぎないと思っているからだ。現実世界もそうであるのが哀しいところである。死は平等であるが、特別な死は特別な墓、無縁仏と肉体の死は階級がある。けれども魂は平等であり、文学世界は無縁仏のような存在も救い上げることがある。文学は、大衆が言葉にしなくなった事を突出して出す熱量が必要である。愛と死は、例え事実でも同情のみで乞うても伝わらないのである。世界がどのように現象し、神の働きがあるのかを隠喩を込めれば感情の共感が得られなくても、その魂は生きるのかもしれない。外界世界というのは捉えられることは少ない。しかし内面世界を豊にすることは、虚しい人生さえも脚色する。

私は文学に、何度も哲学を添えることも、宗教を添えることも反対されたが、譲らなかった。恐らく、他者の感情の査定がどれほど残酷か知っているからだと思う。己の言葉が育たない、それは神も同じことであり、信徒はそれに続くのである。

神の御言葉が植物だとすれば、見事に育った先にそれを紡ぎだすのが鳥であり、鳥の巣である。鳥の巣というものは、それだけではなく人間世界の一部をつまみとって巣を作っていく。

私の虚構世界とはそのような現象学である。志向性の成立、志向性が作り出した世界を表しながら、存在の分析を待っている。私の文学にはこのように、紡ぎだしたものの集合体であり、完全な嘘は存在しない。この世に生きなかった熱量が虚構になっていく。

鳥の巣が未だに厳密にどのように精密に巣を作るのか分からないように、私もそのように、経験や空想という経験も紡いでいく。どのように完成されたのか不透明なまま、精密な巣という虚構の「陸」から、私の物語は飛翔する。そして、その空想の鳥達が落とした種は育つこともあれば、消えてしまう。読者の理解は育った植物として第三の世界を構築する。そのイマージュは切なくもあり希望でもある。

必ず物語は飛翔しなければならない。

私はそれを「飛翔点」とした。

(2)に続く。(不定期)

Victim’s detention centre(English.ver)

Johan Liebert is the titular character in “Monster“but Not drawn by the author. It’s a homage.
Author unknown. Additions are required.

At that moment, that monster appeared in front of me.

Was Mom trying to help me?
Was she confusing me with my sister?
Which one?

Mom! don't let go!

Monster Naoki Urasawa

 

Sometimes I believe that being a victim is like being in a prison camp. Once you have tasted it, you can’t communicate it to others, even in your own language.

Since birth, I have found myself in the camps many times. The first one I remember was when I was seven years old. It was a female teacher. If my ego, my present experience, was broken, it was because of this teacher. Still, no one helped me. In the midst of hatred and sorrow, I found the light. That was the first liberation. I don’t know who was teaching me at that time. But my monologue grew as I acquired a phenomenological vision. The sky in my memory was always blue, but the words were always gloomy. This was affirmed by psychology. It said that man is a coexistence of the definite and the anti-definite.

In phenomenology, the “moment”, the present rather than the future or the past, becomes prominent.  In it, the childhood mind imagined the light of the future in the “moment”. That was my sustenance. As he entered the camp again and again, he noticed that the light was becoming weaker and weaker. When the light gets weaker, I notice that I have compatriots. I can see better in the dark, I guess that’s a sign that I’ve grown up.

I’ve seen all kinds of victims, and I’ve seen people who choose to go to jail. The highest penalty for perpetrators is the death penalty and victims also go to jail.

I’ve seen it happen to some people, they think they’re going to die.

I find myself saying to myself.

“Forget it”

Then the signal for release rings and I am let out. My wounds had healed and I had no right to speak. My words became a barrier between us and the rest of the camp.

On love and justice, I have written repeatedly since the opening of this blog that love and justice can be contradictory, but this time I would like to talk about John Paul II. Mehmet Ali Ağca , a Turk, shot John Paul II on May 13, 1981, but saved his life. Mehmet Ali Ağca was sentenced to life in prison, but was pardoned by the Pope who shot him.

 John Paul II was later the victim of another assassination attempt, and in his later years he suffered from Parkinson’s disease and the after-effects of the assassination attempt.

Mehmet Ali Ağca was saddened by the Pope’s death and was only allowed to offer flowers; I only know that he hopes to be a Catholic priest in 2016, but I am not certain.

I don’t know what was truly in John Paul II’s heart, but his writings are full of light.

I do not know the true heart of John Paul II, but his writings are full of light, and they are also full of darkness. It is beside the light.

It is not a warning to blind sinners, but a guide to the lost sheep.

In the chapter “The Rejection of the World” of ” Opens the Door to Hope” he says: “When the true teaching is unpopular. When the true teaching is unpopular, it is unacceptable to seek easy popularity”.

The camps in which the victims were held were also filled with rivalries. Invariably, people with revolutionary fantasies would begin to attack others.

They start attacking people. Then there is a thinly-veiled gathering of those who have been “deceived by simple words”.The victims suffer not only temporary damage, but also secondary and tertiary damage, the rejection of the world.

Jesus Christ says in Matthew 7:13,14 that the road to eternal salvation is neither wide nor comfortable, but rather narrow and difficult. The Saviour Christ, whom the masses misunderstand, does not teach a comfortable way.

He does not teach a comfortable path. In fact, many people mistake God for the Saviour and criticise him.

Sometimes the Saviour is really an “idol” created for the world or by popular desire.

Victims are the “idols” to whom we must pay attention. If you know what this means, you know what it was like to be a victim in a prison camp. When they go out, they will not forget what it was like there. Those who don’t know what it means are hypocrites who don’t know that they are the mass media and that they are hurting people. He is a delusional revolutionary who never doubts his own “goodness”.

People who don’t know the threat of the sword are hurting many people with their pens.

They are no longer heading for the camps of the victims.

It is heading for the real prison, where criminals go.

In the book of Revelation, the beast is a number and has no name. Revelation 13 speaks of a beast with ten horns and seven heads, “Who can stand against this beast?  Who can fight against this beast? The answer was a demand for wisdom. (Verse 18)

The wise man should consider what the number of the beast means.

The number represents man.

The beast is man. Those who know this are humble.

The hypocrite only wants others to bear arms. The Saviour lets them know that he heals.

The hypocrite is quick to invite sympathy with weakness. The Saviour bears his wounds in silence. For he knows that the hypocrite will come soon.

I couldn’t say “forget it” to one of the victims who was more pitiful than me.

I will never forget the darkness, because it is still on my mind. I wonder where he was taken.

I wonder where he was taken. I wonder if he ever saw the light.

It is the hypocrites of today who have cut off the network of communication.

What is easy to understand tells us about darkness. What is hard to understand is that we all have it.

We all have it. We all have a beast in our hearts.

I could go on for a long time with this parable.

If you are a victim facing the death penalty, all I can say is this.

This death sentence can be retried. Demand it.

There have been many invitations to die, but I hope you live to shame.

Naoki Urasawa’s Monster stirred a young mind in me. It was rare to find a manga that taught me the difference between a saviour and a god when everyone else was so chaotic and “I don’t believe in god”. It was popular in the UK and I read it in the UK. The main character, Tenma, knows Johan’s real name, but it is not revealed until the end. He was a beast, but he was also a man. He was the victim of an East German conspiracy, but he was also a sinner.

That is why they did not give the saint the same name as his real name. He was wonderfully faithful to Revelation 13, which he used as a quote.

Revelation is about a man named John, but the author is unknown.

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